魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
結界が崩れ始めていた。
色のついた菓子箱のような壁が、端からほどけていく。紙細工の使い魔たちはもういない。甘い匂いだけが、まだ空気に貼りついていた。
巴マミは、立っていた。
立っているだけだった。
黄色い魔法少女の衣装は戻っている。髪も、帽子も、リボンも、何もかもが見慣れた巴マミの形をしていた。
まどかには分かった。
マミは戻ってきた。
でも、戻っただけだった。
「……行くわよ」
最初に声を出したのは、暁美ほむらだった。
彼女はグリーフシードを握ったまま、崩れかける結界の出口へ目を向けていた。
「ここに長くいるべきじゃない。結界が消える」
「マミさん……」
まどかが一歩近づこうとする。
その瞬間、マミの肩がびくりと跳ねた。
まどかは足を止めた。
「あ……」
マミは、自分でもその反応に驚いたようだった。唇が震える。何かを言おうとして、言葉が出ない。
さやかが、まどかの腕を掴んだ。
「まどか、今は……」
「でも」
「今は、だめ」
さやかの声も震えていた。
マミは何とか笑おうとしたが、その笑みはひどく薄かった。
「ごめんなさい。少し……身体が、変なの」
「再構成直後の接触過敏は想定内だよ」
キュゥべえが言った。
ほむらが無言で銃を向けた。
キュゥべえは一拍置いてから続けた。
「今の発言は控えるべきだったね」
「控えるだけでは足りないわ」
「では、訂正する。巴マミは今、強い混乱状態にある。移動を優先すべきだ」
「最初からそう言いなさい」
ほむらは銃を下ろさなかったが、撃たなかった。
マミは一歩を踏み出した。
足元が揺れる。
さやかが思わず手を伸ばしかけ、また止めた。
マミはそれに気づいて、今度こそ小さく首を横に振る。
「大丈夫。歩けるわ」
歩ける、という言葉は嘘ではなかった。
ただ、それは「大丈夫」と同じ意味ではなかった。
崩れる結界を抜けると、病院の駐輪場の奥へ戻った。
壁も、自転車の列も、白い病院の建物も変わっていない。
遠くから人の声が聞こえ、風にかすかに消毒液の匂いが混じる。
ほんの数分前と同じ世界だった。
なのに、まどかには、何もかもが違って見えた。
マミは自分の手を見ていた。指を閉じる。開く。手首に触れる。首元に触れる。
何度も、何度も。
「……帰りましょう」
ほむらが言った。
「巴さん、あなたの部屋へ」
マミは反射的に顔を上げた。
「あなたも……来るの?」
ほむらは答えなかった。
帰るつもりだったのだろう。
まどかには、そう見えた。
けれど、マミは小さく言った。
「待って」
ほむらの足が止まる。
マミは目を伏せたまま、かすれた声で続けた。
「あなたは、見ていたから」
まどかも、さやかも黙った。
ほむらだけが見ていた。
マミが戻るところを。
人の身体が、人の形に戻っていくところを。
ほむらはしばらく黙っていた。
やがて、短く答えた。
「分かったわ」
マミの部屋は、いつも通りだった。整えられたテーブル。棚に並ぶ食器。柔らかい色のカーテン。
昨日までなら、まどかはそこに入るだけで少し胸が弾んだと思う。
今日は、そこが避難所に見えた。
マミはソファに座った。
座る前に、少しだけ迷った。自分の身体を、家具に預けることさえ怖いようだった。
「お茶を……」
マミは立とうとした。
すぐに膝が揺れる。
「マミさん!」
さやかが声を上げる。
マミは苦笑した。
「ごめんなさい。ちょっとまだ……」
「私がやります」
まどかが言った。
そう言ってから、何をどうすればいいのか分からなくなった。マミの台所は綺麗で、紅茶の道具もきちんと揃っている。しかし、どれを使えばいいのか分からない。
さやかが横から覗き込む。
「えっと、これ? 違う? いや、急須じゃないし……」
「それはポットよ」
マミが小さく言った。
その声が少しだけいつもの調子に近くて、まどかは泣きそうになった。
ほむらは壁際に立っていた。
椅子には座らない。
キュゥべえはテーブルの端に座ろうとして、さやかに睨まれ、床に降りた。
「まず、説明して」
ほむらが言った。
「全部ではなくていい。今必要なことだけ」
「妥当な要求だね」
キュゥべえは床に座ったまま答えた。
「巴マミの魂は、ソウルジェムに格納されている。君たちが魔法少女と呼ぶ存在は、肉体ではなくソウルジェムを本体として活動している」
カップが音を立てた。
まどかの手が震えたからだった。
さやかが顔を上げる。
「本体……?」
「そうだよ。肉体は魔力で維持される活動体だ。通常の人間とは違う」
「ちょっと待って」
さやかの声が低くなった。
「それ、今までマミさんに言ってなかったの?」
キュゥべえは、まばたきをしなかった。
「標準運用では、説明対象に含まれていなかった」
「標準……運用……」
マミが、その言葉を繰り返した。
自分が何かの仕組みに載せられていたと、今初めて知ったような声だった。
さやかは拳を握った。
「ふざけないでよ。そんな大事なこと、最初に言うべきでしょ」
「その通りだよ」
あまりに素直な返答に、さやかは一瞬詰まった。
「……は?」
「説明不足は、契約後の精神的安定性を大きく損なう。願望品質にも影響する。長期運用の観点から、標準運用は不適切だったと判断している」
「判断って……」
マミの声は、怒りよりも疲労に近かった。
「あなた、今まで私たちを何だと思っていたの?」
「高効率な感情エネルギー変換個体だよ」
ほむらが銃を向けた。
キュゥべえはすぐに言い直した。
「今の表現は不適切だった。少なくとも、君たちの自己認識を大きく損なう」
「そういう問題じゃない!」
さやかが叫ぶ。
まどかは、何も言えなかった。
マミは両手でカップを包んでいた。
まだ紅茶は入っていない。空のカップだった。
「……それで」
マミは静かに言った。
「今回、あなたは何をしたの」
「ソウルジェムに保護外装を追加した。厳密には、緊急展開型の多層保護膜だね。シャルロッテの咬合によって肉体は破壊されたけれど、ソウルジェムは保護された。だから肉体を再構成できた」
「つまり」
ほむらが言う。
「あなたは、巴さんが死ぬ可能性を予測していた」
「高かった。第二形態の初見殺しに対して、巴マミは脆弱だった」
マミの指が、カップの縁で止まる。
キュゥべえは続けた。
「巴マミほどの戦闘能力を持つ個体を、奇襲一回で失うのは不合理だ。ソウルジェムが本体であるなら、そこを保護すべきだった。これまでそうしていなかったことは、運用上の欠陥だ」
「……欠陥」
マミは笑った。笑おうとしただけかもしれない。
「私が死にかけたことも、欠陥なのね」
「そうだよ」
キュゥべえは答えた。
「そして、その欠陥は修正可能だった」
さやかが、今にも殴りかかりそうな顔をする横で、ほむらが先に言った。
「あなたの目的は何」
キュゥべえは、今度はすぐ答えなかった。
ほんの少しだけ、間があった。
「現行の魔法少女システムの損耗率を下げることだよ」
ほむらの目が細くなる。
「まどかを契約させるため?」
まどかの心臓が跳ねた。
キュゥべえは、まどかを見た。
「現時点では推奨しない」
部屋の空気が止まった。
さやかが目を見開く。
マミも顔を上げる。
ほむらだけが、表情を変えない。銃口がほんのわずかに下がった。
「……どういう意味」
ほむらの声は、低かった。
「鹿目まどかは、通常の契約候補とは比較できない。契約によって得られる出力は大きいが、同時に破局リスクも高すぎる。少なくとも現時点で、彼女に契約を勧めるのは長期収支に反する」
まどかは、キュゥべえを見た。
いつもの白い生き物。
いつもの赤い目。
いつもの、何を考えているのか分からない声。
でも、その言葉だけはいつもと違っていた。
契約して、と言わない。
キュゥべえが、そう言わない。
「では、どうするつもり?」
ほむらが問う。
「まずは情報を共有する。次に、既存の魔法少女同士の衝突を減らす。グリーフシードの奪い合い、ソウルジェムへの攻撃、単独運用による損耗。これらはすべて改善対象だ」
「既存の魔法少女……」
マミがつぶやいた。
キュゥべえは、彼女を見た。
「佐倉杏子にも、話をする必要がある」
その名前が出た瞬間、マミの指が止まった。
「……どうして、彼女の名前が出るの」
「彼女は強い。そして、君たちよりも実戦的だ」
「この街の魔法少女ではないわ」
「だからこそだよ」
キュゥべえは淡々と言った。
「情報を共有しなければ、彼女は従来通りの判断で行動する。最悪の場合、誰かのソウルジェムを狙う」
さやかが顔をしかめる。
「ソウルジェムを……?」
「本体を破壊すれば、魔法少女は停止する。実戦的な魔法少女なら、いずれそこに気づく」
ほむらは黙っていた。
否定しなかった。
マミは目を伏せた。
「彼女は……そういう子では」
言いかけて、止まる。
自信がなかったのかもしれない。
キュゥべえは言った。
「防げるかどうかを、確かめる必要がある」
ほむらが目を細める。
「防ぐため、ではないのね」
「違うよ」
キュゥべえは、いつもの声で答えた。
「防げるかどうかを、確かめるためだ」