魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
さやかの初戦は、勝利で終わった。
ただし、勝ったから何も問題がなかった、という戦いではない。
ほむらは、昨日の戦いを何度も頭の中でなぞっていた。
美樹さやかは、最後まで立っていた。
剣を握り、何度も押し返されながら踏みとどまり、魔女が消えるまで自分の足で立っていた。それだけなら、単に新しい契約方式で身体が頑丈になった結果だと考えることもできる。
実際に起きたことはそれだけではない。
マミが魔女の動きを止め、杏子が逃げ道を塞ぎ、自分が隙を作った。そのたびにさやかは前へ出ることができたし、離れた場所からまどかが名前を呼べば、それにもちゃんと応えた。
一人で勝ったわけではない。むしろ、一人だったなら勝てなかった可能性の方が高い。
それなのに、ほむらにはそこが以前とは違って見えた。
助けられたことが、さやかを追い詰めていない。
自分一人では足りなかったという事実を、敗北のように受け取ってもいない。誰かに支えられた分だけ、むしろ最後まで安定していた。
戦いのあとも同じだった。
上条恭介の腕は治った。けれど、それによってさやかが心のどこかで期待していたものまで、すべて手に入ったわけではない。
そのことを、さやか自身も分かっていたつもりだったらしい。
それでも実際に恭介の前へ立てば、少しくらい期待してしまった。
思ったほど自分を見てはくれなかったことに傷ついて、それでも願ったことそのものを後悔はしなかった。
そして、その二つが別のものだと契約前からしつこいほど説明していたキュゥべえについては、本人もずいぶん不本意そうに、間違ってはいなかったと認めていた。
マミも、元に戻ったわけではない。
不意に身体を強張らせることがある。あの魔女に喰われたときの記憶が、まだ消えていないことくらい、見ていれば分かった。
今は、怖くないふりまでしなくなった。
怖いなら怖いと口にして、それでも紅茶を淹れ、こうして同じ部屋にいる。
ほむらはそこで、またさやかの胸元へ目をやった。
青い光は静かだった。
戦闘直後にも確認した。時間を置いてからも確認した。翌日になっても変わらない。
濁りは、ほとんど増えていない。身体が壊れなかっただけではない。
傷つかなかったわけでも、怖くなかったわけでも、期待を裏切られなかったわけでもないのに、それらがそのまま破綻へつながっていない。
ほむらは、そこまで考えてから視線を伏せた。
以前なら、どこかで崩れていた。
少なくとも、自分が知っている時間軸では。
今は違う。
誰も、何もなかった頃へ戻ったわけではない。
傷も、恐怖も、期待も残っている。
それでも――誰も壊れてはいなかった。
その日の夕方。マミの部屋で、キュゥべえはテーブルの上に座っていた。
「仮説は、おおむね支持された」
唐突にそう言われ、さやかが嫌そうな顔をした。
「何の話よ」
「君の新しい契約方式についてだよ。美樹さやかの戦闘継続能力は、単独時の推定値より高かった。損傷耐性、姿勢制御、出力低下の抑制。いずれも周囲からの呼びかけや共同戦闘による補助反応と見ていい」
「つまり?」
杏子が菓子を噛みながら聞く。
「さやかは、一人で戦うより、誰かと戦った方が強い」
「最初からそう言いなさいよ」
さやかがため息をつく。
キュゥべえは少しだけ首を傾げた。
「けれど、それだけでは足りない」
ほむらが顔を上げた。
「何が足りないの」
「君たちがお互いを仲間と認識する必要がある」
部屋が少し静かになった。
キュゥべえは続ける。
「戦闘中の共同行動だけでは不十分かもしれない。危険下で発生する連携は、危険への反応として成立する。けれど、自己同一性を維持する補助としては、戦闘外で形成された認識の方が安定する可能性がある」
「何を――」
ほむらが言いかけた。
だが、その言葉の終わりを、さやかが奪った。
「つまり、遊びに行けってこと?」
キュゥべえは即答した。
「かなり乱暴だが、概ね正しい」
「いいじゃん」
さやかが言った。
ほむらは、ゆっくりとさやかを見た。
「さやか」
「何よ。いいじゃん。戦闘訓練ばっかじゃ、あたしら殺伐としすぎでしょ」
マミが、少し考えるようにカップを置いた。
「そうね。確かに、悪くないかもしれないわ」
「マミまで」
ほむらの声が少しだけ低くなる。
杏子は窓際で菓子を噛みながら、肩をすくめた。
「まあ、たまにはいいんじゃねえの。戦う時だけ仲間ですってのも、気持ち悪いしな」
「杏子もなの」
「三対一だな」
杏子が笑った。
ほむらは目を細める。
その時、まどかが小さく手を上げた。
「私もいるよ」
全員がまどかを見る。
まどかは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「私、魔法少女じゃないけど。みんなと一緒にいたいし……それに、さやかちゃんが強くなるなら、私もいた方がいいんだよね?」
キュゥべえが頷く。
「鹿目まどかの存在は、美樹さやかの補助反応に大きく寄与している」
「言い方はともかく」
さやかが言う。
まどかは笑った。
杏子が槍も出さずに指を立てる。
「じゃあ、四対一だな」
ほむらは黙った。
四対一。
勝てるわけがなかった。
「……次の日曜日」
ほむらが言った。
「え?」
まどかが目を瞬く。
「学校もなく、日中の方が安全。人通りの多い場所なら、魔女の結界に巻き込まれる可能性も低い。移動経路も確認しやすい」
さやかがにやっと笑った。
「乗り気じゃん、ほむら」
「乗り気ではないわ。合理的に判断しているだけよ」
「出た、合理的」
杏子が笑う。
マミは少し嬉しそうだった。
「では、次の日曜日ね。駅前に集合しましょうか」
その時だった。
ほむらが、ふと口を開いた。
「キュゥべえも来るんでしょうね」
言った瞬間、ほむら自身が驚いた。
なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からなかった。
以前なら、そんな発想はなかった。
キュゥべえがいる。
それは警戒対象であり、排除対象であり、可能なら視界に入れたくない存在だった。
なのに今、自分は当然のように、そこにいるものとして数えていた。
ほむらは自分の言葉に少しだけ眉をひそめた。
キュゥべえは、当然のように答えた。
「もちろん、行くつもりだよ」
「来るんだ……」
さやかが言う。
「君たちは嫌がるかもしれないけどね。僕もマスコットにならないと、実験には不十分だからね」
一瞬の沈黙。
そして全員がほぼ同時に言った。
「言い方!」
キュゥべえは首を傾げた。
「不適切だったかな」
「不適切っていうか」
まどかが困ったように笑う。
「マスコットにならないと、じゃなくて。一緒に来たい、でいいんじゃないかな」
「一緒に来たい」
キュゥべえはその言葉を繰り返した。
「なるほど。そう言えばいいのか」
杏子が呆れたように笑う。
「お前、ほんと面倒くせえな」
「面倒でも、同行は許可されるのかな」
誰もすぐには答えなかったが、嫌がる者は、いなかった。
それが、少しだけ奇妙だった。
ほむらはその奇妙さを、胸の奥で静かに感じていた。
日曜日。
駅前の時計台の下に、最初に来ていたのはほむらだった。
制服だった。
時間ぴったりではない。かなり早い。黒い髪を揺らし、いつもの制服姿で、まっすぐ立っている。
そこへ、まどかとさやかがやってきた。
「ほむらちゃん、お待たせ」
まどかは淡い色のカーディガンに、ふんわりしたスカートだった。
さやかは動きやすそうな上着と短めのパンツで、いかにもさやからしい格好をしている。
さやかはほむらを見た。
上から下まで見た。
もう一度、上から下まで見た。
「ほむら、さ」
「何」
「あんた、本気でそれで遊びに行くつもり?」
「問題があるの?」
「問題しかないでしょ!」
まどかが慌てて言う。
「でも、ほむらちゃんらしいかも」
「まどか、そこ甘やかしちゃだめ」
そこへマミが来た。
白いブラウスに淡い黄色のスカート。派手ではないのに、自然に目を引く服だった。
「おはよう。……あら」
マミはほむらを見る。
そして、にっこり微笑んだ。
「まず、服を見ましょうか」
「マミ」
「今日は戦闘ではないもの」
杏子は少し遅れて現れた。
赤いパーカーに黒い短パン。手にはすでに何かの袋菓子を持っている。
「おー、揃ってんな」
杏子もほむらを見た。
「お前、学校行くのか?」
「行かないわ」
「じゃあ何で制服なんだよ」
「動きやすいから」
「遊びに行く格好じゃねえな」
ほむらは、駅前で早くも四方から包囲された。
キュゥべえは、まどかの足元にいた。
「現時点で、暁美ほむらの服装に対する周囲の反応は強いね」
「キュゥべえ」
さやかが言う。
「今日はそういう記録、できるだけ口に出さない」
「難しい要求だね」
「努力しろ」
「努力する」
最初に入ったのは、駅ビルの中にある服屋だった。
中学生でも入りやすい、明るくて、そこまで高くない店。
ほむらは入口で立ち止まった。
「私は必要ないわ」
「必要あるよ」
さやかが背中を押す。
「あなたにも似合う服を選ぶ必要があるわ」
マミが微笑む。
「ほむらちゃん、これ似合いそう」
まどかが早くも一着手に取る。
杏子は少し離れたところで腕を組んでいた。
「動きにくそうなのはやめとけよ」
「遊びに行く服に戦闘機動を求めないで」
さやかが突っ込む。
ほむらは、最初は黒い服ばかり見ていた。
黒の上着、黒のスカートに黒のワンピース。
「いつもと変わらないじゃん」
「変える必要があるの?」
「ある」
さやかは即答した。
まどかが、薄紫のカーディガンを持ってきた。
「ほむらちゃん、これ……どうかな」
ほむらは、その服を見た。
それから、まどかを見た。
「……まどかがそう思うなら」
「弱っ」
杏子がぼそっと言う。
「弱くないわ」
ほむらはすぐに返したが、服は受け取った。
ほむらが試着室へ入ってから、しばらくしてカーテンが開いた。
黒のワンピースに、淡い紫のカーディガン。
髪はいつものままだったが、普段の制服より輪郭が柔らかく見える。本人は少し居心地が悪そうに立っているのに、服の方は妙に馴染んでいた。背筋を伸ばしているせいか、人に選ばれて着せられたという感じがほとんどしない。
まどかがぱっと顔を明るくする。
「かわいい」
ほむらの動きが止まった。
さやかはしばらく眺めてから、思わず笑う。
「いや、ちょっと待って。普通に着こなしてるじゃん」
「どういう意味よ」
「もっとこう、服に着られて出てくると思ってた」
ほむらの眉が寄る。
「失礼ね」
マミは楽しそうに笑った。
「でも、本当に似合ってるわ。暁美さん、こういう色も合うのね」
杏子も菓子の袋を片手に、ほむらを上から下まで見る。
「へえ。悪くねえじゃん」
「佐倉さんまで」
「褒めてんだよ」
まどかはもう一度ほむらを見て、嬉しそうに頷いた。
「うん。すごく似合ってるよ、ほむらちゃん」
ほむらはしばらく何も言わなかった。
それから、ほんの少しだけ視線を逸らした。
キュゥべえは床からほむらを見上げていた。
「暁美ほむらの感情値が――」
「言うな」
ほむらが低く言った。
「分かった」
キュゥべえは黙った。
本当に黙った。
そのことに、全員が少しだけ笑った。
昼食は、駅ビルのフードコートで取ることになった。
日曜日の昼時だけあって、階段を上がったところからもう人が多い。買い物帰りらしい家族連れに、制服姿の学生、紙袋をいくつも足元へ置いた若い客。子供の声と食器の触れ合う音、その向こうから店員の呼び出しが重なって聞こえてくる。
空いている席を見つけるだけでも少し時間がかかった。
ようやく五人分を確保すると、それぞれ店を見に行く。
最初に決めたのは、さやかだった。店先に漂うスープの匂いに足を止め、メニューを上から下まで一度見ただけで、
「よし、ラーメン」
と決めて列へ並ぶ。
まどかはその隣で、少し長く迷っていた。カレーの写真を見て、丼ものを見て、また少し戻る。最後には、黄色い卵の上に赤いソースがかかった写真の前で足を止めた。
「私、オムライスにしようかな」
決めたあとの顔は、迷っていた時間のわりに満足そうだった。
マミは二人ほど迷わない。いくつかの店を見比べてから、パスタの店でサラダの付くセットを選んだ。量も重すぎず、午後も歩くことを考えればちょうどいいらしい。
一方、杏子はまったく別の選び方をしていた。
たこ焼きの前で止まり、隣の唐揚げを見て、その先のポテトにも目を向ける。
「杏子、それ全部食べるの?」
「食うけど?」
当然だろ、とでも言いたげな顔で答え、そのまま三つとも買った。
席へ戻る途中でクレープの店まで見つけたため、結局もう一度列に並んだ。
「それ昼ご飯っていうより、食べたいもの全部じゃん」
「好きなの選べって言ったのお前らだろ」
そこだけは反論のしようがなかった。
最後まで決まらなかったのは、ほむらだった。
迷っているようには見えない。むしろ逆で、店ごとのメニューを妙に真剣に見比べている。主食、肉か魚か、野菜の量、それに列の長さまで順番に確認しているらしい。
さやかが横から覗き込む。
「あんた、もしかして栄養で選んでる?」
「午後も歩くなら、炭水化物だけに偏らない方がいいでしょう」
「休日の昼飯までそういう決め方すんの?」
ほむらは答えず、焼き魚の定食をもう一度見た。
どうやら、本気らしい。
「ほむら」
「何」
「好きなもの選びなさい」
「栄養面ではこれが」
「遊びに来てるの!」
ほむらは少しだけ考え、結局、まどかと同じオムライスを選んだ。
まどかは嬉しそうだった。
「一緒だね」
「偶然よ」
「絶対、偶然じゃないでしょ」
さやかが言う。
杏子はポテトを食べながら、さやかのラーメンを覗き込んだ。
「一口」
「やだ」
「ケチ」
「自分であんだけ買ってるじゃん!」
「ラーメンは別腹だろ」
「別腹の使い方がおかしい!」
結局、さやかは一口だけ麺を分けた。
代わりに杏子のたこ焼きを一つもらった。
マミはそれを見て、少しだけ笑った。
「佐倉さん、野菜も食べた方がいいわ」
「うるせえ母親か」
マミが微妙に傷ついた顔をした。
杏子はすぐに目をそらす。
「……悪い。今のは言いすぎた」
「いいえ。そう聞こえたなら、少し控えるわ」
「いや、別に嫌ってほどじゃねえけど」
「どっちなのよ」
さやかが突っ込む。
ほむらは静かに言った。
「栄養面ではマミが正しいわ」
杏子が顔をしかめる。
「お前まで母親側かよ」
「母親側ではないわ。事実を述べただけよ」
「キュゥべえみたいなこと言うな」
ほむらは少しだけ黙った。
「……今のは心外ね」
キュゥべえは、椅子の下で言った。
「僕と比較されることは、それほど不快なのかい」
全員が同時に言った。
「不快!」
「そうか」
キュゥべえは、少しだけ考え込むように黙った。
食事を終えると、今度は同じ駅ビルの雑貨フロアを歩いた。
文房具やポーチ、髪留め、携帯電話につけるストラップまで、小さな商品が所狭しと並んでいる店の前で、さやかが足を止める。
「せっかくだし、何かお揃いで買わない?」
「お揃い?」
杏子が露骨に嫌そうな顔をした。
「そう。なんかこう、仲間っぽいやつ」
言いながら、さやかは店へ入っていく。
休日の午後だけあって、中もかなり混んでいた。学生らしい女の子が何人かで棚を囲み、親子連れが文房具を選んでいる。細い通路ですれ違うたびに、吊り下げられたストラップやキーホルダーが小さく揺れた。
まどかはすぐに楽しそうに棚を見始めた。
「これ、かわいい」
最初に手に取ったのは、小さな動物のついたストラップだった。
「五種類ないじゃん」
さやかが隣から覗き込む。
「あ、そっか」
「どうせなら全員違う色があるやつがいいって」
さやかはそう言って、次々と棚を見ていく。選ぶのは早いが、気に入っても色が足りなければすぐ次へ移った。
マミは少し後ろから二人について回り、時々商品の裏を返して値段を確認している。
「これくらいなら、みんなで買っても大丈夫そうね」
「そこ確認するんだ」
「高いものをお揃いにする必要はないでしょう?」
杏子はというと、最初は興味がないような顔をしていたくせに、いつの間にか別の棚をかなり真剣に見ていた。
「おい、こっちは?」
「それ、ドクロじゃん」
「いいだろ。かっこいいし」
「全員でドクロつけるの?」
「仲間っぽいじゃねえか」
「方向性が違うって」
ほむらだけは、少し離れたところに立ったままだった。
「そもそも、同じものを持つ必要性が分からないわ」
「必要だから買うんじゃないよ」
まどかが振り返る。
「持ってたら、今日のこと思い出せるから」
ほむらは何も言わなかった。
そのまま視線を商品棚へ移す。
少しして、まどかが「あ」と声を上げた。
棚の端に、小さな星形のストラップが並んでいた。
同じ形で、色だけが違う。
「これならあるよ。ピンク、青、黄色、赤……紫も」
「ほんとだ」
さやかが数える。
「ちょうど五人分じゃん」
杏子は赤い星を摘まみ上げ、裏返して眺めた。
「まあ、これならいいか」
「さっきまでドクロだったのに」
「星も悪くないだろ」
マミは黄色を手に取り、まどかは迷わずピンクを選んだ。
さやかが青を取る。
残った紫を、まどかがほむらへ差し出した。
「ほむらちゃん」
「……私も?」
「お揃いだから」
ほむらは少しだけ黙ってから、それを受け取った。
そこで、さやかが棚の奥を見て吹き出した。
「待って。白もある」
全員の視線が、少し離れたところで店内を眺めていた白い獣へ向く。
「僕も必要なのかい」
「マスコットなんでしょ」
杏子が言う。
「なら持っとけよ」
「僕には装着部位が少ない」
「知らないよ!」
結局、白い星も一つ買うことになった。
ただし本人につける場所がなかったので、まどかのバッグにぶら下げられる。
キュゥべえは、五つの色とは少し離れて揺れている白い星をしばらく見ていた。
「僕の代理記号ということかな」
「そういうことにしておいて」
さやかは呆れたように息を漏らした。
その横で、まどかはバッグに揺れる白い星へ目を落とす。
少し離れてはいるけれど、ちゃんと同じ形だった。
それがなんとなく嬉しくて、まどかの口元が緩んだ。
最後に入ったのは、駅ビルのゲームセンターだった。
入口をくぐった途端、電子音と音楽、それに何台もの筐体から漏れる光が一度に押し寄せてくる。
ほむらは一瞬だけ眉を寄せた。
その横を、杏子がさっさと通り過ぎる。
「お、これ知ってるぞ」
立ち止まったのは、クレーンゲームの前だった。透明な箱の中には、丸いぬいぐるみがいくつも積まれている。そのうち一つが、出口の近くで半分だけ他の景品に乗り上げていた。
「これ取れそうじゃね?」
「どれどれ」
さやかもすぐ横へ並ぶ。
二人でしばらく覗き込んだあと、まず杏子が硬貨を入れた。
「この位置なら余裕だろ」
クレーンが動く。杏子は景品の真上までアームを合わせ、そのまま下ろした。
アームがぬいぐるみを掴む。
「よし」
持ち上がったのは、ほんの一瞬だった。
アームが開き、ぬいぐるみは元の場所より少しだけ奥へ転がっていく。
「……は?」
杏子の顔が固まった。
さやかが吹き出す。
「下手じゃん」
「じゃあお前やってみろよ」
「いいよ。こういうのは真ん中じゃなくて、ちょっとずらすんだって」
今度はさやかが硬貨を入れる。
確かに杏子より狙いはよかった。アームがぬいぐるみの端を引っかけ、少しだけ出口側へ動かす。
「ほら!」
「取れてねえだろ」
「今ので近づいたの!」
もう一度やってみるが、今度はアームが空振りした。
「……あれ?」
「下手じゃねえか」
「うるさい!」
二人が言い合っている間、ほむらは少し離れたところから筐体の中を見ていた。
景品そのものではない。
アームが閉じる位置、持ち上がったときに開く幅、ぬいぐるみが転がった向き、そして出口の縁との距離。
さやかが振り返る。
「何よ。やりたいの?」
「別に」
「その顔、絶対できると思ってるでしょ」
「思っていないわ」
「じゃあやってみろよ」
杏子が百円玉を差し出した。
ほむらはそれを見てから、ほんの少しだけため息をつく。
「一回だけよ」
硬貨を入れる。
クレーンを動かし始めても、ほむらはぬいぐるみの中心を狙わなかった。
「そこずれてるって」
さやかが言う。
「いいの」
アームが下りる。
掴んだのは、ぬいぐるみの端だけだった。
杏子が眉を寄せる。
「落ちるぞ」
ほむらは答えない。
アームが閉じ、そのまま持ち上げる――のではなく、ぬいぐるみの身体を横から押し、少し傾く。
出口の縁に乗る。
もう少し。クレーンが上がった瞬間、ぬいぐるみは自分の重みでころりと転がり、そのまま取り出し口へ落ちた。
がこん、と音がする。
さやかと杏子が、同時に黙った。
ほむらは取り出し口からぬいぐるみを拾い上げる。
「一回ね」
「……お前」
杏子が筐体とほむらを見比べる。
「最初から取れると思ってただろ」
「アームの保持力では持ち上げられないと思っただけよ。あの位置なら、重心を出口側へ――」
「はいはい」
さやかが途中で止めた。
「でもさ」
少し間を置いて、にやりとする。
「あんた今、めちゃくちゃ得意そうな顔してるよ」
ほむらの表情はほとんど変わっていない。
「気のせいよ」
そう答えた声だけが、ほんの少しだけ満足そうだった。
まどかが笑う。
「ほむらちゃん、すごいね」
「これくらいなら、別に」
今度こそ、ほんの少しだけ顎が上がった。
「やっぱ得意げじゃん」
「違うわ」
そんなことを言い合いながら店内を歩いていると、今度はさやかが足を止めた。
並んでいたのは、何台かのプリクラ機だった。
「撮ろう」
振り返った顔は、さっきまでクレーンゲームで負けていたことなど、もうどうでもよさそうだった。
「いいね」
まどかがすぐに乗る。
「せっかくだものね」
マミも楽しそうに頷いた。
杏子だけが、機械を見上げて顔をしかめる。
「これ、何すんだ?」
「写真撮るの」
「写真なら普通のでいいだろ」
「違うの。こういうのはこういうのでいいの」
さやかが力説する。
その横で、ほむらは音もなく一歩下がった。
まどかの手が、すぐにその袖を掴む。
「ほむらちゃん」
ほむらが止まる。
「……まどか」
「一緒に撮ろう」
その一言で、退路はなくなった。
「四対一ね」
マミが少し楽しそうに言う。
「今日はそればっかりね」
ほむらは諦めた。
中に入ると、思ったより狭かった。
五人で並ぶだけでも大変なのに、キュゥべえまで入ろうとする。
「君たちの共同記録なら、僕も入るべきではないかな」
「写るんだ……」
さやかが呆れる。
杏子はキュゥべえを抱き上げた。
「ほら、マスコット」
「僕は持ち上げられる必要があるのかい」
「ある」
「そうか」
一枚目。
まどかとさやかが中央。マミが後ろから優しく寄り、杏子がキュゥべえを片手で抱え、ほむらは端で硬い顔をしていた。
二枚目。
さやかがほむらの肩に腕を回そうとして、ほむらが本気で避ける。結果、妙に躍動感のある写真になった。
三枚目。
まどかがほむらの隣に立った。
「ほむらちゃん、笑って」
「笑っているわ」
「笑ってないよ」
「笑っているつもりよ」
そのやり取りの瞬間に撮られた。
ほむらは、少しだけ困った顔をしていた。
それを見たさやかが言う。
「これ、今日一番いいじゃん」
「消しなさい」
「消しません」
落書き画面では、さらに揉めた。
さやかがほむらの頭上に「クール系休日初心者」と書こうとする。
ほむらが止める。
杏子がさやかの文字を見て言う。
「さやか、字汚ねえな」
「うるさい!」
マミは丁寧に小さなリボンの絵を描いた。
まどかは全員の名前を書いた。
キュゥべえの上には、杏子が勝手に「業務改善中」と書いた。
キュゥべえはそれを見て、少し考えた。
「間違ってはいない」
「認めるんだ……」
印刷された写真を、それぞれが受け取った。
小さな紙。
ただの遊びの記録。
ほむらはそれを見たまま、しばらく動かなかった。
何度も失った時間。
何度も消えた日常。
写真など、残しても意味がなかった。
どうせ次には持っていけない。
世界が巻き戻れば、この写真も、この一日も、ここには残らない。
誰かが死ぬ。
間に合わなければ、また同じところへ戻る。
ほむらは、手の中の写真へ目を落とした。
中央で笑っているまどかの隣に、さやかがいる。あれほど何度も壊れていった少女が、何でもない顔で笑っている。
その後ろにはマミがいて、杏子もいる。
本来なら、こんなふうに五人が同じ一枚へ収まることなどなかった。
その端には、キュゥべえまでいた。
そして、その中に自分までいる。
ほむらはしばらく写真を見ていた。
こんなものを持っていても、次には何の役にも立たない。
武器にもならない。情報にもならない。時間を越えて持ち出すこともできない。
それでも捨てる気にはならなかった。
写真の角を折らないように指先で整え、ほむらはそれを静かに財布へしまった。
まどかだけが、それに気づいた。
でも、何も言わなかった。
帰り道、空は夕方の色になっていた。
駅前の人通りはまだ多い。休日の終わりのざわめきが、辺りに満ちている。
さやかが大きく伸びをした。
「あー、遊んだ」
杏子はクレープの包み紙を丸めながら言う。
「思ったより悪くなかったな」
「素直に楽しかったって言えばいいのに」
「うるせえ」
マミは微笑んでいた。
「私も、楽しかったわ」
まどかが頷く。
「うん。楽しかった」
ほむらは何も言わなかったが、足取りは朝より少しだけ柔らかかった。
キュゥべえが言った。
「戦闘外共同体験による感情的接続の形成を確認した。共同食事、衣服選択、記念記録、少額消費行動。いずれも群れとしての自己認識を補助する可能性が――」
「キュゥべえ」
さやかが遮る。
「何だい」
「楽しかった、って言いなさい」
キュゥべえは少し黙った。
そして言った。
「楽しかった」
一瞬、誰も反応できなかった。
さやかが目を丸くし、杏子までキュゥべえを見る。
キュゥべえは続けた。
「……という表現が、今の状況には適切なのかもしれない」
「台無し!」
さやかの声が真っ先に飛んだ。
それを聞いた杏子が堪えきれずに吹き出す。
「お前、最後までそれかよ」
マミも口元へ手を当てた。困ったような、でもどこか嬉しそうな笑みだった。
まどかは何も言わず、キュゥべえを見ながら頬を緩めている。
ほむらだけは、少し目を伏せた。
笑ってはいない。
少なくとも、本人はそのつもりだった。
けれど、まどかには分かった。
ほんの少しだけ、口元が柔らかくなっている。
ほむらちゃん、笑ってる。
そう思ったけれど、言わなかった。
言葉にしたら、きっとすぐにいつもの顔へ戻ってしまう気がしたから。
駅前で別れる時、さやかは青い星のストラップを指で弾いた。
「これで次の戦い、ちょっとは強くなるのかな」
「その可能性はある」
キュゥべえが答える。
「でも、物理的なお守りそのものに効果があるわけではない。重要なのは、それを見た時に君たちが今日の共同体験を想起し、互いを仲間として認識することで――」
「だから言い方!」
さやかがまた怒る。
杏子が赤いストラップをポケットにしまった。
「ま、いいんじゃねえの」
マミは黄色い星をバッグにつけた。
「ええ。いいと思うわ」
まどかはピンクの星と、白い星を並べて揺らした。
「キュゥべえのもあるよ」
「僕の代理記号だね」
「うん。キュゥべえのも」
ほむらは、紫の星を手の中で見ていた。
つける場所がない。
そう言おうとしたけども、言わなかった。
代わりに、制服ではない今日の服のポケットへ、そっとしまった。
キュゥべえはそれを見た。
「暁美ほむら」
「何」
「君の感情値は――」
ほむらは無言で見下ろした。
キュゥべえは一拍置いた。
「今の発言は不要だった」
「分かっているならいいわ」
ほむらはそう言って、背を向けた。
少し歩いてから、立ち止まる。
振り返らずに言った。
「……次があるなら、事前に言いなさい」
さやかが目を丸くした。
「次?」
ほむらは振り返らない。
「予定調整が必要だから」
杏子がにやっと笑う。
「へえ」
マミも微笑む。
まどかは嬉しそうに言った。
「うん。次はちゃんと相談するね、ほむらちゃん」
ほむらは答えなかった。
ただ、ほんの少しだけ頷いた。
その日の記録は、キュゥべえの報告書にも残った。
見滝原地区ローカル運用改善試験。
非戦闘時共同体験による対象個体群の相互認識補強。
美樹さやか、巴マミ、佐倉杏子、暁美ほむら、鹿目まどか。
共同食事、衣服選択、娯楽施設利用、記念写真取得。
対象個体群は、互いを単なる戦闘単位ではなく、日常を共有する相手として認識しつつある。
追記。
対象個体群は、楽しそうだった。
さらに追記。
僕も、そこにいた。