魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
キュゥべえが戻ってきたのは、翌日の夕方だった。
巴マミはいつものように紅茶を淹れている。カップへ注ぐ手にはまだわずかな震えが残っていたが、昨日ほどではない。
その向こう、窓際では杏子が椅子に浅く腰掛け、菓子をつまんでいた。時折こちらへ目を向けてはいるものの、特に口を挟む様子はない。
壁際にはほむらが立っている。その視線を辿れば、ソファの端に座るまどかと、その隣で落ち着かなさそうに何度も指を組み直しているさやかへ行き着いた。
誰もまだ、本題を切り出さない。
その沈黙の中を縫うように、白い獣が音もなく床を横切り、軽く跳んでテーブルの上へ乗った。
「待たせたね」
さやかが、じとっとした目を向ける。
「三クール分?」
「実際には、全話を連続して観測したわけではない。要点は抽出した」
「本当にアニメを研究材料にしたんだ……」
「有用だったよ」
キュゥべえは言った。
「少なくとも、僕らの標準方式に欠けていたものの一部は見えた」
ほむらが目を細める。
「それで、何を作ったの」
キュゥべえは、少しだけ黙った。
いつものように即答しない。
それだけで、まどかは違和感を覚えた。
「新しい契約方式だ」
さやかの肩が強張る。
キュゥべえは続ける。
「従来方式では、魂を肉体から分離し、ソウルジェムに格納する。肉体は魔力で維持される活動体となる。これは観測や管理には便利だが、自己認識の破壊を引き起こしやすい」
マミの指が、カップの取っ手で止まった。
杏子が顔をしかめる。
「ほんと、先に言えって話だよな」
「そうだね」
キュゥべえは即答した。
「君たちには、もっと説明すべきだった」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
杏子が、口を曲げる。
「先に契約したあたしらを前に、よく言うよ」
「分かっている」
キュゥべえは、マミと杏子を見た。
それから、ほむらを見る。
「君たちにも望むなら、この形式へ移行できるか調べる」
杏子の目が細くなった。
「へえ」
軽い声だった。そこにははっきりと何かが混じっていた。
期待ではない。
信用でもない。
ただ、聞く価値はある、という顔だった。
「言ったな」
「言ったよ。ただし、成功を保証するものではない。既存契約者の魂を肉体へ再定着させるには、危険がある」
「そこは相変わらず正直だな」
「正直でなければ、また同じ失敗をする」
マミが小さく息を呑んだ。
キュゥべえは、さやかへ向き直る。
「美樹さやか。君に提示する方式では、魂を肉体から分離しない。魂を、肉体側に保持したまま、魔法少女としての変身を成立させる」
「そんなこと……できるの?」
さやかの声は、思ったより小さかった。
「試みる価値はある」
「できるって言い切らないんだ」
「言い切るべきではない」
キュゥべえは、少しだけ視線を落としたように見えた。
「これは、魂の物質化に近い。肉体、魂、魔力、ソウルジェムを分離せず、重ねたまま魔法少女への変身を成立させる。ソウルジェムは魂の容器ではなく、魔力制御端末、濁度計、非常時保護核として扱う」
ほむらが低く言った。
「それだけ?」
「それだけでは足りない」
キュゥべえはすぐに答えた。
「肉体も強化する。ただし、攻撃力を上げるためではない。君たちの身体は脆い。ソウルジェムも思ったより強くない。外装の強さも限定的だ。だから、変身時の肉体強度を上げる」
杏子が笑った。
「プリキュアみたいにか?」
「そうだね」
キュゥべえは真面目に頷いた。
「あの子たちと、あまり変わらないと思う」
その言葉は、いつものキュゥべえにしては妙だった。
断定しているのに、自信がなさそうに聞こえた。
まどかは首を傾げる。
「どうしたの、キュゥべえ」
「分からない」
キュゥべえは言った。
「この方法が一番正しいかどうかは、まだ分からない。少なくとも、あの作品から得た情報、君たちの戦い、巴マミの復元、佐倉杏子の生還、暁美ほむらの観測、美樹さやかの願い。それらをまとめて作ったものだ」
「アニメと実戦データと願いを一緒にしないでよ」
さやかは呆れたように眉を寄せたが、すぐに口元が緩む。
キュゥべえは続ける。
「肉体強化には条件をつける。君たちの言葉で言えば、仲間との信頼や、互いへの感情的期待値が一時的な補助になる」
「感情的期待値?」
マミが聞き返す。
「お互いがお互いを信じている時、変身時の肉体強度が一時的に上がる。倒れにくくなる。砕けにくくなる。完全ではないが、単独で戦うよりも生存率は上がるはずだ」
杏子が顔をしかめる。
「なんだそりゃ。根性論かよ」
「違う。感情を魔力変換の補助条件に組み込む」
「根性論じゃねえか」
「言い方の違いかもしれない」
ほむらが静かに問いかける。
「信じていなければ弱くなる、ということ?」
「弱くなるというより、補助が発生しない。だから単独戦闘が不可能になるわけではない。ただ、複数人で戦う意味が大きくなる」
マミは、自分の手を見た。
一人で戦ってきた時間。
一人で大丈夫だと思っていた時間。
それらが、少しだけ重く見えた。
「それでも」
キュゥべえは言った。
「魔法少女に一度なったら、戻れないということは変わらない」
部屋が静かになる。
「そこは、あの作品とは明確に違う」
まどかは、テレビの中の少女たちを思い出した。
変身して、戦って、終われば日常へ帰っていく子たち。
笑って、学校へ行って、また次の話で変身する子たち。
キュゥべえは、その部分を見落としてはいなかった。
「この方式でも、契約は契約だ。願いは実行される。魔法少女としての責任も発生する。魔女との戦闘も避けられない。完全に人間のままではない。けれど、従来方式よりも、君たちの自己認識を破壊しにくい可能性がある」
さやかは、じっとキュゥべえを見ていた。
「あたしは」
いったん言葉が止まる。
「あたしは、人間のままでいられるの?」
最後のところだけ、声がわずかに震えた。
キュゥべえはすぐには答えなかった。
さやかの顔を見る。
組んだ指を見る。
それから、もう一度顔へ視線を戻した。
質問の意味そのものが分からないわけではないが、それまでの確認とは少し違うらしい。
少なくとも、さやかが契約を決めるうえで、ここは軽く扱っていい条件ではない。
「君たちの定義に従うなら」
キュゥべえは、いつもより少し言葉を区切った。
「従来方式よりは、ずっと近い」
「近い、か」
「嘘は言わない方がいい」
「うん」
さやかは、少しだけ笑った。
「そこは分かってる」
キュゥべえは、改めて言った。
「では、確認する」
その声は、いつもより丁寧だった。
ひどく事務的で、ひどく慎重で、そして少しだけ不器用だった。
「美樹さやか。君の願いは、上条恭介の腕の治癒でよいかい」
さやかは頷いた。
「うん」
「対象は肉体機能の回復。神経、筋肉、腱、骨、演奏に必要な運動機能を治癒する。ただし、演奏技術そのものの完全回復は、本人の訓練と時間に依存する」
「分かってる」
「上条恭介の感謝、恋愛感情、進路選択、君への評価は、この願いには含まれない」
さやかの顔が少しだけ強張った。
でも、目は逸らさなかった。
「分かってる」
「願いを叶えること自体はできる。けれど、それが君の幸せにつながるとも、上条恭介の幸せにつながるとも限らない。それは別の問題だ」
さやかは唇を噛んだ。
キュゥべえは続ける。
「そこを同じものとして見ないことが難しい、ということは、僕にも説明できる。けれど、僕には分からない」
「……そうだね」
さやかは小さく息を吐いた。
「そこは、あたしの問題」
まどかが、さやかを見つめる。
マミは何も言わなかった。
杏子も、菓子を食べる手を止めていた。
ほむらは、じっとさやかを見ている。
さやかは顔を上げた。
「恭介の腕が治っても、あいつがあたしを選ぶとは限らない。あたしのことなんか見ないで、また音楽だけを見るかもしれない。それで、あたしが傷つくかもしれない」
「可能性は高い」
「そこは少し黙ってて」
「分かった」
キュゥべえは黙った。
さやかは、少しだけ笑う。
「でも、治したい」
声は震えていた。
「それは、嘘じゃない。あたしが綺麗な気持ちだけで願ってるわけじゃないのも、たぶん本当。感謝してほしくないわけじゃない。見てほしくないわけじゃない。でも、それでも、あの手がもう一度動くなら……恭介がもう一度弾けるなら」
さやかは胸元を押さえた。
「治したい」
まどかの目に涙が浮かんだ。
マミは、静かに頷いた。
杏子は小さく舌打ちした。
「ま、そういう願いなら、止める筋合いはねえな」
ほむらは何か言いかけて、やめた。
過去の時間で、美樹さやかは壊れた。
でも、これは同じ契約ではない。
同じ願いでも、同じ条件ではない。
キュゥべえは、最後にもう一度聞いた。
「美樹さやか」
「うん」
「それでも契約するかい?」
さやかは、まっすぐに答えた。
「する」
キュゥべえは、赤い目で彼女を見た。
「了解した。新方式で契約を実行する」
杏子がぼそりと言った。
「ほんと、丁寧になったな」
「契約は本来、これくらい慎重に行うべきだった」
「最初からやれ」
「そうだね」
キュゥべえは、もう一度そう言った。
「そうするべきだった」
部屋の中に、誰も茶化せない沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、さやかはゆっくり息を吸った。
もう逃げ道がないからではない。
知らなかったからでもない。
知ったうえで、願う。
その重さを、少しだけ理解したうえで。