ゴロヘシュト氏が海峡を越えて山に戻っていったのと引き換えに、春の陽気が街に流れ込んできた。すなわち、冬明けの仕事を終えた肉体に休息をもたらさなければならない時期である。
そう思って午前の仕事を終えて寝台に身を横たえていたら電鈴の音がした。ええと、これは家の中の呼び出しだな。服を整えて私が一階に降りると、ミセス・ブラッケンが計算機の隣に帳面を開いていた。この計算機は据え置き型のやつで、つまりはよく商店とかにあるような会計用の代物である。数理計算用のものに比べれば機能は少ないが、頑丈なのは間違いない。
「ミス・バクスター」
ミセス・ブラッケンの声に私は背筋を伸ばす。
「なんでしょうか」
「今回の件について、支出報告をお願いできますか?」
「……え?」
私はちょっと驚く。いやまあ確かに結構雑に金を使いましたよ、乗合馬車とか辻馬車とか結構使いましたから。あとフィーマにもちょっと服を選んでもらったりした分のお小遣いを渡しました。しかしその金額とかは特に覚えていないんですよ。文字通りに巾着の中に入っていた硬貨で適当に払ったわけで。
「私費で行った仕事だ、と主張しますか?」
「あー、ちょっと待って。これって経費になるの?」
「そうするかどうか取り決めるのは、私です」
そうか、ミセス・ブラッケンが帳面上でどうするかの問題であれば私の使ったお金が女中の仕事のものであったとしても、あるいは私という個人が私費で一部を負担したと考えてもいいはずだ。
「……あれ、女中というか使用人の出費を主人が負う義務はなかったはずでは?」
「契約に依存します。そしてミス・バクスター、あなたはこの屋敷の主人と何らかの雇用契約を結んでいますか?」
「こういう時どうなるんだろうな……」
同じ存在同士で契約することとかってできるのだろうか。このあたりはあまり掘り下げすぎると困るから止めておいたほうがいい気がする。常識的な裁判官であれば常識を持とうと諭してくるだろう。
しかし法学は事件を読むのは嫌いではないのだが本格的に論じるまではやらなかったんだよな。もし寄宿学校時代にその方面に興味を持ってしまっていたらどこかの法学書の詰まった屋敷が与えられていたかもしれない。それはそれでいいな、法曹ではないが各種の支援を行って貿易とか事業とかを裏から支援する存在になれる。とはいえ執事のラドウィックよりうまくやれる気がしないからやめておくか、私には物理学がちょうどいいのだ。
「……もちろん、あなたが必要だと思えば、私に何かをするように命令ができます。それが合理的である限り、私は女中長として従うでしょう」
「いやそのあたりは専門家の判断を信頼させてもらいます……」
ミセス・ブラッケンが卒業した
そして彼女のかつての職は植民地省の
一般常識からすれば、住み込みの女中長というのはあまりいい仕事ではない。一応ちゃんと給料をもらっていて独身で部屋を与えられているなら選挙人名簿に名前を載せることができるが、それも結局は雇用主の気分次第なところがある。使用人の名前さえ、自分の好きなようにはできず雇っている人の気まぐれで変わるのだ。逆に言えば私は本人からの願いを気まぐれに聞いて、彼女を旧姓のミセス・ブラッケンと呼んでいるのだが。
そうして私は残っていたお金と記憶から探り出してある程度の金額を告げる。
「……では、その分を補填します」
そう言ってミセス・ブラッケンは私に硬貨をいくらか渡してくれる。こういうことをしなくても必要であればそれなりの枚数を共用の金庫から取り出すことはできるのですがね。しかしそれをやることを考えると、私の中の良心がどういうわけか咎めてくるのだ。物を盗むのは良くないと言われても、そもそもこの金は私がもらっているものだぞ。管理権をミセス・ブラッケンに移してあるので私にはない、と言われればその通りだが。
「ちょうどもらいました」
「……それと、
「あれは趣味として出します。それについてはミセス・ブラッケンの意見を聞きますが、それに従うとは限りません」
「はい。助言以上のことを、私もするつもりはありません。……それに、どうやらあなたは思ったより仕事をしているようです」
そう言って、ミセス・ブラッケンは机の上にあった新聞を取って広げてきた。うちで取っている普通の日刊新聞である。ちなみにうちはラドウィック、ミセス・ブラッケン、そしてフィーマがそれぞれ別に新聞を取っているので三紙ある。別に保存しているわけではないが、ラドウィックはたまに複数の新聞を読んで比較している。多分そうやると見えるものがあるのだろう。
そのうちの一つ、保守系のお堅めの新聞。取っているのはラドウィック、つまりは旧き良き伝統を愛する紳士たちのものだ。その端っこに先日あったゴロヘシュト氏がした講演会の話があった。
「これは、お嬢様がやったことでしょう?」
「そうですね」
これは否定できないので、素直に認めるとしよう。というか私がこの件で動けなかった時にミセス・ブラッケンが家事を色々とやってくれたわけだからな。何かで報いたいと思うのだが、具体的に何ができるのかはわからない。せめて予定が遅れないように、きちんと家事をやることぐらいだろうか。ゴロヘシュト氏の案件が終わったので、しばらくは予定に余裕ができるだろう。
シャンブレ判事 主人がその使用人に対して医療的援助を提供する義務は、仮にあるとしても、契約から生じるものでなければならない。主人がその使用人にすべての必需品を供給することを黙示的に契約していると主張することはできない。というのも、場合によっては主人は衣服も食料も供給することを約定しておらず、そうしていないのであれば、そのそのいずれを提供する義務を負うこともないからである。この問題に関して
Wennall v Adney (1802) 3 Bos & Pul 247, 254; 127 ER 137, 140
Wennall対Adney事件、Bosanquet & Puller『民事訴訟裁判所およびその他の裁判所の審理判決集』および『