今回は紫苑の視点から、物語が進んでいきます。よろしければ、最後までお付き合いいただければ幸いです。
あの夜以来、紫苑の胸の奥には、小さな灯りのようなものが灯っていた。
息の合った食い逃げ。名前だけを交わして別れた、あの奇妙な女。それきり二度と会うこともないだろうと思っていたが、なぜかその夜のことを、紫苑は幾度も思い返していた。
惨めなはずの逃走劇が、記憶の中では不思議と軽やかに、どこか温かいものとして残っている。
まあ、二度と会わないでしょうけど。
そう自分に言い聞かせながらも、紫苑の足取りは、以前より心なしか軽かった。
とはいえ、現実は現実だった。あの夜の食事にはありつけず、懐にはまた、わずかな銭すら残っていない。紫苑はいつも通り、路地裏を寝床にし、物々交換で日々を食い繋ぐ暮らしへと戻っていった。
わらしべ長者、という言葉があるが、紫苑のやり方は、それに近いようで、もっと泥臭いものだった。
最初に手にしたのは、道端に落ちていた欠けた簪だった。誰かが落としたのか、捨てたのか、判然としないそれを、紫苑は迷わず拾い上げた。錆びた金具を丁寧に磨き、目立つ欠けの部分を布で隠すようにして、古道具を扱う露店の主のもとへ持ち込んだ。
「これ、いくらで引き取ってもらえる」
「んん……まあ、これじゃあ大した値はつかんが」
渋る店主に、紫苑は食い下がった。
「欠けてるのは承知よ。でも、この金具の細工、素人仕事じゃないでしょう。それなりの職人の手が入ってる」
「……まあ、そう言われりゃあ」
押し引きの末、紫苑は簪と引き換えに、干物の束を手に入れた。腐りかけではあったが、まだ十分に食べられる量だった。その日の空腹を凌いだ上、余った分を、また別の露店へと持ち込む。
「この干物、まとめて買うなら安くしとくわよ。その代わり――」
そうして紫苑は、干物と引き換えに、使い古しではあるがまだ丈夫な竹籠を手に入れた。竹籠は、次の日には古布の端切れの束と交換された。古布は、さらに数日をかけて、傷はあるが厚手のしっかりした帯へと姿を変えていった。
この一連のやり取りの中で、紫苑は自分でも意外なほどの手応えを感じていた。値切ること、相手の足元を見ること、品物の裏にある本当の価値を見極めること、貧しさの中で嫌というほど鍛えられたその勘は、こういう時に限って、驚くほど的確に働いた。
やっぱり、こういうのは得意なのよね。
自嘲めいた誇らしさを胸に、紫苑は取引を重ねていった。
そして、半月ほどが過ぎた頃だった。とある古着屋の店先で、紫苑は一枚の着物に目を留めた。
傷みこそあるが、生地は上等な絹だった。柄も落ち着いた色合いで、仕立ても丁寧な仕事が見て取れる。おそらくは、それなりの家の女が誂えたものが、何かの事情で流れてきたのだろう。紫苑は自分がこれを着ることなど、考えもしなかった。ただ、これを売れば、まとまった金になるかもしれない。
その一点だけが、紫苑の頭を占めていた。
「これと、私の帯を交換してもらえない」
紫苑は持っていた帯を差し出しながら、店主に交渉を持ちかけた。
店主は帯を一瞥するなり、露骨に顔をしかめた。
「冗談言っちゃいけないよ。こっちの着物は絹だ。あんたの帯とじゃ、話にならない」
「話にならないって、ちゃんと見た上で言ってる?」
紫苑は帯を店主の目の前に広げて見せた。
「この織り目、よく見て。並の帯じゃないでしょう。糸の太さも揃ってるし、色も褪せてない。これだけの品を、そこいらの端切れと一緒に見るのは、あんたの目が曇ってる証拠よ」
「……まあ、悪い品じゃないのは認めるがね。だからって、この着物とじゃ釣り合わない。こっちは仕立ても凝ってる。見な、この裾の縫い目」
店主は着物の裾を指し示した。確かに、細かく丁寧な針目が並んでいる。紫苑もそれは認めざるを得なかったが、易々と引き下がるつもりはなかった。
「仕立てがいいのは分かる。でも、傷みも相当あるじゃない」
紫苑は着物の袖口を指でつまみ、光にかざしてみせた。
「ここ、擦れて薄くなってる。それに、裏地のこの染みは一度水にでも浸かったんでしょう。完全な品じゃない。それを差し引けば、この帯と釣り合わないほどの差はないはずよ」
「そりゃまた、口の減らないことで」
店主は苦笑しながらも、着物を手に取り、紫苑の指摘した箇所を一つ一つ確かめるように眺めた。しばらくの沈黙の後、ぼそりと呟いた。
「帯に、色付けようか。それとこの巾着」
店主が差し出したのは、使い古しの小さな巾着だった。紫苑はそれを一瞥し、すぐに首を振った。
「そんなおまけで釣られるほど、安く見られたくないわね。帯一本で、その着物と等価。それが嫌なら、他を当たるだけよ」
紫苑はそう言い放つと、帯を畳み直す素振りを見せた。実際に立ち去るつもりなどなかったが、その仕草だけで、店主の顔に僅かな焦りが浮かんだ。
「——待ちな。まあ、いいだろう。等価でいい」
店主は渋々といった様子で頷いた。紫苑は内心で小さく安堵しながらも、表情には出さず、涼しい顔で頷き返した。
「最初からそう言えばいいのよ」
「口の減らない小娘だ、まったく」
店主はぼやきながらも、着物を丁寧に畳み、紫苑へと差し出した。紫苑はそれを受け取りながら、帯を店主の手に渡す。取引は、そうして成立した。
着物を抱えて歩く紫苑の足取りは、これまでのどの日よりも軽かった。
絹の重み、その滑らかな手触りを確かめるたび、紫苑の胸には、久しく忘れていた期待感が満ちてきた。これを然るべき所で売れば、まとまった金になる。米を買い、綿の入った布団を手に入れ、もしかしたら、屋根のある場所で数日を過ごすことだってできるかもしれない。そんな想像が、次から次へと紫苑の頭に浮かんでは消えていった。
――こんな上物、私が着ることなんて一生ないでしょうけど。
自嘲めいた笑みを浮かべながら、紫苑は着物を大事に抱え直した。売り先を探して、里の目抜き通りを歩いていると、ふと道端に敷布を広げ、様々な古布や反物を並べている行商人の姿が目に入った。
「――お嬢さん、いい着物をお持ちですなあ」
声をかけてきたのは、恰幅のいい、丸眼鏡をかけた老爺だった。紫苑は思わず足を止めた。
「見る目、あるの」
「これでも、長年この商いをしとりますでな。ちょっと拝見させていただいても?」
老爺の物腰は柔らかく、悪意めいたものは微塵も感じさせなかった。紫苑は少し警戒しながらも、着物を広げて見せた。
老爺は着物を手に取り、生地を撫で、光にかざし、丁寧に検分していく。その手つきには、確かに慣れが感じられた。
「ほう、これはこれは。仕立ても悪くない。染めも上品なもんです」
「でしょう。それなりの値で買い取ってもらえるかしら」
紫苑がそう切り出すと、老爺は少し困ったように眉を下げた。
「――残念ながら、わしは金子を持ち合わせておりませんでな。ただの行商の身ですから」
「じゃあ、話にならないじゃない」
紫苑が着物を引き取ろうとすると、老爺はやんわりとそれを制した。
「まあまあ、そう急かんでください。実はですな、お嬢さんのような方に、うってつけの話がありまして」
「――うってつけの話?」
「無尽、というのをご存知かね」
紫苑は首を傾げた。聞き覚えのない言葉だった。老爺――マミゾウと名乗ったその男は、天子に語ったのとほとんど同じ講釈を、今度は紫苑に向けて語り始めた。皆で少しずつ出し合い、順番に大きな金を受け取る仕組み。困っとる者同士、支え合う場ができるという口上も、寸分違わなかった。
「――でも、私、出す金なんてないわよ」
「金子でなくとも構いません。品物での出資も、認めておりましてな。例えば、その着物」
「これを?」
「ええ。これだけの品なら、それ相応の口数として計上できましょう」
紫苑は着物を見下ろした。売ればまとまった金になるはずのものを、形を変えて出資に回す。それでいて、順番が回ってくれば、もっと大きな金が手に入るという。悪い話ではないように思えた。
「――で、これはいくらの口数になるの」
「そうですなあ……」
マミゾウは着物をもう一度手に取り、じっくりと検分し直した。
「傷みもありますし、絹とはいえ、これくらいの品ですと……三万円分の口数、といったところですかな」
「――三万?」
紫苑は思わず声を上げた。あの店主との交渉で、これだけの着物を等価で手に入れたのだ。まともに売れば、もっと高値がつくはずだという直感があった。
「安すぎるでしょう。これだけの仕立て、この生地の質」
「いやいや、お嬢さん。着物の善し悪しと、こういった場での出資額の査定は、また別のものでしてな。無尽というのは、あくまで皆で公平に出し合う場。相場そのままの値をつけては、他の会員との釣り合いが取れんのですよ」
紫苑は食い下がろうとした。だが、マミゾウの語る「査定」やら「釣り合い」やらの理屈は、紫苑がこれまで慣れ親しんできた、日々の物々交換の駆け引きとは、根本的に違う土俵の話だった。相手の足元を見る勘も、傷みを指摘して値を吊り上げる話術も、この「査定」という言葉の前では、なぜか通用しないように感じられた。
「――分かったわ。三万でいいわよ」
結局、紫苑はそう答えるしかなかった。着物という、生活の足しにはならないが、まとまった金に化けるはずだった品。それが、紫苑の知らない理屈の中で、随分と安い値札をつけられて、帳面の中へと吸い込まれていった。
その日、紫苑の名の傍らに記された数字は、着物の実際の値打ちからは、大きくかけ離れたものだった。
差額にして、およそ十五万円——紫苑はまだ、その意味を正確には理解していなかった。
寄合は、里外れの古びた集会所で、月に一度開かれた。
紫苑が初めてそこに足を運んだ日、車座になった顔ぶれを見渡して、まず感じたのは、誰もが似たような疲れを顔に貼り付けているということだった。継ぎの当たった着物、荒れた指先、落ち窪んだ目。皆一様に、この暮らしの厳しさを、骨身に染み込ませているような人々だった。
「初めての方かね。よろしければ、こちらへ」
声をかけてきたのは、腰の曲がった老婆だった。傍らには、幼い孫らしき子供が、所在なさげに座っている。
「お婆ちゃん、お腹すいた」
「もう少しの辛抱だよ。今日はご馳走を持ってきてもらえるかもしれないからね」
老婆がそう言って苦笑いを浮かべるのを見て、紫苑はふと、懐に忍ばせていたものを思い出した。道中、たまたま手に入れた芋を、何本か持っていたのだった。
「…これ、よかったら」
紫苑が差し出した芋に、老婆は目を丸くした。
「これは、これは。いいのかい?」
「別に。持っててもすぐ悪くなるだけだから」
素っ気なくそう答えたものの、紫苑の胸の内には、確かな温かさが広がっていた。老婆は芋を受け取ると、集会所の片隅にあった小さな竈で、器用に火を熾し始めた。
「よかったら、私が焼くわ」
気づけば、紫苑はそう申し出ていた。老婆は驚いた様子だったが、すぐに嬉しそうに場所を譲ってくれた。
紫苑は芋を丁寧に灰の中に埋め、火加減を見ながら、時折転がして焼き上げていく。
この手つきだけは、誰に教わらずとも、体が自然と覚えているものだった。
焼き上がった芋を、紫苑は寄合に集まった皆に分け与えた。ほくほくとした甘い湯気が立ち上るたび、集会所の中に、小さな歓声が上がった。
「美味い。こんな美味い芋、久しぶりに食ったよ」
「お姉ちゃん、ありがとう」
子供の無邪気な礼の言葉に、紫苑は思わず頬を緩めた。見放され、神社からも追われ、路地裏を転々としてきた自分に、こうして誰かが素直に礼を言ってくれる。それだけのことが、紫苑の胸に、じんわりと沁みていった。
その日を境に、紫苑は寄合のたびに、拾い集めた食材で何かしらを作り、皆に振る舞うようになった。屑野菜の煮物、干物を炙ったもの、時には拾った米で握った塩むすび。決して豪華なものではなかったが、寄合の輪の中では、いつしか紫苑の作る料理が、ささやかな楽しみの一つになっていた。
こんな風に、誰かの役に立てるなんてね。
貧乏神としての性を疎まれ、あちこちで追い払われてきた紫苑にとって、それは初めて味わう種類の充足感だった。
だが、その温かな時間は、長くは続かなかった。
いつもの月、いつもの集会所。紫苑が古びた木戸を開けた時、そこには異様な空気が漂っていた。
いつもなら、マミゾウが真っ先に来て、帳面を広げて待っているはずだった。だが、その日に限って、集会所の中には誰の姿もなかった。
「…どういうこと」
紫苑が呟くのとほぼ同時に、五平や、他の顔見知りの会員たちが、次々と集会所に集まってきた。皆、一様に困惑した表情を浮かべている。
「マミゾウさんは、まだかね」
「いつも一番乗りのはずなのに」
半刻ほど待っても、マミゾウは現れなかった。誰かが、いつも帳面が保管されていた場所を探したが、そこにあったはずの帳面も、集められていた出資金も、跡形もなく消えていた。
「まさか」
誰かが呟いたその一言が、場の空気を一変させた。
「逃げたんじゃ、ないのか」
「そんな、まさか。あんなに丁寧な、いい人だったじゃないか」
「いい人だったから、余計に信じちまったんだろうが!」
怒声が飛び交い始めた。老婆は孫を抱きしめ、青ざめた顔で座り込んでいる。勘助は拳を握りしめ、俯いたまま何も言わなかった。紫苑もまた、あの穏やかな老爺の顔を思い浮かべながら、言葉を失っていた。
その後の混乱は、しばらく収まらなかった。里の顔役や、事情に詳しい者を交えて話し合いが持たれ、やがて、ある結論が下された。
「集まった金が消えた以上、残された者で、その穴を埋めるしかない」
連帯責任、という言葉が、その場で初めて使われた。集会所に残った会員たちで、消えた金額を分担して負担する。それが、無尽という仕組みの、誰も教えてくれなかった裏の顔だった。
中には、要領よく責任を逃れる者もいた。もともと口数の少ない出資しかしていなかった者、あるいは、いち早く姿をくらませた者。残された穴を埋める役目は、結局のところ、世慣れていない者、断りきれない者たちに、より重くのしかかっていった。
紫苑の帳面に記された最終的な金額は、これまでの着物の差額十五万円に加え、連帯責任として新たに割り振られた四十万円——合わせて五十五万円という、途方もない数字だった。
「五十五万、円」
紫苑はその数字を、何度も口の中で繰り返した。声に出してみても、実感は湧いてこなかった。ただ、これまで積み重ねてきた、あの温かな寄合の時間が、すべて紙の上の数字に塗り替えられていく感覚だけが、確かにあった。
集会所を出た紫苑は、しばらくの間、当てもなく夜道を歩いた。空を見上げても、星の一つも見えない、曇った夜だった。
どうしよう。
これまで、どんな苦境も、自分の勘と手一つで乗り越えてきた。だが、この五十五万円という数字だけは、紫苑のどんな知恵をもってしても、どうにかできる気配がなかった。
紫苑はただ、その重さを抱えたまま、夜の路地を歩き続けた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
更新は今後も不定期になりますが、この作品以外にも、機会があれば色々な作品を作っていきたいと思っています。もしよろしければ、感想やコメントなどいただけると、大変励みになります。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。