無尽長屋記   作:角筈律

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第七話をお読みいただきありがとうございます。
今回は、天子と紫苑の新しい生活の始まりを描いています。ボロい長屋での暮らしが、二人にとってどんな意味を持つのか、見届けていただければ幸いです。


第七話、壁と屋根

二人で暮らす場所を探すといっても、贅沢を言える身分ではなかった。

天子と紫苑は、里の外れを幾日かかけて歩き回った。相場を知らない天子に代わって、この手のことに慣れた紫苑が交渉の矢面に立つことが多かった。

「――ここは論外ね。壁が薄すぎる」

「ここは、大家がうるさそうな顔してたから駄目」

紫苑の見立ては、いちいち容赦がなかった。いくつもの空き家、いくつもの貸間を見て回っては、ことごとく却下されていく。天子はその都度、何が悪いのかもよく分からないまま、紫苑の後をついて歩いた。

そうして辿り着いたのが、里のさらに外れ、他の建物からも少し離れた場所にある、古い長屋だった。

傾いだ柱、剥がれかけた壁、雨漏りの跡が黒々と染み付いた天井――お世辞にも立派とは言えない佇まいだったが、それでも屋根と壁は、確かにそこにあった。

「――ここ、どうかしら」

紫苑がそう呟くと、奥から一人の女が姿を見せた。四十代も後半だろうか、白髪がちらほらと交じり始めているが、たすき掛けにした袖の下から覗く腕は、まだ十分に働き者らしい張りを保っていた。日に焼けた肌、真っ直ぐにこちらを見据える目つきに、隙のなさが滲んでいる。この長屋の大家――お滝だという。

「見ての通りのボロ屋だよ。それでもいいなら、貸してやらんこともないけどね」

お滝は二人を上から下まで、値踏みするような目で眺めた。その視線に、天子は思わずたじろいだが、紫苑は動じる様子もなく、部屋の中を見て回り始めた。

「――雨漏りは、どのくらい」

「そこの隅、あそこだけだよ。あとは大丈夫」

「柱は」

「傾いてるが、崩れるほどじゃない。もう何十年も、そのままだからね」

紫苑は天井や柱を一つ一つ確かめながら、お滝の言葉を吟味していた。天子はその様子を、少し離れたところで見ているだけだった。

「――家賃は、いくらなの」

紫苑がそう切り出すと、お滝は少し勿体ぶった様子で答えた。

「月に七千八百円。それと、入る時に敷金として、同じだけもう一月分」

その数字に、天子は思わず息を呑んだ。七千八百円。日雇い仕事で稼げる額を思えば、途方もない金額に思えた。

「――高いわね」

紫苑が眉を寄せると、お滝はふんと鼻を鳴らした。

「高いと思うなら、他を当たりな。この辺りで、この広さのボロ屋を借りようって物好きは、そうそういないよ」

「広さだけはあるけど、この傷み具合で、この値段は法外よ。せめて、七千円まで下げてもらえない」

「七千五百円。これ以上は負からないよ」

「――七千二百円」

「七千四百円。これで手を打たないなら、他所を当たっとくれ」

紫苑とお滝の間で、しばらく無言の睨み合いが続いた。天子はその緊迫したやり取りを、ただ固唾を呑んで見守っていた。

「――分かったわ。七千四百円で」

紫苑がそう頷くと、お滝は満足げに笑った。

「話が早いね、あんた。気に入ったよ」

こうして、月々七千四百円、それに加えて敷金として同額――合わせて一万四千八百円を支払うことで、二人はその長屋の一室を借りることになった。天子の懐にも、紫苑の懐にも、そんな大金があるはずもなかった。結局、二人が持ち寄れるだけの銭をかき集め、足りない分は、お滝に頭を下げて分割を頼み込むという、なんとも心許ない船出だった。

「――次の満月までに、残りは必ず払います」

紫苑が深々と頭を下げると、お滝はしばらく二人を見比べていたが、やがて小さくため息をついた。

「まあ、いいだろう。だが、約束は守ってもらうよ。守れなきゃ、即刻叩き出すからね」

その物言いは素っ気なかったが、お滝はそう言いながら、二人の身なりを一瞬、じっと見つめた。継ぎの当たった着物、痩せた頬。何か言いたげに口を開きかけたが、結局、お滝はそれ以上何も言わず、お滝は鍵を渡す前に、二人を長屋の裏手へと案内した。

「――水は、そこの井戸を使いな。この長屋の連中は、皆そこで水を汲んでる」

指差された先には、古い木枠に囲まれた井戸があった。長年使い込まれたのだろう、木枠は黒ずみ、縁のところどころが擦り減っている。それでも、しっかりと水を湛えているらしく、覗き込むと、底の方で微かに水面が揺れているのが見えた。

「洗濯も、炊事の水も、大体そこで済ませるんだよ。朝方は他の連中も使うから、混み合うこともあるけどね」

「――分かったわ」

紫苑がそう頷くと、お滝は井戸から離れ、二人を部屋の前まで案内し直した。

「――部屋は、ここだ」

お滝は懐から古びた鍵を取り出すと、それを紫苑の手に押し付けるようにして渡した。

「敷金の残りは、約束通り、次の満月までにな。それと、隣近所には、ちゃんと挨拶しときな。この辺りは、変な連中も多いが、根は悪くないよ」

それだけ言うと、お滝はくるりと踵を返し、さっさと自分の住まいの方へと戻っていった。振り返ることもなく、その足取りは、随分と忙しなかった。

「――ありがとう、ございます」

天子もつられて頭を下げた。慣れない仕草に、少しぎこちなさが残っていたが、それでも心からの礼のつもりだった。

こうして、天子と紫苑の、ボロい長屋での生活が始まった。

鍵を開け、中へ足を踏み入れた瞬間、天子はしばらくの間、言葉を失っていた。

狭く、埃っぽく、隅には蜘蛛の巣まで張っている。それでも、頭上には確かに天井があり、四方には確かに壁があった。指先で壁に触れると、ひんやりとした土壁の感触が、掌に伝わってくる。

――当たり前に、そこにある。

その当たり前さが、これほどまでに得難いものだったとは、天子はこれまで考えたこともなかった。夜露に濡れることも、地面の冷たさに震えることも、虫の音に怯えて眠れぬ夜を過ごすこともない。ただそれだけのことが、天子の胸の奥に、じんわりとした熱を広げていった。

「――壁が、ある」

天子は誰にともなく呟いた。声が、思いのほか震えていた。

隣で、紫苑は畳に手をついたまま、しばらく動かずにいた。俯いたその肩が、小さく震えているのに、天子は少し遅れて気づいた。

「――紫苑?」

声をかけると、紫苑は慌てたように顔を上げ、袖口で目元を拭った。

「な、なんでもないわよ。埃が目に入っただけ」

その言い訳が、あまりにも見え透いていた。天子は何も言わず、ただ紫苑の隣に、静かに腰を下ろした。

紫苑にとって、屋根のある場所で夜を明かすことが、どれほど久しぶりのことだったか。天子には、正確には分からなかった。ただ、これまで路地裏の莚の上で、幾度も夜を明かしてきたであろう紫苑の背中を思うと、その震える肩の意味が、なんとなく分かるような気がした。

「――寒くないって、これだけでも、大したものよね」

天子がぽつりと呟くと、紫苑は洟をすすりながら、小さく頷いた。

「……そうね。本当に、そうだわ」

二人は、しばらくその場に座り込んだまま、何をするでもなく、ただ与えられた壁と天井を、じっと見つめていた。

だが、その静かな感動も、腹の虫が鳴る音によって、あっけなく打ち破られた。

「――お腹、すいたわね」

紫苑がそう漏らすと、天子も同時に頷いた。屋根と壁は手に入れたものの、二人の懐には、それを喜ぶ余裕すら残っていなかった。家賃の支払いで、二人が持っていた銭のほとんどが、すでに消えていた。

「――何か、食べるものを」

「あるわけないでしょう、今は。何もないところから始まったのよ、私たち」

紫苑の言葉に、天子は改めて、自分たちの置かれた状況の厳しさを噛み締めた。

その日の夜、二人は結局、空きっ腹のまま床についた。翌日から、天子も紫苑も、それぞれのやり方で日銭を稼ぎに出た。天子は相変わらず不器用な人足仕事に、紫苑は物々交換や、時には拾い集めた材料での内職に。だが、どれだけ稼いでも、その銭は、あっという間に消えていった。

「――おかしいわね」

ある晩、二人分の粗末な食事――屑野菜を煮ただけの、味も薄い一皿を前にして、紫苑がふと呟いた。

「一人でやってた時より、稼ぎは増えてるはずなのに、なんで、こんなに苦しいのかしら」

「……単純な話でしょ」

天子は、自分の茶碗に残ったわずかな菜っ葉を見つめながら答えた。

「一人分の飯が、二人分になっただけよ」

その一言に、紫苑はしばらく黙り込んだ。当たり前のことのはずなのに、実際に数字として突きつけられると、その重みは、思っていた以上のものだった。

一人であれば、どれだけ切り詰めても、自分一人の口を満たせばよかった。だが、二人となれば、単純に食費は倍になる。それなのに、稼げる額は、必ずしも倍にはならない。むしろ、家賃という新たな重荷まで加わり、二人の生活は、想像していたよりもずっと厳しいものになっていた。

「――一緒に住むって、こういうことだったのね」

紫苑が、力なく笑いながらそう呟いた。天子もまた、同じように乾いた笑いを漏らした。

「今更、後悔してる?」

「……まさか。ただ、思ってたより、大変だっただけよ」

二人は、粗末な食事を、それでも黙々と口に運んだ。空腹は、まだ完全には満たされない。だが、屋根の下で、誰かと共に食事を摂れるということ自体が、これまでにはなかった、確かな支えになっていた。

その支えを頼りに、二人の慣れない共同生活は、少しずつ、その形を作り始めていた。

 




最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は少し短めでしたが、次話はこれまで以上にボリュームのある話になりそうです。新しい登場人物も控えていますので、楽しみにしていただけたら嬉しいです。
更新は引き続き不定期になりますが、気長にお付き合いいただければ幸いです。感想やコメント、励みになりますので、いつでもお待ちしています。
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