魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ   作:折無堂

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18. 願いのあと

 翌日の放課後、さやかは病院へ向かった。

 足取りは、前にここへ来た時より軽かったが、胸の中まで軽いわけではない。

 

 歩いていると、昨日の戦いが何度も頭に浮かんだ。

 魔女に吹き飛ばされ、壁へ叩きつけられた瞬間の衝撃。息が詰まり、身体中が痛くて、次にまた立てるのか本気で怖くなったこと。

 

 それでも立ち上がれた。

 マミがいた。杏子が前に出て、ほむらが隙を作ってくれた。遠くから、まどかが何度も自分の名前を呼んでいた。

 気がつけばまた剣を握っていて、最後にはちゃんと自分の足で立ったまま、魔女が消えるところまで見届けていた。

 

 勝ったのだ。そう思うと、今でも少しだけ胸が熱くなる。

 

 けれど、今日はそのために病院へ来たわけではない。

 戦うよりも前に、もう一つ確かめたいことがあった。

 

 自分が魔法少女になった、その瞬間に願ったこと。

 恭介の腕は、もう治っているはずだった。

 

 病室の前まで来て、さやかは一度足を止めた。

「……よし」

 何がよしなのかは分からない。

 ただ、前と同じように笑顔を作ってから入るのはやめた。

 

 ノックをする。

「恭介?」

「さやか?」

 返事があった。

 

 さやかは扉を開けた。最初に見たのは、恭介の右手だった。包帯はまだ巻かれているが、動いていた。ベッドの上で、指が一本ずつ曲がる。

 ゆっくりではあるが、ぎこちなく、それでも確かに。

 

「……動いてる」

 自分でも驚くくらい、小さな声が出た。

 恭介は自分の手を見て、それから笑った。

 その顔を、さやかは久しぶりに見た。

 

「うん」

 指を握ってから、開く。また握る。

 

「先生も驚いてた。神経の反応が急に戻ってるって。まだ筋力も落ちてるし、前みたいに動かすには時間がかかるらしいけど」

「そっか」

「でも」

 

 恭介は、右手を見たまま言った。

「弾けるかもしれない」

 さやかの胸の奥が熱くなった。

 

 本当によかった。それだけしか思えなかった。

「よかったじゃん!」

 今度は、ちゃんと笑えた。

「ほんとによかったね、恭介!」

「うん」

 

 恭介も笑った。

 それから、少しだけ言いにくそうに視線を落とした。

「さやか」

「ん?」

「この前は、ごめん」

 

 さやかは一瞬、何のことか分からなかったが、次の瞬間には、あの日の病室が頭の中に戻ってきた。床に落ちたディスクと、それを拾えずにいた恭介の手。

 苛立ちを押さえきれないまま、「もう持ってこなくていい」「音楽なんて聴きたくない」と言った声まで、妙にはっきり思い出せた。

 

 さやかは、ほんの少しだけ息を止めた。

「ああ」

 さやかは少しだけ目を逸らした。

 

「別にいいよ。あれは……まあ、しょうがないっていうか」

 恭介はすぐには答えなかった。

 少し視線を落として、自分の手を見る。

 

「……しょうがなくはないよ」

 声は小さかった。

「あのとき、僕、さやかに当たったから」

 動くようになった指を、ゆっくり握る。

「君は何も悪くなかったのに」

 

 恭介は言った。

「さやかに言うことじゃなかった」

「でも、誰かには言いたかったんでしょ」

 

 恭介は黙った。

 それから、小さく頷いた。

 

「たぶん」

「じゃあ、いいじゃん」

「よくないよ」

「細かいなあ」

 

 さやかが笑うと、恭介も少しだけ笑った。

「でも、来てくれてよかった」

 さやかの笑顔が止まった。

「え?」

「あの日」

 

 恭介は、自分の右手を見ながら言った。

「誰にも会いたくないって思ってた。何を言われても腹が立ってたし。希望を持てとか、諦めるなとか、全部嫌だった」

 

 さやかは何も言わなかった。

 恭介の指が、ゆっくりと曲がる。

 それを見つめたまま、しばらく言葉が続かなかった。

 

「……さやかにも、酷いこと言ったけど」

 そこでようやく、恭介はさやかを見る。

「それでも来てくれたよね」

 

 少し間を置く。

「誰も来なかったら、それはそれで、たぶんもっと嫌だった」

 

 さやかは何も言えなかった。

「だから」

 恭介は顔を上げた。

「ありがとう、さやか」

 

 胸の奥で、何かが跳ねた。

 一瞬だけ。

 本当に一瞬だけ。

 

 さやかは思った。

 もしかして、何か、分かったのか。

 自分が……。でも、すぐに違うと分かった。

 恭介は魔法少女のことも、願いのことも、知らない。

 ましてや、昨夜、自分が魔女と戦ったことも――。

 

 何も知らない。

 恭介が礼を言っているのは、腕を治した誰かにではない。

 あの日、病室へ来た自分にだった。

 

「……そっか」

 さやかは笑った。

 今度の笑顔は、少しだけ変な形になった。

「じゃあ、あたし、いいところで来たんだ」

「うん」

「そっかあ」

 

 妙に嬉しかった。腕を治したことを感謝されたわけではない。

 そこは少しだけ、おかしかった。

 自分が一番大きなことをした部分を、恭介は永遠に知らないかもしれない。

 

 でも。

 

 魔法なんか使っていなかった日の自分が、ただ顔を見に来ただけの自分が、ちゃんと恭介の役に立っていた。

 それは、思っていたよりずっと嬉しかった。

 

「さやか?」

「何でもない」

 さやかは首を横に振った。

 

「それで? いつから弾けるの?」

 その言葉を待っていたように、恭介の顔が明るくなった。

 

「今日、先生が少しだけならって」

「今日!?」

「本当に少しだけだよ。まだ指を動かす練習からだし、無理はするなって言われてる」

 そう言いながら、恭介はベッド脇へ視線を向けた。

 

 ケースが置いてあった。

 ヴァイオリン。

 

 さやかは、それを見ただけで胸がいっぱいになった。

 恭介は慎重にケースを開き、楽器を取り出す。

 

 まだ右腕は思うようには上がらない。

 動きもぎこちないし、弓を持つ手にも力が入りきっていない。

 

 それでも、弦に弓が触れ、音が鳴った。

 ひどい音だった。

 かすれているし、震えている。

 

 以前の恭介なら、自分で嫌になるような音だったと思う。

 それなのに、恭介は笑った。

 

「鳴った」

 子どもみたいな顔だった。

「鳴ったよ、さやか」

「うん」

 さやかも笑った。

「鳴ったね」

 

 恭介の視線は、もうさやかから離れていた。

 手元のヴァイオリンへ落ち、弦の位置を確かめるように目を細める。動くようになった右手の指を一度だけ開いてから、今度はさっきより慎重に弓を当てた。

 

 ゆっくりと動かす。また、かすれた音が鳴った。

 恭介はその音だけを聞いていた。

 

 さやかは、それを聞いていた。

 胸の奥が、少しだけ痛んだ。

 

 ――ああ。

 やっぱり、そっちなんだ。

 ほんの少しだけ。

 本当に、ほんの少しだけ期待していた。

 

 腕が治ったら、もう一度弾けるようになったら、何かが変わるんじゃないかと。

 恭介が前より少しだけ、自分を見るんじゃないかと。

 

 そんなことを、どこかで思っていた。

 契約する前にも考えたはずだった。

 恭介の腕が治ることと、恭介が自分を選ぶことは別だ。

 願いが叶うことと、自分が幸せになることも別だ。

 あの白いのが、何度も念を押してきた。

 

「……悔しいけど」

 さやかは小さく呟いた。

「何?」

 恭介が一瞬だけ振り向く。

「なんでもない」

 さやかは笑って、手を振った。

 

 キュゥべえの言った通りだった。

 そこだけは認めるしかない。

 

 あいつは腹が立つ。

 言い方もいちいち腹が立つ。

 

 人の恋愛まで契約条件みたいに切り分けて説明するのも、本当にどうかと思う。

 

 でも。もし、あの時あいつが言わなかったら。

 腕さえ治れば、きっと全部うまくいく。

 そんなふうに思ったまま契約していたら。

 今、この瞬間はもっと痛かったかもしれない。

 

 さやかは、恭介の手を見た。

 まだ少しぎこちなく動く指先。その先で弓が弦に触れ、またかすれた音が鳴る。

 次に、恭介の顔を見る。

 音はまだ全然きれいじゃないのに、それでも嬉しそうだった。

 さやかは、その表情から目を離せなかった。

 胸の奥は、まだ少し痛い。

 もう少しだけ、こっちを見てほしい。

 そんな気持ちも、ちゃんと残っていた。

 

「……まあ、いっか」

「だから、何が?」

「何でもないって!」

 さやかは笑った。

 願わなければよかったとは、思わなかった。

 

 

 

「それでね、ほんっとひどい音だったんですよ」

 その日の夕方。

 マミの部屋で、さやかは笑っていた。

 

「もう、ぎーって。前の恭介だったら絶対人に聞かせないような音」

「でも、嬉しそうだったんだね」

 まどかが聞く。

 

「うん」

 さやかは即答した。

「めちゃくちゃ」

「よかったわね、美樹さん」

 

 マミは微笑みながら紅茶を注いだ。

「はい」

 さやかは少し照れた。

「まあ、あたしの方はほとんど見てなかったですけど」

「さやかちゃん」

「いいの、いいの」

 

 まどかが心配そうに見るので、さやかは手を振った。

「ちょっとは寂しいよ? そりゃそうじゃん。あたしだって別に聖人じゃないし」

 

 マミが少しだけ目を細めた。

「でも?」

「でも、治ってよかった」

 さやかは笑った。

「それは本当だから」

 

 マミは静かに頷いた。

「そう」

 

 カップへ紅茶が注がれ、細い湯気が立つ。

 

 マミの手は、少なくとも、見ただけでは分からないくらいには、震えていなかった。

 さやかがカップを受け取る。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 いつものマミだった。

 穏やかで、少し大人びていて、後輩にお茶を出してくれる先輩。

 

 まどかは、そんなマミを見ていた。

「マミさん」

「何かしら?」

「まだ、怖いですか?」

 

 マミの手が止まった。

 ティーポットが、カップの上で動かなくなる。

 さやかも口を閉じた。

 

「……何が?」

 マミは聞いた。

 

 まどかは少し迷ってから答えた。

「魔女と戦うの」

 

 部屋が静かになった。

 マミはとても丁寧に、音を立てないように、ティーポットを置いた。

 

「どうして、そう思ったの?」

「この前の戦いの時」

 

 まどかは膝の上で手を重ねた。

「マミさん、ずっとさやかちゃんを見てたから」

「初戦だったもの。当然よ」

「はい」

 まどかは頷く。

 

「でも、それだけじゃない気がしたんです」

 マミは何も言わなかった。

 さやかも黙っている。

 

 まどかは続けた。

「魔女が大きく動くたびに、マミさん、一回だけ止まってたから」

 マミの指が、ほんの少しだけ震えた。

 今度は、まどかにも分かった。

 

「……よく見ているのね、鹿目さん」

 マミは困ったように笑った。

「ごめんなさい」

「謝らなくていいわ」

 

 少しだけ沈黙する。

 それから、マミはカップを両手で包んだ。

 

「怖いわ」

 小さな声だった。

 さやかがマミを見る。

「まだ、怖い」

 マミは自分の言葉を確かめるように繰り返した。

 

「魔女が急に口を開くと、思い出すの。あの時のことを」

 自分の首元へ、無意識に手が触れた。

 

「次の瞬間には、また何もなくなるんじゃないかって」

 マミは笑おうとした。

「おかしいわね。前より安全になっているはずなのに」

「おかしくないと思います」

 

 まどかが言った。

 マミは目を上げた。

「だって、本当に一回そうなったんですよね」

「……ええ」

「だったら、怖いと思います」

 まどかは、それだけ言った。

 

 励まさなかった。大丈夫とも言わなかった。

 マミは少し待った。

 けれど、続きはなかった。

 

「それだけ?」

「はい」

「克服できます、とか。私たちがいます、とか」

「それもありますけど」

 

 まどかは少し考えた。

「今は、怖いって言ってくれた方が安心します」

「安心?」

「はい」

 

 まどかは真面目な顔で頷いた。

「マミさん、ずっと大丈夫って言うから」

 マミの目が少しだけ大きくなる。

「大丈夫じゃない時まで大丈夫って言われると、どこまで心配していいのか分からないです」

 

 さやかが、小さく吹き出した。

「分かる」

「美樹さんまで」

「いや、だってマミさん、絶対そういうタイプじゃないですか」

「そういうタイプって何かしら」

「一人で何とかしようとするタイプ」

 

 マミは反論しようとした。

 口を開き、しばらくして閉じる。

「……否定しにくいわね」

「でしょ?」

 

 さやかは少し得意そうに笑った。

 まどかも笑う。

 

 マミは二人を見た。

 後輩、守る相手。

 そう思っていた。

 少なくとも、ずっとそう思ってきた。

 

「怖い時は」

 まどかが言った。

「怖いって言ってください」

「それで、何か変わるの?」

「分かりません」

 

 即答だった。

 マミは思わず瞬きをした。

「分からないの?」

「はい」

 

 まどかは少し困ったように笑った。

「でも、一人で怖いよりはいいかなって」

 マミは、しばらく何も言わなかった。

 

「そうね」

 今度の笑顔は、作ったものではなかった。

「それくらいなら、お願いしてもいいかもしれないわ」

「はい」

 

 さやかが紅茶を飲み干した。

「じゃあさ」

 カップを置く。

「今度、みんなでどっか行きません?」

 

 マミとまどかが、同時にさやかを見る。

「どこか?」

「うん。魔女とか、訓練とか、契約とか、そういうの一切なしで」

 

 さやかは指を折った。

「買い物するとか。ご飯食べるとか。ゲームするとか」

「ゲーム?」

 

 マミが少し戸惑う。

「マミさん、もしかしてそういうのやったことない?」

「ないことはないけれど……」

「じゃあ決まり」

「まだ何も決めてないよ、さやかちゃん」

 

 まどかが笑う。

「ほむらちゃんも誘おう」

「もちろん」

 

 さやかはにやりとした。

「あの転校生、絶対休日の遊び方分かってないから」

「それは……」

 

 まどかは否定しようとして、少し考えた。

「……そうかも」

「でしょ?」

「佐倉さんは?」

 マミが聞く。

「杏子?」

 

 さやかは少し考える。

「食べ物あるって言えば来るんじゃないですか」

「ひどい誘い方ね」

「でも来そうでしょ」

 

 マミは否定できなかった。

「キュゥべえは?」

 まどかが聞く。

 

 三人が少しだけ黙った。

 さやかが言った。

「あいつは誘わなくても来るでしょ」

「そうだね」

「そうね」

 

 三人は顔を見合わせた。

 そして、笑った。

 

 腕が治っても、恭介がさやかを見るとは限らない。

 生き返っても、マミの恐怖が消えるわけではない。

 

 願いが叶っても、戦いに勝っても。

 嫌なことも、寂しいことも、怖いことも残る。

 それでも、少しくらい遊びに行く予定を立ててもいい。

 その程度には、今の彼女たちはちゃんと生きていた。

 

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