魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
さやかは、自分の手を見ていた。
まだ魔法少女ではない。恭介の腕を治すこともできないし、杏子みたいに槍を振るうことも、マミみたいに銃を出すこともできない、ただの自分の手だった。
何も知らなかった頃と同じだとも、もう思えなかった。
恭介の病室で、自分が何を願いたいのか考えた。
杏子は死にかけて、それでも戻ってきた。
マミはもっとひどい目に遭って、それでも今は紅茶を淹れている。
ほむらは、そんなことを一度や二度ではなく、何度も何度も見てきたのだという。
少し前までなら、どれも別々の話だった。
怖い話。信じられない話。自分にはまだ関係のない、魔法少女たちの話。
でも、今はそう思えない。
恭介を治したいと思うことも、そのために自分が何になるのかということも、壊れた身体が戻ることも、戻ったから何もなかったことになるわけではないことも、全部どこかでつながっている。
さやかにはまだ、それをうまく説明できなかった。
ただ、自分がこれから何かを選ぶなら、もう何も知らなかった頃みたいには選べない。
そんなことだけは、なんとなく分かり始めていた。
恭介の腕を治したい。
それは変わらない。
でも、それが自分の幸せにそのままつながるとは限らない。
恭介が自分を見てくれるとは限らない。
感謝してくれるかもしれない。しないかもしれない。
また音楽の方だけを見て、自分の方を見ないかもしれない。
それでも治したいのか。
さやかは、もう一度自分に聞いた。
答えは、完全には綺麗ではなかった。
でも、前よりは少しだけ、自分の言葉に近づいていた。
「……で」
さやかは顔を上げた。
マミの部屋には、いつもの顔ぶれが揃っていた。
マミ、まどか、ほむら、杏子。
ただ一匹、白いのがいない。
「キュゥべえは?」
まどかが少しだけ苦笑した。
「私の家でアニメ見てるよ」
部屋の空気が止まった。
「……は?」
さやかが、素で聞き返す。
まどかは困ったように笑った。
「今、いいところなんだって」
「何が?」
「プリキュア」
さやかは、しばらく何も言えなかった。
「……あいつ、自分が何をしに来てるか分かってるの?」
「分かってる、とは思うんだけど」
まどかは言いにくそうに続けた。
「あと三クールだから、まだ待ってほしいって」
「三クール!?」
さやかの声が裏返った。
マミは口元に手を当てた。こらえきれなかったらしい。小さく、ふふ、と笑いが漏れた。
杏子は不思議そうに眉を寄せる。
「あいつ、アニメなんて見るんだな」
「見るというより、観測しているらしいよ」
まどかが言うと、杏子はさらに分からない顔になった。
「アニメを観測?」
「うん。魔法少女の肉体強化と感情維持と、マスコットとの信頼関係がどうとか」
「何言ってんだ、あいつ」
「私にも全部は分からないかな……」
ほむらは横を向いていた。
肩が、ほんの少し揺れている。
さやかはそれに気づいた。
「転校生、笑ってる?」
「笑っていないわ」
ほむらは即答したものの、片手で口元を押さえている。
「絶対笑ってるじゃん」
「笑っていない」
「今の顔、ちょっと面白がってる顔だよね」
「違うわ」
マミがまた小さく笑った。
「暁美さん、少し楽しそう」
「あなたまで」
ほむらは不服そうに目を細めた。
杏子が腕を組む。
「で、三クールってどれくらいなんだ?」
マミも首を傾げた。
「私も、正確には分からないわ。暁美さん、分かる?」
ほむらは一瞬だけ黙った。
それから、妙にきちんとした声で答えた。
「一話が二十四分前後。一クールを十二話とすれば、三クールは三十六話。二十四分を三十六話だから、八百六十四分ね」
少しだけ得意げだった。
さやかは、ますます笑いそうになった。
杏子は真面目な顔で考え込む。
「八百六十四分って、一日より長いのか?」
「一日は千四百四十分よ」
ほむらはまた即答した。
やっぱり少し得意げだった。
杏子は感心したように頷いた。
「へえ。意外とあるんだな、一日」
「そこに感心するの?」
さやかが突っ込む。
杏子は肩をすくめた。
「普段、分単位で数えねえし」
「まあ、それはそうだけど」
さやかは、そこでとうとう笑ってしまった。
大きな笑いではない。胸の奥で固まっていたものが、少しだけほどけるような笑いだった。
マミも笑っていた。
ほむらは不本意そうにしながらも、まだ口元を隠している。
杏子は、何がおかしいのか分からないという顔をしながら、少しだけ口の端を上げていた。
まどかは、みんなの様子を眺めていた。
マミさんが笑っていて、さやかちゃんは、とうとう堪えきれなくなって笑っている。
杏子ちゃんは、一日が千四百四十分あることに妙に感心して、まだ少し考えている。
ほむらちゃんは何でもない顔をしているけれど、さっきから時間の計算を答えるたび、ほんの少しだけ得意そうに見える。
みんな、別々だった。
笑っている人もいる。
感心している人もいる。
少し得意になっている人もいる。
キュゥべえはいない。
それなのに、まどかはふと、キュゥべえのことを思い出した。
あの子はずっと、人の気持ちがどう動くのかを見ている。
怖いとき。苦しいとき。誰かを失ったとき。
そういう大きな感情ばかりではなくて、誰かと一緒にいて、笑ったり、呆れたり、少し嬉しくなったりすることまで、最近は気にしている。
まどかは、もう一度みんなを見た。
今は、誰も絶望していない。
誰かが傷ついたわけでもない。
何かを失ったわけでもない。
それでも、気持ちはこんなに動いている。
さやかちゃんは笑っているし、杏子ちゃんは本気で感心しているし、ほむらちゃんはたぶん少し得意になっている。マミさんは、そんなみんなを見てまた笑っている。
それだけなのに、さっきより部屋の中が少し明るくなったように感じた。
もしかすると、キュゥべえが探しているのは、こういうものなのかもしれない。
絶望しなくても、人の気持ちは動く。
壊れなくても、誰かの心は大きく揺れる。
それどころか、一度壊れそうになったものまで、こうして誰かと一緒に笑っているうちに、少しずつ元の形を思い出すことがある。
キュゥべえは、ずっと新しい方法を探している。
でも、まどかにはふと思えた。
探しているものの一部は、もうここにあるんじゃないかな、と。
まどかは、膝の上で手を重ねた。
「どうしたの、鹿目さん?」
マミが優しく聞く。
まどかは首を横に振った。
「ううん。なんでもないです」
「なんでもない顔じゃないけど?」
さやかが覗き込む。
まどかは少し笑った。
「キュゥべえが見たら、きっと記録したがるだろうなって思って」
杏子が顔をしかめる。
「やめろ。あいつに見られてると思うと気分悪い」
ほむらは静かに言った。
「もう見ているかもしれないわ」
全員が一瞬、部屋の隅を見た。
そこに白い獣はいない。
沈黙。
そして、さやかが言った。
「……いや、今はプリキュア見てるんでしょ」
マミがまた笑った。
杏子も今度は声を出して笑った。
ほむらは、今度こそ口元を隠しきれなかった。
まどかも笑った。
少しだけ、ほんの少しだけ。
この部屋の空気は、昨日より軽かった。
さやかは窓の外を見た。
恭介のことは、まだ何も解決していない。
契約のことも、これからだ。
キュゥべえが本当に何を作っているのかも分からない。
それでも、今は少しだけ待てる気がした。
「まったく」
さやかはため息をついた。
「あいつが戻ってきたら、絶対文句言ってやる」
まどかは笑う。
「うん。たぶん、キュゥべえはこう言うと思う」
「何て?」
まどかは少しだけ白い獣の声を真似した。
「待機中の感情変動も、観測価値があるね」
さやかは顔をしかめた。
「言いそう!」
部屋に、また笑いが起きた。