魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
さやかが契約した公園は、夜になると静かだった。
昼間なら子どもが遊ぶ場所。
ブランコがあり、砂場があり、少し離れたところに街灯がある。
今そこにいるのは子どもではなかった。
魔法少女が四人。
まだ魔法少女ではない少女が一人。
そして、白い獣が一匹。
「本当に、ここでやるのね」
マミが静かに言った。
その声に怯えはなかったが、緊張はあった。
当然だった。
これから行うのは、新しい契約ではない。
もう結ばれてしまった契約を、別の形へ組み直すことだった。
キュゥべえは、街灯の下に座っていた。
「美樹さやかの契約時と同じ場所を使う。初回実装時の残留条件と比較しやすい」
「そういう理由なんだ」
さやかが少し呆れる。
「普通に、縁起がいいからとか言えばいいのに」
「縁起という概念は、今回の処理には直接関与しない」
さやかはため息をついた。
「ただし、美樹さやかにとってこの場所が自己認識の安定に寄与する可能性はある」
「結局そういうことじゃん」
さやかが言う。
まどかは、少し離れたところからキュゥべえを見ていた。白い身体も赤い目も、平坦な声もいつもと変わらないのに、なぜか今日は少しだけ違って見える。
昨日、自分の部屋で見た光の板と、紫のピース、そのために送られた借入申請――そして本体へ残された、あのキュゥべえらしくない追記が、まだ頭の中に残っていた。
キュゥべえは何も言わない。
まどかも、まだ何も言わなかった。
昨日の言葉を思い出す。
――君は、暁美ほむらの願いの中心にいる。
だから、自分には見せたのだとキュゥべえは言った。
まどかは今になって、その意味を少しだけ考え直していた。
もし今、ほむらちゃんに全部話したらどうなるだろう。
キュゥべえが、自分のために何かを差し出そうとしていること。
失敗すれば、今までと同じようにはここにいられなくなるかもしれないこと。
たぶん、ほむらちゃんは止める。
危険だから、というだけではない。自分のために誰かが危険を負うことを、ほむらちゃんはきっと受け入れない。
たとえ、それがキュゥべえでも。
いや――今のキュゥべえなら、きっと。
そして、自分が心配そうな顔をしていたら、なおさらだ。
まどかはそこまで考えて、少しだけ視線を落とした。
言わないことが正しいとは思わない。
ほむらちゃん自身のことなのだから、知らないままでいていいとも思わない。
でも、まだ申請がどうなるのかも分からない。
何ができるのかも、本当に危険なのかも、まだ決まっていない。
なら、今ここで自分が言葉を足して、ほむらちゃんの答えを先に決めてしまうのも違う気がした。
だから、今は言わない。
ずっと黙っているのではなく、まだ言わない。
まどかは、自分の中でそう決めた。
ほむらは、まだ知らない。
そのことはやっぱり、胸の奥に小さな重さとして残った。
それでも、まどかはその重さから目を逸らさなかった。
「順番はどうすんだ?」
杏子が聞いた。
「巴マミ、佐倉杏子、暁美ほむらの順で行う」
「私が最初なのね」
マミが胸に手を当てた。
「君の構造は比較的安定している。ただし、肉体再構成の履歴がある。最初に確認しておきたい」
その言葉に、マミの指が少しだけ動いた。
肉体再構成。
キュゥべえは、今でもその言葉を使う。
以前ほど胸を刺さなかった。
刺さらないわけではない。
ただ、その言葉だけで足元が崩れるほどではなくなっていた。
「分かったわ」
マミは、公園の中央に立った。
さやかが心配そうに見る。
「マミさん」
「大丈夫よ、美樹さん」
マミは微笑んだ。
「今度は、ちゃんと見ていて」
その言葉に、さやかは少しだけ唇を噛んだ。
最初の時、見ていられなかった。
見ないで、と言われた。
見ない方がいいものだった。
でも、今度は違う。
マミは見ていてほしいと言った。
キュゥべえがマミの前に座る。
「巴マミ。従来方式では、君の魂はソウルジェムに格納されている。今回の処理では、肉体と魂の接続を再調整し、ソウルジェムを単独の本体ではなく、魔力制御端末、濁度計、非常時保護核へ近づける」
「ええ」
「完全に美樹さやかと同じにはならない」
「分かっているわ」
「処理中、シャルロッテ戦の肉体破壊記録に触れる可能性がある」
マミの表情がわずかに強張った。
指先がソウルジェムに触れ、一瞬だけためらう。
やがて小さく息を吸い、顔を上げた。
「……分かったわ」
「中止するなら、今だよ」
杏子が横から言う。
「キュゥべえがそういうこと言うと、逆に怖えな」
「確認は必要だ」
「分かってるよ」
マミは杏子を見て、少しだけ笑った。
「ありがとう、佐倉さん」
「礼言われることじゃねえだろ」
杏子は目をそらした。
マミは胸元のソウルジェムへ指先を添える。
キュゥべえは、すぐには何もしなかった。
「始めてもいいかな?」
マミの指が、ほんのわずかに止まる。
一度、ゆっくり息を吸った。
それから、同じくらいゆっくり吐く。
ソウルジェムから手を離し、キュゥべえを見る。
「ええ。お願いするわ」
「分かった」
そこで初めて、キュゥべえの耳から伸びる輪が淡く光った。
マミの胸元のソウルジェムも、それに応えるように輝く。黄色い光が空中へほどけていった。
形は、どこかリボンに似ているが、いつもの戦闘用のものとは違った。
もっと細く、もっと柔らかい。光そのものを撚って作った糸のようなものが、ゆっくりとマミの周囲へ広がっていく。
マミは目を閉じた。
一瞬、身体が震える。
まどかは息を止めた。
さやかが一歩前へ出かける。
ほむらがその腕をそっと止めた。
「今は待って」
さやかは、苦しそうに頷いた。
黄色い光が、マミの首元へ回る。
その瞬間、マミの表情が歪んだ。
噛まれる。
まどかには、そう見えた。
マミの身体があの日の記憶へ引き戻されかけたように見えた。
「マミさん」
まどかが思わず声を出す。
マミのまぶたが震える。
キュゥべえは言わなかった。
感情値が、とも。
濁度が、とも。
再構成履歴が、とも。
言わなかった。
ただ、光を維持していた。
マミは、ゆっくり息を吐いた。
「……大丈夫」
声は小さい。それでも、確かだった。
「私は、ここにいるわ」
黄色い光の糸が、マミの身体を包むように巡っていく。
足元から立ち上った光がスカートの裾を形作り、腰を回って細いリボンへ変わる。胸元へ集まった光は一度強く輝き、そこから肩へ、腕へと薄い層を広げながら、見慣れた衣装の形をなぞっていった。
色も、形も、大きくは変わらない。
黄色を基調にしたスカート。手袋。帽子。そして、幾重にも重なるリボン。
いつもの、巴マミの姿のようだったが、よく見れば違う。
肩から胸元へかけて、柔らかな布の下にもう一枚、薄い光の層が重なっている。硬い鎧ではない。それでも動くたび、その内側を淡い光が走り、身体そのものを支えるように形を保っていた。
首元のリボンも、ただの飾りではない。
胸元のソウルジェムから伸びた光がそこで一度結ばれ、そこから細い筋となって全身へ広がっている。
最後に、帽子の縁へ黄色い光が走った。
そこでようやく、周囲を漂っていた光の糸が静かに消える。
マミが、ゆっくりと目を開けた。
最初に確かめたのは、自分の手だった。
手袋に包まれた指を一度開き、また閉じる。もう一度、今度は少しゆっくりと。
マミが、ゆっくりと目を開けた。
最初に確かめたのは、自分の手だった。手袋に包まれた指を一度開き、また閉じる。もう一度、今度は少しゆっくりと動かしてから、手のひらを胸元へ当てた。
指先がソウルジェムに触れる。
そこで、マミの動きが止まった。
いつもの癖で、縁に指をかける。
外れない。
強く固定されている、という感じではなかった。
ソウルジェムの奥から淡い黄色の光がそのまま身体へ続き、胸元から肩へ、腕へ、腹部へと細い筋になって流れている。宝石を取り外そうとすると、自分の身体の一部を引こうとしているような妙な感覚が返ってきた。
マミは指を離した。
「……これ」
もう一度、今度はそっと触れる。
「前みたいには、外れないのね」
「そうだよ」
キュゥべえが答えた。
「完全に取り外し可能な魂の容器ではなくなっている。今は肉体側との接続を優先しているからね」
マミは胸元の光を見つめる。
そこにあるのは、確かにソウルジェムだった。
もう身体から切り離された本体には見えなかった。
自分の一部として、そこにある。
マミは小さく息を吐いた。
「……温かい」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
マミは少しだけ笑った。
「変ね。魔法少女なのに」
キュゥべえが言った。
「巴マミの自己同一性は――」
「キュゥべえ」
マミが遮った。
「今は、私が安心したと言ってちょうだい」
キュゥべえは一拍置いた。
「巴マミは、安心した」
マミは苦笑した。
「ええ。そうね」
さやかが泣きそうな顔で笑う。
「マミさん」
「大丈夫よ」
マミは、今度は自然にそう言った。
その「大丈夫」は、以前のように誰かを安心させるためだけの言葉ではなかった。
自分自身にも届く言葉だった。
次は杏子だった。
「んじゃ、次はあたしか」
杏子は公園の中央へ歩いた。
軽い足取りだった。
軽く見せているだけかもしれなかった。
「失敗したらぶっ飛ばすからな」
「失敗した場合、君が僕をぶっ飛ばせる状態にあるとは限らない」
杏子は顔をしかめた。
「じゃあ、失敗すんな」
「そのつもりだよ」
「つもりじゃ困るんだよ」
「失敗しない」
杏子の目が、少しだけ変わった。
「……言うようになったじゃねえか」
キュゥべえは、杏子の前に座る。
「佐倉杏子。君の願いと能力構造は比較的明確だ。祈り、言葉、信仰、拒絶。そこから派生した幻惑と結界的補助、槍による接近戦闘。従来方式からの移行は可能性が高い」
「余計な説明を聞くと、やっぱりやめたくなるな」
「やめるかい?」
「やめねえよ」
杏子は即答した。
「こっちはもう、一回死に損なってんだ。使えるもんは使う」
さやかが小さく言う。
「杏子」
「何だよ、さやか」
「終わったら、なんか食べに行こ」
杏子は一瞬だけ黙った。
それから、口の端を上げる。
「おう」
キュゥべえはすぐには処置を始めなかった。
赤いソウルジェムと杏子を順に見てから、いつもと変わらない声で聞く。
「佐倉杏子。始めてもいいかな?」
杏子が眉を上げた。
「……お前、やっぱ変わったよな」
キュゥべえが首を傾げる。
「そうなのかい?」
「前なら、できるって分かったらそのままやってただろ」
「今は本人の同意を確認した方が、処置後の安定性が高いと判断している。それで、進めていいのかい?」
杏子は一拍黙って、それから肩をすくめた。
「……やっぱ変わってねえわ。ああ、進めてくれ」
「分かった」
そこで初めて、キュゥべえの耳から伸びる輪が光った。
赤いソウルジェムが応える。
マミのときのように、光がゆっくりほどけることはなかった。
赤い閃光が杏子の足元を走り、弾けるように跳ね上がる。
炎に似た見た目をしていたが、熱はない。
燃え広がるのではなく、杏子という人間の輪郭を確かめるように、光が足首から膝へ、腿から腰へと一気に駆け上がっていく。
通り過ぎたあとには、見慣れた魔法少女の衣装が形を取った。
赤い布が翻り、腰のあたりで重なって形を整える。黒との境目を光が鋭くなぞり、そのまま腹から胸へ駆け抜けた。
胸元でソウルジェムが強く輝く。
そこから伸びた赤い光は今度は外へ散らず、細い脈のように身体の内側へ沈み込んでいった。
肩へ、腕へ、握った拳の先まで。
杏子がわずかに歯を食いしばる。
「っ……」
さやかが顔を上げる。
「杏子!」
「来んな」
杏子は短く言った。
「これは、あたしのだ」
誰も動かなかった。
痛いわけではない。
ただ、今まで胸元にぶら下がっていたものが、自分の内側へ根を張ってくるような感覚があった。
次の瞬間、赤い光が背中から大きく跳ねた。
杏子の手の中に槍が現れる。柄を握った瞬間、光がそこへも走った。
一節、また一節と長い槍の輪郭をなぞり、先端まで届いたところで鋭く弾ける。
杏子は反射的に槍を振った。
赤い軌跡が空中へ残り、遅れて風が鳴る。
それで終わりだった。
マミのときのような余韻はない。
燃え上がったように見えた赤い光は、一瞬で杏子の身体へ吸い込まれ、あとには見慣れた姿だけが残った。
――見慣れているようで、少しだけ違う姿が。
「……へえ」
杏子は笑った。
「悪くねえ」
キュゥべえが言う。
「佐倉杏子の肉体感覚と武器制御の再同期を確認。代謝感覚も――」
杏子の腹が、小さく鳴った。
沈黙。
さやかが目を丸くする。
まどかも口を押さえる。
杏子は、少しだけ顔をしかめた。
「……腹減った」
キュゥべえは真面目に頷いた。
「代謝感覚の再同期が起きている」
「飯食いてえって言ってんだよ」
さやかが吹き出した。
「よし、終わったら何か食べに行こう」
「言ったな」
「言ったよ」
「おごれよ」
「何でよ!」
杏子は笑った。
その笑い方は、いつもと同じようで、少しだけ違っていた。
生き残るために笑っているのではなく、今腹が減っていることを面白がっているようだった。
キュゥべえはそれを見ていた。
だが、何も言わなかった。
最後は、ほむらだった。
空気が変わった。
誰も、軽口を言わなかった。
杏子ですら、菓子を取り出さなかった。
ほむらは、公園の中央に立った。
変身はしていない。
私服だった。
この前、皆で選んだ黒のワンピースと淡い紫のカーディガンではない。今日はいつもの落ち着いた服だ。制服ではなかった。
それだけで、まどかは少し胸が熱くなった。
ほむらは、もう戦うためだけにここへ来たのではない。
「暁美ほむら」
キュゥべえが言った。
「君の処理は、他の二人とは違う」
「分かっているわ」
「君の願いは、鹿目まどかを中心に時間を巻き戻すものだった。時間遡行、記憶保持、因果再配置、ワルプルギスの夜を終点とする反復。そのすべてが、君の魔法少女としての構造に絡んでいる」
「説明は聞いたわ」
「今回、君の時間遡行能力は奪わない」
ほむらの目がわずかに動いた。
「ただし、以前と同じようには起動しない可能性がある」
「それは」
ほむらは、静かに言った。
「私が逃げにくくなるということ?」
まどかが息を呑む。
さやかも黙った。
マミが、胸の前で手を重ねる。
杏子は、ほむらを見ていた。
キュゥべえは少し考えた。
「君たちの言葉では、そうなるかもしれない」
「そう」
ほむらは小さく笑った。
「いいわ」
「ほむらちゃん」
まどかが思わず呼んだ。
ほむらはまどかを見た。
優しい顔ではなかった。
でも、冷たい顔でもなかった。
「逃げ道があるから、何度も逃げたわけじゃない」
まどかは何も言えなかった。
ほむらは続ける。
「私は、まどかを助けたかった。それだけよ」
キュゥべえが言った。
「その目的は、今回の処理でも保持する」
ほむらは白い獣を見る。
「それは、あなたが保証するの?」
「保証はできない」
「でしょうね」
「でも、僕は諦めない」
ほむらはしばらくキュゥべえを見ていた。
それから、小さく息を吐く。
「なら、始めてちょうだい」
「いいのかい?」
「ここまで来て、今さら聞くの?」
「本人の同意を確認することにしたんだ」
「知っているわ」
ほむらの口元が、ほんのわずかに動いた。
「だから、先に言ったのよ」
キュゥべえは少しだけ首を傾げる。
「君は時々、僕の手順を先回りするね」
「あなたが何を言うか、だいたい分かるようになっただけよ」
「それは僕も同じだよ」
ほむらの眉がわずかに寄った。
「嬉しくないわね」
「僕も、嬉しいという感情はないよ」
「でしょうね。始めて」
「分かった」
キュゥべえの耳から伸びる輪が光った。
マミや杏子のときのように、光がそのまま身体へ流れ込むことはなかった。
まず、ほむらの胸元に紫の光が灯る。
そこから細い線が伸びた。
一つ、二つではない。
桃色。黒。灰色。紫。
色の違う線が次々と現れ、互いに絡まりながら空中へ広がっていく。
まどかにはすぐに、それがただ複雑なだけではないことが分かった。
同じ場所を通っているように見えた二本の線が、少し見る位置を変えるだけで、まったく別の場所に離れている。
一本の線が別の線の下を潜ったと思った次の瞬間には、今度はその上から重なっていた。
遠いとか、近いとか。
前とか、後ろとか。
そういう見方では、うまく整理できない。
目の前に見えているのは、本当の形そのものではなく、もっと別のところにあるものを、この空間の中へ無理に押し込んで見せているのだと、まどかにはそんなふうに思えた。
その中心で、紫色の光だけが変わらず脈打っている。
まどかは息を呑んだ。
昨日、自分の部屋で見たものと同じだった。
紫のピース。
その周囲へ絡みつき、何度も離れ、また戻ってくる線。
ただ、昨日よりもずっと多い。
そして今は、そのすべてが図ではなく、ほむら自身へ繋がっていた。
キュゥべえの身体が、ほんの一瞬だけ白く揺らいだように見えた。
まどかは目を凝らす。
今のは何だったのだろう。
光のせいかもしれない。
夜の街灯のせいかもしれない。
キュゥべえはいつも通りのように見えるのに、何かが変わっている気がした。
その何かは、少なくとも今は分からなかった。
ほむらの周囲で、紫の線が絡まる。
彼女のソウルジェムが光る。
その光は、さやかの青よりも静かで、マミの黄色よりも冷たく、杏子の赤よりも深かった。
ほむらは目を閉じた。
記憶が押し寄せてきた。
病室の白い天井。
長く休んだあとで戻った学校。
眼鏡をかけ、何をするにも遅くて、体育の授業では息を切らし、自己紹介ひとつまともにできなかった自分。
そんな自分へ、まどかは笑いかけてくれた。
名前を呼んでくれた。
一緒に歩いてくれた。
何もできないと思っていた自分にも、いいところはあると言ってくれた。
マミと出会った。
魔法少女というものを知った。
怖いこともあったのに、二人の後ろをついて歩いている時間は、不思議なくらい楽しかった。
あの頃は、明日も同じように来ると思っていた。
そして、ワルプルギスの夜が来た。
まどかが死んだ。
そこから先だけ、記憶の流れが変わった。
もう一度会いたい。
今度は守れる自分になりたい。
願った。
契約した。
時間が戻った。
まどかがいた。
生きていた。
笑っていた。
今度こそ。
そう思った。
失敗した。
戻った。
また会えた。
また間に合わなかった。
戻る。
戦う。
失う。
戻る。
知っていることが増える。
使える武器が増える。
できることが増える。
なのに、まどかは遠くなる。
話しても信じてもらえない。
説明する時間が惜しくなる。
笑う時間が減る。
名前を呼ばれても、立ち止まれなくなる。
戻る。
失敗する。
戻る。
失敗する。
また戻る。
いつからだったのか、もう分からない。
眼鏡を外したのは。
髪をほどいたのは。
笑わなくなったのは。
誰かが死ぬことを、驚くより先に計算するようになったのは。
ただ一つだけ、始まりは覚えていた。
まどかが死んだ。
あの日から、全部がほどけなくなった。
そのすべてが、ほむらの中へ押し寄せる。
今度は流されなかった。
誰かが呼んだからだった。
「ほむらちゃん」
まどかの声だった。
その瞬間、桃色の線が強く光った。
紫の光が揺れる。
キュゥべえが口を開きかける。
「鹿目まどかの呼びかけによって――」
ほむらが目を開けた。
静かに、キュゥべえを見る。
キュゥべえは黙った。
まどかは、少しだけ泣きそうになった。
言わなかった。
言わなくてよかった。
紫の線が、ほむらの胸元から腕へ、指先へ、足元へ伸びていく。
さやかのように鮮やかではない。
マミのように柔らかくもない。
杏子のように力強くもない。
絡まり合っていた光の線が、少しずつほむらの身体へ戻っていく。
最初に足元へ紫の光が集まった。
細い輪郭が靴を形作り、そこから黒が脚を包むように上へ伸びる。腰を越えたところで光はいったん左右へ分かれ、黒い布となって身体の線を整えていった。
胸元へ届くと、紫の光が一度強く脈打つ。
その上から白が走った。
襟を縁取り、肩へ回り、黒と紫の間に見慣れた境界を作っていく。
ほむらの髪がふわりと持ち上がった。
背中まで流れる長い黒髪の間を、細い紫の光が何本も抜けていく。絡まりもせず、今度は迷うこともなく、一本ずつ身体へ吸い込まれていった。
最後に左腕へ光が集まる。
円を描き、重なった後、硬質な輪郭へ変わる。
盾が形を取り、その縁を、今までにはなかった細い紫の光が一周する。
ほむらの魔法少女姿そのものは、大きく変わっていなかった。
黒と紫。
白い襟。
長い髪。
左腕の盾。
それでも、胸元だけは明らかに違った。
ソウルジェムはそこにある。
もう身体から切り離された冷たい核のようには見えない。
宝石の奥から紫の光が細く伸び、胸元から肩へ、腕へ、さらに身体の奥へと沈み込んでいる。呼吸に合わせるように、光もゆっくりと明滅していた。
盾の縁に灯った光も、それと同じ調子で脈打つ。
そして、すべての光が収まったあと。
胸元のすぐそばに、小さな光がひとつ残った。
紫ではない。白にも見える、淡い星のような光。
ほむらのソウルジェムには触れず、離れもしない距離で、静かに浮かんでいる。
最後にその星が一度だけ瞬いた。
それを合図にしたように、周囲に残っていた光がすべて消えた。
ほむらが、ゆっくりと目を開けた。
まどかは、それを見て息を呑んだ。
この前のストラップと同じ形だった。
ほむらも、それに気づいた。
ポケットに手を入れる。
そこには、小さな紫の星があった。
変身していても、その感触はなぜか消えていなかった。
ほむらは、それを握った。
「……重いわね」
まどかが、そっと聞く。
「身体が?」
ほむらは少し考えた。
そして、答えた。
「いいえ」
夜の公園に、静かな声が落ちる。
「今が」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
ほむらは、自分の手を見た。
銃を出すためではない。
時間を止めるためでもない。
ただ、自分の手を見るために。
「今が、重い」
キュゥべえが静かに言った。
「暁美ほむらの魂肉体接続は安定している。時間遡行能力の保持を確認。因果逆流は抑制傾向。鹿目まどかへの追加負荷は、現時点では増加していない」
ほむらは、今度は止めなかった。
それは必要な報告だと思ったからだった。
まどかが、少しだけ息を吐く。
「よかった……」
その声に、ほむらの胸元の紫がまた小さく光った。
キュゥべえはそれを見ていた。
だが、やはり余計なことは言わなかった。
杏子が肩をすくめる。
「成功、ってことでいいんだな」
「そうだよ」
キュゥべえは答えた。
「三例とも、移行処理は成功した」
さやかがぱっと笑う。
「やったじゃん!」
マミは静かに頷いた。
「ええ」
杏子は槍を肩に担いだ。
「んじゃ、飯だな」
「本当にそれなんだ」
さやかが笑う。
「腹減ったって言ったろ」
「はいはい。行きますよ」
まどかも笑った。
ふとキュゥべえを見た。
白い獣は、いつも通りに座っていた。
何も変わっていないように見える。
でも、まどかにはやっぱり何かが違う気がした。
光のせいではない。
実装処理のせいでもない。
キュゥべえは、何かを使った。
何かを借りた。
あるいは、何かを差し出した。
その結果が、今ここにある。
マミが自分の身体を取り戻した。
杏子が腹を減らした。
ほむらが今の重さを感じた。
そのために、キュゥべえは何をしたのだろう。
まどかには、分からない。
少なくとも今は。
「まどか」
キュゥべえが言った。
「なんだい、キュゥべえ」
まどかが真似するように返すと、キュゥべえは少しだけ首を傾げた。
「君の睡眠時間に影響が出る前に帰った方がいい」
まどかは、思わず笑った。
「そうだね」
いつも通りだ。
やっぱり、いつも通りだ。
でも。
まどかは、夜の公園から歩き出す皆を見た。
マミさんがいる。
杏子ちゃんがいる。
さやかちゃんがいる。
ほむらちゃんがいる。
そして、キュゥべえもいる。
そのことが、前より少しだけ不思議で、前より少しだけ大切に思えた。
ほむらは、歩きながらポケットの中の紫の星を握っていた。
ソウルジェムは静かだった。
今は、重かった。
でも、その重さは、ほむらを地面につなぎとめていた。