今回は、天子と紫苑の再会を描いています。あの夜以来、初めて言葉を交わす二人が、どんな時間を過ごすことになるのか、見届けていただければ幸いです。
天子が異変に気づいたのは、いつもの寄合の日だった。
空き寺の本堂に足を踏み入れた瞬間、そこに漂う空気が、これまでとは明らかに違うことを、天子はすぐに悟った。いつもなら真っ先に現れているはずのマミゾウの姿が、どこにもない。代わりに、五平や勘助をはじめとした顔見知りの会員たちが、不安げな表情で寄り集まっていた。
「――どうしたの、皆」
「天子さん……マミゾウさんが、来ないんです」
勘助の声は、震えていた。天子は嫌な予感を覚えながら、帳面が保管されていたはずの棚を確かめた。そこには、何もなかった。帳面も、これまで集められた出資金も、綺麗さっぱり消え失せていた。
「――まさか」
五平が絞り出すように呟いた一言が、堂内の空気を凍りつかせた。
その後の展開は、天子にとって悪夢のように早く進んでいった。里の顔役を交えた話し合い、連帯責任という聞き慣れない言葉、そして、残された会員たちで消えた金額を分担するという結論。
「――百万円」
最終的に天子の帳面に記された数字を、天子は何度も見つめ直した。骨董品屋で溶かした三十万円、自らの出資二十万円、そして勘助たちの肩代わりの五十万円。それらが積み重なり、途方もない一つの数字として、天子の前に突きつけられていた。
「そんな……こんな額、どうやって」
天子は思わず声を漏らした。これまで、どんな苦境も、根拠のない自信一つで乗り越えてきた。だが、この百万円という数字を前にしては、その自信すら、音もなく崩れ落ちていくのが分かった。
勘助が、青ざめた顔で天子に近づいてきた。
「天子さん……すみません。俺のせいで」
「――あんたのせいじゃないわよ」
天子はそう答えたものの、声には力がなかった。誰のせいでもない、いや、強いて言うなら、あの人懐こい笑みを浮かべていた老爺のせいだ。だが、その老爺はもう、どこにもいない。
寺を出た天子は、当てもなく夜道を歩いた。空を見上げても、星の一つも見えない、曇った夜だった。
――どうしよう。
帰ろうと思えば、帰れる場所はまだある。今すぐにでも、天上へ戻ることはできるはずだった。だが、その考えが頭をよぎるたび、天子は強く首を振った。こんな無様な姿で戻れば、それこそ「またか」の一言で片付けられてしまう。それだけは、意地でも御免だった。
「――くそ」
誰にともなく毒づいて、天子は夜の路地を、当てもなく歩き続けた。
同じ頃、紫苑もまた、同じ夜の下で、同じように途方に暮れていた。
五十五万円という数字を抱えたまま、紫苑の生活は、これまで以上に苦しいものへと変わっていった。物々交換で食い繋ぐ日々にも、以前のような手応えは感じられなくなっていた。頭の片隅に、常にあの数字が居座り、何をするにも重石のようにのしかかってくる。
寄合で分けてもらった温かさも、もう戻ってはこない。あの老婆や、幼い孫の無邪気な礼の言葉も、今となっては遠い記憶のように思えた。
紫苑は路地裏の莚の上に横たわりながら、ぼんやりと夜空を見上げていた。
――こんなはずじゃ、なかったのに。
着物一枚を元手に、まとまった金を作ろうとしただけだった。それが、いつの間にか、途方もない負債へと姿を変えていた。紫苑は自分の甘さを呪いながらも、それ以上にどうしようもない現実の重さに、ただ押し潰されそうになっていた。
空腹はいつも通り、紫苑の傍らにあった。だが、以前のような、あの甘辛い匂いへの期待も、もう湧いてはこなかった。ただ、生きているというだけの日々が、重く、長く、続いていくばかりだった。
――誰か、いないかな。
柄にもなく、そんなことを思う自分に、紫苑は自嘲めいた笑いを漏らした。誰かに縋りたいなどと、これまで一度も思ったことはなかったはずなのに。
その夜、天子と紫苑は、同じ里の、それぞれ違う路地の下で、同じ重さを抱えたまま、夜を明かしていた。互いの存在を知らないまま、二人はただ、同じ闇の中を彷徨っていた。
それから幾日か過ぎた、ある夕暮れのことだった。
天子は、里の目抜き通りの片隅で、屋台の裏手に積まれた木箱を漁っていた。売れ残りの惣菜が、まだいくらか残っているはずだった。空腹に急かされるまま、木箱の蓋に手をかけた、その瞬間だった。
「――こら!何してやがる!」
野太い声が背後から飛んできた。振り返ると、屋台の主らしき恰幅のいい男が、こちらに向かって足音荒く歩いてくるところだった。
「盗人か、貴様!この間から、うちの残り物が減ってると思ったら!」
「ち、違うわよ。ただ、その、見てただけで――」
「見てただけで蓋に手をかけるやつがあるか!番所に突き出してやる!」
男の剣幕に、天子は思わずたじろいだ。周囲には、何事かと足を止める野次馬たちが、じわじわと集まり始めている。
――まずいわね、これは。
私は内心で舌打ちをしながら、どう言い逃れようか、必死に頭を巡らせていた。
一方、そこからほんの数間先の路地でも、別の騒動が持ち上がっていた。
「待て、その財布、あたしのだよ!」
中年の女の甲高い声が響く。紫苑は、地面に落ちていた財布を拾い上げただけだった。持ち主に返そうとしていた、その矢先だった。
「私が拾ったのよ。今、あなたに渡そうと——」
「白々しい!盗ろうとしてたんだろう、その手つきで分かるんだよ!」
紫苑は財布を握ったまま、困惑していた。弁解の言葉を並べようとするたび、女はますます声を荒げ、こちらもまた、周囲に人だかりができ始めていた。
——ついてない。こんな時に限って。
紫苑は内心でそう毒づきながら、じりじりと後退る。だが、退路を塞ぐように、いつの間にか野次馬の輪が、紫苑の周りにも出来上がっていた。
二つの騒動は、互いにほんの目と鼻の先で、同時に膨れ上がっていた。
「盗人だ、盗人だ!」
「こっちにも盗人がいるぞ!」
通りの端と端で、ほとんど同時に上がった叫び声が、奇妙な形で重なり合った。天子と紫苑は、それぞれの騒動の渦中で、思わずその声のした方角へと顔を向けた。
視線が、通りの向こうで、ぴたりと交わる。
「――は?」
「――あんた?」
同時に発せられた声が、間の抜けた形で響いた。天子を糾弾していた屋台の主も、紫苑を糾弾していた中年の女も、突然のことに一瞬、毒気を抜かれたような顔をしている。
「へえ、こんなところで会うとはね」
天子はそう言いながら、自分を取り囲む騒動そっちのけで、にやりと笑った。紫苑もまた、握りしめていた財布を持ち主にそっと押し付けながら、同じように口の端を上げていた。
「あんたも、相変わらずみたいね」
「そっちこそ。財布泥棒だなんて、人聞きの悪い」
「そっちだって、残飯漁りで捕まってるじゃない」
軽口を叩き合う二人に、周囲の野次馬たちは、事態が呑み込めず戸惑いの表情を浮かべていた。屋台の主も、中年の女も、我に返ったように再びこちらへ詰め寄ろうとしたが、天子と紫苑は、それより早く互いに歩み寄っていた。
「――ちょっと、あんた」
「なによ」
「あんたも、災難続きみたいだけど」
天子のその一言に、紫苑はふと真顔になった。冗談交じりの再会の熱が、すっと冷めていくのを感じた。
「……まあ、色々あってね」
「私もよ」
二人の間に、束の間の沈黙が落ちた。周囲の喧騒は、まだ収まってはいなかったが、天子と紫苑には、それすらもうどこか遠いことのように感じられていた。
——と、そんな二人の空気を破るように、屋台の主が声を張り上げた。
「おい、何をこそこそ話してやがる!こっちはまだ話が済んでないんだぞ!」
「そうだよ、あたしの財布はどうなるんだい!」
我に返った糾弾者たちが、それぞれの主張を再び強めながら、二人を取り囲むように詰め寄ってきた。野次馬の輪も、いよいよ本腰を入れて事の成り行きを見守り始めている。番所の役人でも呼ばれれば、事はさらに厄介になる。天子は瞬時にそれを察し、口を開いた。
「——待ちなさいよ。誤解も甚だしいわ」
「誤解も何も、その手で蓋を開けてたじゃねえか!」
「あれはね、私が天上より地上の食物を調べに来た使いだからよ。この程度の残り物、天上への貢物として献上する価値があるかどうか、確かめていただけ」
あまりに堂々とした物言いに、屋台の主は一瞬、言葉を失った。周囲の野次馬たちも、呆気に取られたようにざわめいている。
「——は?何を訳の分からんことを」
「訳が分からないのはそっちよ。天上の使いに向かって、盗人呼ばわりとは、いい度胸ね。本来なら、この程度の非礼、天罰の対象になってもおかしくないのだけれど」
天子は腕を組み、堂々と胸を張ってみせた。無論、そんな理屈が通用するはずもないのだが、あまりに自信満々な態度に、屋台の主も、周囲の野次馬たちも、一瞬毒気を抜かれたように黙り込んだ。
——だが、そんな沈黙も長くは続かなかった。
「ふ、ふざけるな!そんな出鱈目、誰が信じるか!」
屋台の主が我に返り、再び声を荒げた。当然の反応だった。天子のトンデモない理屈だけで、この場が丸く収まるはずもない。紫苑は横目でその様子を見ながら、慌てて割って入った。
「——ああもう、すみません!この人、ちょっと頭の螺子が緩んでるんです。悪気はないんですよ、本当に」
「な、なんですって」
天子が抗議の声を上げるのを、紫苑は素早く手で制した。
「この人、実は記憶が曖昧なところがあって……ほら、少し前に頭を強く打ってから、時々こういう妙なことを口走るようになっちゃって。ご主人、可哀想だと思って見逃してもらえません?」
紫苑の即席の作り話に、天子は横で目を丸くしていたが、口を挟むことはしなかった。屋台の主は、まだ疑わしげな視線を天子に向けていたが、紫苑の必死な弁解に、少しずつ毒気を削がれていくようだった。
「――記憶が、曖昧、ねえ」
「そうなんです。だから、悪気があって手を出したわけじゃなくて。もし残り物、いくらか分けていただけるなら、代わりにこの後、荷運びでも掃除でも、お手伝いさせていただきますから」
紫苑がそう申し出ると、屋台の主はしばらく考え込むように腕を組んでいたが、やがて渋々といった様子で息を吐いた。
「……まあ、いい。今回だけだぞ。次にまた同じことをしたら、本当に番所に突き出すからな」
「ありがとうございます。本当に、すみませんでした」
紫苑は深々と頭を下げた。天子はその隣で、釈然としない顔をしていたが、それ以上は何も言わずに黙っていた。
一方、紫苑を糾弾していた中年の女の方は、まだ納得がいかない様子で、財布を握りしめたまま睨みつけていた。
一方、紫苑を糾弾していた中年の女の方は、まだ納得がいかない様子で、財布を握りしめたまま睨みつけていた。
「あんたの言い分は分かったけどさ。本当に盗るつもりじゃなかったのかい」
「本当ですよ。むしろ、あなたが落とすところを見てなかったら、誰か他の人に持っていかれてたかもしれません」
「口ではなんとでも言えるだろう。だいたい、あんたみたいな身なりの人間が、なんでこんなところをうろついてるんだい」
女の目には、まだ疑いの色が濃く残っていた。紫苑は一瞬言葉に詰まったが、すぐに気を取り直し、努めて落ち着いた声で続けた。
「——正直に言います。私、今、行くあてもなく彷徨っている身なんです。だから、こんな身なりで、こんな時間に、こんな場所をうろついてる。それは事実です」
「そりゃ、余計に怪しいじゃないか」
「でも、だからこそ、他人のものに手を出すわけにはいかないんです」
紫苑はまっすぐに女の目を見据えた。
「食うに困って、物々交換で食いつないでる身です。でも、それは自分の持ち物と、相手の持ち物を、お互い納得の上で交換してるからこそ、なんとか生きてこられた。他人のものを黙って盗るなんてことをしたら、その一線が崩れる。そうしたら、私は本当に、ただの盗人に成り下がってしまう」
紫苑の声には、思いのほか強い実感が込もっていた。それは、単なるその場しのぎの弁解ではなく、これまでの紫苑の暮らしそのものが滲み出た言葉だった。
女は、しばらく黙って紫苑の顔を見つめていた。値踏みするような、それでいてどこか戸惑うような視線だった。
「――あんた、その財布、落ちてたのはどこだい」
「そこの、八百屋の店先です。あなたが野菜を選んでる間に、帯の間から滑り落ちるのが見えました。声をかけようとしたら、あなたはもう次の店に移っていて」
紫苑がそう答えると、女は懐から取り出した財布を、もう一度確かめるように見つめた。八百屋の場所も、自分の動きも、紫苑の言葉と食い違うところがない。
「……確かに、あそこで大根を見てたね」
「そうです。だから、追いかけようとしたところで、あなたに呼び止められた」
女はしばし黙り込んだ後、深く息を吐いた。
「――疑って悪かったね。近頃、こういう手合いの盗みが増えてて、つい神経質になっちまってさ」
「いえ、お気持ちは分かります。私の身なりじゃ、疑われても仕方ないですし」
「いや、それでも、ちゃんと理由も聞かずに決めつけたのは、あたしが悪かったよ」
女はそう言って、懐から小さな包みを取り出すと、紫苑の手に押し付けるようにして渡した。
「――これ、大したもんじゃないけど。お詫び代わりに」
包みの中身は、蒸かした芋が二つほどだった。紫苑は驚いて、思わず女の顔を見返した。
「……いいんですか」
「いいから、持っていきな。あんたの言い分、ちゃんと筋が通ってたからね」
紫苑がそう応じると、女は小さく頭を下げ、人だかりの中へと去っていった。屋台の主もまた、まだ幾分疑わしげな視線を残しつつも、自分の店へと戻っていった。野次馬たちも、これ以上の見世物はないと悟ったのか、三々五々、散っていった。
騒動が収まった通りに、天子と紫苑だけが残された。
「――あんた、口が回るじゃない」
「そっちこそ、いきなり天上の使いとか言い出すから、こっちはひやひやしたわよ」
「別に、間違ったことは言ってないでしょ」
「間違ってないけど、通用してなかったじゃない」
軽口を叩き合いながらも、二人の間には、あの食い逃げの夜と同じような、不思議な息の合い方が確かにあった。天子はふっと表情を緩め、紫苑もまた、小さく笑みを浮かべていた。
二人は、どちらからともなく、里の中を流れる小さな川へと足を向けていた。人の手できちんと整えられた石畳の岸に、夕暮れの光が柔らかく反射している。天子と紫苑は、示し合わせるでもなく、その岸辺に並んで腰を下ろした。
しばらくは、他愛のない話が続いた。
「――さっきの芋、半分こしましょうよ」
紫苑がそう言って、貰った芋を一つ差し出すと、天子は遠慮なく受け取り、その場でかぶりついた。
「――ん、悪くないわね」
「でしょ。あの人、意外といい人だったわ」
「あんたの喋りが上手かったのよ。私の理屈、途中から誰も聞いてなかったし」
「あれは、聞かせる方が無理があったのよ」
軽口の応酬に、二人は同時に噴き出した。夕暮れの川面が、笑い声に合わせるように、きらきらと光を揺らしていた。
「――そういえば、あんた、あの後どうしてたの。ほら、食い逃げの後」
「まあ、色々よ。あんたは?」
「私も色々」
ふと、紫苑の視線が、天子の傍らに置かれた風呂敷包みに向いた。あの夜屋台で見かけたのと同じ、不揃いな簪や木彫りの小物が覗く包みが、今もなお、天子の隣にちょこんと置かれている。
「――それ、まだ持ってたのね」
「これ? まあね。手放すのも、なんだか癪だし」
「食うに困ってるのに、そんなガラクタ、後生大事に抱えてるなんて。売っちゃえばいいのに」
「ガラクタとか言わないでよ。これでも、天上にはない味のあるものばかりなんだから」
天子はそう言い返しながら、風呂敷を開き、中の品を一つ一つ取り出して見せた。木彫りの小さな狐の置物、由来の分からない古びた鈴、不揃いな柄の簪が二、三本。紫苑はそれらを一瞥し、ふっと小さく笑った。
「――この狐、目のところが歪んでるじゃない」
「そこがいいのよ。愛嬌があるでしょ」
「愛嬌って言えば、なんでも許されると思ってるでしょ、あんた」
「思ってないわよ。でも、悪くないと思わない?」
天子が狐の置物を紫苑の目の前に掲げてみせると、紫苑はしばらくそれを眺めた後、渋々といった様子で頷いた。
「……まあ、確かに、憎めない顔ではあるわね」
「でしょう」
得意げな天子の顔に、紫苑はまた小さく吹き出した。他愛のない会話は、そのまま緩やかに続いていった。
「――そういえば、この里の飯って、どこも高いと思わない?」
「思う思う。この間なんて、定食屋で四百五十円って書いてあって、二度見したもの」
「私なんて、蕎麦屋で三百円見て回れ右したわよ」
「あんたも同じこと考えてたのね」
互いの懐事情を思い出したのか、二人は同時にため息をついた。それすらも、なぜかおかしくて、また笑い合ってしまう。
「――夜になると、急に冷えるのも困るのよねえ」
「分かるわ。この間なんて、寝ようとしたら、虫がすぐ近くでガサガサ言い出して、一睡もできなかった」
「あんたも野宿してるの」
「……まあ、そんなところよ」
天子は少しばつが悪そうに、視線を逸らした。紫苑はそれ以上追及せず、ただ小さく頷いただけだった。
天子がふと、大きく息を吐いた。
「あーあ、なんとかしてマミゾウに払わないといけないのよねぇ……」
何気ないその一言に、紫苑の表情が、ふと固まった。
「――今、なんて言った?」
「え? マミゾウに払わないと、って」
「あんたも、マミゾウって人に、お金を払う約束をしてるの」
天子は紫苑の様子がおかしいことに気づき、怪訝そうに首を傾げた。
「そうよ。無尽とかいうのに誘われて……って、あんたもまさか」
二人は、互いの顔をまじまじと見つめ合った。夕暮れの光の中で、それぞれの表情に、じわじわと驚愕の色が広がっていく。
「――丸眼鏡の、狸みたいな老爺?」
「そう、それ。人足の仕事にあぶれてた時に、声をかけてきて」
「私は、着物を持ってた時に、道端で」
言葉を交わすたびに、二人の間に、恐ろしいほどの符合が積み重なっていった。同じ名前、同じ手口、同じ「困っとる人を放っておけん」という口上。
「――嘘でしょう」
紫苑が、絞り出すように呟いた。天子もまた、言葉を失ったまま、川面に映る夕暮れの光をぼんやりと見つめていた。
「ちなみに、あんたはいくら」
しばらくの沈黙の後、天子がぽつりと切り出した。紫苑は一瞬躊躇うような素振りを見せたが、やがて観念したように口を開いた。
「五十五万円」
その数字に、天子は思わず息を呑んだ。
「――結構な額じゃない」
「あんたは、いくらなのよ」
「私は……百万円」
今度は紫苑が言葉を失う番だった。二人はしばらく、互いの顔を見つめ合ったまま、何も言えずにいた。
「……百と、五十五で」
紫苑が、震える声で計算を口にした。
「百五十五万円」
その数字が、実際に声となって空気を震わせた瞬間、二人の間に、これまでとは質の違う沈黙が落ちた。夕暮れの光は、いつの間にかすっかり色を失い、川面には薄闇が広がり始めていた。
「どうしよう」
紫苑が、誰にともなくそう呟いた。天子は膝を抱え、じっと川面を見つめたまま、しばらく何も答えなかった。
「……分かんないわよ、そんなの」
「私だって、分かんないわよ」
二人は、それぞれ別々の場所で、同じ絶望を味わってきたはずだった。だが、こうして数字を突き合わせ、声に出して確かめ合うことで、その絶望は、一人で抱えていた時よりも、なぜか少しだけ、輪郭がはっきりとしたものに変わっていた。
「――ねえ、あんた。今、どこで寝てるの」
紫苑が、ふと尋ねた。天子はその質問に、少し気まずそうな顔をした。
「その辺の、適当な軒先。あんたは」
「路地裏の莚の上」
「……似たようなものね」
天子は自嘲めいた笑いを漏らした。紫苑もまた、同じように力なく笑った。
「――帰る場所、ないの。あんたは?」
紫苑のその問いに、天子は少し間を置いてから答えた。
「あるけど、帰らない。帰りたくない、が正しいかしら」
「そう」
紫苑は、それ以上は何も聞かなかった。ただ、天子の言葉の奥にある何かを、なんとなく察したような顔をしていた。
「私は、帰る場所自体が、もうないのよね」
「――そう」
今度は天子が、それ以上は何も聞かなかった。互いに、深くは踏み込まない。それでいて、何も知らないままでも、この状況の重さだけは、確かに共有できていた。
「――このまま、それぞれ勝手にやってても、埒が明かないと思うのよね」
紫苑が、川面を見つめたまま、静かにそう切り出した。
「百五十五万円。一人で返せる額じゃないでしょう、これ」
「……まあ、そうね」
「だったら、いっそ」
紫苑はそこで一度言葉を切り、隣に座る天子の顔を、ちらりと窺った。
「一緒に、なんとかしない」
天子は、その言葉に少し驚いたように目を見開いた。
「一緒に、って」
「住む場所も、どうせ二人ともないんでしょう。だったら、一つの場所を二人で借りた方が、家賃も浮くし。取り立てだって、二人でいた方が、まだ相談もできるでしょう」
紫苑の言葉には、情に流された甘さよりも、生活者としての現実的な計算が滲んでいた。天子はその言葉を、しばらく黙って噛み締めていた。
「——それに」
紫苑は続けた。
「私、これでも料理は多少できるのよ。あんた、手先は器用そうだし。二人でやれば、一人でやるより、なんとかなることも増えるんじゃないかしら」
「手先が器用って、あんたに分かるの」
「なんとなくよ。さっき、あの狐の置物、指で撫でてた仕草。あれ、物の扱いに慣れてる人の手つきだったから」
思いがけない指摘に、天子は少し戸惑ったように自分の手を見下ろした。そんなことを意識したことは、これまで一度もなかった。
「……よく見てるのね、あんた」
「まぁ、ね」
紫苑はそっけなくそう返したが、その口調には、どこか照れくささが滲んでいた。
天子はしばらく、川面に映る自分と紫苑の影を見つめていた。天界に帰ることを拒み、意地だけで地上に留まり続けてきた日々。その意地の果てに、こうして誰かと肩を並べる道が開けるとは、天子自身、思ってもみなかった。
「――いいわ。乗った」
天子はそう言って、立ち上がった。差し出すでもなく、ただ自然に、紫苑に向かって手を伸ばす。紫苑はその手を一瞬見つめてから、小さく笑って、自分の手を重ねた。
「――百五十五万円、一緒に返しましょう」
「言うのは簡単だけどね」
「言うのだけでも、一人よりましでしょ」
二人は、どちらからともなく笑い合った。夕暮れはすっかり夜へと変わり、川面には、里の灯りがぽつぽつと映り込み始めていた。
その灯りの一つ一つが、これから二人が探すことになる、ささやかな住処への道標のように、静かに揺れていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ようやく物語が、大きく動き始めたように思います。ここまで読んでくださった方には、感謝の気持ちでいっぱいです。
これからも更新は不定期になりますが、この作品含め、色々な形で書き続けていきたいと思っています。感想やコメントをいただけると、大変励みになります。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。