魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
空が低かった。
朝から、見滝原の街には奇妙な風が吹いていた。雨はまだ降っていない。雲は厚く、太陽の光はどこかで折れ曲がったように街へ届いている。
天気予報は、未明から大型の低気圧が接近すると伝えていた。
テレビの中では、アナウンサーが避難勧告、河川増水の恐れ、強風への警戒を、いつもより少し硬い声で順に読み上げていた。
大人たちは慌ただしく動き、学校は休校になり、避難所には人が集まり始めていた。
鹿目まどかは知っていた。
それは、ただの嵐ではない。
ワルプルギスの夜が来る。
まどかは、自分の部屋でリュックを開けていた。
中に入っているのは、少しの水、タオル、絆創膏、懐中電灯、携帯電話の予備バッテリー。それから、先日みんなで買った小さな星のストラップ。
ピンクの星と、白い星。
まどかはそれを指で触れた。
白い星は、キュゥべえの代理記号だと本人は言っていた。まどかにはもう、それだけではなかった。
「まどか」
後ろから声がした。
キュゥべえは、机の上に座っていた。
白い身体に赤い目。
いつも通りに見える。
でも、まどかにはもう、完全にはそう見えなかった。
「準備はできたかい」
「うん」
まどかはリュックを閉じた。
「でも、私、やっぱり避難所に行くだけじゃだめなんだよね」
「避難所へ行くのが、一般市民としては最も合理的だ」
「キュゥべえ」
「ただし、君が完全に離れた場合、美樹さやか、巴マミ、佐倉杏子、暁美ほむらの感情的接続に影響が出る可能性がある」
「うん」
「だから、君には安全圏に近い後方観測位置にいてもらう」
「後方観測位置」
「君たちの言葉では、応援席に近い」
まどかは少しだけ笑った。
「応援席にしては、ちょっと怖いね」
「そうだね」
キュゥべえは机から降りた。
「怖いと思うことは、適切だ」
まどかはキュゥべえを見た。
「キュゥべえは?」
「僕には恐怖がない」
「そうじゃなくて」
まどかは白い獣の前にしゃがむ。
「無理しないでね」
キュゥべえは少し黙った。
「努力する」
「本当に?」
「前回、勝手に観測位置を変更したことは不適切だった」
「うん」
「今回は、可能な限り君の腕の中にいる」
まどかは目を瞬いた。
キュゥべえが、自分からそんなことを言うとは思わなかった。
「……そっか」
「僕は戦闘用ではないからね」
「うん」
まどかは、キュゥべえをそっと抱き上げた。
白い身体は軽かった。
その軽さが、少しだけ怖かった。
これが壊れたら終わる――。そう思うと、腕に力が入った。
「まどか。強く抱きすぎると、移動時に僕の姿勢制御が阻害される」
「あ、ごめん」
「ただし、落下防止には有効だ」
「じゃあ、少しだけ強くする」
「了解した」
まどかは笑った。
こんな状況でも笑えたことに、少しだけ驚いた。
家の下から、母の声がした。
「まどかー、準備できた?」
「うん、今行く!」
まどかはリュックを背負った。
ドアを開ける前に、もう一度窓の外を見る。
空は、さらに低くなっていた。
見滝原の街の向こうに、黒い雲の壁があった。
その奥で、何かが笑っているような気がした。
集合場所は、街外れの高台だった。
川から離れ、市街地を見下ろせる場所。避難所へ向かう人々の流れからは外れているが、ワルプルギスの夜が現れる予測進路を見渡せる。
最初に来ていたのは、ほむらだった。
黒い髪が風に揺れている。
制服ではない。魔法少女の姿でもない。左腕には盾がある。いつでも変身できるように、胸元の紫の光が薄く灯っていた。
まどかが近づくと、ほむらが振り返る。
「まどか」
「ほむらちゃん」
ほむらの視線が、まどかの腕の中のキュゥべえへ落ちる。
「ちゃんと抱えているのね」
「うん。勝手に飛び出さないように」
「僕は前回の反省を踏まえ、今回は不要な前進を控える予定だよ」
「予定ではなく、そうしなさい」
「まどかにも言われたよ」
ほむらは少しだけ目を細めた。
いつもの冷たい目に見える。
まどかには少しだけ分かるようになっていた。
怒っているのではない。
心配している。
「ほむらちゃん」
「何?」
「大丈夫?」
ほむらはすぐには答えなかった。
高台には、さっきから強い風が吹き続けている。
だが、その風向きが一瞬だけ崩れた。
正面から押していた風が横へ流れ、次の瞬間には逆側から巻き返す。
黒い髪が頬へかかる。ほむらはそれを払わず、しばらく街の方を見ていた。
「大丈夫とは言えないわ」
まどかは頷いた。
「うん」
「でも、戻るつもりはない」
その言葉に、まどかは息を止めた。
戻る。
時間を戻す。
ほむらが何度も選んできた、最後の逃げ道。
「今は、ここで止める」
ほむらは街の方を見た。
「止められなければ、通す。通して、生き残る。あなたに契約させない。誰も魔女にしない」
「うん」
「それが、今日の勝ちよ」
キュゥべえが言った。
「撃破を勝利条件にしない判断は妥当だ」
ほむらは視線だけでキュゥべえを見る。
「あなたがそれを言うと、少し腹が立つわね」
「なぜだい」
「正しいからよ」
キュゥべえは首を傾げた。
まどかは少しだけ笑った。
そこへ、青い光が走った。
「おまたせ!」
さやかが駆けてきた。
すでに魔法少女の姿だった。青と白の衣装。胸元の宝石から全身へ走る光。剣はまだ抜いていないが、いつでも抜けるように手が添えられている。
「美樹さん、早いわ」
マミの声が続く。
黄色い光がふわりと舞い、マミが高台へ上がってきた。帽子、リボン、優雅な衣装。以前よりも、胸元と肩の防護がはっきりしている。しかし、その姿は重くなっていない。
そのすぐ後ろから、杏子がフェンスを軽く越えて降り立った。
赤い衣装。槍を肩に担ぎ、口には何もくわえていない。
「菓子は?」
さやかが聞く。
「今日は持ってきてねえ」
「えっ」
「何だよ、その顔」
「いや、杏子が食べ物持ってないと不安になる」
「戦う前から食ってたら怒るだろ、お前ら」
「成長した……」
「さやか、あとで殴る」
マミが少し笑った。
「でも、終わったら食べましょう」
「おう」
杏子は即答した。
「終わったらな」
その言葉が、妙に重かった。
終わったら。
誰も死なず、誰も魔女にならずにワルプルギスの夜を越えたら、みんなで食べに行く。
その約束が、今は作戦の一部のように思えた。
キュゥべえは、まどかの腕の中から四人を見た。
「全員の接続状態は安定している。ソウルジェム濁度も許容範囲内。肉体強度補助は、戦闘開始前としては高い値を示している」
「つまり?」
さやかが聞く。
「君たちは、かなりよい状態だ」
さやかが一瞬だけ目を丸くした。
「今の、ちょっと普通だった」
「そうなのかい?」
「普通に褒めたっぽい」
「褒めたわけではない。評価している」
「はいはい」
杏子が空を見上げた。
「来るぞ」
その一言で、全員の意識が空へ向いた。
まだ見えてはいない。
杏子が告げたのは、戦闘開始ではなかった。風と魔力の変化を先に拾って、もう猶予が長くないと知らせただけだ。
風が変わった。
さっきまで高台を吹き抜けていたのは、ただ強いだけの風だった。
今は、右から左へ流れたと思えば、すぐに逆から巻き返し、足元から吹き上がった次の瞬間には背中を押してくる。どこから来て、どこへ抜けていくのか分からない。
まどかは髪を押さえながら、高台の下に広がる市街地を見た。
街の灯りが風に揺れ、その向こうでは木々が大きく枝をしならせている。避難所へ向かう人の列があり、家々では雨戸を閉める姿が見え、遠くの道路には車が連なっていた。
警報の音と避難を呼びかける放送も聞こえてくるが、強い風にさらわれて、言葉の途中で何度も途切れる。
みんな、これを嵐だと思っている。
まどかは、それでいいのだと思った。
知らない方がいいこともあるが、知らないまま壊されていいわけではない。
四人がいる。
マミさん。
杏子ちゃん。
さやかちゃん。
ほむらちゃん。
そして、キュゥべえがいる。
まどかは腕の中の白い獣を抱き直した。
「まどか」
キュゥべえが言った。
「強く抱きすぎている」
「あ、ごめん」
「ただし、落下防止には有効だ」
「さっきも聞いたよ」
「重要なことだからね」
まどかは、小さく笑った。
笑った瞬間、ほむらがこちらを見た。
何かを言おうとして、やめる。
代わりに、ほむらは四人へ向き直った。
「確認するわ」
その声で、空気が締まった。
「マミは後方防衛と拘束。リボンで避難区域への流れ弾を防ぐ」
「ええ」
マミが頷く。
「杏子は近接で牽制。無理に本体へ届かせる必要はない。進路をずらすことを優先して」
「ああ」
「さやかは正面。受けるのではなく、逸らす。あなたは耐えられるけれど、耐えることを前提にしすぎない」
「分かってる」
さやかは少しだけ笑った。
「無茶はしない。努力する」
「努力では足りないわ」
「じゃあ、ちゃんとする」
「よろしい」
杏子がにやっとする。
「ほむら、先生みてえ」
「黙りなさい」
ほむらは続ける。
「私は時間制御で全体を補助する。完全停止はできるだけ使わない。細かく刻んで、位置とタイミングを合わせる」
「大丈夫なの?」
まどかが聞いた。
ほむらはまどかを見た。
「大丈夫とは言わない」
そして、少しだけ柔らかく続けた。
「でも、前より丁寧にできる」
キュゥべえが口を開きかけた。
ほむらが先に言う。
「解説はあと」
キュゥべえは口を閉じた。
杏子が笑う。
「しつけられてんな、マスコット」
「僕はしつけの対象ではない」
「残機ねえなら大人しくしとけ」
「それは合理的だ」
「納得すんのかよ」
マミがふいに空を見た。
その視線だけで、杏子のときとは意味が違うと分かった。
「来るわ」
その声が落ちるのと、ほとんど同時だった。
ほむらの胸元で紫の光が灯る。
黒と紫の魔力が身体を走り、衣装を形作る。長い髪が風に持ち上がり、左腕には盾が現れた。
誰にも確認しない。
マミも、ほむらへ何も言わなかった。
ただ、一瞬だけ視線を向ける。
変身を終えたほむらと目が合うと、マミの口元がほんのわずかに緩んだ。
ほむらは頷かなかった。
それでも、もう十分だった。
今度こそ、四人が一斉に空を仰いだ。
雲が割れた。
いや、割れたように見えた。
黒い空の奥から、巨大な影が現れる。
遠い。
まだ、あれほど遠くにいる。
それなのに、まどかは見上げなければ全体を捉えられなかった。
最初に目へ入ったのは、逆さまになった人のような輪郭だった。
人だと思って見れば、その身体に当たる場所には巨大な歯車が噛み合い、さらにその周囲を、舞台の大道具にも見える構造物が幾重にも取り巻いている。
人形なのかもしれない。
そう思った次の瞬間には、その言葉では小さすぎる気がした。
機械とも違う。建物とも違う。女の姿にも見えるのに、人の身体として理解しようとすると、どこを頭と呼び、どこを胴と呼べばいいのかさえ曖昧になる。
見えているものの一つ一つには名前をつけられる。
それらを全部まとめたものに、まどかの知っている名前はなかった。
ただ一つだけ。
それが何なのかを示す名前だけは、知っていた。
――ワルプルギスの夜。
笑い声が、空から降ってきた。
まどかは膝が震えそうになった。
本当に笑っている。悲鳴のようでもあり、歌のようでもあり、嵐そのものが笑っているようでもあった。
ほむらの顔が、わずかに強張る。
風が一段強くなった。
キュゥべえが空を見たまま言う。
「ほむら。最後に確認したい」
「何」
「君がこれまで戦った、ワルプルギスの夜についてだ。僕の観測記録だけでは、今回との比較には足りない」
ほむらは黙った。
「使った攻撃。反応した場所。反応しなかった場所。倒せなかった時に、何が起きたか。覚えている範囲でいい」
少し前なら、答えなかった。
この白い獣に、自分の失敗を自分から渡すなど考えもしなかった。
だが、ほむらは口を開いた。
「爆薬。砲撃。対戦車兵器。可能な限り試したわ。外側を吹き飛ばしても、動きはほとんど変わらなかった。拘束も長くは持たない」
「損傷らしい反応は?」
「分からない。少なくとも、私には見えなかった」
「分かった」
キュゥべえの前に薄い光が浮かぶ。ほむらの言葉が、そのまま記録されていく。
「……役に立つの?」
「非常に」
即答だった。
ほむらは一瞬だけ白い獣を見る。
「そう」
信用したわけではない。
使えるものを使っているだけだ。
そう思った。
それでも、自分からキュゥべえへ情報を渡したのは、これが初めてだった。
何度も見た相手。
何度も勝てなかった相手。
だが、今は一人ではない。
マミがリボンをほどく。
黄色い光が、街の上に広がる準備をする。
杏子が槍を回す。
赤い穂先が、風を切った。
さやかが剣を抜く。
青い光が、まどかの声に応えるように強くなる。
ほむらが盾を構える。
紫の光が、足元から身体へ巡る。
四人が、前に出た。
まどかは、キュゥべえを抱いたまま、息を呑んだ。
怖い。
怖くないわけがない。
でも、四人の背中を見ていると、不思議と逃げたいとは思わなかった。
「キュゥべえ」
「なんだい、まどか」
「みんな、強いね」
キュゥべえは、四人を見ていた。
「そうだね」
少し間を置いて、言った。
「僕が思っていたより、ずっと強い」
ワルプルギスの夜の笑いが、近づいてくる。
風が高台へ叩きつけられた。
斜面の木々が一斉に枝をしならせ、その向こうでは電線が大きく弧を描いて揺れている。交差点の信号機まで風に振られ、家々の雨戸ががたがたと鳴った。
どこかで看板が外れ、金属の板が道路を転がっていく。
まだワルプルギスの夜は街へ届いていない。
それなのに、その接近だけで見滝原のあちこちが悲鳴を上げ始めていた。
四人の魔法少女は、並んで立っていた。
吹きつける風が髪を乱し、スカートやリボンを激しくはためかせる。足元では砂や細かな瓦礫が流されていくのに、四人の立つ位置だけは変わらなかった。
身体をわずかに前へ預け、風圧を受け止める。
誰一人、足を引かない。
まだ戦いは始まっていない。
それでも、その立ち姿だけで、もう退くつもりがないことは分かった。