魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ   作:折無堂

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3. 帰る場所

 結界が崩れ始めていた。

 色のついた菓子箱のような壁が、端からほどけていく。紙細工の使い魔たちはもういない。甘い匂いだけが、まだ空気に貼りついていた。

 

 巴マミは、立っていた。

 立っているだけだった。

 

 黄色い魔法少女の衣装は戻っている。髪も、帽子も、リボンも、何もかもが見慣れた巴マミの形をしていた。

 まどかには分かった。

 マミは戻ってきた。

 でも、戻っただけだった。

 

「……行くわよ」

 最初に声を出したのは、暁美ほむらだった。

 彼女はグリーフシードを握ったまま、崩れかける結界の出口へ目を向けていた。

「ここに長くいるべきじゃない。結界が消える」

 

「マミさん……」

 まどかが一歩近づこうとする。

 その瞬間、マミの肩がびくりと跳ねた。

 

 まどかは足を止めた。

「あ……」

 マミは、自分でもその反応に驚いたようだった。唇が震える。何かを言おうとして、言葉が出ない。

 さやかが、まどかの腕を掴んだ。

「まどか、今は……」

「でも」

「今は、だめ」

 さやかの声も震えていた。

 

 マミは何とか笑おうとしたが、その笑みはひどく薄かった。

「ごめんなさい。少し……身体が、変なの」

「再構成直後の接触過敏は想定内だよ」

 キュゥべえが言った。

 

 ほむらが無言で銃を向けた。

 キュゥべえは一拍置いてから続けた。

「今の発言は控えるべきだったね」

「控えるだけでは足りないわ」

「では、訂正する。巴マミは今、強い混乱状態にある。移動を優先すべきだ」

「最初からそう言いなさい」

 

 ほむらは銃を下ろさなかったが、撃たなかった。

 

 マミは一歩を踏み出した。

 足元が揺れる。

 

 さやかが思わず手を伸ばしかけ、また止めた。

 マミはそれに気づいて、今度こそ小さく首を横に振る。

「大丈夫。歩けるわ」

 

 歩ける、という言葉は嘘ではなかった。

 ただ、それは「大丈夫」と同じ意味ではなかった。

 

 崩れる結界を抜けると、病院の駐輪場の奥へ戻った。

 壁も、自転車の列も、白い病院の建物も変わっていない。

 遠くから人の声が聞こえ、風にかすかに消毒液の匂いが混じる。

 

 ほんの数分前と同じ世界だった。

 

 なのに、まどかには、何もかもが違って見えた。

 

 マミは自分の手を見ていた。指を閉じる。開く。手首に触れる。首元に触れる。

 何度も、何度も。

 

「……帰りましょう」

 ほむらが言った。

「巴さん、あなたの部屋へ」

 マミは反射的に顔を上げた。

「あなたも……来るの?」

 

 ほむらは答えなかった。

 帰るつもりだったのだろう。

 まどかには、そう見えた。

 

 けれど、マミは小さく言った。

「待って」

 

 ほむらの足が止まる。

 マミは目を伏せたまま、かすれた声で続けた。

「あなたは、見ていたから」

 

 まどかも、さやかも黙った。

 ほむらだけが見ていた。

 マミが戻るところを。

 人の身体が、人の形に戻っていくところを。

 

 ほむらはしばらく黙っていた。

 やがて、短く答えた。

「分かったわ」

 

 マミの部屋は、いつも通りだった。整えられたテーブル。棚に並ぶ食器。柔らかい色のカーテン。

 昨日までなら、まどかはそこに入るだけで少し胸が弾んだと思う。

 今日は、そこが避難所に見えた。

 

 マミはソファに座った。

 座る前に、少しだけ迷った。自分の身体を、家具に預けることさえ怖いようだった。

「お茶を……」

 

 マミは立とうとした。

 すぐに膝が揺れる。

 

「マミさん!」

 さやかが声を上げる。

 マミは苦笑した。

「ごめんなさい。ちょっとまだ……」

「私がやります」

 まどかが言った。

 

 そう言ってから、何をどうすればいいのか分からなくなった。マミの台所は綺麗で、紅茶の道具もきちんと揃っている。しかし、どれを使えばいいのか分からない。

 さやかが横から覗き込む。

「えっと、これ? 違う? いや、急須じゃないし……」

「それはポットよ」

 マミが小さく言った。

 

 その声が少しだけいつもの調子に近くて、まどかは泣きそうになった。

 ほむらは壁際に立っていた。

 椅子には座らない。

 

 キュゥべえはテーブルの端に座ろうとして、さやかに睨まれ、床に降りた。

「まず、説明して」

 ほむらが言った。

 

「全部ではなくていい。今必要なことだけ」

「妥当な要求だね」

 キュゥべえは床に座ったまま答えた。

 

「巴マミの魂は、ソウルジェムに格納されている。君たちが魔法少女と呼ぶ存在は、肉体ではなくソウルジェムを本体として活動している」

 

 カップが音を立てた。

 まどかの手が震えたからだった。

 さやかが顔を上げる。

「本体……?」

「そうだよ。肉体は魔力で維持される活動体だ。通常の人間とは違う」

「ちょっと待って」

 さやかの声が低くなった。

 

「それ、今までマミさんに言ってなかったの?」

 キュゥべえは、まばたきをしなかった。

「標準運用では、説明対象に含まれていなかった」

「標準……運用……」

 マミが、その言葉を繰り返した。

 自分が何かの仕組みに載せられていたと、今初めて知ったような声だった。

 

 さやかは拳を握った。

「ふざけないでよ。そんな大事なこと、最初に言うべきでしょ」

「その通りだよ」

 あまりに素直な返答に、さやかは一瞬詰まった。

 

「……は?」

「説明不足は、契約後の精神的安定性を大きく損なう。願望品質にも影響する。長期運用の観点から、標準運用は不適切だったと判断している」

「判断って……」

 マミの声は、怒りよりも疲労に近かった。

 

「あなた、今まで私たちを何だと思っていたの?」

「高効率な感情エネルギー変換個体だよ」

 ほむらが銃を向けた。

 

 キュゥべえはすぐに言い直した。

「今の表現は不適切だった。少なくとも、君たちの自己認識を大きく損なう」

「そういう問題じゃない!」

 さやかが叫ぶ。

 

 まどかは、何も言えなかった。

 マミは両手でカップを包んでいた。

 まだ紅茶は入っていない。空のカップだった。

「……それで」

 マミは静かに言った。

 

「今回、あなたは何をしたの」

「ソウルジェムに保護外装を追加した。厳密には、緊急展開型の多層保護膜だね。シャルロッテの咬合によって肉体は破壊されたけれど、ソウルジェムは保護された。だから肉体を再構成できた」

「つまり」

 ほむらが言う。

「あなたは、巴さんが死ぬ可能性を予測していた」

「高かった。第二形態の初見殺しに対して、巴マミは脆弱だった」

 

 マミの指が、カップの縁で止まる。

 

 キュゥべえは続けた。

「巴マミほどの戦闘能力を持つ個体を、奇襲一回で失うのは不合理だ。ソウルジェムが本体であるなら、そこを保護すべきだった。これまでそうしていなかったことは、運用上の欠陥だ」

「……欠陥」

 

 マミは笑った。笑おうとしただけかもしれない。

「私が死にかけたことも、欠陥なのね」

「そうだよ」

 

 キュゥべえは答えた。

「そして、その欠陥は修正可能だった」

 さやかが、今にも殴りかかりそうな顔をする横で、ほむらが先に言った。

「あなたの目的は何」

 

 キュゥべえは、今度はすぐ答えなかった。

 ほんの少しだけ、間があった。

「現行の魔法少女システムの損耗率を下げることだよ」

 

 ほむらの目が細くなる。

「まどかを契約させるため?」

 

 まどかの心臓が跳ねた。

 キュゥべえは、まどかを見た。

「現時点では推奨しない」

 

 部屋の空気が止まった。

 さやかが目を見開く。

 マミも顔を上げる。

 ほむらだけが、表情を変えない。銃口がほんのわずかに下がった。

 

「……どういう意味」

 ほむらの声は、低かった。

 

「鹿目まどかは、通常の契約候補とは比較できない。契約によって得られる出力は大きいが、同時に破局リスクも高すぎる。少なくとも現時点で、彼女に契約を勧めるのは長期収支に反する」

 

 まどかは、キュゥべえを見た。

 いつもの白い生き物。

 いつもの赤い目。

 いつもの、何を考えているのか分からない声。

 でも、その言葉だけはいつもと違っていた。

 契約して、と言わない。

 キュゥべえが、そう言わない。

 

「では、どうするつもり?」

 ほむらが問う。

「まずは情報を共有する。次に、既存の魔法少女同士の衝突を減らす。グリーフシードの奪い合い、ソウルジェムへの攻撃、単独運用による損耗。これらはすべて改善対象だ」

「既存の魔法少女……」

 マミがつぶやいた。

 

 キュゥべえは、彼女を見た。

「佐倉杏子にも、話をする必要がある」

 

 その名前が出た瞬間、マミの指が止まった。

「……どうして、彼女の名前が出るの」

「彼女は強い。そして、君たちよりも実戦的だ」

「この街の魔法少女ではないわ」

「だからこそだよ」

 キュゥべえは淡々と言った。

 

「情報を共有しなければ、彼女は従来通りの判断で行動する。最悪の場合、誰かのソウルジェムを狙う」

さやかが顔をしかめる。

「ソウルジェムを……?」

「本体を破壊すれば、魔法少女は停止する。実戦的な魔法少女なら、いずれそこに気づく」

 

 ほむらは黙っていた。

 否定しなかった。

 マミは目を伏せた。

「彼女は……そういう子では」

 言いかけて、止まる。

 

 自信がなかったのかもしれない。

 キュゥべえは言った。

「防げるかどうかを、確かめる必要がある」

 

 ほむらが目を細める。

「防ぐため、ではないのね」

「違うよ」

 キュゥべえは、いつもの声で答えた。

「防げるかどうかを、確かめるためだ」

 

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