これまで別々の道を歩んできた二人が、ようやく同じ場所に居合わせます。どうぞ、二人の出会いを楽しんでいただければと思います。
暖簾をくぐると、炭火の熱気が真正面から頬を撫でた。
狭い屋台の中は、湯気と煙と、脂の焼ける匂いでむせ返るようだった。炭火の向こうで串を返しているのは、この店の主ミスティア・ローレライだった。夜雀亭という屋号の通り、夜の帳が下りる頃合いに現れては、いつの間にか姿を消す、そんな評判の屋台主だ。
品書きが書かれた木札が、店の奥にずらりと並んでいる。紫苑はその一枚一枚に目を走らせながら、懐の小銭を頭の中でもう一度数え直した。二百六十八円。この金額でどこまで贅沢ができるか、慎重に計算する。
川魚の塩焼き、百五十円。
それに決めた。脂の乗った川魚を炭火で炙ったものなら、腹の足しにも十分なるだろう。残りは百十八円、これは後々のために取っておく。そういう算段だった。三ヶ月ぶりの食事にしては、ずいぶんと慎ましい選び方だと、紫苑自身も思わないではなかったが、贅沢を覚えて後で痛い目を見るよりはましだった。
「川魚の塩焼き、一つ」
注文を告げ、隅の丸椅子に腰を下ろす。店主は威勢のいい返事とともに、炭火の上に魚を並べた。じゅう、と脂の爆ぜる音が聞こえた瞬間、紫苑の腹は正直に鳴った。
「お客さん、飲みものは?」
ミスチーの問いに、紫苑は一瞬迷ってから、「水を」とだけ答えた。それ以上の贅沢をする余裕はなかった。差し出された欠け碗の水を、紫苑は一息に呷った。ひやりとした水が喉を滑り落ちていく感触に、乾いていた喉がじわりと潤い、それだけで少しだけ生き返ったような心地がした。空になった碗を置き、紫苑はもう一度、炭火の上で色づいていく魚を見つめた。
その音を隠すように俯いた時、隣の椅子に誰かが腰を下ろす気配がした。
横目でちらりと窺うと、見慣れない格好をした女だった。
どこか浮世離れした雰囲気を纏った客だった。服の質は悪くないのに、どこか着崩れていて、それでいて堂々とした座り方をしている。抱えた風呂敷包みからは、不揃いな簪や木彫りの小物らしきものが、覗いた隙間からちらちらと顔を覗かせていた。よほど気に入ったものを買い込んできたのか、腰を下ろす拍子にも、それを大事そうに膝の上へと抱え直す仕草を見せる。
紫苑は特に気にも留めず、視線を炭火の方へと戻した。
隣の女は品書きを一瞥するなり、ろくに値段も確かめず、迷いのない声で注文した。
「——これ、八目鰻とやらを一つ」
店主が威勢よく返事をし、また新たに串を炭火にかける。懐から巾着を取り出し、逆さにして中身を数え始めた。じゃら、と硬貨が擦れ合う音がする。紫苑はその音に、思わずまた耳をそばだてた。今日は妙に、金の音に敏感になっている自分がいた。
程なくして、隣の女の前に串が置かれた。
太く脂の乗った鰻が、炭火の照りを纏って湯気を立てている。表面はぱりっと焼き締められ、割れ目からは飴色のタレがとろりと滲み出していた。女は迷わずかぶりつく。
「っ、熱っ……でも、うまい」
噛み締めた瞬間、皮がぱりっと弾け、その下からじゅわりと熱い脂が溢れ出したのだろう。女は目を見開き、口の中のものを慎重に咀嚼しながら、もう一口、もう一口と、勢いのまま食べ進めていく。タレの焦げた香りが、紫苑の席にまで漂ってきた。甘辛く、脂の乗った匂い。それは紫苑の想像していた丼の匂いと、寸分違わず重なった。
——ああ、これだ。
私が、ずっと欲しかったのは、これだ。
気づいた時にはもう、口が動いていた。
「……同じものを、一つ」
声が出てから、自分でもしまったと思った。だが、もう遅かった。店主は威勢よく応え、また新しい串を火にかけている。紫苑は自分の膝の上に置いた掌を、ぎゅっと握った。
それでも、腹の中の疼きは止まらなかった。むしろ、算段を立てれば立てるほど、腹の虫はさらに激しく騒ぎ出す。空腹というのは、こういう時に限って、理性より先に勘定を済ませてしまう。
「だんごも、一つ」
気づけば、そんな注文まで口をついて出ていた。店主が笑顔で頷く。頭の隅で、もう一人の自分が「もう後には引けない」と冷静に呟いていた。だが、その冷静さすら、鼻先をくすぐる甘辛い匂いの前では、何の役にも立たなかった。
隣を見れば、隣の客はとうに串を食べ終え、満足げに指先についたタレを舐めていた。
「ふふ、悪くない味だったわね」
得意げに言い放つその顔には、まるで何かをやり遂げたような達成感が浮かんでいた。だが、その満足も長くは続かなかったらしい。女は品書きにもう一度目を走らせると、迷わず次を指差した。
「じゃあ、そっちの焼き鳥も貰おうかしら」
店主が威勢よく応える。焼き鳥が炭火に乗せられ、じゅう、と脂の跳ねる音が響いた。それを待つ間、満足げに腹をさすっていた。まるで、財布の中身のことなど、最初から頭になかったかのように。
程なくして焼き鳥が運ばれ、女はそれも綺麗に平らげた。満足げな溜め息とともに、懐から巾着を取り出す。
「お会計、お願い」
そう言いながら中身を覗き込んだ女の顔が、次の瞬間、みるみる強張った。
「……あれ」
巾着の中には、小銭が数枚。数えるまでもない、あまりに心許ない量だった。女は慌てて着物の袂やら懐やらを探し始めたが、出てくるのは埃と、何かの木片が一つだけだった。
「ちょ、ちょっと待って。おかしいわね、確かこれくらいは…」
狼狽える声を聞きながら、紫苑もまた、自分の会計をしようと椀の中の硬貨を数え始めていた。だが、指を動かすうちに、紫苑の顔からもすうっと血の気が引いていく。
「……あれ」
塩焼き、八目鰻、だんご。店主が口にした金額は、紫苑の記憶していた計算より、明らかに多かった。頭の中で何度も算段を組み直してみても、答えは変わらない。二百六十八円しかない懐に対して、請求された額は、それを優に超えていた。
指先が、微かに震えた。隣からは、同じように懐を何度も探り直す気配が伝わってくる。互いに声を上げることもなく、ただ、店の中の空気だけが、じわりと張り詰めていくのが分かった。
二人は、示し合わせたわけでもないのに、同時に顔を上げた。
視線が、真正面からぶつかる。
言葉はなかった。だが、互いの顔に浮かんだ表情だけで、すべてが伝わった。
——逃げるしかない。
店主が奥へと引っ込み、釣り銭の用意でもしているのか、こちらに背を向けた。その一瞬、店の中の空気がしんと静まり返る。炭火の爆ぜる音だけが、やけに大きく響いた。女と紫苑は、互いに目配せを交わすこともなく、ただ息を殺したまま、静かに腰を浮かせた。物音一つ立てぬよう、女は風呂敷包みを胸に抱え直し、紫苑は椀と莚を素早く小脇に挟み込む。そうして、示し合わせるまでもなく、二人は同時に椅子を蹴った。
「——今よ!」
「言われなくても!」
暖簾を撥ね上げ、二人は夜の路地へと飛び出した。背後で店主の怒声が上がる。
「おい、待ちやがれ、この——!」
だが、その声はすぐに遠くなっていった。紫苑は必死に足を動かしながら、内心で驚いていた。いつもなら、こういう時に限って何かに躓いたり、道を間違えたり、余計な不運が付き纏うはずだった。それなのに、今日は違う。まるで見えない何かに導かれているかのように、足は迷いなく路地の隙間を選び、暗がりから暗がりへと、するすると滑り抜けていく。
隣を走る女も、涼しい顔で軽やかに地面を蹴っていた。時折振り返っては、追手の気配がないことを確かめ、また前を向く。その余裕のある横顔に、紫苑は思わず見入りそうになった。
角を曲がり、また別の角を曲がる。息が上がり始めた頃、ようやく二人は人気のない裏道へと辿り着いた。追手の声はもう聞こえない。
「はぁ、はぁ……や、やったわね」
「ふふん、当然でしょう」
肩で息をしながらも、女は誇らしげに胸を張っていた。紫苑はその様子に、思わず小さく笑ってしまった。空腹の底で味わった惨めさが、今この瞬間だけは、どこか遠いもののように感じられた。
息を整えながら、女がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、あんた、名前は」
「紫苑。依神紫苑」
「私は天子。比那名居天子」
それだけだった。互いの素性も、事情も、何一つ聞かないまま、ただ名前だけを交わす。それで十分だという空気が、なぜか二人の間にはあった。
辺りはすっかり静まり返っていた。追手の足音も、怒声も、もうどこからも聞こえない。天子はそれを確かめるように一度だけ闇の奥へ目をやり、それから紫苑に向き直った。
「じゃ、私はこっちから」
「私はあっち」
どちらからともなく、二人は反対の方向へと歩き出した。振り返ることもなく、それぞれの暗がりへと吸い込まれるように消えていく。
紫苑は路地の奥へと歩きながら、掌の中に残る温もりのない硬貨を、もう一度だけ確かめた。結局、まともな食事にはありつけなかった。それなのに、腹の底にはまだ、あの甘辛い匂いの余韻が、確かに残っていた。
――変な女だった。
紫苑はそう思いながら、小さく笑った。それが、天子と紫苑の、最初の夜だった。
一方、天子は暗がりを一人歩きながら、まだ収まらない笑いを噛み殺していた。
「ふふ。まさか、あんな風に息が合うとはね」
声に出してみると、余計におかしみが込み上げてくる。あの紫苑とかいう女、見た目は地味なくせに、逃げ足だけは妙に堂に入っていた。私はそれを思い返しながら、しばらく上機嫌に夜道を歩いていた。
だが、笑いが収まってくると、ふと現実が肩にのしかかってきた。
さて、今夜はどこで寝ようかしら。
考えてみれば、宿を取る金などとうに残っていない。懐にあるのは、埃と、あの骨董品屋で貰った木片だけだ。天子は足を止め、夜空を見上げた。雲の向こうには、見慣れた天上の灯りが、今も変わらず灯っているはずだった。帰ろうと思えば、帰れる。今すぐにでも。
その考えが頭をよぎった瞬間、天子は小さく舌打ちをした。
……冗談じゃない。
今帰れば、それこそ「またか」の一言で片付けられてしまう。驚かれもせず、呆れられもせず、ただ淡々と、いつも通りの日常に組み込まれていくだけだ。それだけは、意地でも御免だった。
「野宿でもなんでもしてやるわよ、こうなったら」
誰に言うでもなく呟いて、天子は再び夜道を歩き出した。行く当てなど、相変わらずどこにもなかった。
しばらく歩いて見つけたのは、神社の裏手にある小さな稲荷の祠だった。屋根がついているだけましだろう、と天子はその軒先に潜り込み、地面に腰を下ろした。
——冷たい。
まず驚いたのがそれだった。地面というものが、これほどまでに体温を奪っていくとは、思ってもみなかった。腰を下ろした瞬間から、冷気が着物の裾を通り抜け、じわじわと体の芯まで這い上がってくる。天子は膝を抱え、少しでも暖を取ろうと身を縮めたが、大した効果はなかった。
次に気になったのは、地面の硬さだった。石か木の根か、何か尖ったものが背中に当たっている気がして、何度も座り直す。だが、どう座り直しても、どこかしらが痛んだ。天上の寝床が、羽毛のように柔らかかったことを、天子は今更ながらに思い知らされた。
「はぁ……」
溜め息をつくと、白い息が夜気に溶けて消えた。虫の音が、やけに耳につく。かさり、と近くの草むらで何かが動く気配がして、天子はびくりと肩を震わせた。
「な、なによ、今の……」
誰にともなく問いかけたが、当然、答えは返ってこない。天子は膝の間に顔を埋め、それ以上余計な音を聞かないよう、じっと息を潜めた。
こんな夜が、これから何度も続くのだろうか。そう考えると、少しだけ心細さが込み上げてきた。だが、それを認めるのは、なぜか癪だった。
「このくらい、平気よ。平気」
誰にともなく強がりを呟いて、天子は目を閉じた。眠りは、なかなか訪れなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
食い逃げの場面、書いていて一番楽しかったところです。息の合う二人を書けて、こちらとしても嬉しい限りでした。
次話からは、いよいよ借金の種が蒔かれていきます。天子の野宿生活、そして紫苑にもまた別の困難が待っています。気長にお付き合いいただけると幸いです。