古書店から買ってきた地方語辞典をいくつか並べ、その上でラドウィックの支援を受けて私は各種の文面を作っている。具体的な実務はある程度総帥に任せるとしても、一応は仕事を頼む側の立場である。この種のことはできる範囲でやっておくべきだろう。
「しかし、お嬢様も大変ですな」
「全部趣味よ、趣味で苦労するのは当然でしょう」
「……なるほど」
ラドウィックは黙ってしまった。どうだ参ったか。それはそれとして言語が頭の中でぐちゃぐちゃになっている。一応単語対応はわかってきたので解読ができるようにはなってきたが、それが限度だ。やはり語釈共通化委員会とかが提案している共通文法の制定をやって、あとは
とはいえそうなると辞書一冊分の変換表をどうやって管理するかの問題になる。今の穴の開いた紙片の束をぱたぱたとめくりながら接点で読む方式は速度に限界がある。となるとやはり光学式の保存装置になるのだろうか。そんな余計なことを考えながら私は
まずは適当に書いてその後修正用の
「ラドウィックは、この作者と話せると思う?」
レギラ・ゴロヘシュト。山岳部の発音というのはどうにも喉を痛めそうな擦れたような音ばかりである。調べても情報がとんと出てこない。
「難しいでしょうな。北部方言がどこまで通じるかもわからない」
「コミュヌが話せるとも期待するべきではない?」
あれは誰もが書けるようにもともとあった文法がひどく歪められた代物になっているので、古典を真面目にやっている人が読むと狂って死んでしまうらしい。とはいえこちらも古典なんかを読まされると狂って死ぬので世界というのはよくできているものだ。
「期待するべきではないでしょうな。通訳も陸軍経由であれば用意できるでしょうし、もし総帥に伝えられるのであればその旨を共有しておくように」
「わかりましたよ」
やらなくちゃいけないことは多い。金を出す時には、できるだけ相手がそれを受け取る判断だけすればいいという体制を用意しておくことが望ましい。意思決定には手間と時間がかかるのだ。このあたりを悪用すると都合の悪い情報を上に出さないとかそういう話になって、ではどうすればそのような職場環境をよくできるのかとかになるが、それは産業効率でもまだ議論が続く問題だ。
そして多分まともな答えが出ることはないだろう。人間は観測されると性質を変化させる奇妙な物性を持った存在なのだ。私だってミセス・ブラッケンがいれば仕事の効率は上昇するし、ミセス・ブラッケンがいなければきっとどこかで見張っているに違いないと怯えて仕事の効率は上昇するだろう。そしてどちらも慣れれば効率が低下していく。
さて、金の話。今回の旅費とか宿泊費とかその他諸々を入れても、必要なのはたかだか三十
そもそも貧困と意思の問題はしばしば相互に影響し合うものであって、金さえあれば私のような俗物であってもここまで優雅な淑女を装うことができるのですよ。もし何かの手違いで貧しく生まれていたら、私の魂もそれに合わせて発達し、酷い浪費家にして快楽の耽溺者になっていただろう。いやそれは今も同じか。浪費する金もなく、得ることのできる快楽も限られた悲しい存在になっていた、と訂正しておく。
いや、この話はやめておこう。そもそもそういう人々に支援が必要だと言うならそれは国家が責任を持ってやるべきであって篤志家などに依存するべきではないのだ。そして私の金はその国家の方から流れてきているので、その決定は国家とその中で働く人とその方針を決定する政治家とその政治家を選んだ市民、あるいは伝統と、それらを支える女王陛下の威光の下にある。なのでまずはそういうところに責任を問うべきではないだろうか。
危ないな、どこぞの危険な革命主義者よろしく女王陛下を街灯に吊るすなどという不敬を考えてしまった。そもそも老齢の女王陛下がまだ本当に生きているかどうかもよくわからないのだ。もうそろそろ在位が七十年に届こうとしているのではなかろうか? 本来はもう少し女王陛下に親近感を抱くべきかもしれない一臣民たる平民の身であるが、そもそも私が生まれる前から顔を見せず喪に服しているとかだったはずだ。
「……お嬢様?」
「ああいえ女王陛下万歳」
「……冗談はさておき、この種の計画は失敗することが珍しくないことを覚えておいてください」
「わかっているわよ、いきなり遠くの海の向こうから手紙がやってきて、講演会をしに来てくれませんかなんて言われたら困るのは。山岳会と電報のやり取りをしていたから、そちらの繋がりでも話を通してもらうように伝えておく必要もあって……」
「私の役目ですな」
「申し訳ありません、お願い致します」
私は深々と頭を下げる。自分ができないことをやってもらうために、自分ができることをやるのは当然の話である。そして頭を下げるのは多くの人にできることだ。だからこそそれをされた側は受け入れなくちゃいけないみたいな規範ができていて、その微妙な均衡のお陰で世界は今日も機能しているのだろう。
Questo stato di cose, che fu detto la nuova torre di Babele, non interessa molto i dilettanti di scienza. Essi possono limitarsi a leggere i libri nelle lingue che conoscono, aspettando la versione degli altri. Ma chi lavora al progresso della scienza si trova nell’alternativa o di dover studiare continuamente nuove lingue, ovvero di pubblicare ricerche già note.
È inutile spendere altre parole per descrivere questo male da tutti riconosciuto. Furono ad esso proposti varii rimedii, che qui esporrò rapidamente:
1° Quello dell’adozione, nei lavori scientifici, d’una sola lingua vivente. Ma non c’è probabilità d’accordo sulla scelta.
2° Quello dell’adozione contemporanea di più lingue viventi. Fu proposto che nelle scuole francesi si rendesse obbligatorio l’inglese, e viceversa; lasciando la libertà ad ogni popolo di optare per l’una o l’altra delle due(1). Ma i tedeschi optarono pel tedesco, gli italiani per l’italiano, e la questione non fece un passo verso la soluzione.
およそ百年前までは、ラテン語が科学の分野における国際語であったことは知られている。ライプニッツ、ニュートン、オイラー、ベルヌーイ家は常にラテン語で書いていたし、さらにガウスやヤコビらもまた彼らの主要な著作をラテン語で出版した。しかしその後、人々は各国の言語で書くようになった。今日では、科学的著作は様々な
「新たなバベルの塔」と呼ばれたこの事態は、科学の愛好家たちにとってはそれほど大きな問題ではない。彼らは、他言語の翻訳を待ちながら、自分が知っている言語の書物を読むことだけで済ませることができるからである。しかし、科学の進歩のために働く者は絶えず新しい言語を学ばなければならないか、あるいは既に知られてしまっている研究を発表してしまうか、という二者択一の中に身を置くことになる。
誰からも認識されているこの弊害を描写するために、これ以上言葉を費やすことは無益である。それに対して様々な改善策が提案されたのであり、それらを私はここで手短に述べることにする。
第一。科学的著作において、単一の生きた言語を採用すること。しかし、その選択についての合意の可能性はない。
第二。複数の生きた言語を同時に採用すること。フランスの学校では英語を必修とし、その逆もまた同様とすること、そしてあらゆる国民に対してその2つのうちのどちらか一方を選択する自由を残すことが提案された(1)。しかし、ドイツ人はドイツ語を、イタリア人はイタリア語を選択し、問題は解決に向けて一歩も進まなかった。
(1) CH. ANDRÉ, sous-bibliothécaire de l’Université de Lyon, Le latin, et le problème de la langue internationale, Paris, a. 1903, pag. 2.
(1) シャルル・アンドレ、リヨン大学副司書、『ラテン語、そして国際言語の問題』、1903年
PEANO, Giuseppe. Il latino quale lingua ausiliare internazionale. Carlo Clausen, 1904.
ジュゼッペ・ペアノ『国際補助言語としてのラテン語』、1904年