無尽長屋記   作:角筈律

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第四話をお読みいただきありがとうございます。

今回は天子が地上でどう生き延びようとしたか、その悪戦苦闘を描いています。慣れない仕事、慣れない暮らし、そしてその中で出会う、思いがけない温かさ。天子にとって、この出会いが何をもたらすのか、見届けていただければ幸いです。


第四話、化かされた手

最初の三日は、地獄のように長く感じられた。

だが、四日目を過ぎた頃から、天子は自分でも意外なほど、地面の冷たさに慣れ始めていることに気づいた。硬い土の上でも、体を丸めて眠るこつを覚え、夜露を避ける軒先の見つけ方も、いつの間にか身についていた。慣れというのは恐ろしいものだと、天子は他人事のように思う。慣れたくなどなかったはずなのに、体の方が勝手に、この惨めな暮らしに順応していく。

その順応ぶりに、天子は複雑な気持ちを抱かずにはいられなかった。惨めだ、と心の底では思う。天上にいた頃なら、指一本動かさずとも与えられていたものを、今は地面に這いつくばるようにして掻き集めている。それなのに、その惨めさの奥底に、小さな、認めたくない充足感のようなものが確かにあった。

誰にも、庇われていない。

この暮らしには、あの滑らかな話題転換も、あの気遣うような優しい沈黙もない。ただ、自分の手足だけを頼りに、今日という一日を生き延びればいい。それだけの単純さが、天子には奇妙な心地よさとして響いていた。惨めであることと、清々しいこと。その両方が、同じ胸の中に同居していることに、天子自身が一番戸惑っていた。

食事は、ろくなものにありつけなかった。

人里の外れ、畑の際に転がっている屑野菜――虫食いの葉や、形の歪んだ大根の切れ端を拾い集め、近くの小川で泥を落として齧る。土の匂いの残る大根は、噛むたびにじゃりじゃりと音を立てた。旨いとはとても言えなかったが、腹の足しにはなった。ある日には、飯屋の裏手に積まれた木箱の中から、まだ食べられそうな漬物の切れ端と、硬くなった握り飯の欠片を見つけ、恥を忍んでそれを拾い上げたこともあった。握り飯の外側は乾いて硬く、噛むたびにぼろぼろと崩れたが、それでも米の甘みだけは、確かに舌の上に残った。

こんなものを、食べる日が来るとはね。

乾いた握り飯を齧りながら、天子はふと自嘲めいた笑いを漏らした。天上にいた頃なら、目も向けなかったであろう欠片だった。それを今、こうして貪るように口へ運んでいる自分がいる。惨めだと思う一方で、腹の中に何かが収まっていく感覚そのものには、確かな安堵もあった。矛盾した感情が、いつも胸の奥でせめぎ合っていた。

このままではいけない、と天子もさすがに思い始めていた。金がなければ、食うにも困る。ならば、働けばいい。単純な理屈だった。天子はそう結論づけると、里の外れの木戸に貼られた「人足入用」の墨書きに、迷わず飛びついた。

貼り紙の場所に着くと、すでに人足らしき男たちが十人ほど、集まって煙管をふかしていた。天子がその輪の中に足を踏み入れた瞬間、あちこちから怪訝な視線が集まった。

「……なんだ、あの女」

「見ねえ顔だな。着物も妙に立派なもん着てるじゃねえか」

「まさか物見遊山で来たわけじゃあるめえな」

ひそひそと交わされる声を、天子は聞こえないふりをしながら、監督らしき恰幅のいい男の前に進み出た。

「人手を探しているんでしょう。使いなさいよ」

偉そうな物言いに、監督は片眉を上げた。

「使いなさい、とはまた大した言い草だな。力仕事だぞ、これは。お嬢さんに務まるかね」

「舐めないで。この程度、どうということもないわ」

根拠のない自信だけで、天子はそう言い切った。監督は苦笑いを浮かべながらも、人手が足りていないのは事実らしく、渋々といった様子で天子を列に加えた。

運ぶのは、米俵だった。ずしりと重い俵が、荷車から次々と降ろされてくる。それを蔵まで運び込むのが、この日の仕事だった。他にも、酒樽や、材木の束、反物を包んだ大きな荷なども混じっていた。

最初の米俵を持ち上げた瞬間から、天子はその見通しの甘さを思い知らされた。

重い。想像していた何倍も重かった。両腕にずしりと食い込む重みに、思わず膝が笑いそうになる。数歩も歩かないうちに、息が上がった。俵を蔵の奥まで運び終える頃には、腕が震え、額には玉のような汗が浮かんでいた。

「おい、そこの新入り。積み方が雑だぞ」

監督らしき男に叱責され、天子は慌てて荷を積み直そうとした。だが、要領を得ない。他の人足たちは、慣れた手つきで俵を肩に担ぎ、次々と運び込んでいくのに、天子だけが、いつまで経っても一つの俵に手間取っている。

「くっ……」

悔しさで奥歯を噛んだ。天上でなら、指先一つでこの程度の荷など軽々と扱えただろう。だが、それはあくまで天上の道具、天上の仕組みがあってこそのことだった。何もない、ただの人の体一つで、これほどの重さと格闘するというのが、こんなにも骨の折れることだとは、天子はこれまで想像したこともなかった。

昼になり、人足たちは荷車の陰に腰を下ろして、それぞれ持参の握り飯や漬物を広げ始めた。天子は何も持っていなかった。手持ち無沙汰に立ち尽くしていると、隣に座った初老の人足が、ちらりとこちらを見て、無言のまま握り飯を一つ、無造作に差し出してきた。

「……いいの?」

「別に。減るもんじゃねえ」

ぶっきらぼうな物言いだったが、それ以上は何も言わず、男は自分の握り飯を齧り始めた。天子は少し戸惑いながらも、差し出されたそれを受け取った。塩気の効いた握り飯は、これまで齧った屑野菜や乾いた欠片とは比べ物にならないほど、素直に旨いと感じられた。

「――ありがと」

天子がぽつりと呟くと、男は特に反応も返さず、ただ小さく頷いただけだった。周りの人足たちも、最初こそ怪訝な目を向けていたものの、天子が黙々と荷と格闘する姿を見て、いつしか興味を失ったように、それぞれの世間話へと戻っていった。誰も、天子の素性を詮索しようとはしなかった。それが、天子には少しだけ気楽だった。

午後になっても、天子の仕事ぶりは一向に上達しなかった。他の人足たちの半分ほどの荷しか運べていない。監督の視線には、明らかな苛立ちが滲んでいた。

「お前、こういう仕事は初めてか」

「……悪い?」

「悪くはないが、給金は働きに応じてだからな」

その言葉通り、その日の終わりに天子の手に渡った銭は、あまりにも少なかった。他の人足たちが受け取る額の、半分にも満たない。天子はその硬貨を見つめながら、これまで感じたことのない種類の敗北感を噛み締めていた。

力仕事が駄目なら、と天子は翌日、細々とした作業を請け負う仕事にも挑戦してみた。反物の検品や、木箱の荷造りといった、力よりも手際が求められる仕事だった。

「こうやって、順番に畳んで、この紐で」

教える側の女が示す手順を、天子は懸命に目で追った。だが、いざ自分でやってみると、なぜか手が思うように動かない。畳んだ反物の角が揃わず、紐の結び方も緩んでしまう。段取りというものを、天子はまるで理解していなかった。要領よく立ち回る、という感覚そのものが、これまでの生活には存在しなかったのだから、無理もないことではあった。

「もう、こう、こうでしょ」

業を煮やした教育係の女に、半ば呆れたように手元をやり直されるたび、天子の中で悔しさばかりが募っていった。

結局、数日をかけて色々な仕事を試したものの、まともに稼げた日は片手で数えるほどしかなかった。夜、路地の隅で獲得したわずかな銭を数えながら、天子は自分の不甲斐なさに、何度も舌打ちをした。

こんなはずじゃ、なかったのに

地上の生活など、なんとかなると高を括っていた。だが、実際に体を張ってみて初めて、天子は自分がいかに何も知らず、何も持たずにここへ来たかを、思い知らされていた。

その日も、天子は仕事にあぶれていた。

人足の口も、荷造りの口も、この数日ですっかり顔を覚えられ、「あの女はどうも使いにくい」という評判が、いつの間にか里の中で広まっていたらしい。声をかけても、決まって曖昧な返事とともに、やんわりと断られる。天子は行くあてもなく、里の外れの空き地に腰を下ろし、膝を抱えていた。

腹が減っていた。ここ数日、まともに稼げていない分、口にするものも一段と乏しくなっている。空を見上げれば、夕暮れの色が、じわじわと里全体を包み込んでいくところだった。

「ふん。何よ、揃いも揃って」

誰にともなく毒づいたところで、腹が減っていることには変わりなかった。天子は自嘲気味に笑い、それから深く息を吐いた。

「精が出ますなあ、こんな時分まで」

ふいに、間延びした声が降ってきた。天子が顔を上げると、そこには狸のように恰幅のいい、丸眼鏡をかけた老爺が立っていた。粗末な身なりだが、どこか人を食ったような、飄々とした雰囲気を纏っている。

「……誰よ、あんた」

「いやいや、怪しい者ではありませんよ。ただ、この辺りをうろうろしとる者でしてな。あんたさん、ここ数日、あちこちの仕事場で難儀しとるでしょう」

「見てたの」

「まあ、これでも顔は広いもんで」

老爺は懐から何かを取り出すと、天子の前にそっと差し出した。竹の皮に包まれた、小ぶりな握り飯だった。

「腹が減っては、何をやっても身が入りませんでなあ。よかったら」

天子は一瞬、警戒するように老爺の顔を見た。だが、腹の虫がそれを上回った。差し出されたものを、天子は無言で受け取り、頬張った。塩気の効いた米の味が、じんわりと口の中に広がる。

「…美味しい」

「そうでしょう、そうでしょう。あんたさんのような若い人が、こんな辺鄙な場所で難儀しとるのを見ると、こちらとしても放っておけんくてなあ」

老爺は自分のことのように嬉しそうに笑いながら、天子の隣にどっかりと腰を下ろした。天子は握り飯を頬張りながら、この見慣れない老爺を、少しずつ警戒を解きながら眺めていた。

「あんたさん、名前は」

「……天子。それだけで十分でしょ」

「これはこれは、ご丁寧に。わしは、まあ、この辺りではマミゾウとでも呼ばれとります」

マミゾウと名乗った老爺は、そう言って人懐っこく笑った。その笑みのどこにも、悪意らしきものは見当たらなかった。少なくとも、天子の目にはそう映った。

「して、天子さんや。見たところ、この里の生まれではなさそうですなあ」

「……それがどうかした」

「いやなに、服の柄も、言葉遣いも、どこか浮世離れしとる。かと言って、妖怪というわけでもなさそうだ。となると、まあ、天人か何かかね」

あっさりと言い当てられ、天子は思わず眉を寄せた。

「よく分かるわね」

「これでも長いこと、色んな連中を見てきましたでな。天人が、なぜまた、こんな場末でひもじい思いをしとるんです」

「別に。ちょっと家を出てきただけよ」

「家を、出てきた」

マミゾウはその言葉を、まるで珍しい菓子でも味わうように、ゆっくりと繰り返した。

「そりゃまた、豪気なもんだ。天界のご身分を捨てて、地上でこの有様。並の胆力じゃあできんことです」

「別に、胆力とかそういう話じゃないわよ。ただ、退屈だっただけ」

「ほう、退屈、ねえ」

マミゾウは片眉を上げ、面白そうに天子を見た。その眼差しの奥に、何か値踏みするような光が一瞬よぎった気がしたが、天子はそれに気づかなかった。

「退屈で家を飛び出す胆力があるお方が、こんな場末で人足の真似事をして、いいように扱われとる。もったいない話ですなあ」

「うるさいわね。仕方ないでしょう、金がないんだから」

「金、ねえ」

マミゾウは顎の下を撫でながら、しばし考え込むような素振りを見せた。

「天子さんや。あんた、その金というやつを、少しでも早く、しかも楽に稼ぐ方法があると言ったら、どうします」

「——怪しい話ね」

「怪しい、とは心外な。わしはただ、困っとる人を放っておけんだけの、お節介焼きの狸爺いですよ」

からからと笑うマミゾウの様子に、天子は少しだけ毒気を抜かれた。悪人らしい陰湿さも、押しつけがましさもない。ただ、世間話の延長のように、飄々と話を進めてくる。その飄々とした調子が、かえって天子の警戒心を緩めさせていた。

「で。その方法とやらは、何よ」

「無尽、というのをご存知かね」

「知らないわね」

「まあ、知らんのも無理はない。天界にゃ、そんなもの必要ないでしょうからな」

マミゾウは指を一本立て、講釈を垂れるように話し始めた。

「簡単に言えばですな、何人かで集まって、少しずつ金を出し合う。そうして集まった大きな金を、順番に、あるいは籤で、一人ずつ受け取っていく。そういう仕組みです。皆で助け合って、順繰りに大金を手にできる。よくできた仕組みでしょう」

「それのどこが、私にとって得なのよ」

「早い話、まとまった金が、案外早く手に入るということです。今、天子さんが人足仕事でこつこつ稼ごうとしても、日に数十文、良くて百文かそこらでしょう。それが、無尽に加わって順番が回ってくれば、一度に何万という金が転がり込んでくる」

何万、という言葉の響きに、天子は思わず息を呑んだ。

「そんなに、簡単に」

「もちろん、出資はせねばなりません。ただでとは言いません。しかし、皆で少しずつ出し合うだけです。天子さんの懐にとって、そう大きな負担にはならんでしょう」

天子は黙り込んだ。頭の中で、算段が勝手に組み上がっていく。骨董品屋で溶かした金、それを取り戻せるかもしれないという下心。そして、こうしてまた誰かに困窮を見抜かれ、施しを受ける惨めさから抜け出せるかもしれないという期待。その両方が、天子の胸の中でせめぎ合っていた。

「それに、これはただの金儲けの話じゃあ、ありません」

マミゾウは声の調子をわずかに落とし、諭すように続けた。

「顔を合わせる仲間ができる。同じように困っている者同士、支え合う場ができる。天子さんも、今はお一人でしょう。誰かと繋がっとるというのは、それだけで心強いもんですよ」

その言葉が、天子の胸の奥に、思いのほか深く刺さった。

誰かと、繋がる。

衣玖の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎった。あの、疲れ果てた横顔。庇われることに疲れて逃げ出した先で、また誰かと繋がる場所を求めている自分に、天子は気づかないふりをした。

「……分かった。その無尽とやら、やってみるわ」

「おお、それは重畳。あんたさんなら、きっと良い巡り合わせがあるでしょうとも」

マミゾウは満足げに頷き、懐から古びた帳面を取り出した。

「では、早速ですが、出資の口数を決めましょうかな。一口いくら、というのは決まっとりますが、天子さんほどの覚悟があるお方なら、二口でも三口でも——多く持てば多く持つほど、受け取れる時の額も大きくなりますでな」

その言葉に、天子の中の下心が、静かに頭をもたげた。

一口じゃ、面白くないわね。どうせなら。

天子は帳面を覗き込みながら、まだ見ぬ「大きな巡り合わせ」に、思いを馳せていた。

「一口いくらなの」

「一口二十万円ですな。月々一万円ずつ、二十回に分けてお納めいただく。二十人ほどで一つの組を作りましてな、毎月、籤か話し合いで、その月の受け取り手を決めていく。組が回りきる頃には、皆平等に、まとまった金を手にしとるという寸法です」

月々一万円。それだけなら、なんとかなるかもしれない。天子はそう算段しながらも、頭の隅では、あの骨董品屋で溶かした三十万円の重みを思い出していた。

——どうせやるなら、しっかり取り返さないと。

「多く持てば、その分早く多く受け取れるって言ったわね」

「ええ、その通りです」

「じゃあ、一口で十分よ。まずは様子を見るわ」

天子はそう嘯いたが、内心では、月々一万円という支払いの重さを、まだ正確には理解していなかった。マミゾウは満足げに頷き、帳面に何やら書き付けていく。

「では、天子さんは一口ということで、承りました。次の寄合は三日後、里外れの空き寺で行いますでな。よろしければ、いらしてください」

三日後の空き寺には、思っていたよりも多くの人影があった。

二十人近くが、本堂の板張りに車座になって座っている。老いも若きも、身なりも様々だった。皆一様に、どこか疲れた、それでいて何かに縋るような表情を浮かべている。天子は隅の方に腰を下ろし、その顔ぶれを眺めていた。

「おや、天子さんもいらしたか。こちらへどうぞ」

マミゾウに手招きされ、天子は輪の中央近くに座らされた。隣に座っていたのは、白髪の交じった小柄な老爺だった。

「初めましてかね、お嬢さん。わしは五平と言います。この歳になって、こんな寄合に世話になるとは思わなんだが……まあ、孫に何か買ってやりたくてなあ」

五平と名乗った老爺は、皺の深い顔をくしゃりとさせて笑った。その笑い方には、どこか人の良さが滲んでいた。天子は思わず、少しだけ肩の力を抜いた。

「私は天子。まあ、色々あってね」

「色々、とは誰しもあるもんです。ここにいる連中も、大方似たようなもんでしょう」

五平が視線を送った先には、俯きがちに座る若い男の姿があった。継ぎの当たった着物、痩せた肩。男は誰とも目を合わせず、ただじっと自分の膝を見つめている。

「あれは、勘助という若い衆でしてな。親の借財を背負わされて、こうして少しでも早くまとまった金を作ろうとしとるそうです」

五平の声には、同情とも憐憫ともつかない、複雑な色が滲んでいた。天子はその話を聞きながら、なんとなく勘助という男から目を離せずにいた。自分よりも、よほど切実な事情を抱えている人間が、ここには何人もいるらしい。

寄合は、思いのほか和やかに進んだ。皆で出資の確認をし、今月の受け取り手を籤で決める。当たりを引いた中年の女が、涙ぐみながら周りに礼を言う様子を、天子は少し離れたところから眺めていた。

「よかったですね、あの人」

思わず零した天子の言葉に、五平が頷いた。

「ええ。こうして順番に、誰かの苦労が報われていく。それを見るのは、悪いもんじゃありません」

天子はその光景に、確かな温もりを感じていた。天上での、あの滑らかな話題転換とはまるで違う。ここには、誰かの苦労を、皆が真剣に喜び合う空気があった。

だが、寄合が幾度か重なるうちに、その温もりの裏に、少しずつ翳りが見え始めていた。

「すまねえ。今月は、どうしても都合がつかなくて」

勘助が、蚊の鳴くような声でそう告げたのは、四度目の寄合の時だった。親の借財の利子が思いのほか重く、出資に回す金が捻出できないのだという。輪の中に、気まずい沈黙が落ちた。

「困りますなあ、勘助さん。皆が少しずつ出し合っとる分、一人でも欠けると、組の全体に響くんですよ」

マミゾウが穏やかな声でそう咎めると、勘助はますます俯いた。その肩が、小さく震えているのが見えた。

天子は、その様子をしばらく黙って見ていた。だが、やがて自分でも制御しきれない衝動に突き動かされるように、口を開いていた。

「今月分、私が立て替えるわ」

輪の中の視線が、一斉に天子へと集まった。

「天子さん、それは……」

「別に、大した額じゃないでしょう。困ってるなら、助ければいいじゃない」

自分でもなぜそう言ったのか、天子には正確には分からなかった。ただ、俯く勘助の姿に、どこか自分自身の惨めさが重なって見えたのかもしれない。誰かに助けられることの惨めさを、誰よりも知っていたはずなのに、天子はそれを、他人に対しては躊躇なく差し伸べていた。

「ありがとう、ございます。必ず、返しますから」

勘助が、震える声でそう言った。天子はそれに軽く手を振って応え、それ以上は何も言わなかった。

その日を境に、天子は同じように苦しい立場の会員――五平の遠縁だという、病がちな女――の分も、幾度か立て替えるようになっていった。誰かが困っていれば、口約束一つで、その場しのぎの肩代わりを申し出る。それが、いつしか天子の中で、当たり前のことになっていた。

帳面の上では、天子の名の傍らに、次第に大きな数字が積み上がっていった。自らの一口分の出資、二十万円。そこに、勘助の分の肩代わりが二十五万円、病がちな女の分の肩代わりが二十五万円——合わせて五十万円。

その数字の重みに、天子はまだ、気づいていなかった。ただ、寄合の輪の中にいる時だけは、確かな温かさを感じられた。それだけで、天子には十分だった。

ただ一つ、天子の記憶に、小さな棘のように引っかかっていることがあった。

寄合の帰り際、マミゾウが人足たちの誰とも違う足取りで、闇の中へすっと溶けるように姿を消していく後ろ姿。あれは、ただの見間違いだったのだろうか。天子はその違和感を、深く考えることもなく、記憶の隅へと追いやった。




最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

天子の不器用さ、そして誰かに助けられることへの複雑な思いを、今回は特に丁寧に描きたいと思っていました。次話では紫苑側の視点に戻ります。彼女もまた、別の形で同じ場所へと近づいていきます。

引き続き、気長にお付き合いいただければ嬉しいです。
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