「しかしまあ軍というのはなかなか人材が有り余っているのですね」
私は息を吐きながら、少し前に冬の講演会があった学会本部の廊下を歩く。ラドウィックはもとより、今回通訳として紹介して貰う人もなんか軍関係のあれこれがある人だ。しかし資源や植民地の奪い合いは大変になり、各陣営が海によって分割されたこの時代に軍隊というものがそれなりに力を持っているというのは奇妙なものだ。とはいえ植民地維持に海軍は必須だし、相手を知るような仕事は陸軍が担当しているからある意味では納得ではあるが。
そして今回は通訳の人が科学技術用語の専門家と事前のすり合わせを希望すると言っていたので、私はミス・バクスターとしてラドウィックと
ちなみに馬車は当然家で持っているとかそういうものではなく電報一本でやってきてくれるような二人乗りの辻馬車です。でもちょっと高級。淑女の私と護衛兼付き添い兼仲介役のラドウィックは、並んでいれば執事とお嬢様に見えるだろうか。今日の服装はいつもの規格服ではなくフィーマに選んでもらった地味なやつである。派手な衣装というのはあまり趣味ではないのだ。
「今回の通訳の女性の夫が北部の歩兵連隊の元連隊長でしてな。その繋がりで陸軍が色々と学ぶことがあったようで」
ラドウィックが言う。北部の高地地帯は行ったことがないんだよな。寄宿学校も大学も南部であったし、それ以外は
「確か『黒衣歩哨』のところの」
私は呟くように言う。フィーマが趣味の範疇で調べてくれた。近くの図書館で紳士録と各種の記録を半日ほど漁ればすぐにわかるという話であったが、この図書館というのは博物館付属のところで、つまりは山程本があるところなのだ。いやあ、いい場所に住んでいてよかった。
というかその通訳の方自身もそれなりにいいところのお嬢様である。一族が山登りばっかやってるところがあったので金があるやつが趣味に走ると怖いんだな、とフィーマの話を聞いて思いました。
「ええ。だから今回の通訳は山岳地帯の方言が話せる、と」
「趣味ね。……婚姻も趣味?」
「そこまでは聞いておりませんが、おそらくは。その元連隊長も相当な登山好きだったものですから、世界最高峰踏破計画の一員として諸藩王国の方への現地視察も行っておりました。結局計画は頓挫したのですが」
「連隊長に何させてるのよ」
「本人のたっての志願であり、当時結婚したばかりの妻を連れて行ったと……」
「まあ、趣味人同士私と話が合うといいのだけど」
そう言って私はラドウィックの持っていた懐中時計を覗き込んだ。そろそろ時間だ。部屋の前に立っていた従僕に案内されて扉を抜けると、総帥が書類を手に待っていた。
「これはミス・バクスター。お久しぶりですな」
「ホイットマール男爵閣下も御壮健のようで。マダム・トーワードはまだでしょうか?」
紳士と淑女の話し合い。本当の外交とか交渉の場ではない比較的気楽なものだし、特に科学者というものはそのあたりを緩めることが許容されているからな。もしそういうのが嫌だって言うなら最初から一代爵位なんて渡さなければよかったんだ。「初代」と名乗らせるだけ名乗らせておいて継承権を与えないというのは酷いものだと思うぞ。
「ああ。しかしゆっくり待とうじゃないか」
私は頷いて彼女のための椅子を空けて座る。
「しかし総帥がわざわざ予定を空けてくださるとは」
「仕事だよ仕事。あと来賓を招く計画を騒がしいリードフィントン教授に任せたいかね?」
「……やめておきたいですね」
この件を伝えたリードフィントン教授は半信半疑みたいな文体をしながら必要なら自分が旅費を出すとまで言ってきたのだ、かなり気合が入っているのだろう。私は総帥がどうにかしてくれるんじゃないかなと返答したし、総帥もなぜかやってきた
そうして少し時間が経つと、大柄な女性が入ってきた。いや、本当に大きいな。少なくとも一般的な淑女ではない。太っているのはあるだろうが、それ以上に筋肉がありそうな動きだ。やはり寒いところでは体積と表面積の比の問題があるのだろうか。
「トーワードです、お話をいただきありがとうございます」
恐縮はしていない、か。ありがたいことだ。儀礼通りにまずは彼女と総帥の挨拶。立場としては私が一番下になるわけだからな。このあたりの社交術の礼儀というのは実に難しいものだ。紳士もどきと嘲られないために上流階級すら真似できないほど精密に発音と礼儀を修めた
「はじめまして、マダム・トーワード。バクスターと申します。科学技術分野で少し文筆を。後ろにいるのは従者のラドウィックです」
そして彼女が握手のために伸ばしてくる手は分厚い。職人のそれに近い。総帥の手は最近は装置を扱っていないので細くなってしまっているが、それでも皺を見れば経験がわかる。そしてマダム・トーワードの手はそれ以上だ。
ちなみに言ったことは嘘ではない。一応は学会誌の前文を書く程度の仕事はしたぞ。そしてあれこれと話を進めていくのである。しかし向こうの方もしっかりと知識があるのはありがたいな。
「……具体的な言葉がわからない可能性は十分にある以上、事前に原稿を書いてもらうか、あるいは話の方針だけでも共有してもらうべきでしょう」
よく通る声でマダム・トーワードが言う。
「そうですね……専門用語についてはある程度こちらで事前に対訳表を用意しておきます。
そんな形で議論が進んでいく。落ち着いた顔で従僕の出してくれたお茶を飲んでいる総帥だが、面倒な仕事の少なくない割合は彼経由で色々とやられるのだろうな。というか微妙な調整ができる人がこの学会はおろか世界に少ないせいで、彼のような有能な人間があちこちを飛び回って対応する必要があるという悲しい現実が生まれているのである。
私がつい昨晩知ったところによると、それもピカデリーというすぐ近くの場所で、私たちの
WILLS, Alfred. Toast: Our Founders and Early Members. In: The Jubilee of the Alpine Club. The Alpine Journal. February 1908, vol. XXIV, no. 179, 49–53.
アルフレッド・ウィルズ、『乾杯の辞: 創設者と初期の会員たち』、