魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
「成功、ってことでいいんだな」
杏子の声に、キュゥべえはいつも通り答えた。
「そうだよ。三例とも、移行処理は成功した」
「三例」
その言葉を聞いて、ほむらはまずマミを見た。胸元には、身体とつながった黄色いソウルジェムがある。
次に杏子へ視線を移す。赤い光も、もう以前のように身体から孤立してはいない。
そして最後に、自分の胸元へ目を落とした。
三人。
キュゥべえにとっては、三例。
処理。成功。確認。対象個体。
いつもと変わらない、温度のない言葉だった。
それなのに、ほむらはすぐには視線を上げなかった。
自分たち三人を順番に見たあとでは、その言葉が以前とまったく同じものなのか、少しだけ分からなくなっていた。
マミが自分の手を確かめ、杏子が腹を鳴らし、さやかが笑って、まどかが安心したように息を吐いている。
その中で、ほむらだけが、白い獣を見ていた。
「キュゥべえ」
「なんだい」
キュゥべえは振り返る。
ほむらは一歩近づいた。
「あなた、難しいと言っていなかった?」
「言ったよ」
「リスクが高いとも」
「それも言った」
「なのに、成功した」
「そうだね」
「ずいぶん簡単に言うのね」
キュゥべえは、少しだけ首を傾げた。
「簡単だったとは言っていない」
「でも、できた」
「できないとは言っていない」
ほむらは、さらに一歩近づいた。
その瞬間だった。
キュゥべえの身体が、半歩下がった。以前なら避ける必要すらない局面だった。
普通なら見逃すほどの動き。
ほむらは見逃さなかった。
何度も撃った。
何度も殺した。
何度も白い身体が弾けるところを見た。
そのたびに、キュゥべえは恐れたようには見えなかった。
避けることはあった。合理的に距離を取ることもあった。
だが、ほむらの知るキュゥべえが、今のように身を縮めたことはない。
今の動きは、少し違って見えた。
まるで、子猫が危険を感じて、思わず身体を小さくしたような。
壊されることを、頭で計算するより先に身体が知っていたような。
――そんなふうに見えた。
ほむらの目が細くなる。
「あなた」
声が低くなった。
「何をしたの」
公園の空気が変わった。
さやかの笑いが止まる。
マミが顔を上げる。
杏子が、手にしていた菓子を握ったまま動きを止めた。
まどかは、少しだけ唇を噛んだ。
キュゥべえは、ほむらを見上げていた。
「必要な処置だった」
「質問に答えなさい」
「答えている。暁美ほむらの移行には、通常の裁量資源だけでは不足していた。時間遡行能力と因果逆流を緩衝し、鹿目まどかへの追加負荷を抑えたまま魂肉体接続を安定化するには、外部資源が必要だった」
「だから、何をしたの」
「本体へ借入申請を行った」
さやかが眉を寄せる。
「借入って……借金?」
「君たちの金融用語に近づけるなら、そうなる」
「何を担保にしたの」
ほむらは言った。
キュゥべえは、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、ほむらは分かった。
「キュゥべえ」
まどかが小さく呼んだ。
白い獣は、いつもの声で言った。
「予備復帰権だよ」
杏子の顔から表情が消えた。
「……何だ、それ」
「僕の端末としての残機だ」
誰も、すぐには理解できなかった。
理解したくなかったのかもしれない。
キュゥべえは淡々と続けた。
「この実験の結末を見るために、現在の身体は維持されている。本体への担保として、代替個体への即時移行権限、予備端末復帰権、再配置保証の大部分を差し出した」
さやかが、一歩前に出た。
「それって」
声がかすれていた。
「あんた、今死んだらどうなるの」
キュゥべえはさやかの方へ身体ごと視線を向けた。
「従来のように、別の身体がすぐ現れる保証はない」
「だから、それって」
杏子が低く言った。
「死ぬってことか」
キュゥべえは一拍置いた。
「君たちの表現では、そうなる」
その瞬間、誰も動かなかった。
夜の公園で、ブランコだけが小さく揺れる。
ほむらは、白い獣を見下ろしていた。
これまで、撃っても意味がなかった相手。
殺しても、次の身体で現れた相手。
自分が何度殺しても、何も変わらなかった相手。
そのキュゥべえが、今は死ぬ。
しかも。
「私のために?」
ほむらの声は、静かだった。
静かすぎた。
キュゥべえは即座に言った。
「違う」
「違わないわ」
「違う。これは僕の判断だ。君だけのためではない。対象個体群全体の安定化、鹿目まどかへの因果負荷抑制、ワルプルギスの夜への対処可能性向上、非破壊型感情変動運用の継続観測、見滝原地区ローカル改善試験の成立条件――」
「言い訳が長い!」
さやかが叫んだ。
キュゥべえは黙った。
杏子が舌打ちする。
「お前、それを先に言えよ」
「先に言えば、暁美ほむらが止める可能性が高かった」
「当たり前だろうが!」
杏子の声が荒くなる。
「お前、自分が何やったか分かってんのか!」
「分かっているつもりだ」
「つもりじゃねえよ!」
杏子は詰め寄りかけた。
だが、途中で足を止めた。
キュゥべえが、またわずかに身体を引いたからだった。
杏子も、それを見た。
「……お前」
その声は、怒りよりも苦いものだった。
「本当に、残機ねえんだな」
「厳密には、完全にゼロではない。ただし、このローカル改善試験中に僕が破壊された場合、従来のような即時復帰は期待できない。実験の結末を見るための現在身体は維持されるが、それを失えば――」
「もういい」
杏子は低く言った。
「もう分かった」
マミは両手を胸の前で握っていた。
「そんなものを、担保にしたの」
「必要だった」
「あなたは」
マミの声が震える。
「自分が壊れることを、私たちに説明しないまま、処理を行ったのね」
「事前説明は、処理成功率を下げる可能性が高かった」
「そういう問題ではないわ」
「そういう問題でもある」
いつもの返答だった。
だが、今は誰も笑えなかった。
まどかは、キュゥべえを見ていた。
まどかは、昨日自分の部屋で見た光の板を思い出した。
ほむらちゃんのために送られた借入申請。その担保として書かれていた、「申請個体の継続権限」という言葉。
意味を聞いたとき、キュゥべえはちゃんと答えていた。この個体が、この場所で改善試験を続けられる権限なのだと。返せなければ、それが失われるかもしれないとも。
あのときも、胸が苦しくなった。
だから、本当はもう分かっていたのかもしれない。
キュゥべえが差し出そうとしていたのは、ただの数字や権限ではない。
今ここにいる、このキュゥべえが、このままここにいられることだった。
ただ、そこまで言葉にしてしまいたくなかった。
分からなかったのではない。
分かりたくなかっただけなのだ。
「キュゥべえ」
まどかの声は小さかった。
「ごめんね」
キュゥべえは振り返った。
「なぜ、まどかが謝るんだい」
「私、見てたのに」
「君は止めなかった」
「うん」
「それは、僕にとって都合がよかった」
「そういう言い方」
まどかは少しだけ泣きそうに笑った。
「でも、止めた方がよかったのかなって」
「止められても、別の方法で実行した可能性が高い」
「もっと悪いよ」
さやかが言う。
ほむらは、まだ黙っていた。
キュゥべえは、ほむらへ向き直る。
「暁美ほむら。君が自責に向かう必要はない。今回の担保設定は、僕の判断によるものだ。君は要求していない。鹿目まどかも要求していない。巴マミも佐倉杏子も美樹さやかも関与していない。したがって、責任の所在は――」
「あなた、本当に馬鹿ね」
ほむらが言った。
キュゥべえは、少しだけ首を傾げた。
「それは不正確だ」
「不正確でもいいわ」
「よくない。原因と責任を誤認すれば、感情状態に悪影響が出る」
「今、それを言うの」
「今だから言う必要がある」
ほむらは、白い獣を見下ろした。
今までなら、ここで怒鳴っていたかもしれない。
銃を向けたかもしれない。
撃ったかもしれない。
今はできなかった。
この白い獣は、もう撃てば終わるかもしれない。
その事実が、ほむらの指先を冷たくしていた。
「あなたが死ねば、この実験は終わるのでしょう」
「少なくとも、この個体による継続観測は終わる」
「そして、まどかを契約させない方式も、魔法少女を魔女化させない方式も、止まるかもしれない」
「その可能性はある」
「なら、なぜそんなことをしたの」
「君が必要だったからだ」
即答だった。
風が吹いた。
ほむらの長い髪が肩から流れ、遅れて木々の葉が鳴る。公園の外を走る車の音も、遠くで誰かが話す声も、ちゃんと聞こえていた。
それなのに、その一言だけが妙にはっきり残った。
君が必要だった。
夜の公園で、白い獣は何でもないことのようにほむらを見上げている。
ほむらは、すぐには次の言葉を返せなかった。
キュゥべえの赤い目に、いつもと違うものがあるわけではない。
分かっている。
分かっているのに、なぜか視線を外すタイミングを失った。
「巴マミは戻った。佐倉杏子は生き残った。美樹さやかは新方式の第一号として安定している。鹿目まどかは未契約を維持している。けれど、暁美ほむらが従来構造のままなら、時間遡行能力と因果集中の不安定性は残る。君が再び巻き戻せば、鹿目まどかへの負荷は増える可能性が高い。ワルプルギスの夜も強化されるかもしれない。君を安定化しなければ、全体構造は安定しない」
「だから、残機を差し出した」
「そうだよ」
「私に期待しろと言ったのは、その担保があったから?」
「それだけではない」
「でも、あったのね」
「そうだよ」
ほむらは、小さく息を吐いた。
怒りは確かにあった。
だが、それだけではなかった。
困惑、恐れ、苛立ち。
そして、どうしようもなく、痛いもの。
自分のために誰かが危険を負う。
それを、ほむらはうまく受け取れなかった。
「期待しないでおくわ」
ほむらは言った。
前にも言った言葉だった。
だが、今度は少し違った。
キュゥべえは答えない。
ほむらは続ける。
「でも、死なせない」
白い獣が、まっすぐほむらを見た。
「それは、僕を保護対象として扱うという意味かな」
「そうよ」
杏子が鼻を鳴らした。
「残機ねえなら後ろ下がってろ、マスコット」
さやかも言った。
「そうそう。マスコットは守られる側でしょ」
「僕はマスコットとして設計されていない」
「自分でマスコットになるって言ったでしょ」
「実験条件として――」
「言い訳しない」
さやかに遮られ、キュゥべえは黙った。
マミが静かに言う。
「今回は、あなたも保護対象ね」
キュゥべえは、少しだけ全員を見た。
「この扱いは想定していなかった」
「でしょうね」
ほむらは言った。
「あなたはいつも、想定が甘いのよ」
「僕は多くの可能性を考慮している」
「なら、これも考慮に入れておきなさい」
ほむらは、ポケットの中の紫の星を握った。
「あなたが死ねば、困る」
キュゥべえは黙った。
そのまま何も返さない白い獣を見て、さやかが呆れたように言う。
「キュゥべえ。こういうときは、ありがとうとかじゃないの?」
「そこは、ありがとうとかじゃないの?」
「ありがとう?」
キュゥべえは、ほむらを見た。
ほむらは目を細める。
「言わなくていいわ」
「言った方がいいのかい?」
「言わなくていい」
「でも、言うべきなのかもしれない」
「キュゥべえ」
ほむらの声が低くなる。
キュゥべえは少しだけ考えてから、言った。
「僕を死なせないようにするという判断は、ローカル改善試験の継続に有効だ」
「台無し!」
さやかが叫んだ。
杏子が笑った。
マミも、少しだけ笑った。
まどかは、泣きそうな顔で笑っていた。
ほむらはため息をついた。
「本当に、あなたはどこまで行ってもあなたね」
「そうだよ」
キュゥべえは当然のように言う。
「僕は僕だ」
「ええ」
ほむらは静かに答えた。
「だから、死なせない」
キュゥべえは、また返事をしなかった。
その沈黙は、さっきより少しだけ長かった。
夜の公園で、白い獣はいつも通りに座っているが、全員がもう知っていた。
その白い身体は、替えがきかない。
撃てば終わる。
砕けば終わる。
失えば、戻ってこないかもしれない。
魔法少女たちがそうであるように、キュゥべえも今は少しだけ、その側にいた。