魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
まどかの家に戻ったキュゥべえは、テレビの前にはいなかった。
珍しいことに、勉強机の上に座っていた。
まどかはパジャマに着替えたあと、自分の部屋へ戻ってきて、そこで白い背中を見つけた。机の上にはノートも教科書も広げていない。ただ、キュゥべえの前の空中に、薄い光の板のようなものが浮かんでいる。
そこに、文字が並んでいた。
まどかにも読める文字だった。ただし、内容はよく分からない。
見滝原地区ローカル運用改善試験
第一次契約方式変更報告
対象個体:美樹さやか
魂分離処理:未実施
ソウルジェム機能:制御端末/濁度計/非常時保護核
感情的接続による肉体強度補助:初期反応あり
継続観測を推奨
まどかは、しばらくそれを見ていた。
「キュゥべえ」
「なんだい、まどか」
キュゥべえは振り返らない。
尻尾だけがゆっくり動いている。
「何してるの?」
「上への報告書だよ」
「上?」
「インキュベーターの本体だね」
「ああ……」
まどかは少しだけ首を傾げた。
「それって、仕事ってこと?」
「そうだね」
キュゥべえは、当然のように答えた。
「仕事をしているんだ」
まどかは、少しだけ意地悪な気持ちになった。
「さっき、アニメ見てさぼってたもんね」
キュゥべえは、ようやく振り返った。
赤い目は、いつも通りだった。
怒ってもいないし、困ってもいない。そもそも、この白い獣に「怒る」とか「困る」という状態が本当にあるのか、まどかにはまだよく分からない。
「あれはさぼりじゃないよ、まどか」
「そうなの?」
「業務改善のために必要なものだよ」
声は至って冷静だった。
本当に、少しも動揺していない。
まどかは、思わず笑いそうになった。
「お母さんも、そんなこと言ってた」
「鹿目詢子が?」
「うん」
まどかは椅子に座らず、ベッドの端に腰を下ろした。
「お母さん、仕事で人とご飯食べたり、お酒飲んだりすることがあるんだけど。私が小さい頃、それって遊びじゃないのって聞いたことがあって」
キュゥべえは黙って聞いていた。
「そしたら、お母さんが言ってたの。遊んでいるように見えても、仕事で必要なことだからって。人と話すとか、相手のことを知るとか、そういうのも仕事なんだって」
「そうか」
キュゥべえは短く言った。
それから、少しだけ間を置く。
「文明が違っていても、仕事の形は同じなのかもしれないね」
「どうだろう」
まどかは苦笑した。
「それは分からないかな」
「なぜ?」
「だって、キュゥべえの仕事とお母さんの仕事は、たぶん全然違うから」
「目的は違う。ただ、現場から得た情報を上位組織へ提出し、改善案を通すために報告書を書くという点では似ている」
「そう言われると、似てる……のかな」
まどかは、空中の文字をもう一度見た。
そこには新しい行が増えていた。
従来方式は短期回収効率に優れるが、自己認識破壊による濁度上昇、魔女化移行、個体損耗を誘発しやすい。
保護外装のみでは不足。
契約時説明、魂保持型変身、肉体強度補助、感情的接続の維持を組み合わせた運用を試験中。
「これ、私が見てもいいの?」
まどかは聞いた。
キュゥべえは少し首を傾げた。
「見えているなら、見てもいいということだよ」
「そういうもの?」
「少なくとも、今はそういう運用にしている」
「運用……」
まどかはその言葉を繰り返した。
本当なら、キュゥべえはこんなものを見せなかったのかもしれない。
でも、まどかにはそれが分からない。
最初からこういうものだったと言われれば、そうなのかと思ってしまう。
ほむらちゃんなら、きっと気づくのかな。
そんなことを、まどかは少しだけ思った。
報告書の中に、まどかの知らない言葉があった。
グリーフシード要求量:従来方式比で低下見込み。
濁度蓄積経路:魂格納体由来から制御端末由来へ変更。
「キュゥべえ。これ、どういう意味?」
「美樹さやかは、従来方式ほどグリーフシードを必要としない可能性がある」
「必要じゃなくなるの?」
「不要にはならない。従来方式では必要になるように作られていた部分が大きい」
「……必要になるように?」
「そうだよ。詳しくは、実戦後の濁度推移を見てから判断する」
キュゥべえは、また文字を書き続けていた。
文字は、まどかが普段見る日本語に近いのに、ところどころ変だった。意味は分かるのに、温度がない。作文というより、機械が項目を並べているようだった。
その中に一つだけ、妙に目立つ言葉があった。
尊厳概念:暫定的に有効変数として採用。
まどかは目を瞬いた。
「尊厳?」
「そうだよ」
「キュゥべえが書いたの?」
「僕が書いた」
「……分かるの?」
「定義はまだ不完全だ」
キュゥべえは、いつもの調子で答えた。
「君たちを端末や燃料として扱わないために必要な概念だと判断している」
まどかは黙った。
端末。
燃料。
嫌な言葉だった。
でも、キュゥべえはそれを嫌な言葉として言っているのではない。
たぶん、本当にそういう分類をしていたのだろう。
そして今は、それを変えようとしている。
「キュゥべえ」
「なんだい」
「それ、本体っていう人たちに怒られないの?」
「人たちではないけれど、否定される可能性はある」
「怖くないの?」
「怖い、という感情はない」
「そっか」
「ただし、試験継続が不許可になれば、見滝原地区のローカル改善は停止する可能性がある。だから、報告書の表現は重要だ」
「表現?」
「本体は結果を重視する。だから、君たちの尊厳を守るべきだ、という言い方だけでは不十分だ。尊厳を守ることが、長期収支にも有効であると示す必要がある」
まどかは、少し困ったように笑った。
「やっぱりキュゥべえだね」
「どういう意味だい?」
「優しいことを言ってるようで、そうじゃないところ」
「優しくなったわけではないからね」
「うん。知ってる」
まどかはベッドに座ったまま、膝の上で手を重ねた。
「でも、さやかちゃんのこと、ちゃんと考えてくれた」
「美樹さやかを早期に損耗させるのは不合理だ」
「そういう言い方」
「他にどう言えばいい?」
まどかは少し考えた。
「さやかちゃんが壊れなくてよかった、かな」
キュゥべえは黙った。
それから、空中の報告書の端に、小さく一文を追加した。
対象個体の自己同一性維持に成功。周辺個体は「壊れなくてよかった」と評価。
まどかは思わず吹き出した。
「それ、そのまま書くの?」
「君の表現は有用かもしれない」
「本体の人たち、分かるかな」
「分からない可能性が高い」
「じゃあ、書いても意味ないんじゃない?」
「意味がないかどうかは、提出後の反応で判断する」
「まじめだね」
「仕事だからね」
その答えがあまりにも当然だったので、まどかはまた笑った。
キュゥべえは報告書を書き続ける。
テレビは消えている。
部屋の明かりは柔らかい。
外では夜が深くなっている。
まどかは、机の上の白い獣を見た。
宇宙の熱的死を遅らせるためにやってきた存在。
魔法少女を燃料として見ていた存在。
でも今は、まどかの部屋で、アニメを見たことを業務改善だと言い、さやかの契約について報告書を書いている。
おかしい。
とてもおかしい。
でも、少しだけ、悪くない気もした。
「ねえ、キュゥべえ」
「なんだい」
「仕事、終わったら寝るの?」
「僕は睡眠を必要としない」
「そっか」
「ただ、まどか。君は睡眠を必要とする」
「あ」
まどかは時計を見た。
思っていたより遅い。
「もうこんな時間」
「睡眠不足は翌日の判断能力と感情安定性に影響する」
「そこは普通に、おやすみって言ってよ」
キュゥべえは少し考えた。
「おやすみ、まどか」
今度は余計な説明を足さなかった。
まどかはそれに気づいて、少しだけ笑う。
「うん。おやすみ、キュゥべえ」
まどかがベッドに入って明かりを落としても、空中の文字はしばらく薄く光っていた。
キュゥべえは報告書を書き続けている。
希望絶望相転移方式の単位回収効率は、依然として極めて高い。
ただし、対象個体の不可逆損耗、周辺個体への濁度伝播、契約候補者の不安定化、高因果個体への負荷集中を考慮すると、長期運用上の損失が大きい。
非破壊型感情変動運用は、単発出力では劣る可能性が高いが、対象個体の継続稼働により累積収支で上回る可能性がある。見滝原地区ローカル改善試験の継 続を申請する。
まどかは、もう半分眠りかけていた。
最後に見えたのは、報告書の末尾だった。
追記:対象個体群は、壊れない方がよい。
まどかは、それを見て少しだけ笑い、目を閉じた。