無尽長屋記   作:角筈律

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第八話をお読みいただきありがとうございます。

今回は、長屋での暮らしがどのように形になっていくか、そして新しい隣人との出会いを描いています。これまでで一番のボリュームになりました。最後まで、ゆっくりとお付き合いいただければ幸いです。


第八話、秋の隣人

長屋での暮らしは、思っていたよりも早く、日々の形を取り始めていた。

朝は井戸端での水汲みから始まる。天子が力仕事に出かけ、紫苑が内職や物々交換に精を出す。夕暮れ時には、どちらからともなく長屋へと戻り、粗末ながらも二人分の食事を分け合う。その繰り返しが、いつしか当たり前の日課になっていた。

部屋の中も、少しずつ生活の匂いを帯び始めていた。天子が骨董品屋で手に入れた品々は、売るに売れず、結局は部屋の中で、思いがけない役割を与えられていくことになった。

木彫りの狐の置物は、戸口の脇に置かれ、来客といっても、滅多に誰も訪れなかったが天子や紫苑を出迎える置物のような扱いになった。由来の分からない古びた鈴は、戸に紐で括り付けられ、開け閉めのたびに小さな音を立てる、簡易な合図代わりになった。

「――これ、案外便利ね」

紫苑が鈴の音に気づいて振り返るたび、天子はどこか誇らしげな顔をした。あれほど紫苑にガラクタと呼ばれていた品々が、こうして生活の一部に溶け込んでいく様は、無駄にしたはずの金の、せめてもの慰めのようにも思えた。

簪だけは、さすがに使い道がなく、行李の奥にしまわれたままだった。

だが、日々が形になっていくのとは裏腹に、二人を取り巻く現実は、依然として重く、そして動かなかった。

ある晩、紫苑は行李の中から、あの日以来つけ続けている帳面を取り出した。稼いだ額、使った額、そして、返済に充てられた額。細かい数字が、几帳面な字で書き連ねられている。

「――今月の返済、これだけ」

紫苑が指し示した数字は、あまりにも小さかった。天子は覗き込みながら、思わず眉を寄せた。

「これっぽっちしか、減ってないの」

「家賃と食費を差し引いたら、これが精一杯よ」

紫苑は淡々とそう答えたが、その声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。百五十五万円という総額に対して、月々返済できる額は、微々たるものだった。このままの調子でいけば、完済までに、一体何年かかるのか——紫苑はその計算を、あえて口にはしなかった。しなくても、二人とも、なんとなく察していた。

「……働いても、働いても」

天子が、ぽつりと呟いた。

「減っていく気が、しないのよねぇ」

「そうね」

紫苑は短くそう答えただけだった。二人とも、それ以上は何も言わなかった。言葉にしてしまえば、この生活の重さが、余計にのしかかってくる気がしたからだった。

それでも、翌朝になれば、二人はまた同じように起き出し、同じように働きに出た。動かない現実の中で、それでも足を止めるわけにはいかなかった。それが、この生活の、ささやかな意地のようなものだった。

その日の朝、紫苑は洗濯物を抱えて、井戸端へと向かった。

まだ薄暗い時刻だというのに、井戸のそばには、すでに先客がいた。二人の女——片方は小柄でふくよかな体つきをしており、もう片方は、それよりいくらか背が高く、どこか神経質そうな面立ちをしていた。二人は井戸の傍らに莚を広げ、何か細かい作業をしているようだった。

「――あら、おはよう」

小柄な方の女が、紫苑に気づいて声をかけてきた。人懐こい笑顔だった。

「おはよう、ございます」

紫苑は少し戸惑いながらも、会釈を返した。

「見ない顔ね。もしかして、隣に越してきた人?」

「ええ、まあ」

「あら、じゃあご近所さんね!あたし、穣子。こっちは姉の静葉」

穣子と名乗った女は、屈託のない笑みを浮かべた。隣に座る静葉は、軽く会釈を返しただけで、視線はすぐに手元の作業へと戻っていった。

「何をしているの」

紫苑が莚の上に広げられたものを覗き込むと、それは、木の実や落ち葉を使った、簡単な細工物だった。小さな籠や、髪飾りのようなものが、いくつも並んでいる。

「内職よ。これでも、細々と生計を立ててるの」

「季節外れの品ばかりだけどね」

静葉が、ぼそりと口を挟んだ。その声には、どこか苦い自嘲が滲んでいた。

「…季節外れ?」

「私たち、本来は秋の実りを司る神様なのよ。でも、見ての通り、秋にならないと本領を発揮できないの」

穣子が、あっけらかんとした調子でそう説明した。あまりにも軽い口調だったので、紫苑は一瞬、聞き間違えたのかと思った。

「神様なの?」

「そうよ。信じてもらえないことも多いけどね」

「近年は、秋自体が短くなってて」

静葉が、手元の作業を続けながら、ぼそぼそと付け加えた。

「秋が短ければ、仕事も減る。仕事が減れば、収入も減る。単純な理屈よ」

「だから、こうして年がら年中、内職で食い繋いでるってわけ」

穣子はそう言って、肩をすくめてみせた。その仕草には、深刻さよりも、どこか達観したような、乾いた明るさがあった。

「大変なのね」

紫苑がそう呟くと、穣子は笑って首を振った。

「まあね。でも、こうして生きてるだけ、まだましよ。姉さんなんて、去年の今頃は、もっと酷かったんだから」

「穣子」

静葉が、咎めるような声を上げたが、穣子はどこ吹く風で笑っていた。その姉妹のやり取りに、紫苑は思わず、小さく笑みを漏らした。

「――私は紫苑。よろしく」

「紫苑ね。よろしく、紫苑さん」

穣子は、屈託のない笑顔で頷いた。静葉もまた、ちらりとこちらを見て、小さく会釈を返した。

こうして、隣人としての付き合いが、あっさりと始まった。神様でありながら、秋にしか本領を発揮できず、それ以外の季節は、人間と変わらぬ貧しさの中で生きている――そんな姉妹の在り方は、どこか、天子や紫苑自身の境遇とも、重なるところがあるように思えた。

「お一人で越してきたの?」

穣子がふと、そう尋ねた。紫苑は少し迷ってから答えた。

「いえ、二人よ。天子っていう、連れがいるの」

「天子さん。変わった響きの名前ね」

「まあ、色々と変わった人ではあるわね」

紫苑は苦笑しながらそう答えた。穣子はその返答に、興味深そうに目を輝かせた。

「今度、紹介してよ。どんな人か気になるもの」

「そのうち、ね」

紫苑が洗濯物を抱えて井戸端に留まっているうちに、天子もまた、水を汲みに姿を現した。

「――あら、もしかして、さっき話に出てた天子さん?」

穣子が気安く声をかけると、天子は少し面食らったような顔をした。

「……そうだけど、あんたたちは」

「隣に住んでる、秋の姉妹よ。あたしが穣子、こっちが姉の静葉」

「秋の……姉妹?」

天子が怪訝そうに首を傾げると、紫苑が横から簡単に説明を挟んだ。

「季節の神様なんですって。それも、秋にしか仕事がないっていう」

「――へえ。それはまた、随分と偏った職業ね」

天子の率直な物言いに、穣子はけらけらと笑った。

「よく言われるわ。でも、仕方ないのよ。うちらの力が及ぶのは、実りの季節だけだもの」

「実りって言っても、最近はとんと縁がないけどね」

静葉が、手元の内職を続けながら、ぼそりと呟いた。その口調には、諦めにも似た乾いた響きがあった。

それから、四人は井戸端に腰を下ろしたまま、しばらく他愛のない話に花を咲かせた。この里の物価がどれだけ上がったか、どの露店が安くて質がいいか、近頃話題になっている珍しい妖怪騒動のこと。誰かが何かを言えば、誰かがそれに茶々を入れ、また誰かが笑う。特別な話題があったわけではなかったが、それでも、こうして誰かと言葉を交わす時間そのものが、四人にとって、ささやかな息抜きになっていた。

「――そういえば、天子さんたちも、大変そうね。見るからに、切り詰めてる感じがするもの」

穣子がふと、そんなことを言った。天子は一瞬、どう答えたものか迷うような顔をしたが、結局は素直に頷いた。

「まあね。色々あって、結構な額の借金抱えてるのよ」

「あらら、それは大変ね」

「うちらだって、似たようなものよ。秋が短くなる一方で、こっちの懐も年々厳しくなる一方だもの」

静葉がそう言うと、穣子は苦笑しながら頷いた。

「本当よね。……まあ、お互い、無理せずやっていきましょ」

その一言に、紫苑は小さく頷いた。天子もまた、何も言わずに頷き返した。誰かと苦労を分かち合えるというだけで、その重さが、ほんの少しだけ軽くなるような気がした。

やがて日も高くなり、それぞれの用事を思い出したのか、四人は自然と解散する流れになった。

「――また、何かあったら声かけてね」

穣子がそう言って手を振るのに、天子と紫苑は会釈を返し、桶いっぱいの水を抱えて、自分たちの部屋へと戻っていった。

部屋に戻った紫苑は、水桶を置くと、早々に内職の続きに取り掛かった。この数日、紫苑が請け負っていたのは、傘の骨に油紙を張る作業だった。細かく、根気のいる仕事だったが、単価はそれなりに良かった。

「今日中に、あと五本は仕上げないと」

紫苑はそう呟きながら、手早く油紙を骨に沿わせていく。天子は隅の方で、洗濯物を軒先に干しながら、その様子を眺めていた。

しばらく作業を続けていた紫苑の手が、ふと止まった。

傘を包んでいた古新聞、内職の材料の一部として、行商から纏めて譲り受けたものだった新聞の紙面に、目が留まったのだった。紙面には、ここ数年の不作を伝える記事が、大きく組まれていた。

「――米が、また値上がりするって」

紫苑が、掠れた声でそう呟いた。天子は洗濯物を干す手を止め、紫苑の傍らに歩み寄った。

「何、それ」

「見て。ここ数年、不作続きなんですって。それで、米だけじゃなくて、野菜も軒並み値上がりするだろうって書いてある」

天子は新聞を覗き込み、その記事を目で追った。専門的な言葉が並んでいたが、書かれていることの意味は、天子にも十分に伝わった。

「…これって」

「野菜屑を貰えることも、少なくなるかもしれないってことよ。今までみたいに、店の裏手に捨てられてる切れ端で食い繋ぐの、これから先は難しくなるかも」

紫苑の声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。天子は言葉を失ったまま、しばらく新聞の文字を見つめていた。

「はぁ……」

深いため息が、天子の口から漏れた。ただでさえ厳しい生活が、これ以上に厳しくなる。その見通しに、天子の胸の中に、重い澱のようなものが沈んでいった。

「紫苑。今月の、家賃の分は」

天子がふと、それを思い出したように尋ねた。紫苑は帳面をめくり、これまでの稼ぎと出費を、もう一度確かめ直した。

「……足りない。全然、足りないわ」

紫苑の声が、震えていた。

「今の稼ぎのペースだと、家賃の半分にも届かない。このままだと、残り二週間で、払いきれない」

「…払えなかったら」

「決まってるでしょう。追い出されるのよ。またあの、路地裏の莚に逆戻り」

その言葉に、天子は思わず息を呑んだ。ようやく手に入れた壁と屋根。あの夜、震えながら喜び合った、あの感覚を、また失うかもしれない。その恐怖が、二人の間に、重くのしかかった。

部屋の中に、しばらく重い沈黙が満ちた。

「どうする?」

天子が、絞り出すように尋ねた。紫苑は帳面を見つめたまま、しばらく考え込んでいたが、やがて、静かに口を開いた。

「食べる量を、減らすしかないでしょうね」

「減らすって、これ以上」

「回数も、量も。今までよりずっと、切り詰めるのよ。それで浮いた分を、家賃に回す」

紫苑の提案は、あまりにも切実で、あまりにも現実的だった。天子はしばらく黙り込んでいたが、やがて、覚悟を決めたように頷いた。

「分かったわ。やるしかないなら、やるわ」

「……ごめんね。こんな生活に、付き合わせて」

紫苑がぽつりと零したその言葉に、天子は首を振った。

「今更、謝ることじゃないでしょ。一緒にやるって決めたのは、私も同じだもの」

二人は、それ以上多くを語らなかった。ただ、その日から、食事の量は目に見えて減っていった。一日二食だったものが一食になり、器に盛られる量も、少しずつ、しかし確実に減っていった。

空腹はいつも、二人の傍らにあった。以前よりも、ずっと近くに。

 

それから四日が過ぎた、ある朝のことだった。

空腹で目が覚めるのが、すっかり当たり前になっていた。天子も紫苑も、腹の虫の音で顔を見合わせては、力なく笑い合う。そんな日々が続いていた。

「水、汲んでくるわ」

紫苑がそう言って、桶を手に部屋を出た。天子もその後をついていく。何をするでもなく、ただ一緒にいることが、この頃の二人にとって、自然なことになっていた。

井戸端に着くと、紫苑は縄を手繰り、桶を井戸の底へと下ろしていった。水面に桶が触れる音、それから、水を汲み上げる重みが、縄を通して手に伝わってくる。紫苑は慣れた手つきで、桶を引き上げていった。

地上に引き上げられた桶の中を、何気なく覗き込んだ瞬間、紫苑の動きが、ふと止まった。

「――あら」

「どうしたの」

天子が横から覗き込むと、桶の水の中で、何か小さなものが、きらりと光った。

それは、一匹の魚だった。

金魚のような緋色の鱗を纏っているのに、体の大きさは、指の先ほどしかない。天子も紫苑も、こんな魚を見たことがなかった。井戸の底から、一体どうやって紛れ込んだのか、見当もつかなかった。

「――なんで、井戸に魚が」

紫苑が呟くと、天子は興味深そうに桶の中を覗き込んだ。

「知らないわよ。でも、面白い色してるじゃない」

二人は、しばらく無言で、桶の中を泳ぐ小さな魚を見つめていた。狭い水の中を、その魚は臆する様子もなく、右へ左へと、気ままに泳ぎ回っている。

ふと、天子の腹が、大きな音を立てて鳴った。紫苑の腹も、それに応えるように鳴った。二人は思わず顔を見合わせた。

「――これ」

「食べられる、かしら」

どちらからともなく、そんな言葉が漏れた。空腹の底にいる二人にとって、目の前の小さな命は、まず何よりも、食料として映った。それは、責められるべき感情ではなかった。ただ、それだけ二人が、追い詰められていたというだけのことだった。

だが、天子はしばらく桶の中を見つめた後、なぜか手を伸ばすことができなかった。紫苑もまた、同じように、じっと魚を見つめたまま、動かずにいた。

「――今は、無理でしょ」

紫苑が、ぽつりと呟いた。

「調味料もないし、これだけじゃ、腹の足しにもならないだろうし」

「……そうね」

天子も、それ以上は何も言わなかった。理由は、それだけではないような気もしたが、二人とも、あえてそれを言葉にはしなかった。

紫苑は懐から、路地裏時代から手放さずにいた、あのボロい茶碗を取り出した。欠けた縁が、朝の光を受けて、微かに光っている。紫苑はその茶碗に井戸の水を汲み、そっと魚を移し替えた。

「――とりあえず、持って帰りましょう」

「そうね」

二人は、桶と茶碗を抱えて、部屋へと戻っていった。狭い茶碗の中で、小さな魚は、変わらず気ままに泳ぎ続けていた。

それから、幾日が過ぎても、その魚は死ぬことなく、茶碗の中で泳ぎ続けた。食べるタイミングを、二人はいつしか、完全に逃していた。名前をつけるでもなく、ただそこにいることが当たり前になったその魚を、天子も紫苑も、いつからか、無言のまま、見守るようになっていた。

――欠けた縁が、光の加減で三日月のように見える茶碗だった。

その中を、狭い水の中を、一匹の魚が、今日もまた、気ままに泳いでいる。




最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

ようやく、物語が「今」に追いつきました。第一話冒頭のあの場面に、ここまで長い道のりがあったのだと、書いている自分自身も、感慨深いものがあります。ここまで見守ってくださった皆様には、心から感謝申し上げます。

実はこの作品と並行して、裏でもう一つ、超長編の小説を連載する準備を進めています。目指すは千万文字超え。とんでもない目標ではありますが、いつか形にできたらと思っています。そちらもいずれ、皆様のお目にかかれる日が来ればと思っております。

引き続き、更新は不定期になりますが、気長にお付き合いいただければ幸いです。感想やコメント、大変励みになりますので、いつでもお待ちしております。
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