無尽長屋記   作:角筈律

9 / 9
第九話をお読みいただきありがとうございます。

お待たせしてしまい、申し訳ありません。今回は、ようやく新しいキャラクターの登場となります。よろしければ、最後までお付き合いいただければ幸いです。


第九話、取り立て

あの魚を見つけた日のことを、天子は時折思い返す。

井戸から引き上げた桶の中、きらりと光った小さな緋色の鱗。あの朝、天子と紫苑は、空腹の底で、あの魚を前にして、しばらく言葉を失っていた。

結局、天子はあの魚に、手をかけることができなかった。

「――こんなに小さいんじゃ、どうせ腹の足しにもならないでしょ」

 天子がそう言い訳がましく呟くと、紫苑も異論を挟まなかった。

「それに、まともに調理する手立てもないしね。塩もないし、火にかけたところで、何ができるってわけでもないし」

 二人の言い分は、どちらも道理には適っていた。だが、その道理の裏には、口にはしない別の感情が、確かに横たわっていた。狭い椀の中を、健気に泳ぎ続けるその小さな命を、これ以上見過ごすことが、二人にはできなかった。

「――じゃあ、しばらく飼っておく、ってことで」

「そうね。餌くらいなら、なんとかなるでしょう」

 こうして、名前もつけられないまま、その魚は長屋の片隅で、飼われることになった。米粒を数粒、時折落としてやるだけで、魚は変わらず元気に泳ぎ続けた。天子が餌をやる日もあれば、紫苑が思い出したように水を替える日もあった。誰が決めたわけでもなく、二人の間で、いつしかそれが日課の一つとして根付いていった。

 そうこうしているうちに、最初の家賃の支払日が近づいてきた。

 二人は、切り詰められるだけ切り詰めた生活の中で、なんとか銭をかき集めていた。だが、家賃の総額――七千四百円には、どうしても届かなかった。

「――足りないわね」

 紫苑が帳面を睨みながら、深いため息をついた。用意できたのは、その半分にも満たない額だった。

「どうする。このまま、足りないまま持っていくの」

「他に、手立てもないでしょう」

 紫苑はそう答えながらも、その声には、明らかな不安が滲んでいた。約束を違えれば、即刻叩き出す――お滝は、確かにそう言っていた。あの言葉が、二人の頭の中で、重く反響していた。

 それでも、支払日を先延ばしにするわけにはいかなかった。二人は、なけなしの銭を握りしめ、お滝の住まいへと向かった。

「――すみません。今月の家賃、なんですけど」

 紫苑が切り出すと、お滝は片眉を上げ、差し出された銭を一瞥した。数えるまでもなく、その額が足りていないことは、一目瞭然だった。

「――これっぽっちかい」

 お滝の声には、明らかな不満が滲んでいた。天子は思わず身を縮めた。

「――すみません。どうしても、これだけしか」

 紫苑は深々と頭を下げた。

「今月は色々と重なってしまって……ですが、必ず、来月には埋め合わせますから」

 お滝はしばらく、二人の顔を、値踏みするようにじっと見つめていた。継ぎの当たった着物、痩せた頬。二人が、決して怠けてこの額しか用意できなかったわけではないことは、その様子を見れば、お滝にも分かるようだった。

「――まったく、しょうがないね」

 お滝は深くため息をつき、それでも、差し出された銭を受け取った。

「今回だけだよ。次も同じことをしたら、本当に容赦しないからね」

「――ありがとう、ございます」

 紫苑と天子は、同時に頭を下げた。お滝はそれ以上何も言わず、くるりと踵を返して、自分の住まいへと戻っていった。

 その背中を見送りながら、天子は小さく息を吐いた。

「――なんとか、なったわね」

「なんとか、ね。来月はもっと厳しいでしょうけど」

 紫苑の言葉に、天子は苦笑を返すしかなかった。それでも、今回だけは、なんとか乗り越えることができた。その事実だけが、二人にとって、ささやかな救いだった。

 それから数日が過ぎた、ある昼下がりのことだった。

 長屋の戸口に吊るされた、あの由来の分からない古びた鈴が、けたたましい音を立てた。誰かが、乱暴に戸を叩いたのだった。

「――邪魔するぞ」

 低く、それでいてどこか陰気な声が、戸の向こうから響いた。天子と紫苑は、思わず顔を見合わせた。

戸を開けると、そこに立っていたのは、見慣れない女だった。

黒々とした髪に、どこか薄暗い雰囲気を纏った出で立ち。目つきは鋭く、その視線を向けられただけで、思わず身が竦むような迫力があった。腰には、帳面らしきものを挟んでいる。

「取り立てに来た。無尽の一件、聞いてるな」

女は前置きもなく、そう切り出した。天子と紫苑は、揃って身構えた。

「――あんた、誰よ」

天子が警戒しながら問うと、女はふん、と小さく鼻を鳴らした。

「黒谷ヤマメ。この一件の、取り立てを任されてる者だ」

ヤマメと名乗ったその女は、懐から帳面を取り出し、二人の名を確かめるように目を落とした。

「――比那名居天子と、依神紫苑。間違いないな」

「そうだけど」

「今月分の支払い、聞こうか」

ヤマメの物言いは、素っ気なく、どこか事務的だった。紫苑は少し身構えながらも、帳面を取り出し、これまで積み立てた返済分を差し出した。

「――これだけです。今月、用意できたのは」

ヤマメはその額を一瞥し、帳面と照らし合わせた。しばらくの沈黙の後、小さく息を吐いた。

「……まあ、いいだろう。少なくとも、逃げも隠れもしてないだけ、上等な部類だ」

その物言いに、天子は少し拍子抜けしたような顔をした。もっと居丈高に責め立てられるものだと、身構えていたのだった。

「――あんた、思ったより、まともね」

「まともも何も、仕事だからな。無闇に脅したところで、払えるもんが増えるわけでもない」

ヤマメはそう言いながら、帳面に何かを書き付けていった。その手つきは、淡々としていたが、どこか手慣れた様子でもあった。

「――次の取り立ては、来月の同じ頃だ。それまでに、また用意しておけ」

「分かったわ」

紫苑がそう頷くと、ヤマメは帳面を懐にしまい、踵を返そうとした。だが、その途中で、ふと足を止めた。

視線の先には、部屋の隅に置かれた、あの欠けた茶碗があった。中を、小さな魚が、気ままに泳いでいる。

「――なんだ、それは」

「え?ああ、これは……」

紫苑が言い淀んでいると、ヤマメは少し身を屈め、茶碗の中を覗き込んだ。

「――随分と、変わった魚を飼ってるもんだな」

「井戸で見つけて。まあ、成り行きで」

「ふん」

ヤマメはそれだけ言うと、興味を失ったように視線を逸らした。だが、その一瞬、天子は見逃さなかった。ヤマメの視線が、茶碗だけでなく、部屋の中の様子――粗末な調度、乏しい食料の気配――を、素早く一巡していたことに。

それが何を意味するのか、天子にはまだ、分からなかった。ヤマメはそれ以上何も言わず、そのまま戸口をくぐって、去っていった。

戸が閉まると同時に、鈴が、名残惜しそうな音を立てた。

「――なんか、変な人ね」

天子がぽつりと呟くと、紫苑も同意するように頷いた。

「取り立て屋にしては、随分とあっさりしてたけど」

「まあ、仕事だから仕方ない、ってさっき言ってたし」

二人は、それ以上その話を続けることはなかった。ただ、ヤマメが去っていった戸口の方を、しばらくぼんやりと見つめていた。

ヤマメが去った後、二人は畳の上に、どちらからともなく寝転がった。座っているだけでも、腹の底から力が抜けていくような気がした。

「――来月、どうしよう」

天井を見上げたまま、紫苑がぽつりと漏らした。

「今月ですら、半分しか払えなかったのよ。来月は、その分も上乗せして払わないといけない。このままじゃ、本当に追い出されるわ」

天子は、横になったまま、じっとその言葉を聞いていた。返す言葉が、すぐには見つからなかった。

しばらくの沈黙の後、天子の腹が、大きな音を立てて鳴った。狭い部屋の中に、その音は、やけに大きく響いた。

「……っ」

天子は思わず顔を赤くして、腹の辺りを押さえた。

「べ、別に、今のは」

「聞こえてるわよ、普通に」

紫苑が横目でちらりと見やると、天子はますます決まりが悪そうに視線を逸らした。

「――あんたも、鳴ってるくせに」

「それは、お互い様でしょう」

紫苑の腹も、つられたように小さく音を立てた。二人は、しばらく気まずい沈黙の後、どちらからともなく、力なく笑い合った。

「――ねえ。ちゃんと、数字で考えましょう」

紫苑が、天井を見つめたまま、そう切り出した。

「人足の仕事で、一日どのくらい稼げてるの」

「……良くて、二百円くらい。仕事にあぶれる日も多いし、平均したら、もっと少ないでしょうね」

天子は、正直にそう答えた。それは、決して誇れる額ではなかった。

「私は、内職と物々交換で、大体一日二百円から三百円ってところね。でも、日によって、かなり波がある」

紫苑もまた、淡々と数字を挙げた。二人分を合わせても、家賃と食費、そして無尽の返済分を賄うには、あまりにも心許ない額だった。

「――このままじゃ、駄目ね」

紫苑が、静かにそう結論づけた。

「もっと、稼ぎを安定させる方法を、考えないと」

「店で働く、とかは」

天子がふと思いついたように言うと、紫苑は小さく首を振った。

「無理よ、それは」

「…なんで?」

「私、貧乏神なのよ。雇う側からしたら、縁起が悪い。店先に立たせるなんて、まず誰もやりたがらないわ」

紫苑の声には、諦めにも似た乾いた響きがあった。それは、これまで何度も味わってきた拒絶の記憶が、そのまま滲み出たような言葉だった。

「――じゃあ、私だけでも」

「あんたは、あんたで、体が持たないでしょう」

紫苑の指摘に、天子は言葉を詰まらせた。人足仕事での不甲斐なさを、天子自身、嫌というほど思い知っていた。毎日、同じように力仕事に出て、まともに稼げる日は少なく、疲労だけが蓄積していく。この体で、これ以上無理を重ねれば、いずれ倒れてしまうことは、目に見えていた。

「――だったら、どうすればいいのよ」

天子が、半ば投げやりに問うと、紫苑はしばらく考え込んだ後、静かに答えた。

「内職よ。二人で、内職に力を入れましょう」

「内職……」

「体力がなくても、できる仕事だもの。店先に立つ必要もない。私が請け負ってる傘張りの仕事、あんたも一緒にやれば、数はこなせるはずよ」

紫苑の提案に、天子はしばらく黙り込んでいた。だが、他に良い案があるわけでもなかった。

「――分かったわ。やってみる」

天子がそう頷くと、紫苑は小さく頷き返した。

「明日から、二人で本腰入れてやりましょう。これしか、道はなさそうだから」

空腹を抱えたまま、二人はしばらく、畳の上に寝転がったまま、天井を見つめ続けていた。ささやかな方針が定まったことだけが、今の二人にとって、唯一の前進だった。




最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

今回、更新までにかなり時間が空いてしまいました。生活が忙しく、なかなか書く時間が取れなかったのが正直なところです。

こうして連載という形で作品を書いていくなら、ある程度話数をストックしておくべきだったなと、今更ながら反省しています。今後は、その点も意識しながら書いていければと思います。

引き続き、更新は不定期になりますが、気長にお付き合いいただければ幸いです。感想やコメント、いつでも励みになります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。