魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
夜の公園には、もう誰もいなかった。
さやかの契約が終わり、まどかたちはそれぞれ帰った。
マミは最後までさやかを気にしていたが、杏子が「今日はもう帰らせろ」と言い、さやか自身も「大丈夫」と笑った。
大丈夫。
その言葉が本当かどうかは分からない。
少なくとも今夜の美樹さやかは、自分で選んだ。
知らないままではなかった。
騙されたわけでもなかった。
ほむらは、誰もいなくなった公園の中央に立っていた。
「キュゥべえ」
白い獣は、ブランコの上に座っていた。
「なんだい」
「少し話があるわ」
キュゥべえは、赤い目でほむらを見つめた。
「僕も、殺される趣味があるわけじゃないよ」
ほむらは一瞬、言葉を失った。
胸の奥に、ほんの少しだけ痛みのようなものが走った。
やはり、そういう目で見られるのか。
当然だ。
自分は何度も撃った。
何度も殺した。
今のキュゥべえがどれほど違って見えても、自分がしてきたことが消えるわけではない。
でも、今言いたいのはそれではなかった。
「撃つために呼んだわけじゃない」
「そうかい」
「あなたに聞きたいことがある」
キュゥべえはブランコの上で尻尾を揺らした。
「答えられる範囲なら答えるよ」
ほむらは、夜の公園を目を移した。
つい先ほど、ここで美樹さやかが魔法少女になった。
彼女の胸元の宝石は、身体から切り離された異物のようには見えなかった。
光は全身を巡り、彼女は自分の身体を自分のものとして確かめていた。
ほむらの知る契約ではなかった。
「あなた」
ほむらは言った。
「こんなことができるなら、最初からそうしていればよかったじゃない」
キュゥべえは、すぐには答えなかった。
夜風で、空のブランコが小さく揺れる。
「言っただろう、ほむら」
「何を」
「僕はサラリーマンだ」
ほむらは目を細めた。
「そうかしら」
キュゥべえは一拍置いた。
「すまない。間違えた」
「何を?」
「ただの端末だ」
ほむらは、少しだけ息を呑んだ。
「……そうね」
そうだ。
キュゥべえは端末だ。
本体の意思を伝え、契約を取り、魔法少女を管理するための端末。
そして、自分も。
まどかを救うという願いに縛られ、同じ時間を繰り返し、目的のためだけに自分を削ってきた。
人間の姿をしていても、どこかで自分を端末のように扱ってきた。
まどかを救うための、ただの端末。
キュゥべえは言った。
「君も、そうだった」
ほむらは否定しなかった。
「だから」
キュゥべえは続ける。
「君にも、端末ではないように戻す」
ほむらの目が揺れた。
「戻す?」
「その方が、きっといいから」
声はいつものままだった。
平坦で、熱も揺らぎもない。
なのに、その言葉だけが、妙に異物のように聞こえた。
「宇宙の熱的死を遅らせるために?」
ほむらは、わざと冷たく問うた。
キュゥべえは首を横に振らない。
ただ、赤い目でほむらを見た。
「それだけではない」
ほむらは息を止めた。
「君たちの尊厳のためにだ」
沈黙が落ちた。
ほむらは、本当に驚いていた。
そんな言葉を、果たしてキュゥべえが言っただろうか。
尊厳。
この白い獣が。
魔法少女を燃料として扱い、魂の位置さえ説明しなかった存在が。
その口で、尊厳と言った。
ほむらは、何かを言おうとして、言えなかった。
キュゥべえは、静かに続ける。
「従来方式は、君たちを感情資源として扱うには効率的だった。けれど、君たち自身の自己認識を破壊する。自分が人間ではないと知り、身体を端末だと認識し、願いと結果のずれに耐えられなくなる。これは、長期運用上の損失であると同時に、君たちの尊厳を損なっている」
ほむらは、まだ黙っていた。
キュゥべえが、そんなふうに言う。
そのことが、何よりも恐ろしかった。
「……あなた、本当にキュゥべえ?」
「僕はキュゥべえだよ」
「本当に?」
「少なくとも、この個体はそう名乗っている」
「そういうところは変わらないのね」
「そうだね」
ほむらは小さく息を吐いた。
その時だった。
キュゥべえが、いつもの調子で言った。
「今、僕が意外なことを言ったことで、君の感情値は高まった」
ほむらの表情が消えた。
「……は?」
「やはり、絶望だけを糧にする方式は無駄が多い。驚き、困惑、わずかな安堵、警戒、苛立ち。これらも十分に観測価値がある」
ほむらはしばらくキュゥべえを見つめていた。
それから、深くため息をついた。
「やっぱり変わっていないわね、あなた」
「そうだよ」
キュゥべえは当然のように答えた。
「僕は僕だ」
「ええ。安心したわけではないけれど、納得はしたわ」
「納得は感情の安定に寄与する?」
「今それを聞くの?」
「参考にしたい」
ほむらは片手で額を押さえた。
「……あなたは本当に、どこまで行ってもあなたね」
「それは良いことなのかい?」
「悪いことでも、良いことでもないわ」
ほむらは夜空を見上げた。
「ただ、以前よりは少しだけ面倒になった」
「面倒?」
「殺せばいいだけではなくなったということよ」
キュゥべえは少し考えたようだった。
「それは僕にとっては有利な変化だね」
「そういうところ」
ほむらは呆れたように言う。
キュゥべえはブランコから降りた。
「サラリーマンは組織の犬だよ」
ほむらは、思わず目を細めた。
「その言い方、どこで覚えたの」
「佐倉杏子が似たようなことを言っていた」
「杏子ね……」
「本体の方針に従うだけなら、僕はただの端末だ。けれど、現場観測の結果、本体の実装は非合理である可能性が高い。ならば、端末として報告し、改善案を 提出し、試験運用を行うべきだ」
「ずいぶん律儀な反逆ね」
「反逆ではない。業務改善だよ」
ほむらは、少しだけ口元を緩めた。
「やっぱり変わっていたわ」
「変わっているのかい?」
「ええ」
ほむらはキュゥべえを見下ろした。
「前のあなたなら、そんなふうに自分を端末だとは言わなかった。まして、端末ではないように戻すなんて、言わなかった」
「そうかい」
「でも、変わったからといって、信じたわけじゃない」
「それは妥当だ」
「さやかに何かあったら」
「撃つのかい」
「ええ」
「理解した」
キュゥべえはあっさり頷いた。
「ただし、美樹さやかに何かあった場合、僕を撃つより先に状況を確認してほしい。僕の個体破壊によって対応が遅れる可能性がある」
「……本当に、そういうところ」
「合理的な提案だと思うけれど」
「ええ。合理的よ」
ほむらは静かに言った。
「腹立たしいくらいに」
風が吹いた。
ブランコが揺れる。
ほむらは、もう一度だけキュゥべえを見た。
「あなたは、まどかを契約させるつもり?」
「現時点では推奨しない」
「現時点では?」
「未来の全条件を否定することはできない。鹿目まどかに高因果負荷を集中させる運用は、長期収支でも、君たちの尊厳という観点でも望ましくない」
ほむらは黙った。
尊厳。
また、その言葉。
「……その言葉、本当に分かって使っているの?」
「定義はまだ不完全だ」
キュゥべえは答えた。
「君たちを端末や燃料として扱わないために必要な概念だと判断している」
ほむらは、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「そう」
それ以上、何も言えなかった。
キュゥべえは歩き出す。
「では、僕は戻るよ」
「どこへ」
「まどかの家だ。次のシリーズも観測する必要がある」
ほむらは一瞬、固まった。
「……まだ見るの?」
「シリーズごとに、変身条件、マスコットとの関係、仲間同士の補助構造が違う。比較対象は多い方がいい」
「あなた、本当に何をしているの」
「契約方式の改修だよ」
「アニメ鑑賞ではなく?」
「君たちの言葉では、そう分類される可能性もある」
ほむらは額に手を当てた。
「まどかの家で、次のシリーズを見るのね」
「そうだよ。鹿目まどかは、録画という仕組みを提供してくれる」
「……まどかも止めなさいよ」
「彼女は『キュゥべえが楽しそうならいいかな』と言っていた」
「楽しんでいるの?」
キュゥべえは少し考えた。
「分からない。ただ、観測価値は高い」
ほむらは小さくため息をついた。
「やっぱり変わっているわ、あなた」
ほむらは、今度こそ少し笑った。
とても小さな笑いだった。
「キュゥべえ」
「なんだい」
「あなた、本当に変わったわ」
「そうかい」
「でも、まだ信用はしない」
「理解している」
キュゥべえはそう言って、夜の公園を出ていった。
ほむらは一人残った。
殺せばいいだけだった相手が、そうではなくなっている。
敵であることに変わりはない。
危険であることにも変わりはない。
それでも。
尊厳のために。
その言葉だけが、夜風の中でいつまでも消えなかった。