お待たせしてしまい、申し訳ありません。今回は、ようやく新しいキャラクターの登場となります。よろしければ、最後までお付き合いいただければ幸いです。
あの魚を見つけた日のことを、天子は時折思い返す。
井戸から引き上げた桶の中、きらりと光った小さな緋色の鱗。あの朝、天子と紫苑は、空腹の底で、あの魚を前にして、しばらく言葉を失っていた。
結局、天子はあの魚に、手をかけることができなかった。
「――こんなに小さいんじゃ、どうせ腹の足しにもならないでしょ」
天子がそう言い訳がましく呟くと、紫苑も異論を挟まなかった。
「それに、まともに調理する手立てもないしね。塩もないし、火にかけたところで、何ができるってわけでもないし」
二人の言い分は、どちらも道理には適っていた。だが、その道理の裏には、口にはしない別の感情が、確かに横たわっていた。狭い椀の中を、健気に泳ぎ続けるその小さな命を、これ以上見過ごすことが、二人にはできなかった。
「――じゃあ、しばらく飼っておく、ってことで」
「そうね。餌くらいなら、なんとかなるでしょう」
こうして、名前もつけられないまま、その魚は長屋の片隅で、飼われることになった。米粒を数粒、時折落としてやるだけで、魚は変わらず元気に泳ぎ続けた。天子が餌をやる日もあれば、紫苑が思い出したように水を替える日もあった。誰が決めたわけでもなく、二人の間で、いつしかそれが日課の一つとして根付いていった。
そうこうしているうちに、最初の家賃の支払日が近づいてきた。
二人は、切り詰められるだけ切り詰めた生活の中で、なんとか銭をかき集めていた。だが、家賃の総額――七千四百円には、どうしても届かなかった。
「――足りないわね」
紫苑が帳面を睨みながら、深いため息をついた。用意できたのは、その半分にも満たない額だった。
「どうする。このまま、足りないまま持っていくの」
「他に、手立てもないでしょう」
紫苑はそう答えながらも、その声には、明らかな不安が滲んでいた。約束を違えれば、即刻叩き出す――お滝は、確かにそう言っていた。あの言葉が、二人の頭の中で、重く反響していた。
それでも、支払日を先延ばしにするわけにはいかなかった。二人は、なけなしの銭を握りしめ、お滝の住まいへと向かった。
「――すみません。今月の家賃、なんですけど」
紫苑が切り出すと、お滝は片眉を上げ、差し出された銭を一瞥した。数えるまでもなく、その額が足りていないことは、一目瞭然だった。
「――これっぽっちかい」
お滝の声には、明らかな不満が滲んでいた。天子は思わず身を縮めた。
「――すみません。どうしても、これだけしか」
紫苑は深々と頭を下げた。
「今月は色々と重なってしまって……ですが、必ず、来月には埋め合わせますから」
お滝はしばらく、二人の顔を、値踏みするようにじっと見つめていた。継ぎの当たった着物、痩せた頬。二人が、決して怠けてこの額しか用意できなかったわけではないことは、その様子を見れば、お滝にも分かるようだった。
「――まったく、しょうがないね」
お滝は深くため息をつき、それでも、差し出された銭を受け取った。
「今回だけだよ。次も同じことをしたら、本当に容赦しないからね」
「――ありがとう、ございます」
紫苑と天子は、同時に頭を下げた。お滝はそれ以上何も言わず、くるりと踵を返して、自分の住まいへと戻っていった。
その背中を見送りながら、天子は小さく息を吐いた。
「――なんとか、なったわね」
「なんとか、ね。来月はもっと厳しいでしょうけど」
紫苑の言葉に、天子は苦笑を返すしかなかった。それでも、今回だけは、なんとか乗り越えることができた。その事実だけが、二人にとって、ささやかな救いだった。
それから数日が過ぎた、ある昼下がりのことだった。
長屋の戸口に吊るされた、あの由来の分からない古びた鈴が、けたたましい音を立てた。誰かが、乱暴に戸を叩いたのだった。
「――邪魔するぞ」
低く、それでいてどこか陰気な声が、戸の向こうから響いた。天子と紫苑は、思わず顔を見合わせた。
戸を開けると、そこに立っていたのは、見慣れない女だった。
黒々とした髪に、どこか薄暗い雰囲気を纏った出で立ち。目つきは鋭く、その視線を向けられただけで、思わず身が竦むような迫力があった。腰には、帳面らしきものを挟んでいる。
「取り立てに来た。無尽の一件、聞いてるな」
女は前置きもなく、そう切り出した。天子と紫苑は、揃って身構えた。
「――あんた、誰よ」
天子が警戒しながら問うと、女はふん、と小さく鼻を鳴らした。
「黒谷ヤマメ。この一件の、取り立てを任されてる者だ」
ヤマメと名乗ったその女は、懐から帳面を取り出し、二人の名を確かめるように目を落とした。
「――比那名居天子と、依神紫苑。間違いないな」
「そうだけど」
「今月分の支払い、聞こうか」
ヤマメの物言いは、素っ気なく、どこか事務的だった。紫苑は少し身構えながらも、帳面を取り出し、これまで積み立てた返済分を差し出した。
「――これだけです。今月、用意できたのは」
ヤマメはその額を一瞥し、帳面と照らし合わせた。しばらくの沈黙の後、小さく息を吐いた。
「……まあ、いいだろう。少なくとも、逃げも隠れもしてないだけ、上等な部類だ」
その物言いに、天子は少し拍子抜けしたような顔をした。もっと居丈高に責め立てられるものだと、身構えていたのだった。
「――あんた、思ったより、まともね」
「まともも何も、仕事だからな。無闇に脅したところで、払えるもんが増えるわけでもない」
ヤマメはそう言いながら、帳面に何かを書き付けていった。その手つきは、淡々としていたが、どこか手慣れた様子でもあった。
「――次の取り立ては、来月の同じ頃だ。それまでに、また用意しておけ」
「分かったわ」
紫苑がそう頷くと、ヤマメは帳面を懐にしまい、踵を返そうとした。だが、その途中で、ふと足を止めた。
視線の先には、部屋の隅に置かれた、あの欠けた茶碗があった。中を、小さな魚が、気ままに泳いでいる。
「――なんだ、それは」
「え?ああ、これは……」
紫苑が言い淀んでいると、ヤマメは少し身を屈め、茶碗の中を覗き込んだ。
「――随分と、変わった魚を飼ってるもんだな」
「井戸で見つけて。まあ、成り行きで」
「ふん」
ヤマメはそれだけ言うと、興味を失ったように視線を逸らした。だが、その一瞬、天子は見逃さなかった。ヤマメの視線が、茶碗だけでなく、部屋の中の様子――粗末な調度、乏しい食料の気配――を、素早く一巡していたことに。
それが何を意味するのか、天子にはまだ、分からなかった。ヤマメはそれ以上何も言わず、そのまま戸口をくぐって、去っていった。
戸が閉まると同時に、鈴が、名残惜しそうな音を立てた。
「――なんか、変な人ね」
天子がぽつりと呟くと、紫苑も同意するように頷いた。
「取り立て屋にしては、随分とあっさりしてたけど」
「まあ、仕事だから仕方ない、ってさっき言ってたし」
二人は、それ以上その話を続けることはなかった。ただ、ヤマメが去っていった戸口の方を、しばらくぼんやりと見つめていた。
ヤマメが去った後、二人は畳の上に、どちらからともなく寝転がった。座っているだけでも、腹の底から力が抜けていくような気がした。
「――来月、どうしよう」
天井を見上げたまま、紫苑がぽつりと漏らした。
「今月ですら、半分しか払えなかったのよ。来月は、その分も上乗せして払わないといけない。このままじゃ、本当に追い出されるわ」
天子は、横になったまま、じっとその言葉を聞いていた。返す言葉が、すぐには見つからなかった。
しばらくの沈黙の後、天子の腹が、大きな音を立てて鳴った。狭い部屋の中に、その音は、やけに大きく響いた。
「……っ」
天子は思わず顔を赤くして、腹の辺りを押さえた。
「べ、別に、今のは」
「聞こえてるわよ、普通に」
紫苑が横目でちらりと見やると、天子はますます決まりが悪そうに視線を逸らした。
「――あんたも、鳴ってるくせに」
「それは、お互い様でしょう」
紫苑の腹も、つられたように小さく音を立てた。二人は、しばらく気まずい沈黙の後、どちらからともなく、力なく笑い合った。
「――ねえ。ちゃんと、数字で考えましょう」
紫苑が、天井を見つめたまま、そう切り出した。
「人足の仕事で、一日どのくらい稼げてるの」
「……良くて、二百円くらい。仕事にあぶれる日も多いし、平均したら、もっと少ないでしょうね」
天子は、正直にそう答えた。それは、決して誇れる額ではなかった。
「私は、内職と物々交換で、大体一日二百円から三百円ってところね。でも、日によって、かなり波がある」
紫苑もまた、淡々と数字を挙げた。二人分を合わせても、家賃と食費、そして無尽の返済分を賄うには、あまりにも心許ない額だった。
「――このままじゃ、駄目ね」
紫苑が、静かにそう結論づけた。
「もっと、稼ぎを安定させる方法を、考えないと」
「店で働く、とかは」
天子がふと思いついたように言うと、紫苑は小さく首を振った。
「無理よ、それは」
「…なんで?」
「私、貧乏神なのよ。雇う側からしたら、縁起が悪い。店先に立たせるなんて、まず誰もやりたがらないわ」
紫苑の声には、諦めにも似た乾いた響きがあった。それは、これまで何度も味わってきた拒絶の記憶が、そのまま滲み出たような言葉だった。
「――じゃあ、私だけでも」
「あんたは、あんたで、体が持たないでしょう」
紫苑の指摘に、天子は言葉を詰まらせた。人足仕事での不甲斐なさを、天子自身、嫌というほど思い知っていた。毎日、同じように力仕事に出て、まともに稼げる日は少なく、疲労だけが蓄積していく。この体で、これ以上無理を重ねれば、いずれ倒れてしまうことは、目に見えていた。
「――だったら、どうすればいいのよ」
天子が、半ば投げやりに問うと、紫苑はしばらく考え込んだ後、静かに答えた。
「内職よ。二人で、内職に力を入れましょう」
「内職……」
「体力がなくても、できる仕事だもの。店先に立つ必要もない。私が請け負ってる傘張りの仕事、あんたも一緒にやれば、数はこなせるはずよ」
紫苑の提案に、天子はしばらく黙り込んでいた。だが、他に良い案があるわけでもなかった。
「――分かったわ。やってみる」
天子がそう頷くと、紫苑は小さく頷き返した。
「明日から、二人で本腰入れてやりましょう。これしか、道はなさそうだから」
空腹を抱えたまま、二人はしばらく、畳の上に寝転がったまま、天井を見つめ続けていた。ささやかな方針が定まったことだけが、今の二人にとって、唯一の前進だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回、更新までにかなり時間が空いてしまいました。生活が忙しく、なかなか書く時間が取れなかったのが正直なところです。
こうして連載という形で作品を書いていくなら、ある程度話数をストックしておくべきだったなと、今更ながら反省しています。今後は、その点も意識しながら書いていければと思います。
引き続き、更新は不定期になりますが、気長にお付き合いいただければ幸いです。感想やコメント、いつでも励みになります。