石炭時代の終りと淑女   作:小沼高希

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容易に偏向する陽粒子の観測上の存在 8

 ゴロヘシュト氏の講演のために、それなりの人が集まっている。いや人数だけであれば冬の講演会で詰めかけた人々よりも少ない、三十人ほどなのであるが、そのうち十人ぐらいは私でも名前を知っている人だぞ。

 

 というわけで私は王認自然学会(ザ・クウェーンズ・フェローシップ)の事務員の皆さんと一緒に働いているのである。いやまあ別に暇ですし来ている人の名簿を見ることができるのでいいのですけれどもね。

 

 現像された感光膜(フィルメ)で投影されるのは、霧箱の写真。そこから求められるいくつかの性質。そうして、議論が起こるのだ。

 

「保存量を考えれば渦が打ち消しあって消えるなどというのは起こり得ないわけだ」

 

 例えば渦理論で説明できないだろうみたいなもの。うん、私もそう思う。ただね、問題なのは我々は光媒質(エーテル)の物性をよく知らないということなんですよ。確かに粘性のない流体かつ圧力と密度が対応していれば、極積項がなくなるので片側の渦だけを囲む閉曲線積分をすればそこに渦は存在しないはずになってしまう。そしてそうではないと渦が消えてしまうので粒子はいつか消えてしまう。

 

 しかし実際に我々は放射線(アウトビーム)を出す物質を知っているわけなので、つまり実は水質(ワータシャフト)核とか中性子(ニュートラオン)とか電子とかがなにかの加減で消えてしまっている可能性もあるわけである。いやまあ言っていて苦しくなってきたな。やはり渦で説明するのは無茶かもしれない。

 

「それが存在することをまず認めよう。そして次に考えるべきは、なぜ我々はそんなに逆電子を見ていないのか、逆に言えば世界はどうして電子に満ちているかでは?」

 

「逆電子は水質(ワータシャフト)核として我々の身近にあるのでは?」

 

「となると逆電子と中性子(ニュートラオン)の結合が水質(ワータシャフト)核になるわけか? しかし質量はどうなるんだ」

 

「いくつかの報告でまだ曖昧さが残っていたはずだ、たぶん範囲に合う」

 

 まあそんな現場で行われている議論を私とマダム・トーワードが苦労して翻訳しながらゴロヘシュト氏に伝えているわけである。いやはや、大変なものだ。質量についてはまだ照らし合わせが終わっていない段階なのに他の実験とか報告が面白そうで各種の機材も人員も足りていないという有様である。毎月のように物理学の新発見が来るので最近はのんびりする暇がない。このままであると物理が大幅に値下がりして庶民でも気軽に買える製品になる日も近いぞ。

 

 というよりこのあたりについてあまりゴロヘシュト氏は興味がないらしい、むしろ自分の議論がそこまで騒ぎになるとは思っていなかったというところだろう。私も正直ここまでになるとは思っていなかった。せいぜいもう少し内輪で話を聞けたらいいなというぐらいだった。

 

「待て待て、これをどうにかして再現するほうが重要ではないか?」

 

 おっまともな意見を言った人がいる。ええと誰だ? 顔と名前を一致させることができるほど名簿をちゃんと見たわけではないからな。このあたりの人は顔見知りが多いせいで誰もが名乗りをちゃんとしないのだ。私はそういう人の繋がりの中に入れなかったので困る。文体を見ることができればある程度は特定ができるだろうがね。

 

「ええとすみません、皆様方」

 

 私は釦を押しながら、雑音が入らないようになっている伝声管に向かって声を入れる。この先にある伝声器を通して電磁石が震え、それなりに大きくなって会場に響く。磁気と音響学の組み合わせだ。もし録音とかしてあるものであれば空気圧増幅器とかも使えるのだが、この会場の設計された響きであればそこまでやる必要はない。

 

 そして騒ぎが少しだけ落ち着いて、多くの人が壇上というか壇上の隅というか、ともかく話している私を見た。

 

「誰が何を言ったかがわからなくなるので、発言の前には所属とお名前をお願い致します」

 

「ダムノニーシャー研究所、ウォートル」

 

 そう言って、手を挙げた神経質そうで髪を後ろに撫でつけた男は私が一応見覚えのある人だった。私の母校におけるダムノニーシャー研究所と言えば、こと物理学においては世界最高峰と言われる場所である。そしてウォートルと言えば私の二代前に三脚試験(スリーシャンク)で一位だった人物だ。そしてその若さで紀要(ハンドリングス)の常連。まあつまり、我が国どころか世界を探しても彼に並ぶほどの理論屋は二十人もいない、ぐらいの怪物である。向こうが私を覚えていないことを祈ろう。

 

「そもそも我々は電子以外を最近まで知らなかった。つまり逆電子があるというよりは、これがごく稀な、極端な現象であると考えるべきである。すなわち、これは電子なのだ」

 

 発言にはすぐ文句が飛んでくる。そりゃそうだ。電荷が逆なんだよ。しかし彼はその話をしばらく腕を組んで黙って聞いていた。噂によれば普段からこういうやつである。やはり三脚試験(スリーシャンク)の上位者って頭がどこかおかしいんじゃないだろうか。私は順位表には名前がないので例外だと思う。

 

「諸君らの疑問はもっともである。しかし、これはある一つの単純な考えによって容易に解決できる。すなわち、この粒子は時間を逆行している電子である。一定以上の熱量は、おそらく電子を時間的に逆向きの方向へ弾くのだろう」

 

 会場の中があっけにとられていた。マダム・トーワードは丁寧に通訳をしていた。そしてゴロヘシュト氏はぽかんとしていた。うん、無茶もいいところだ。ただまあ多分理屈は通るんだよな。数式上は。数式上だけは。

 

 そして流れたのは失笑とか呆れの溜息とか。それを気にせず、ウォートルは椅子に座った。彼としてはうまく説明できる模型を作れたので十分、ということだろう。こちらからすれば因果とかが色々と壊れているんだがね。まったく、これだから理論屋というやつは困る。

 

 それはそれとして、一人が変なことを言ったせいで色々と落ち着いて流れができたらしい。というかどいつもこいつも無茶な仮説ばっかり立てやがって。実は光媒質(エーテル)は電子でできていて、その穴が逆電子として現れているみたいなのはどう証明すればいいんだよ。電圧の基準点をどこに取るかの相対的な問題だから、光媒質(エーテル)の存在と同じぐらい証明できそうにないものになりそうだ。




Une particule à charge $+e$ resp. $-e$ est représentée par une ligne d'univers qui évolue vers le futur, resp. vers le passé, si $\lambda$ augmente ($\dot{q}^4 > 0$ resp. $< 0$).

電荷 $+e$、および $-e$ を持つ粒子は、$\lambda$ が増加する場合($\dot{q}^4 > 0$ および $< 0$)、未来へ、および過去へと向かって進む世界線によって表される。

STUECKELBERG, E. C. G. La signification du temps propre en mécanique ondulatoire. Helvetica physica acta, 1941, vol. 14, no. 5–6, pp. 322–323.
エルンスト・カール・ゲアラハ・シュテュッケルベルク『波動力学における固有時の意味』、スイス(ヘルヴェティア)物理紀要、1941年
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