魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ   作:折無堂

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26. ワルプルギスの夜が来る

 空が低かった。

 朝から、見滝原の街には奇妙な風が吹いていた。雨はまだ降っていない。雲は厚く、太陽の光はどこかで折れ曲がったように街へ届いている。

 

 天気予報は、未明から大型の低気圧が接近すると伝えていた。

 テレビの中では、アナウンサーが避難勧告、河川増水の恐れ、強風への警戒を、いつもより少し硬い声で順に読み上げていた。

 

 大人たちは慌ただしく動き、学校は休校になり、避難所には人が集まり始めていた。

 鹿目まどかは知っていた。

 それは、ただの嵐ではない。

 

 ワルプルギスの夜が来る。

 

 まどかは、自分の部屋でリュックを開けていた。

 中に入っているのは、少しの水、タオル、絆創膏、懐中電灯、携帯電話の予備バッテリー。それから、先日みんなで買った小さな星のストラップ。

 

 ピンクの星と、白い星。

 まどかはそれを指で触れた。

 

 白い星は、キュゥべえの代理記号だと本人は言っていた。まどかにはもう、それだけではなかった。

「まどか」

 

 後ろから声がした。

 キュゥべえは、机の上に座っていた。

 白い身体に赤い目。

 いつも通りに見える。

 でも、まどかにはもう、完全にはそう見えなかった。

 

「準備はできたかい」

「うん」

 まどかはリュックを閉じた。

 

「でも、私、やっぱり避難所に行くだけじゃだめなんだよね」

「避難所へ行くのが、一般市民としては最も合理的だ」

「キュゥべえ」

「ただし、君が完全に離れた場合、美樹さやか、巴マミ、佐倉杏子、暁美ほむらの感情的接続に影響が出る可能性がある」

「うん」

「だから、君には安全圏に近い後方観測位置にいてもらう」

「後方観測位置」

「君たちの言葉では、応援席に近い」

 

 まどかは少しだけ笑った。

「応援席にしては、ちょっと怖いね」

「そうだね」

 

 キュゥべえは机から降りた。

「怖いと思うことは、適切だ」

 まどかはキュゥべえを見た。

「キュゥべえは?」

「僕には恐怖がない」

「そうじゃなくて」

 

 まどかは白い獣の前にしゃがむ。

「無理しないでね」

 

 キュゥべえは少し黙った。

「努力する」

「本当に?」

「前回、勝手に観測位置を変更したことは不適切だった」

「うん」

「今回は、可能な限り君の腕の中にいる」

 

 まどかは目を瞬いた。

 キュゥべえが、自分からそんなことを言うとは思わなかった。

「……そっか」

「僕は戦闘用ではないからね」

「うん」

 

 まどかは、キュゥべえをそっと抱き上げた。

 白い身体は軽かった。

 その軽さが、少しだけ怖かった。

 これが壊れたら終わる――。そう思うと、腕に力が入った。

 

「まどか。強く抱きすぎると、移動時に僕の姿勢制御が阻害される」

「あ、ごめん」

「ただし、落下防止には有効だ」

「じゃあ、少しだけ強くする」

「了解した」

 まどかは笑った。

 こんな状況でも笑えたことに、少しだけ驚いた。

 

 家の下から、母の声がした。

「まどかー、準備できた?」

「うん、今行く!」

 

 まどかはリュックを背負った。

 ドアを開ける前に、もう一度窓の外を見る。

 

 空は、さらに低くなっていた。

 見滝原の街の向こうに、黒い雲の壁があった。

 その奥で、何かが笑っているような気がした。

 

 集合場所は、街外れの高台だった。

 川から離れ、市街地を見下ろせる場所。避難所へ向かう人々の流れからは外れているが、ワルプルギスの夜が現れる予測進路を見渡せる。

 

 最初に来ていたのは、ほむらだった。

 黒い髪が風に揺れている。

 制服ではない。魔法少女の姿でもない。左腕には盾がある。いつでも変身できるように、胸元の紫の光が薄く灯っていた。

 

 まどかが近づくと、ほむらが振り返る。

「まどか」

「ほむらちゃん」

 

 ほむらの視線が、まどかの腕の中のキュゥべえへ落ちる。

「ちゃんと抱えているのね」

「うん。勝手に飛び出さないように」

「僕は前回の反省を踏まえ、今回は不要な前進を控える予定だよ」

「予定ではなく、そうしなさい」

「まどかにも言われたよ」

 

 ほむらは少しだけ目を細めた。

 いつもの冷たい目に見える。

 まどかには少しだけ分かるようになっていた。

 怒っているのではない。

 心配している。

 

「ほむらちゃん」

「何?」

「大丈夫?」

 

 ほむらはすぐには答えなかった。

 高台には、さっきから強い風が吹き続けている。

 

 だが、その風向きが一瞬だけ崩れた。

 正面から押していた風が横へ流れ、次の瞬間には逆側から巻き返す。

 黒い髪が頬へかかる。ほむらはそれを払わず、しばらく街の方を見ていた。

 

「大丈夫とは言えないわ」

 まどかは頷いた。

「うん」

「でも、戻るつもりはない」

 その言葉に、まどかは息を止めた。

 

 戻る。

 時間を戻す。

 

 ほむらが何度も選んできた、最後の逃げ道。

「今は、ここで止める」

 ほむらは街の方を見た。

「止められなければ、通す。通して、生き残る。あなたに契約させない。誰も魔女にしない」

「うん」

「それが、今日の勝ちよ」

 

 キュゥべえが言った。

「撃破を勝利条件にしない判断は妥当だ」

 ほむらは視線だけでキュゥべえを見る。

「あなたがそれを言うと、少し腹が立つわね」

「なぜだい」

「正しいからよ」

 

 キュゥべえは首を傾げた。

 まどかは少しだけ笑った。

 そこへ、青い光が走った。

 

「おまたせ!」

 さやかが駆けてきた。

 すでに魔法少女の姿だった。青と白の衣装。胸元の宝石から全身へ走る光。剣はまだ抜いていないが、いつでも抜けるように手が添えられている。

 

「美樹さん、早いわ」

 マミの声が続く。

 黄色い光がふわりと舞い、マミが高台へ上がってきた。帽子、リボン、優雅な衣装。以前よりも、胸元と肩の防護がはっきりしている。しかし、その姿は重くなっていない。

 

 そのすぐ後ろから、杏子がフェンスを軽く越えて降り立った。

 赤い衣装。槍を肩に担ぎ、口には何もくわえていない。

 

「菓子は?」

 さやかが聞く。

 

「今日は持ってきてねえ」

「えっ」

「何だよ、その顔」

「いや、杏子が食べ物持ってないと不安になる」

「戦う前から食ってたら怒るだろ、お前ら」

「成長した……」

「さやか、あとで殴る」

 

 マミが少し笑った。

「でも、終わったら食べましょう」

「おう」

 杏子は即答した。

「終わったらな」

 

 その言葉が、妙に重かった。

 

 終わったら。

 誰も死なず、誰も魔女にならずにワルプルギスの夜を越えたら、みんなで食べに行く。

 その約束が、今は作戦の一部のように思えた。

 

 キュゥべえは、まどかの腕の中から四人を見た。

「全員の接続状態は安定している。ソウルジェム濁度も許容範囲内。肉体強度補助は、戦闘開始前としては高い値を示している」

「つまり?」

 さやかが聞く。

 

「君たちは、かなりよい状態だ」

 さやかが一瞬だけ目を丸くした。

「今の、ちょっと普通だった」

「そうなのかい?」

「普通に褒めたっぽい」

「褒めたわけではない。評価している」

「はいはい」

 

 杏子が空を見上げた。

「来るぞ」

 

 その一言で、全員の意識が空へ向いた。

 まだ見えてはいない。

 杏子が告げたのは、戦闘開始ではなかった。風と魔力の変化を先に拾って、もう猶予が長くないと知らせただけだ。

 

 風が変わった。

 さっきまで高台を吹き抜けていたのは、ただ強いだけの風だった。

 今は、右から左へ流れたと思えば、すぐに逆から巻き返し、足元から吹き上がった次の瞬間には背中を押してくる。どこから来て、どこへ抜けていくのか分からない。

 

 まどかは髪を押さえながら、高台の下に広がる市街地を見た。

 街の灯りが風に揺れ、その向こうでは木々が大きく枝をしならせている。避難所へ向かう人の列があり、家々では雨戸を閉める姿が見え、遠くの道路には車が連なっていた。

 警報の音と避難を呼びかける放送も聞こえてくるが、強い風にさらわれて、言葉の途中で何度も途切れる。

 

 みんな、これを嵐だと思っている。

 まどかは、それでいいのだと思った。

 

 知らない方がいいこともあるが、知らないまま壊されていいわけではない。

 

 四人がいる。

 マミさん。

 杏子ちゃん。

 さやかちゃん。

 ほむらちゃん。

 そして、キュゥべえがいる。

 

 まどかは腕の中の白い獣を抱き直した。

「まどか」

 キュゥべえが言った。

「強く抱きすぎている」

「あ、ごめん」

「ただし、落下防止には有効だ」

「さっきも聞いたよ」

「重要なことだからね」

 

 まどかは、小さく笑った。

 笑った瞬間、ほむらがこちらを見た。

 

 何かを言おうとして、やめる。

 代わりに、ほむらは四人へ向き直った。

「確認するわ」

 その声で、空気が締まった。

「マミは後方防衛と拘束。リボンで避難区域への流れ弾を防ぐ」

「ええ」

 マミが頷く。

 

「杏子は近接で牽制。無理に本体へ届かせる必要はない。進路をずらすことを優先して」

「ああ」

「さやかは正面。受けるのではなく、逸らす。あなたは耐えられるけれど、耐えることを前提にしすぎない」

「分かってる」

 さやかは少しだけ笑った。

「無茶はしない。努力する」

「努力では足りないわ」

「じゃあ、ちゃんとする」

「よろしい」

 

 杏子がにやっとする。

「ほむら、先生みてえ」

「黙りなさい」

 

 ほむらは続ける。

「私は時間制御で全体を補助する。完全停止はできるだけ使わない。細かく刻んで、位置とタイミングを合わせる」

「大丈夫なの?」

 まどかが聞いた。

 

 ほむらはまどかを見た。

「大丈夫とは言わない」

 そして、少しだけ柔らかく続けた。

「でも、前より丁寧にできる」

 

 キュゥべえが口を開きかけた。

 ほむらが先に言う。

「解説はあと」

 

 キュゥべえは口を閉じた。

 杏子が笑う。

「しつけられてんな、マスコット」

「僕はしつけの対象ではない」

「残機ねえなら大人しくしとけ」

「それは合理的だ」

「納得すんのかよ」

 

 マミがふいに空を見た。

 その視線だけで、杏子のときとは意味が違うと分かった。

「来るわ」

 

 その声が落ちるのと、ほとんど同時だった。

 ほむらの胸元で紫の光が灯る。

 黒と紫の魔力が身体を走り、衣装を形作る。長い髪が風に持ち上がり、左腕には盾が現れた。

 

 誰にも確認しない。

 マミも、ほむらへ何も言わなかった。

 

 ただ、一瞬だけ視線を向ける。

 変身を終えたほむらと目が合うと、マミの口元がほんのわずかに緩んだ。

 ほむらは頷かなかった。

 それでも、もう十分だった。

 

 今度こそ、四人が一斉に空を仰いだ。

 

 雲が割れた。

 いや、割れたように見えた。

 黒い空の奥から、巨大な影が現れる。

 

 遠い。

 まだ、あれほど遠くにいる。

 

 それなのに、まどかは見上げなければ全体を捉えられなかった。

 

 最初に目へ入ったのは、逆さまになった人のような輪郭だった。

 人だと思って見れば、その身体に当たる場所には巨大な歯車が噛み合い、さらにその周囲を、舞台の大道具にも見える構造物が幾重にも取り巻いている。

 

 人形なのかもしれない。

 そう思った次の瞬間には、その言葉では小さすぎる気がした。

 機械とも違う。建物とも違う。女の姿にも見えるのに、人の身体として理解しようとすると、どこを頭と呼び、どこを胴と呼べばいいのかさえ曖昧になる。

 

 見えているものの一つ一つには名前をつけられる。

 それらを全部まとめたものに、まどかの知っている名前はなかった。

 

 ただ一つだけ。

 それが何なのかを示す名前だけは、知っていた。

 ――ワルプルギスの夜。

 

 笑い声が、空から降ってきた。

 まどかは膝が震えそうになった。

 本当に笑っている。悲鳴のようでもあり、歌のようでもあり、嵐そのものが笑っているようでもあった。

 

 ほむらの顔が、わずかに強張る。

 

 風が一段強くなった。

 キュゥべえが空を見たまま言う。

「ほむら。最後に確認したい」

「何」

「君がこれまで戦った、ワルプルギスの夜についてだ。僕の観測記録だけでは、今回との比較には足りない」

 

 ほむらは黙った。

「使った攻撃。反応した場所。反応しなかった場所。倒せなかった時に、何が起きたか。覚えている範囲でいい」

 

 少し前なら、答えなかった。

 この白い獣に、自分の失敗を自分から渡すなど考えもしなかった。

 

 だが、ほむらは口を開いた。

「爆薬。砲撃。対戦車兵器。可能な限り試したわ。外側を吹き飛ばしても、動きはほとんど変わらなかった。拘束も長くは持たない」

「損傷らしい反応は?」

「分からない。少なくとも、私には見えなかった」

「分かった」

 

 キュゥべえの前に薄い光が浮かぶ。ほむらの言葉が、そのまま記録されていく。

「……役に立つの?」

「非常に」

 即答だった。

 

 ほむらは一瞬だけ白い獣を見る。

「そう」

 信用したわけではない。

 使えるものを使っているだけだ。

 そう思った。

 それでも、自分からキュゥべえへ情報を渡したのは、これが初めてだった。

 

 何度も見た相手。

 何度も勝てなかった相手。

 だが、今は一人ではない。

 

 マミがリボンをほどく。

 黄色い光が、街の上に広がる準備をする。

 

 杏子が槍を回す。

 赤い穂先が、風を切った。

 

 さやかが剣を抜く。

 青い光が、まどかの声に応えるように強くなる。

 

 ほむらが盾を構える。

 紫の光が、足元から身体へ巡る。

 

 四人が、前に出た。

 まどかは、キュゥべえを抱いたまま、息を呑んだ。

 

 怖い。

 怖くないわけがない。

 でも、四人の背中を見ていると、不思議と逃げたいとは思わなかった。

 

「キュゥべえ」

「なんだい、まどか」

「みんな、強いね」

 

 キュゥべえは、四人を見ていた。

「そうだね」

 少し間を置いて、言った。

「僕が思っていたより、ずっと強い」

 

 ワルプルギスの夜の笑いが、近づいてくる。

 風が高台へ叩きつけられた。

 斜面の木々が一斉に枝をしならせ、その向こうでは電線が大きく弧を描いて揺れている。交差点の信号機まで風に振られ、家々の雨戸ががたがたと鳴った。

 どこかで看板が外れ、金属の板が道路を転がっていく。

 

 まだワルプルギスの夜は街へ届いていない。

 それなのに、その接近だけで見滝原のあちこちが悲鳴を上げ始めていた。

 

 四人の魔法少女は、並んで立っていた。

 吹きつける風が髪を乱し、スカートやリボンを激しくはためかせる。足元では砂や細かな瓦礫が流されていくのに、四人の立つ位置だけは変わらなかった。

 

 身体をわずかに前へ預け、風圧を受け止める。

 誰一人、足を引かない。

 まだ戦いは始まっていない。

 それでも、その立ち姿だけで、もう退くつもりがないことは分かった。

 

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