魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
「キュゥべえ」
まどかは、膝をついたまま言った。
声は小さかったが、震えてはいなかった。
「私と、契約して」
その言葉に、誰もすぐには反応できなかった。
ほむらだけが、わずかに動いた。
止めなければならない、そう思った。
何度も繰り返してきた。
何度も間に合わなかった。
何度もその言葉を聞いて、何度も世界が壊れた。
だから、反射のように口が動きかけた。
駄目。必要ない。
そう言うはずだった。
その言葉は、ほむらの口からは出なかった。
先に、キュゥべえが言った。
「その必要はない」
ほむらは、一瞬だけ固まった。セリフを取られた気がした。いや、気がしただけだった。
それは、ほむらのための言葉ではなかった。まどかを止めるためだけの言葉でもなかった。
キュゥべえ自身が、今この瞬間に出した結論だった。
まどかは、キュゥべえを見る。
「必要、あるよ」
「ない」
キュゥべえの声は、もうかなり弱かった。それでも、言葉だけははっきりしていた。
「鹿目まどか。君の契約は、高因果負荷を伴う。現時点で君を契約させることは、試験条件に反する」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ」
「言っている場合だよ」
キュゥべえは、赤い目をまどかへ向けた。その目も、どこか焦点が合っていないように見えた。
「今回の試験は、君を契約させずに、ワルプルギスの夜を越えることだった。魔法少女を魔女化させず、既存個体を損耗させず、高因果個体にすべてを背負わせないことだった」
「でも、キュゥべえが」
「僕は、試験条件に含まれていない」
「含まれてるよ!」
さやかが叫んだ。
「勝手に自分だけ外れようとしないでよ!」
杏子の顔からも、さっきまでの軽さが消えた。
「お前さ。あたしらを使い潰すのは駄目になったくせに、自分ならいいと思ってんのか」
キュゥべえは答えようとした。
その横で、マミは何も言わず、傷んだ白い身体へ巻いていたリボンをもう一度締め直した。言葉より先に、手を止めないことを選んでいた。
ほむらだけが、キュゥべえをじっと見ていた。
「君たちは、勘違いしている」
「何を」
ほむらの声は低かった。
怒っているのか、震えているのか、自分でも分からなかった。
「僕がここで停止しても、試験は続く」
「続かないわ」
「続く」
「続かない」
ほむらは、キュゥべえを睨みつけた。
「あなたがいなければ、誰が本体に報告するの。誰が新方式を調整するの。誰がまどかを契約させずに済む理由を説明するの」
「報告は送信した」
「それで終わりではないでしょう」
「本体は結果を見る」
「あなたが見届けると言ったのでしょう」
キュゥべえはほんの少しだけ黙り、それから言った。
「そうだったね」
その言い方が、ほむらの胸を突いた。
やけに素直だった。
「けれど、結末は見た」
「まだよ」
ほむらは言った。
「まだ終わっていない」
「ワルプルギスの夜は去った」
「あなたが死んでいない」
キュゥべえは、少しだけまばたきをしたように見えた。
「それは、現在進行形で正しくなくなりつつある」
「黙りなさい」
ほむらの声が鋭くなる。
キュゥべえは黙った。
本当に。
マミのリボンが、細かく震えていた。
「お願い」
マミが言った。
「もう少しだけ、黙っていて。今は、私に手当てをさせて」
「効果はない」
「聞いていないと言ったわ」
「そうだったね」
キュゥべえは、また黙った。
さやかは、ぼろぼろの地面に剣を突き立てたまま、顔を歪めていた。
「なんでよ」
誰に向けた言葉なのか分からない。
キュゥべえにか。ワルプルギスの夜にか。自分にか。
「あんた、ついさっきまであんな偉そうに観測とか言ってたじゃん。まだいっぱい言うことあるでしょ。あたしに、無茶するなとか、濁度がどうとか、そういうムカつくこと言うんでしょ」
返事はなかった。
「言いなさいよ」
さやかの声が、小さくなった。
「言いなさいよ、キュゥべえ」
杏子は横を向いていた。
目元を手の甲で乱暴に拭う。
「くそ」
それだけ言った。
マミは泣いていた。大声ではない。取り乱しているわけでもない。
ただ、涙が落ちていた。
リボンを巻く手は止めなかった。止めたら、本当に終わってしまう気がした。
ほむらは、自分が泣いていることに少し遅れて気づいた。
キュゥべえのことを、恨んでいたはずだった。
全部こいつのせいだと思っていた。
まどかが契約するのも。
魔法少女が魔女になるのも。
マミが死ぬのも。
杏子が消えるのも。
さやかが壊れるのも。
自分が何度も戻ることになったのも。
全部、この白い獣のせいだと。
そのはずだった。
しかし、少なくともこの時間のキュゥべえは違った。
マミを戻した。
杏子を助けた。
さやかを壊さない契約にした。
自分を、今に繋ぎ止めた。
まどかを契約させないために、本体へ逆らった。
残機まで担保に差し出した。
そして今、死のうとしている。
ほむらは、唇を噛んだ。
「あなたは」
声がうまく出なかった。
「本当に、面倒なことをしてくれたわね」
キュゥべえは、わずかに目を動かした。
「それは、批判かな」
「ええ」
ほむらは涙を拭わなかった。
「批判よ」
「そうかい」
「だから、死なないで」
キュゥべえは、答えなかった。
まどかは、キュゥべえのすぐそばにいた。
手を伸ばすが、触れるのが怖かった。触れたら壊れそうだった。
「キュゥべえ」
「なんだい、まどか」
声は、もうほとんど息のようだった。
「私、契約するよ」
「その必要はない」
「あるよ」
「ない」
「ある」
まどかは、涙をこぼしながら笑った。
「だって、私はキュゥべえの心配もするって言ったもん」
キュゥべえは、黙った。
「約束、覚えてる?」
「覚えている」
「じゃあ、私が心配するの、止められないよ」
「それは……」
キュゥべえの声が、一度途切れた。
光の板はもう消えていた。赤い目の光も弱い。
「それは、困るね」
「うん」
まどかは頷いた。
「困って」
キュゥべえは、何か言おうとした。たぶん、まだ言葉はあった。
契約は不要だ。
試験条件に反する。
鹿目まどかの契約は高因果負荷を伴う。
君は友達の心配をしていればいい。
僕は友達ではない。
この身体はもう持たない。
本体は報告を受け取った。
だから、合理的には――何かを言おうとした。
その前に、白い身体から力が抜けた。
マミのリボンの中で、キュゥべえは動かなくなった。
本当に。動かなくなった。
「……キュゥべえ?」
さやかが呼んだ。
白い身体は動かない。
杏子が一歩近づく。
「おい。冗談じゃねえぞ」
それでも、赤い目はもう動かなかった。
マミは、リボンを巻く手を止めた。
止めたくなかった。
だが、もう手を加えられる場所がなかった。
ほむらは息を呑んだ。
世界が止まったように感じた。
自分の力ではない。ただ、そう感じただけだった。
まどかは、キュゥべえの身体を見ていた。ぼろ雑巾のようだった。白かったはずの身体は、裂け、歪み、光を失っている。
でも、そこにいるのは確かにキュゥべえだった。
いつものように、次の個体は現れない。
瓦礫の陰からも、空の裂け目からも、まどかの後ろからも。
誰も来ない。
本当に、誰も回収に来なかった。
さやかが泣いた。声を上げて泣いたわけではない。
ただ、涙を落として、歯を食いしばっていた。
杏子は背を向けた。
肩が震えていた。
マミは両手で口元を押さえ、静かに泣いていた。
ほむらは、キュゥべえを見たまま泣いていた。
大げさではない。世界が終わったような泣き方ではない。
それでも、確かに喪失だった。
まどかだけは、まだ泣ききれなかった。涙は出ている。
でも、それだけではなかった。
胸の奥で、何かが静かに決まっていた。
「大丈夫」
まどかは、小さく言った。
ほむらが顔を上げる。
「まどか」
まどかは、キュゥべえの死体を見つめたまま言った。
「大丈夫、ほむらちゃん」
「何が」
ほむらの声が震えた。
「同じことにはならない」
その言葉に、ほむらの顔が強張る。
「まどか、駄目」
「違うよ」
まどかは、ゆっくりと首を横に振った。
「私、分かるの」
何が分かるのか、自分でも全部は分かっていなかった。
でも、確かに分かっていた。
これは、今までと同じ契約ではない。
キュゥべえに迫られて願うのではない。
宇宙を背負うためでもない。
みんなを救う代わりに自分を消すためでもない。
目の前で死んだ、この一匹を生き返らせる。
それだけ。けれど、それだけではない。
死んだものを、もう一度生へ戻す。
失われたはずの情報を、もう一度形にする。
散っていくはずだったものを、もう一度集める。
まどかには、その言葉がまだなかった。
でも、キュゥべえならきっとこう言う。
「アンチエントロピー」
「私は」
まどかは、キュゥべえの身体へ手を伸ばした。
今度は、怖くなかった。
「このキュゥべえを、生き返らせる」
ほむらが、息を止めた。
朝の光が、瓦礫の街に差し始めていた。