魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
結界の奥は、甘い匂いがした。
病院の壁紙とはまるで違う、けばけばしい色の菓子箱。綿のようなもの。紙細工のような使い魔。子どもの夢を無理やり切り貼りしたような空間の中で、巴マミは一歩も退かなかった。
「大丈夫。見ていて」
振り返ったマミの顔は、いつものように穏やかだった。
鹿目まどかは、その言葉に少しだけ息を呑む。美樹さやかは両手を握りしめたまま、何度もうなずいた。
少し離れた場所で、暁美ほむらは黄色いリボンに絡め取られていた。拘束は丁寧で、強引に破れば自分の身体を傷つけるように作られている。
ほむらは低く言った。
「油断しないで」
マミは微笑んだ。
「忠告は受け取っておくわ。でも、あなたにはそこで見ていてもらう」
その横で、キュゥべえは黙っていた。
いつものように、白い身体で座っている。赤い目は、魔女ではなくマミを見ていた。
マミの周囲に銃が生まれる。一本、二本ではない。リボンから編み上げられるように、無数のマスケット銃が空中へ並んだ。菓子箱のような結界の中で、金色の砲列が花開く。
使い魔たちは飛びかかったが、そのどれもがマミの足元に届く前に撃ち抜かれていった。
発砲、また発砲。
マミは踊るように歩き、撃つたびに銃を捨て、捨てた先からまた新しい銃を呼び出した。
その姿は、まどかにはあまりにも綺麗に見えた。
怖い場所のはずなのに。魔女の結界のはずなのに。マミがいるだけで、そこは舞台のように見えた。
「すごい……」
まどかの声が漏れる。
さやかも、思わず笑った。
「やっぱりマミさん、かっこいい……!」
魔女は小さかった。ぬいぐるみのような、菓子の包みのような、どこか間の抜けた姿をしていた。こちらを見ているのかどうかも分からない顔で、ふわふわと揺れている。
マミはそれを見据えた。
「これで終わりよ」
リボンが大きな砲を形作る。
魔力が収束する。
マミの声が、結界の奥で高く響いた。
「ティロ・フィナーレ!」
砲撃が走った。
魔女の小さな身体が吹き飛ばされる。結界の飾りが弾け、紙細工のような破片が散った。
まどかは、勝ったと思った。
さやかも、勝ったと思った。
マミも、きっとそう思った。
ほんの一瞬、彼女の肩から力が抜けた。
その瞬間だった。
吹き飛ばされたはずの魔女の口が、裂けた。
中から、別のものが伸びた。
白く、長く、歪んだもの。先ほどまでの愛らしさを裏返したような、巨大な口。菓子を食べるように、何もかもを噛み砕くためだけの形。
ほむらの目が見開かれる。
「巴さん!」
声は間に合わない。
マミの瞳が、驚きに染まる。銃を呼び出そうとした手は、まだ形を取っていない。リボンも、砲も、次の一手に移るにはあまりにも遅かった。
その直前。
キュゥべえの尾が、わずかに揺れた。
まどかには、それが何かを弾いたように見えた。
透明な、薄い殻。
小さな輪、あるいは水晶の欠片のようなもの。
それはマミの帽子の飾り、黄色い宝石の奥へ吸い込まれるように重なった。
キュゥべえが、小さく言った。
「やはり、ここで使うことになるのか」
次の瞬間、魔女の口がマミを呑んだ。
音が消えた。
まどかは声を出せなかった。
さやかの喉から、引き裂かれたような息だけが漏れた。
魔女は、噛んだ。
だが、そこでほんのわずかに動きが止まった。
硬いものを噛んだように。甘い菓子の中に、小さな石でも混じっていたように。
口の奥で、かちり、と小さな音がした。
魔女は不快そうに身体を震わせる。噛み砕いたはずの獲物を、もう一度口の中で転がすような動きをした。
キュゥべえの赤い目が細くなる。
「成功したようだね」
「……何を」
ほむらの声が低くなる。
だが、その声より先に、マミのリボンがほどけた。
拘束が消える。
ほむらは床に足をつけた瞬間、すでに動いていた。
盾が回る。時間が止まったのか、止まっていないのか。まどかには分からなかった。ただ、ほむらの姿が一瞬ぶれたように見えた。
次に見えた時には、彼女は魔女の真正面にいた。
黒い髪が翻る。
冷たい目が、シャルロッテを見据える。
魔女が口を開いた。
ほむらは退かない。
彼女の足元から、何かが転がった。金属の筒。ひとつではない。いくつも、いくつも。結界の床に無造作に置かれたそれらが、次の瞬間、同時に爆ぜた。
爆風が結界を揺らす。
魔女の身体が吹き飛ぶ。
だが、まだ終わらない。
ほむらはすでに次の位置にいた。
銃声、さらに爆発。
魔女が振り向くより早く、ほむらはそこにいない。魔女の口が空を噛む。噛んだ場所には、ただ爆薬だけが残されている。
また爆発。
まどかは、膝から崩れ落ちそうになった。
さやかが腕を掴む。
二人とも、何もできなかった。
マミが消えた。
マミが食べられた。
それなのに、ほむらは迷わず戦っている。
その事実が、怖かった。
ほむらは最後に、魔女の進路へ大量の爆薬を並べた。シャルロッテが突っ込む。口が開く。何もかも呑み込もうとする。
ほむらは、わずかに横へ避けた。
そして、起爆した。
結界全体が白く染まる。
音が遅れてやってきた。
まどかの耳が痛む。さやかが悲鳴を上げる。
爆煙が晴れた時、魔女の姿はなかった。
床の上に、小さなグリーフシードだけが転がっていた。
ほむらはそれを拾い上げる。
顔には何の感情も浮かんでいない。少なくとも、まどかにはそう見えた。
しかし、その手はわずかに震えていた。
「インキュベーター」
ほむらは振り返らずに言った。
「あなた、何をしたの」
キュゥべえは、マミが消えた場所へ歩いていた。
そこには、砕けた布片も、血も、身体もなかった。結界の中に残っているのは、薄い光をまとった黄色の宝石だけだった。
その宝石は、割れていなかった。
透明な殻の中で、弱く、しかし確かに光っている。
キュゥべえはそれを見下ろした。
「巴マミの肉体は破壊された。でも、ソウルジェムは保護できた」
まどかは、意味が分からなかった。
「マミさんは……?」
声が震える。
「マミさんは、死んじゃったの……?」
キュゥべえはまどかを見た。
「通常の人間なら、そう表現するだろうね」
「キュゥべえ!」
さやかが叫んだ。
「でも、魔法少女は通常の人間とは違う」
キュゥべえは、淡々と続ける。
「魂が無事なら、肉体は再構成できる。問題は、これまでその保護が標準運用に含まれていなかったことだ。巴マミほどの戦闘個体を、初見の奇襲一回で失うのは、あまりにも効率が悪い」
ほむらの銃口が、白い獣へ向いた。
「黙りなさい」
「君が僕を撃つことは予測している。けれど――」
銃声がした。
キュゥべえの身体が、白い布のように弾けて床へ転がる。
まどかが悲鳴を上げた。
「ほむらちゃん!」
さやかも声を失っていた。
だが、次の瞬間、瓦礫の陰から同じ白い獣が現れた。
「撃つこと自体は、予測していたと言ったはずだよ」
ほむらは、即座に二発目を向ける。
「あなたは……」
「僕を撃つのは構わない。けれど、暁美ほむら」
キュゥべえは、薄い殻の中で明滅する黄色いソウルジェムを見た。
「本当に巴マミを死なせたままにしたいのかい?」
ほむらの指が止まった。
「……何ですって」
「再構成処理はまだ始まっていない。今ここで僕を撃ち続ければ、巴マミの復元は失敗する可能性がある」
「あなたは……!」
「君が僕を憎んでいることは理解している。けれど、それと巴マミを失うことは別の問題だ」
ほむらは撃てなかった。
黄色いソウルジェムは、弱く、しかし確かに光っている。
マミは消えた。
食べられた。
しかし、終わっていない、そうこの獣は言っている。
ほむらは銃口を下ろさないまま、低く言った。
「続けなさい」
「妥当な判断だね」
「少しでもおかしなことをしたら撃つわ」
「おかしなことの定義を共有してほしいところだけれど」
銃口がわずかに上がる。
「分かった。今の発言は不要だった」
キュゥべえはソウルジェムへ向き直った。