「ふわぁ~…疲れたな…」
深夜のシャーレオフィス。そこで相変わらず遅くまで仕事をしていた先生は一度パソコンの画面から目を離し、大きく伸びをした。机の上には、連邦生徒会から絶えず送られて来る大量の書類と、連日のデスクワークを支える相棒であるエナジードリンクの空き缶と、割り箸が入ったままのカップラーメンの空容器が無造作に転がっている。生徒が当番として来てくれる昼間には決して見られない景色だ。
「っと、そろそろ時間だ。えっと、オンライン会議用のURLがあるメールは、っと…」
壁の時計を見て予定の時間が迫っていることを確かめた先生は、机に溜まった書類とゴミを両腕で押し退け、今日の昼にヒマリから送られて来たメールを開いた。
添付されたURLをクリックし、指定のアドレスとパスワードを入力する。暫くして画面が切り替わり、特異現象捜査部の部室を背景にしたヒマリが現れた。
「こんばんは、ヒマリ。夜遅くにごめんね」
『それを言うべきなのは私の方ですよ、先生。多忙を極める中でも時間を作って頂き、本当にありがとうございます。ゲヘナとトリニティの和平協定、エデン条約。シャーレとして、その調印に向けた数多の調整業務に携わる先生の心労は、察するに余りあります。氷海での調査に同行して頂いた手前でこんなことを言うのは大変おこがましいのですが、それでもどうか、体調にはお気をつけ下さいね』
「ふふっ、どうしたのヒマリ?そんなに改まっちゃって」
かしこまった態度で喋るヒマリを揶揄うようにして笑う先生。しかしそんな態度を見せつつも、「エデン条約」という単語がヒマリの口から出た瞬間、先生はパソコンのカメラからは見えない位置にある4枚の答案用紙に、自然と手が伸びていた。
『おや、改まってなどいませんよ。今のは紛れも無い私の本心。親しき中にも礼儀あり、という言葉を先生もご存知でしょう?』
「そっかそっか、失礼なこと言ってごめんね。お気遣い感謝します」
先生は画面越しのヒマリに小さく頭を下げた。
「そしたらちゃちゃっと終わらせちゃおうか。夜更かしは美容に良くないって言うしね」
『えぇ、そう致しましょう』
先生の冗談を軽く受け流したヒマリは画面共有機能を起動する。先生のパソコンに、氷海での戦闘を記録した画像や各データが幾つも表示された。
『先ずは次なる氷海調査についてですが、これは残念ながら当分先のことになりそうです。これは先生がキヴォトス本土から離れられないという事情に加え、破損したアビ・エシュフの修復が難航していることが主な原因です』
画面に、エリドゥの工廠に格納された右腕の無いアビ・エシュフが表示された。
『先生もご存知の通り、あのパワードスーツはリオがミレニアムの予算を大量に横領して造り上げた、このキヴォトスでも一二を争う程の高性能な武装。これから出現するであろう強力な預言者に対抗する為には、あれを完全な状態にしておくことが必要不可欠です。しかし…』
ヒマリは苦い顔で続ける。
『以前レイクとの戦闘で破壊された右腕を修復した際にリオが用意していた予備パーツを殆ど使ってしまったせいもあり、直す為の部品そのものが致命的に不足しているというのが現状です。予算を工面しようにも、特異現象捜査部はセミナーの中でもリオしかその存在を知らない以上、ユウカに事情を話す訳にもいかず…』
「なるほど、それは困ったね…」
『それでも何とかするしかありません。天才病弱美少女として、無理を無理で終わらせるような醜態を晒す訳にはいきませんから。ひとまず先生は一旦私達のことは忘れ、今ある業務に集中して頂ければと思います。ただ、重ね重ね申し上げますが、決して無理はなさらないで下さいね?』
「勿論だよ、ヒマリ。それに明日はトリニティから正義実現委員会の生徒と、ゲーム開発部の皆が当番に来てくれるからね。皆に会うの結構久しぶりだから、楽しみなんだ!」
心配そうな顔でこちらを気遣うヒマリの為に、明るい話題を出した先生。それを聞いたヒマリはしかし、表情を明るくするどころか、先生と同じように薄い隈ができた両眼に影を落とした。
「どうしたの、ヒマリ?もしかして皆に何か…」
『いいえ、変わらず元気に過ごしていますよ。ただ、変わらないからこその懸念点があると言いますか……折角ゲーム開発部の名が出たことですし、ここで共有しておきましょうか』
氷海に関する情報が一度消える。そして次に画像として現れたのは、エリドゥの管制室にあるダイブ装置に繋がれたレイクの姿だった。ミレニアムの制服に、氷海探査の時に被っていた帽子を身に着けていることから、先生達が初めてダイブした際の彼ではない。
『先生、ゲブラとの戦闘でレイクが氷塊を放り投げた時、私のデバイスにバグが生じたことを覚えていますか?』
「うん。確か、氷海から帰った後に調べてみたら、データの幾つかに破損が生じていたんだっけ?」
『その通りです。推定1トン近い氷塊をあの勢いで投げつける、その尋常ではない膂力自体は、彼の妹であるアリスにも同様に備わっているものです。ですがレイクとは異なり、アリスがその怪力を発揮する際に周囲の電子機器に異常が生じるようなことは、一度たりとも観測されていません。このことから、私は一つの仮説を立てました。それは…』
ヒマリはそこで、一呼吸を置いた。
『それは「レイクという人格は、観測不可能領域の凍結を解除する為に無名の司祭が新たに作った人格なのでは無いか」というものです』
「……!」
全身に鳥肌が立つのを、先生は感じた。
『まるで多重人格者のように、一つの肉体に異なる人格が同時に存在する。そんな特異な状態があり得るということは、アリスとKeyという存在によって既に証明されてしまっています。それに加え、今回の戦闘で明らかになった「熱では無く、神秘を帯びたモノを探知する能力」や「他者から熱エネルギーを吸収する能力」、そして前述のバグ。これらに明確な因果関係が見られる訳ではありません。しかし私にはこれらの事象が「レイクはその柔和な態度の裏で、キヴォトスに存在するあらゆる情報やエネルギーを集め、観測不可能領域の解凍に使えないか模索している」という示唆を伝えているようで、ならなかったのです』
嫌な沈黙が、二人の間に流れた。先生は手元にあった飲みかけのエナジードリンクを口に含み、言葉を発する為に乾いた喉を潤した。
「それじゃ、この写真は…」
『はい。これは数日前、レイクの同意を得て私とエイミで行った、彼の精神世界の調査の様子です。先生も覚えておいでしょう、彼と初めて出会った時に置かれていた、大きな水盆と椅子を』
「うん。リオはあの水盆こそ観測不可能領域に繋がるネットワークじゃないかって言ってたね」
先生は緊張を懸命に抑えながら言った。まさか、ヒマリがかつてのリオと同じことをしようとしているのではないか。その疑念が、先生の中でどんどんと膨らんでいく。
『私もその意見には同意しています。今回は件の水盆に異常が無いかの確認と、レイク以外の人格が精神内に存在していないかの調査を行いました。その結果が、これです』
ヒマリはやや間を置いて、一枚の画像を共有する。
「これは…」
そこには一面に霜の降りた草原、ヒビ一つ無く凍り付いた水盆、大きな古い木の椅子。そしてその上で足を折り畳んだ状態で目を瞑るレイクの姿があった。
「何も、変わって無いね」
そう呟いた先生の顔を見て、ヒマリは初めて表情を和らげた。
『この光景で、幸運にも私の仮説はひとまず否定されることになりました。時間を空けて複数のダイブを試み、徹底した調査を行いましたが、別の人格が認められることは遂にありませんでした』
「良かった…」
先生は緊張を解き、椅子の背もたれに力無く体重を預けた。
『それでもまだ油断は出来ません。彼自身が私達に嘘を吐いている可能性も否定出来ませんし、精神の監視及び調査はこれからも定期的に行うつもりです』
「でも異常が見つからない限り、レイクは皆の仲間だよね?」
その問いに、ヒマリは仄かに頬を赤らめながら頷いた。
『勿論です。レイクは私達の命を救ってくれた勇者。彼の中にあるものが如何に強大で恐ろしいだとしても、その事実は揺らぎませんから』
それから先生はヒマリと氷海で自分達に接触して来たアイン、ソフ、オウルを始めとしたデカグラマトンに関する情報共有をした後、オンライン会議を終了した。
「良し、これで今日の仕事は終わり!シャワーめんどくさいからこのまま寝よう…」
パソコンをシャットダウンした先生は大きな欠伸をしながら椅子から立ち上がる。その時
『先生!そう言って昨日もお風呂入らなかったじゃないですか!デオドラントシートで体はキレイになりません!生徒さん達にも失礼の無いよう、今日こそは入って貰いますよ!!』
デスクに置かれていたシッテムの箱が勝手に起動した。ぼんやりとした目でそれを覗き込むと、この時間なら机に突っ伏してグースカ寝ている筈のアロナがぷりぷりと頬を膨らませている。
「アロナ、まだ起きてたんだ…?」
『そうです!可愛いアロナちゃんが睡眠時間を削ってまでお願いしているんですから、お風呂に入って下さい!』
アロナは真剣な表情で先生の顔を睨みつける。
「そんな事の為に、今まで眠いの我慢してたの…?」
『そんな事とは何ですか!?私は先生の為を思って言っているんですよ!?幾ら疲れてるからってお風呂まで疎かにするなんてフケツですフケツ!』
いつにも増しておしゃまな感じで喋るアロナに、先生は寝不足のせいもあって、思わず吹き出してしまった。真剣な態度を笑われたアロナは『あぁっ!先生笑いましたね!?』と騒ぎながら更に頬を膨らませる。
「ごめんごめんって!それじゃアロナの言う通りお風呂に入って来るよ。明日は当番の生徒も来るしね。でも時間がもったいないから、シャワーだけで勘弁して欲しいな?」
先生は疲れた目を何とか動かし、アロナにあざとくウインクをして見せた。
『むぅ…本当なら湯船に浸かって疲れも取って欲しいんですけど…でも良しとします』
「ありがとう、アロナ。そしたらアロナももう寝てね。改めて、お気遣いありがと…」
アロナに礼を告げてシッテムの箱を閉じようとした先生。しかしその時、先生はアロナの立つ教室に違和感を抱いた。
「ねぇ、アロナ。窓際の角にある机、椅子が無いよ?アロナが動かしたの?」
アロナはくるっと振り返る。先生の言う通り、教室の窓側、崩れた壁に面した場所に置かれた机と一緒にあった筈の椅子が、そこには無かった。
『おぉ、本当です!全然気付きませんでした』
アロナはその机に駆け寄ると、その周りを子犬のように歩き回り始める。
「気付きませんでしたって…それってつまり、アロナが何かした訳じゃないって、ことだよね…?」
『はい、この教室には私しかいないのに不思議です。でも椅子が一つ無くなったからって別に……先生?』
先生の表情が一瞬にして変わる。その様を、アロナは困惑した様子で見つめていた。
「ごめんアロナ。シャワー浴びるの、ちょっと遅くなりそうだ」
先生はそう言うと、アロナの返事を待たずにシッテムの箱の電源を落とした。
(あのデカグラマトンですらハッキングに失敗したシッテムの箱に干渉…?でも、もしあの椅子が無くなった原因がレイクだとしたら……?)
先生はパソコンを立ち上げ直し、ヒマリへのメールを作成し始めた。先程の嫌な胸の高鳴りを、再び感じながら。