魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
翌日の放課後、さやかは病院へ向かった。
足取りは、前にここへ来た時より軽かったが、胸の中まで軽いわけではない。
歩いていると、昨日の戦いが何度も頭に浮かんだ。
魔女に吹き飛ばされ、壁へ叩きつけられた瞬間の衝撃。息が詰まり、身体中が痛くて、次にまた立てるのか本気で怖くなったこと。
それでも立ち上がれた。
マミがいた。杏子が前に出て、ほむらが隙を作ってくれた。遠くから、まどかが何度も自分の名前を呼んでいた。
気がつけばまた剣を握っていて、最後にはちゃんと自分の足で立ったまま、魔女が消えるところまで見届けていた。
勝ったのだ。そう思うと、今でも少しだけ胸が熱くなる。
けれど、今日はそのために病院へ来たわけではない。
戦うよりも前に、もう一つ確かめたいことがあった。
自分が魔法少女になった、その瞬間に願ったこと。
恭介の腕は、もう治っているはずだった。
病室の前まで来て、さやかは一度足を止めた。
「……よし」
何がよしなのかは分からない。
ただ、前と同じように笑顔を作ってから入るのはやめた。
ノックをする。
「恭介?」
「さやか?」
返事があった。
さやかは扉を開けた。最初に見たのは、恭介の右手だった。包帯はまだ巻かれているが、動いていた。ベッドの上で、指が一本ずつ曲がる。
ゆっくりではあるが、ぎこちなく、それでも確かに。
「……動いてる」
自分でも驚くくらい、小さな声が出た。
恭介は自分の手を見て、それから笑った。
その顔を、さやかは久しぶりに見た。
「うん」
指を握ってから、開く。また握る。
「先生も驚いてた。神経の反応が急に戻ってるって。まだ筋力も落ちてるし、前みたいに動かすには時間がかかるらしいけど」
「そっか」
「でも」
恭介は、右手を見たまま言った。
「弾けるかもしれない」
さやかの胸の奥が熱くなった。
本当によかった。それだけしか思えなかった。
「よかったじゃん!」
今度は、ちゃんと笑えた。
「ほんとによかったね、恭介!」
「うん」
恭介も笑った。
それから、少しだけ言いにくそうに視線を落とした。
「さやか」
「ん?」
「この前は、ごめん」
さやかは一瞬、何のことか分からなかったが、次の瞬間には、あの日の病室が頭の中に戻ってきた。床に落ちたディスクと、それを拾えずにいた恭介の手。
苛立ちを押さえきれないまま、「もう持ってこなくていい」「音楽なんて聴きたくない」と言った声まで、妙にはっきり思い出せた。
さやかは、ほんの少しだけ息を止めた。
「ああ」
さやかは少しだけ目を逸らした。
「別にいいよ。あれは……まあ、しょうがないっていうか」
恭介はすぐには答えなかった。
少し視線を落として、自分の手を見る。
「……しょうがなくはないよ」
声は小さかった。
「あのとき、僕、さやかに当たったから」
動くようになった指を、ゆっくり握る。
「君は何も悪くなかったのに」
恭介は言った。
「さやかに言うことじゃなかった」
「でも、誰かには言いたかったんでしょ」
恭介は黙った。
それから、小さく頷いた。
「たぶん」
「じゃあ、いいじゃん」
「よくないよ」
「細かいなあ」
さやかが笑うと、恭介も少しだけ笑った。
「でも、来てくれてよかった」
さやかの笑顔が止まった。
「え?」
「あの日」
恭介は、自分の右手を見ながら言った。
「誰にも会いたくないって思ってた。何を言われても腹が立ってたし。希望を持てとか、諦めるなとか、全部嫌だった」
さやかは何も言わなかった。
恭介の指が、ゆっくりと曲がる。
それを見つめたまま、しばらく言葉が続かなかった。
「……さやかにも、酷いこと言ったけど」
そこでようやく、恭介はさやかを見る。
「それでも来てくれたよね」
少し間を置く。
「誰も来なかったら、それはそれで、たぶんもっと嫌だった」
さやかは何も言えなかった。
「だから」
恭介は顔を上げた。
「ありがとう、さやか」
胸の奥で、何かが跳ねた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
さやかは思った。
もしかして、何か、分かったのか。
自分が……。でも、すぐに違うと分かった。
恭介は魔法少女のことも、願いのことも、知らない。
ましてや、昨夜、自分が魔女と戦ったことも――。
何も知らない。
恭介が礼を言っているのは、腕を治した誰かにではない。
あの日、病室へ来た自分にだった。
「……そっか」
さやかは笑った。
今度の笑顔は、少しだけ変な形になった。
「じゃあ、あたし、いいところで来たんだ」
「うん」
「そっかあ」
妙に嬉しかった。腕を治したことを感謝されたわけではない。
そこは少しだけ、おかしかった。
自分が一番大きなことをした部分を、恭介は永遠に知らないかもしれない。
でも。
魔法なんか使っていなかった日の自分が、ただ顔を見に来ただけの自分が、ちゃんと恭介の役に立っていた。
それは、思っていたよりずっと嬉しかった。
「さやか?」
「何でもない」
さやかは首を横に振った。
「それで? いつから弾けるの?」
その言葉を待っていたように、恭介の顔が明るくなった。
「今日、先生が少しだけならって」
「今日!?」
「本当に少しだけだよ。まだ指を動かす練習からだし、無理はするなって言われてる」
そう言いながら、恭介はベッド脇へ視線を向けた。
ケースが置いてあった。
ヴァイオリン。
さやかは、それを見ただけで胸がいっぱいになった。
恭介は慎重にケースを開き、楽器を取り出す。
まだ右腕は思うようには上がらない。
動きもぎこちないし、弓を持つ手にも力が入りきっていない。
それでも、弦に弓が触れ、音が鳴った。
ひどい音だった。
かすれているし、震えている。
以前の恭介なら、自分で嫌になるような音だったと思う。
それなのに、恭介は笑った。
「鳴った」
子どもみたいな顔だった。
「鳴ったよ、さやか」
「うん」
さやかも笑った。
「鳴ったね」
恭介の視線は、もうさやかから離れていた。
手元のヴァイオリンへ落ち、弦の位置を確かめるように目を細める。動くようになった右手の指を一度だけ開いてから、今度はさっきより慎重に弓を当てた。
ゆっくりと動かす。また、かすれた音が鳴った。
恭介はその音だけを聞いていた。
さやかは、それを聞いていた。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
――ああ。
やっぱり、そっちなんだ。
ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけ期待していた。
腕が治ったら、もう一度弾けるようになったら、何かが変わるんじゃないかと。
恭介が前より少しだけ、自分を見るんじゃないかと。
そんなことを、どこかで思っていた。
契約する前にも考えたはずだった。
恭介の腕が治ることと、恭介が自分を選ぶことは別だ。
願いが叶うことと、自分が幸せになることも別だ。
あの白いのが、何度も念を押してきた。
「……悔しいけど」
さやかは小さく呟いた。
「何?」
恭介が一瞬だけ振り向く。
「なんでもない」
さやかは笑って、手を振った。
キュゥべえの言った通りだった。
そこだけは認めるしかない。
あいつは腹が立つ。
言い方もいちいち腹が立つ。
人の恋愛まで契約条件みたいに切り分けて説明するのも、本当にどうかと思う。
でも。もし、あの時あいつが言わなかったら。
腕さえ治れば、きっと全部うまくいく。
そんなふうに思ったまま契約していたら。
今、この瞬間はもっと痛かったかもしれない。
さやかは、恭介の手を見た。
まだ少しぎこちなく動く指先。その先で弓が弦に触れ、またかすれた音が鳴る。
次に、恭介の顔を見る。
音はまだ全然きれいじゃないのに、それでも嬉しそうだった。
さやかは、その表情から目を離せなかった。
胸の奥は、まだ少し痛い。
もう少しだけ、こっちを見てほしい。
そんな気持ちも、ちゃんと残っていた。
「……まあ、いっか」
「だから、何が?」
「何でもないって!」
さやかは笑った。
願わなければよかったとは、思わなかった。
「それでね、ほんっとひどい音だったんですよ」
その日の夕方。
マミの部屋で、さやかは笑っていた。
「もう、ぎーって。前の恭介だったら絶対人に聞かせないような音」
「でも、嬉しそうだったんだね」
まどかが聞く。
「うん」
さやかは即答した。
「めちゃくちゃ」
「よかったわね、美樹さん」
マミは微笑みながら紅茶を注いだ。
「はい」
さやかは少し照れた。
「まあ、あたしの方はほとんど見てなかったですけど」
「さやかちゃん」
「いいの、いいの」
まどかが心配そうに見るので、さやかは手を振った。
「ちょっとは寂しいよ? そりゃそうじゃん。あたしだって別に聖人じゃないし」
マミが少しだけ目を細めた。
「でも?」
「でも、治ってよかった」
さやかは笑った。
「それは本当だから」
マミは静かに頷いた。
「そう」
カップへ紅茶が注がれ、細い湯気が立つ。
マミの手は、少なくとも、見ただけでは分からないくらいには、震えていなかった。
さやかがカップを受け取る。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
いつものマミだった。
穏やかで、少し大人びていて、後輩にお茶を出してくれる先輩。
まどかは、そんなマミを見ていた。
「マミさん」
「何かしら?」
「まだ、怖いですか?」
マミの手が止まった。
ティーポットが、カップの上で動かなくなる。
さやかも口を閉じた。
「……何が?」
マミは聞いた。
まどかは少し迷ってから答えた。
「魔女と戦うの」
部屋が静かになった。
マミはとても丁寧に、音を立てないように、ティーポットを置いた。
「どうして、そう思ったの?」
「この前の戦いの時」
まどかは膝の上で手を重ねた。
「マミさん、ずっとさやかちゃんを見てたから」
「初戦だったもの。当然よ」
「はい」
まどかは頷く。
「でも、それだけじゃない気がしたんです」
マミは何も言わなかった。
さやかも黙っている。
まどかは続けた。
「魔女が大きく動くたびに、マミさん、一回だけ止まってたから」
マミの指が、ほんの少しだけ震えた。
今度は、まどかにも分かった。
「……よく見ているのね、鹿目さん」
マミは困ったように笑った。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいわ」
少しだけ沈黙する。
それから、マミはカップを両手で包んだ。
「怖いわ」
小さな声だった。
さやかがマミを見る。
「まだ、怖い」
マミは自分の言葉を確かめるように繰り返した。
「魔女が急に口を開くと、思い出すの。あの時のことを」
自分の首元へ、無意識に手が触れた。
「次の瞬間には、また何もなくなるんじゃないかって」
マミは笑おうとした。
「おかしいわね。前より安全になっているはずなのに」
「おかしくないと思います」
まどかが言った。
マミは目を上げた。
「だって、本当に一回そうなったんですよね」
「……ええ」
「だったら、怖いと思います」
まどかは、それだけ言った。
励まさなかった。大丈夫とも言わなかった。
マミは少し待った。
けれど、続きはなかった。
「それだけ?」
「はい」
「克服できます、とか。私たちがいます、とか」
「それもありますけど」
まどかは少し考えた。
「今は、怖いって言ってくれた方が安心します」
「安心?」
「はい」
まどかは真面目な顔で頷いた。
「マミさん、ずっと大丈夫って言うから」
マミの目が少しだけ大きくなる。
「大丈夫じゃない時まで大丈夫って言われると、どこまで心配していいのか分からないです」
さやかが、小さく吹き出した。
「分かる」
「美樹さんまで」
「いや、だってマミさん、絶対そういうタイプじゃないですか」
「そういうタイプって何かしら」
「一人で何とかしようとするタイプ」
マミは反論しようとした。
口を開き、しばらくして閉じる。
「……否定しにくいわね」
「でしょ?」
さやかは少し得意そうに笑った。
まどかも笑う。
マミは二人を見た。
後輩、守る相手。
そう思っていた。
少なくとも、ずっとそう思ってきた。
「怖い時は」
まどかが言った。
「怖いって言ってください」
「それで、何か変わるの?」
「分かりません」
即答だった。
マミは思わず瞬きをした。
「分からないの?」
「はい」
まどかは少し困ったように笑った。
「でも、一人で怖いよりはいいかなって」
マミは、しばらく何も言わなかった。
「そうね」
今度の笑顔は、作ったものではなかった。
「それくらいなら、お願いしてもいいかもしれないわ」
「はい」
さやかが紅茶を飲み干した。
「じゃあさ」
カップを置く。
「今度、みんなでどっか行きません?」
マミとまどかが、同時にさやかを見る。
「どこか?」
「うん。魔女とか、訓練とか、契約とか、そういうの一切なしで」
さやかは指を折った。
「買い物するとか。ご飯食べるとか。ゲームするとか」
「ゲーム?」
マミが少し戸惑う。
「マミさん、もしかしてそういうのやったことない?」
「ないことはないけれど……」
「じゃあ決まり」
「まだ何も決めてないよ、さやかちゃん」
まどかが笑う。
「ほむらちゃんも誘おう」
「もちろん」
さやかはにやりとした。
「あの転校生、絶対休日の遊び方分かってないから」
「それは……」
まどかは否定しようとして、少し考えた。
「……そうかも」
「でしょ?」
「佐倉さんは?」
マミが聞く。
「杏子?」
さやかは少し考える。
「食べ物あるって言えば来るんじゃないですか」
「ひどい誘い方ね」
「でも来そうでしょ」
マミは否定できなかった。
「キュゥべえは?」
まどかが聞く。
三人が少しだけ黙った。
さやかが言った。
「あいつは誘わなくても来るでしょ」
「そうだね」
「そうね」
三人は顔を見合わせた。
そして、笑った。
腕が治っても、恭介がさやかを見るとは限らない。
生き返っても、マミの恐怖が消えるわけではない。
願いが叶っても、戦いに勝っても。
嫌なことも、寂しいことも、怖いことも残る。
それでも、少しくらい遊びに行く予定を立ててもいい。
その程度には、今の彼女たちはちゃんと生きていた。