魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
マミの部屋で、キュゥべえはもう一度確認をした。
「美樹さやか。君の願いは、上条恭介の腕の治癒。対象は演奏に必要な肉体機能の回復。ただし、彼の感謝、恋愛感情、進路選択、君への評価は願いに含まれない」
「分かってる」
さやかは、もう目を逸らさなかった。
「願いを叶えることはできる。けれど、それが君の幸せにつながるとも、上条恭介の幸せにつながるとも限らない。それは別の問題だ」
「そこは、あたしの問題」
さやかは小さく息を吐いた。
「それでも、治したい。恭介がもう一度弾けるなら、それは……嘘じゃないから」
キュゥべえは赤い目でさやかを見た。
「それでも契約するかい?」
「する」
迷いは残っていた。
怖さもあるし、期待もある。
きっと、綺麗な気持ちだけではない。
それでも、さやかは頷いた。
キュゥべえはすぐには動かなかった。
「では、場所を移そう」
「え?」
さやかが間の抜けた声を出す。
杏子が窓際で菓子を噛み砕きながら、眉を上げた。
「ここでやんじゃねえのかよ」
「この方式は初回適用になる。周囲への魔力干渉が読めない。巴マミの居住空間で行うべきではない」
「急にまともなこと言うな」
「失敗した場合、家具や壁よりも、ここにいる君たちの精神状態に影響する可能性がある」
「そこは家具の心配から入ってよ」
さやかが思わず突っ込むと、まどかが少しだけ笑った。
マミはカップを置いた。
「なら、外へ行きましょう。……私も行くわ」
ほむらは黙っていたが、壁から離れた。
杏子は槍も出さずに肩をすくめる。
「逃げるなら今だぞ」
「逃げないってば」
「そうかよ」
杏子は軽く笑った。
「じゃ、見届けてやる」
キュゥべえは扉へ向かった。
「この方式では、初期安定に周囲の感情的接続が影響する可能性がある。君が信頼できる相手が近くにいた方がいい」
「感情的接続って言い方、ほんと最悪」
さやかが言うと、キュゥべえは首を傾げた。
「仲間が近くにいた方がいい、という表現なら適切かな」
まどかが頷いた。
「そっちの方がいいと思う」
「分かった。以後検討する」
「検討じゃなくて使いなさいよ」
さやかはそう言って、マミの部屋を出た。
夜の見滝原は静かだった。
全員で歩くには、少し奇妙な距離だった。
まどかはさやかの隣。マミはその少し後ろ。杏子は気楽そうにフェンスの上を歩き、ほむらは最後尾で周囲を見ている。キュゥべえは先頭を歩いていた。
目的地は、住宅街から少し外れた公園だった。
昼間なら子どもたちが遊んでいる場所。
夜になると、街灯の輪だけが地面に落ち、ブランコが風でわずかに揺れている。
日常の場所なのに、今は境界のように見えた。
「ここで行う」
キュゥべえが言った。
「結界ではないのね」
マミが静かに問う。
「結界内では周囲の魔力残滓が混ざる。今回は、美樹さやか本人と、ここにいる君たちの反応を優先したい」
「ほんとに、ずいぶん変わったわね」
ほむらが言った。
「変わったかどうかは評価中だよ」
「それも聞き飽きたわ」
さやかは公園の中央に立った。
足元は普通の地面だった。砂と、少し湿った土。
何も特別なものはないと思うが、心臓の音が大きい。
まどかが、そっと言った。
「さやかちゃん」
「大丈夫」
さやかは笑った。
「たぶん、あんまり大丈夫じゃないけど。でも、大丈夫」
杏子が小さく鼻を鳴らす。
「そういうの嫌いじゃねえよ」
マミは両手を胸の前で重ねた。
「美樹さん。あなたの願いを、私は否定しないわ。でも、あなたがあなたを失いそうになったら、止める」
「……はい」
ほむらは何も言わなかった。
さやかが視線を向けると、ほむらは少しだけ目を細めた。
「無茶をしないで」
「それ、あたしに言う?」
「あなたに言っているの」
さやかは苦笑した。
「努力する」
キュゥべえがさやかの前に座った。
「美樹さやか。最後にもう一度確認する。君は、上条恭介の腕の治癒を願う。その代償として、魔法少女になる。従来方式とは異なり、魂は肉体側に保持する。ソウルジェムは魂の容器ではなく、魔力制御端末、濁度計、非常時保護核として生成する」
「うん」
「肉体は変身時に強化される。ただし、攻撃力の増加よりも損傷耐性と自己同一性維持を優先する。仲間との信頼が一定条件を満たした場合、肉体強度に一時的な補助が発生する」
「それ、要するに」
さやかはちらりと皆を見た。
「みんながいてくれた方が、あたしは折れにくいってこと?」
「かなり乱暴だが、概ね正しい」
杏子が笑った。
「いいじゃねえか。折れにくいさやか」
「折れにくいって言うな」
さやかの声は震えていたが、笑えた。
キュゥべえは続ける。
「この契約は不可逆だ。魔法少女になった後、完全に元の人間へ戻る方法は、現時点では存在しない」
その言葉で、公園の空気が重くなった。
さやかは目を閉じた。
恭介の手。
落ちたディスク。
荒れた声。
もう一度弾けるなら。
そして、自分の中にある、小さくて情けない期待。
見てほしい。
感謝してほしい。
でも、それだけではない。
目を開ける。
「それでも、願う」
キュゥべえは言った。
「契約を開始する」
白い獣の耳から伸びた輪が、淡く光った。
さやかは身構えた。
身体のどこかから、何かが失われるような感覚を予想していたわけではない。ただ、これから自分が変わるのだと思うと、無意識に息が止まった。
――最初に感じたのは喪失ではなかった。
自分の鼓動だった。
どくん。
それは自分の身体の中から響いた。
どくん。
青い光が、胸の奥で灯る。
宝石が外に生まれるのではない。
身体の中心にあったものが、表面へ向かって形を取っていく。
血管のように、あるいは神経のように。
音楽の譜面に走る線のように。
青い光が胸から肩へ、腕へ、指先へ流れた。
腹部を通り、脚へ、足元へ届く。
さやかは息を呑む。
身体が軽くなるのではなかった。
むしろ、重さがあった。
足が地面を踏んでいる。
膝に力が入る。
指が開く。
心臓が鳴る。
自分の身体だ。
そう思えた。
光が皮膚の上でほどけ、衣装になる。
白と青。
それは確かに、さやからしい色だったが、どこか違う。
布はただの飾りではなく、身体に沿って重なっていた。肩には薄い防護の輪郭があり、前腕には手甲のような青い装甲が生まれる。胸元の宝石は、外にぶら下がる核ではなく、身体と衣装の境目に埋め込まれたように光っていた。
そこから細い青い線が、鎖骨、腕、腹、脚へと走っている。
宝石だけが本体なのではない。
全身が、その光につながっている。
スカートは軽やかだったが、下には短い防護レイヤーが重なっている。
足元にブーツが形作られる。それはきれいな靴というより、走るためのものだった。足首が固定され、踵が地面を捉え、つま先に力が逃げない。
さやかは一歩踏み出し、砂を蹴った。
軽いけど、ふわふわしていない。ちゃんと地面が返ってくる。
最後に、右手の中で光が伸びる。
剣が現れた。細く美しいだけの剣ではなかった。
刃は少し厚く、受けるための重さがある。柄は手に吸い付くように馴染み、まるで最初からそこにあった骨の延長のようだった。
さやかは剣を握る。
「……これ」
声が出た。
「ちゃんと、あたしの手だ」
まどかが目を見開いていた。
「さやかちゃん……」
マミは息を呑んだ。
「違う……」
それは否定ではなかった。
驚きだった。
「私たちの時と、違うわ」
杏子も黙って見ていた。
「硬そうだな」
その感想に、さやかは思わず笑いそうになった。
「第一声それ?」
「いや、だってよ」
杏子は真面目な顔で、さやかの姿を上から下まで見た。
「あたしが知ってる魔法少女って、もっと軽そうな格好してんだよ。お前のは……なんつうか」
少し考えて、杏子は足元を見る。
「ちゃんと踏ん張れそうだ」
ほむらは、何も言えなかった。
彼女の知る美樹さやかの魔法少女姿は、もっと儚かった。
青く、綺麗で、まっすぐで、そしてどこか壊れることを前提にしたような姿だった。
目の前にいるのは、確かに美樹さやかだった。
見慣れた顔も、剣を握る姿も、ほむらの記憶にあるものと大きくは変わらない。
胸元だけが違う。ソウルジェムが、身体から切り離された核のように浮いていない。そこから広がる光は全身へ溶け込み、鼓動に重なるような間隔で、ゆっくりと脈打っていた。
ほむらは小さく呟いた。
「これは……私の知っている契約じゃない」
キュゥべえが答える。
「そうなるように設計した」
さやかは自分の腕を動かした。
軽い。けれど、軽すぎない。
強い。けれど、人間でなくなった感じではない。
さやかは一度、手を握って、開いた。
それから剣を持ち上げる。試すように、軽く横へ振っただけだった。
空気が裂けた。遅れて風圧が頬を打ち、少し離れた床の埃がまとめて払われる。
さやか自身が、目を見開いた。
「……え」
今の動きに、力を込めたつもりはなかった。
それでも、剣先が通ったあとの空間には、まだ低い風鳴りが残っていた。
次の瞬間、さやかの足元で青い光が跳ねる。
彼女の身体が前へ出た。
速いが、制御できないような感じはしない。
自分の重心が分かる。
どこに力を入れれば止まれるかが分かる。
さやかは砂場の手前でぴたりと止まった。
「すごい……」
思わず声が漏れる。
「でも、怖くない」
まどかが両手を胸の前で握った。
「さやかちゃん、ちゃんとさやかちゃんだよ」
その言葉が届いた瞬間、さやかの胸元の光が少し強くなった。
青い線が白く瞬く。
腕の手甲、ブーツの縁、スカートの裾。
ほんの一瞬、薄い膜のような光が全身を包んだ。
キュゥべえの耳がぴくりと動く。
「感情的接続による補助反応を確認」
「今それ言う?」
杏子が呆れる。
「重要だよ」
ほむらは、まどかとさやかを見ていた。
まどかが名前を呼んだ。
それだけで、さやかの身体が強くなった。
ばかげている。
理屈としては不安定すぎる。
でも。
ほむらは、ほんの少しだけ目を伏せた。
もし、過去の時間のさやかにも、これがあったなら。
そう考えそうになって、やめた。
マミが一歩近づいた。
「美樹さん。気分は?」
「変です」
さやかは正直に答えた。
「でも、嫌じゃないです。身体の中に、ちゃんと自分がいる感じがします」
マミの表情が、少しだけ揺れた。
それは、彼女が知らなかった感覚だった。
杏子はキュゥべえを見る。
「おい」
「何だい」
「これ、あたしらにもできるか調べるって言ったな」
「言ったよ」
「絶対調べろ」
「調べる」
「失敗したら?」
「失敗しない方法を探す」
杏子は少しだけ笑った。
「言うようになったじゃねえか」
キュゥべえはさやかを見た。
「美樹さやか。契約は成立した。願いは実行される」
その瞬間、さやかは病院の方角を見た。
遠く離れた病室。
包帯の巻かれた手。
弦を失った指。
その手に、光が届くのだと分かった。
さやかは剣を握りしめた。
嬉しい。
怖い。
泣きたい。
笑いたい。
全部が同時に来た。
「恭介……」
小さく呟いたその声は、夜の公園に溶けた。
まどかがそっと近づき、手を伸ばした。
「さやかちゃん」
さやかは振り返る。
「うん」
その返事と同時に、胸元の光がもう一度脈打った。
どくん。
それはソウルジェムの音ではなかった。
さやか自身の鼓動のように聞こえた。