魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
まどかは、いつの間にかキュゥべえが自分の部屋にいることに慣れていた。
机に向かっているときは、その端に座っている。ベッドへ入れば、今度は枕元や足元にいることがある。テレビを見ていれば画面の前に陣取り、ときには窓際から外を眺めている。
どこから入ってきたのか分からないことも多い。
ただ、顔を上げれば、だいたいそこにいた。
今日もそうだった。
まどかが机の方を見ると、キュゥべえはその上に座り、目の前へいくつもの薄い光の板を浮かべていた。以前に見せてもらった報告書と少し似ている。
今日は文字だけではなかった。
まどかの目は、一枚ずつ表示を追っていく。
大きな円があり、そこから何本もの線が伸びている。線の先には小さな点が並び、途中でいくつにも枝分かれしていた。
別の板には、ほどけない糸を無理に重ねたような図があり、その何本もの線が互いに絡まりながら、一つの場所へ集まっている。
何を表しているのか、まどかには分からない。
それでも、複雑に絡んだ線の中心で脈打つ、小さな紫色の光だけは目に留まった。
図の意味は分からなくても、それが誰のことなのかは聞かなくても分かる。
部屋へ入っていたまどかの足が、そこで止まった。
鞄を下ろすことも忘れて、しばらく紫の光を見つめる。
「キュゥべえ」
白い獣は振り返らなかった。
「なんだい、まどか」
「何してるの?」
「検討している」
「何を?」
「暁美ほむらの移行方式だよ」
やっぱり。
そう思った。
キュゥべえの前に浮かぶ図の中で、紫色の光がゆっくり点滅している。周囲には、細い線がいくつも伸びていた。その中に、薄い桃色の線もある。
まどかは胸の奥が少しだけ苦しくなった。
たぶん、自分だ。
「ほむらちゃんのは、難しいんだよね」
「そうだね」
キュゥべえは短く答えた。
「巴マミと佐倉杏子は、比較的見通しが立っている。従来方式から美樹さやかに近い方式へ移行するには危険があるけれど、構造は読める。願いと能力の関係も、魂とソウルジェムの接続も、破綻してはいない」
「ほむらちゃんは?」
「破綻はしていない」
キュゥべえは一拍置いた。
「ただし、絡まりすぎている」
まどかは机のそばまで歩いた。
光の板を覗き込む。
やっぱり分からないが、何となく、きれいではなかった。
ほむらの色である紫色の光は、真ん中で強く光っている。でも、その周りにいくつもの線が巻きついている。桃色の線。黒い線。灰色の線。何度も同じ輪を描いて戻ってくる線。
まどかは、小さく息を呑んだ。
「これ、ほむらちゃん?」
「正確には、暁美ほむらの契約構造と時間遡行能力の因果接続を、君たちにも見える形に近似したものだよ」
「うん。分かんない」
「そうだろうね」
まどかは少しだけ笑った。
いつもなら、ここでキュゥべえも何か余計なことを言いそうだった。
理解能力の問題ではない、とか。
君たちの文明の表記体系では限界がある、とか。
そういうことを。
でも、今日は言わなかった。
ただ、光の板を見ていた。
まどかは、椅子に座らず、机の横に立ったまま聞いた。
「ねえ、キュゥべえ」
「なんだい」
「それ、何かを借りようとしてるの?」
キュゥべえが、ようやく振り返った。
赤い目が、まどかを見る。
「どうしてそう思ったんだい」
「分かんないけど」
まどかは、光の板を見た。
紫の光の周りに、小さな空白がある。
そこだけ、何かが足りないように見えた。
「そこに、何か足りないんでしょ。で、キュゥべえはそれをどこかから持ってこようとしてる。そんな感じがしたから」
キュゥべえは黙った。
ほんの少しだけ。
その沈黙が、まどかには肯定に聞こえた。
「君は、時々とても厄介だね」
「えっ」
「悪い意味ではないよ」
「いい意味でもなさそう」
「判断が難しい」
まどかは小さく笑った。
「ほむらちゃんのために、それをやっているの?」
キュゥべえは、また少しだけ考えるように見えた。
もちろん、表情は変わっていない。
でも、まどかにはそう見えた。
「そういう言い方が、一番いいと思う」
キュゥべえは言った。
「もちろん、それだけじゃないけど」
まどかは、ふふ、と笑った。
「我慢したね」
「何を?」
「長期収支とか、運用改善とか、尊厳変数とか、そういうのを先に言うの」
キュゥべえは、少しだけ首を傾げた。
「我慢することも大事だよ。僕はサラリーマンだからね」
まどかは目を瞬いた。
それから、思わず笑ってしまった。
「お母さんみたいなこと言う」
「鹿目詢子は有能な労働者だ。比較対象としては不適切ではないかもしれない」
「そこまで言うと、やっぱりキュゥべえだね」
「そうかい」
キュゥべえは、光の板へ目を戻しかけて、そこで小さく言った。
「やれやれ。僕の貯金も、あまり残らなくなってしまったよ」
まどかは、思わず聞き返した。
「キュゥべえ、貯金とかするんだ」
「当然だよ」
キュゥべえは、何でもないことのように答えた。
「僕は真面目だからね」
「真面目……」
まどかは白い獣を見た。
貯金。
真面目。
サラリーマン。
そのどれも、キュゥべえに似合うような、似合わないような言葉だった。
キュゥべえは、赤い目でまどかを見上げる。
「まどか。君も、付き合うなら金遣いの荒くない男にしないと駄目だよ」
「なっ……」
まどかの顔が、一気に熱くなった。
「なんで、そんなことをキュゥべえが言うの」
「今のまどかの感情値の変動は大きかった」
「キュゥべえ!」
まどかは、思わず声を荒げた。
キュゥべえは気にしない。
「恋とか愛というものは、やはりアンチエントロピー的に優れているね。絶望に至る前段階でも、かなり複雑な感情変動を示す」
「そういうふうに見ないでよ」
「でも、まどか自身が金遣いの荒い個体なら、それはそれで問題ないかもしれない」
「続けるの!?」
「どちらにせよ、金銭感覚は近い相手をパートナーにしないと大変なことになるよ。鹿目詢子の社会的知見にも合致すると思う」
まどかは、少し疲れたように肩を落とした。
「キュゥべえに、そういう人はいるの?」
言ってから、まどかは首を傾げる。
「……人、はおかしかったかも」
「そこは問題ではないよ」
キュゥべえは、まどかの言い直しには触れなかった。
「僕にはそういう相手はいない。そもそも、僕たちには生殖という概念がない」
「ふーん」
まどかは、膝の上で指を重ねた。
「それって、寂しい?」
「よく分からない」
キュゥべえは即答しかけて、少しだけ黙った。
「ただ」
「ただ?」
「生殖する生物が、パートナーを見つけられないのは寂しいことだと思うよ。まどか」
まどかは目を丸くした。
「なんで、私が相手を見つけられないみたいなことを言うの?」
「そうは言っていないよ」
キュゥべえは首を傾げた。
「でも、美樹さやかは、上条恭介が選ぶかどうかは分からないけれど、そういう関係に近い願望を持っていた。巴マミにも、孤独への強い反応がある。暁美ほむらは、君に対する接続が極端に強い。佐倉杏子も、他者との接続を拒んでいるように見えて、完全には捨てていない」
そこで、キュゥべえの赤い目が近づいた。
「それで、まどかはいるの?」
「……近いよ、キュゥべえ」
まどかは少し身を引いた。
白い顔が、本当にすぐ近くにある。
赤い目は、何の悪意もなく、ただまっすぐにこちらを見ていた。
なんで、こんなことを聞いてくるのかな。
でも、キュゥべえはたぶん、からかっているわけではない。
本当に分からないから聞いている。
まどかは、視線を少しだけ落とした。
「今は……いないよ」
言葉にすると、思っていたより小さな声になった。
別に、変なことを言ったわけではない。
中学生なのだから、それが普通だと思う。
それなのに、少しだけ胸の奥が沈んだ。
キュゥべえは、しばらく黙っていた。
その沈黙が、妙に長く感じられた。
「言いたくない本当のことを言った時の感情値も、やはりいい値を示すね」
「……キュゥべえ」
「絶望しか見ないのは、やはり間違いだと思うよ」
まどかは、もう何も言えなかった。
怒ればいいのか、呆れればいいのか、笑えばいいのか分からなかった。
たぶん、その全部だった。
キュゥべえは、何事もなかったように光の板へ向き直る。
空中の文字が、また静かに動き始めた。
そこに、新しい文字が浮かぶ。
見滝原地区ローカル運用改善試験。
既存契約者移行補助案。
対象個体:暁美ほむら。
問題点:時間遡行能力による因果集中。
対象外因子:鹿目まどか。
不足要素:安定化核。
外部資源借入申請。
まどかは、その文字をゆっくり読んだ。
「借入……?」
「そうだよ」
「借金みたいなもの?」
「君たちの金融用語に近づけるなら、そうなる。厳密には、将来取得予定の観測資源と裁量資源を担保にした、前倒しの資源配分申請だよ」
「やっぱり借金じゃないかな」
「そう分類してもいい」
まどかは、少しだけ不安になった。
「それ、キュゥべえが返すの?」
「基本的には、僕のローカル裁量で返済する」
「返せなかったら?」
キュゥべえは、すぐには答えなかった。
まどかの胸が、きゅっと縮む。
「キュゥべえ」
「本体は、許可する可能性が高い」
「答えになってないよ」
「そうだね」
キュゥべえは、平坦な声で言った。
「返済不能になった場合、僕の裁量権限は大きく制限されるだろう。見滝原地区でのローカル改善試験も、停止または縮小される可能性がある」
「キュゥべえは?」
「僕という個体の継続は、保証されない」
まどかは息を止めた。
キュゥべえは、何でもないことのように言った。
本当に、何でもないことのように。
「……それ、危ないんじゃないの?」
「危険だよ」
「分かってるの?」
「分かっているつもりだ」
まどかは、机に手をついた。
「つもり?」
「僕には恐怖がない。だから、君たちの意味で危険を理解しているとは言い切れない。けれど、失敗した場合の損失と、成功した場合の利得は計算できる」
「それで、やるの?」
「やる必要がある」
キュゥべえは、紫の光を見た。
「これがないと、紫のピースは埋まらない」
まどかは、その言葉が妙に心に残った。
紫のピース。
ほむらちゃん。
何度も時間を繰り返して、何度も一人で戦って、何度もまどかを守ろうとしてくれた子。
その子の中に、足りない場所がある。
埋めなければいけない場所がある。
それを埋めるために、キュゥべえは何かを差し出そうとしている。
「ねえ」
まどかは小さく言った。
「ほむらちゃんには、言わないの?」
「現時点では言わない方がいい」
「どうして?」
「彼女は、自分のために誰かが危険を負うことを好まない」
まどかは黙った。
それは、すぐ分かった。
ほむらはきっと怒る。
そんなことしなくていい、と言う。
期待しないと言う。
自分は後回しでいいと言う。
あるいは、銃を向けるかもしれない。
でも、たぶん本当に怒る理由は、危険だからではない。
自分のために何かを差し出されることに、慣れていないからだ。
「キュゥべえは」
まどかは聞いた。
「ほむらちゃんに怒られるの、嫌?」
「嫌という感情はない」
「じゃあ、どうして黙ってるの?」
「今言えば、彼女は止める可能性が高い。止められると、実行が遅れる。実行が遅れれば、ワルプルギスの夜までに間に合わない可能性が上がる」
「ほら」
まどかは少しだけ笑った。
「嫌なんじゃなくて、困るんだ」
キュゥべえは黙った。
「そう分類してもいいのかもしれない」
まどかは、ベッドに腰を下ろした。
「キュゥべえ」
「なんだい」
「私には、見せてくれるんだね」
「君は、これを見てもすぐ止めない可能性がある」
「ひどいなあ」
「それに」
キュゥべえは、ほんの少しだけ言葉を置いた。
「君は、暁美ほむらの願いの中心にいる」
まどかは、笑えなかった。
紫の光に巻きつく桃色の線。
それが自分なのだと、もう分かっていた。
「君に何も知らせずに進めるのは、たぶんよくない」
「長期収支のため?」
「それもある」
「尊厳のため?」
「それもある」
「ほむらちゃんのため?」
キュゥべえは、すぐには答えなかった。
「そういう言い方が、一番いいと思う」
同じ答えだった。
でも、まどかは今度、それでいいと思った。
キュゥべえの前の光の板に、また文字が浮かぶ。
申請内容。
対象個体:暁美ほむら。
目的:時間遡行能力保持下における魂肉体接続の安定化。
必要資源:因果緩衝材、記憶連続性保持補助、鹿目まどかへの因果逆流抑制。
担保:見滝原地区ローカル裁量資源。将来観測予定の非破壊型感情変動データ。申請個体の継続権限。
まどかは最後の一文で、また胸が苦しくなった。
「申請個体って、キュゥべえのこと?」
「そうだよ」
「継続権限って?」
「この個体が、このローカル改善試験を継続する権限だね」
「それを担保にするの?」
「他に価値のあるものが少ない」
「そんなことないよ」
まどかは思わず言った。
キュゥべえが振り返る。
「何が?」
「キュゥべえには、他にも価値があるよ」
「どういう価値だい?」
まどかは、少し困った。
言葉にしようとすると難しい。
キュゥべえは危険だ。
怖い。
信用しきれない。
今でも、時々ひどいことを言う。
でも。
さやかちゃんを壊さないようにしてくれた。
マミさんを戻してくれた。
杏子ちゃんを助けた。
ほむらちゃんを諦めないと言った。
そして今、ほむらちゃんのために、何かを借りようとしている。
「……一緒にいる価値」
まどかは、そう言った。
「不明瞭だね」
「うん」
「でも、君たちにとっては重要なのかい?」
「たぶん」
「そうか」
キュゥべえは、少しだけ光の板を見た。
そして、新しい行を追加した。
周辺個体は、申請個体の継続に「一緒にいる価値」を認めている可能性あり。
まどかの視線が、追加された一文へ吸い寄せられた。
「書くの?」
「有用かもしれない」
「本体の人たち、分かるかな」
「分からない可能性が高い」
「じゃあ、また書いても意味ないんじゃない?」
「意味がないかどうかは、提出後の反応で判断する」
まどかは笑った。
少しだけ、泣きそうになりながら笑った。
「本当に真面目だね」
「仕事だからね」
「うん」
まどかは、机の上の白い獣を見た。
「でも、無理はしないでね」
「無理の定義が難しい」
「キュゥべえがいなくなったら、みんな困るよ」
「困る?」
「うん。たぶん、すごく困る」
キュゥべえは黙った。
長い沈黙だった。
「それは、ローカル改善試験における重要な制約条件かもしれない」
「もう」
まどかはため息をつく。
「そうじゃなくて」
「分かっている」
「本当に?」
「たぶん」
その答えに、まどかは少しだけ笑った。
キュゥべえは、光の板へ向き直る。
「まどか」
「なに?」
「今から本体へ申請を送る。君が見ていても、理解は難しいと思う」
「うん」
「それでも見るのかい?」
まどかは頷いた。
「見るよ」
「なぜ?」
「ほむらちゃんのためなんでしょ」
キュゥべえは、少しだけ黙った。
「そういう理解でいいよ」
光が強くなった。
部屋の中に音はない。
ただ、空中の文字と図形が、ゆっくりと組み替わっていく。
紫の光の周りにあった空白へ、細い白い線が伸びる。
足りないピースを探すように。
どこか遠くへ手を伸ばすように。
まどかは、その光を見ていた。
何が起きているのかは分からない。
本体が何なのかも、キュゥべえが何を差し出そうとしているのかも、本当には分からない。
でも、分かることもあった。
キュゥべえは、危険なことをしている。
それでも、やめない。
ほむらが諦めなかったように。
キュゥべえも、諦めないつもりなのだ。
まどかは膝の上で手を握った。
「ほむらちゃん、怒るだろうな」
「その可能性は高い」
「キュゥべえも、怒られるよ」
「それは想定している」
「謝る?」
「必要なら謝る」
「ちゃんと?」
「ちゃんと、の定義を確認したい」
まどかは笑った。
「そこからなんだ」
「重要だからね」
光の板の一番下に、最後の一文が浮かんだ。
申請理由:対象個体群は、壊れない方がよい。
追記:紫のピースを欠いたままでは、全体構造が安定しない。
追加追記:暁美ほむらを諦めない。
まどかは、その最後の文を見て、胸が熱くなった。
キュゥべえらしくない。
でも、キュゥべえらしい。
そんな変な文だった。
「ねえ、キュゥべえ」
「なんだい」
「その最後のやつ、本体の人たち、分かるかな」
「分からない可能性が高い」
「じゃあ、どうして書いたの?」
キュゥべえは、赤い目で光の板を見つめたまま言った。
「僕にも、よく分からない」
まどかは黙った。
キュゥべえは続けた。
「分からないけど、削除しない方がいい気がした」
それは、たぶん。
キュゥべえが言える、かなり精一杯の言葉だった。
まどかは静かに頷いた。
「うん」
部屋の光が、ふっと強くなり、申請が送られる。
まどかには、それがどこへ届くのか分からない。
ただ、白い獣の前に浮かんだ紫の光が、ほんの少しだけ明るくなったように見えた。
キュゥべえは、それをじっと見ていた。
まどかも、隣で見ていた。
紫のピースは、まだ埋まっていない。
そこへ向かう線だけは、確かに伸び始めていた。