魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ   作:折無堂

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31. 必要はない

「キュゥべえ」

 まどかは、膝をついたまま言った。

 声は小さかったが、震えてはいなかった。

「私と、契約して」

 

 その言葉に、誰もすぐには反応できなかった。

 

 ほむらだけが、わずかに動いた。

 止めなければならない、そう思った。

 何度も繰り返してきた。

 何度も間に合わなかった。

 何度もその言葉を聞いて、何度も世界が壊れた。

 

 だから、反射のように口が動きかけた。

 駄目。必要ない。

 そう言うはずだった。

 その言葉は、ほむらの口からは出なかった。

 

 先に、キュゥべえが言った。

「その必要はない」

 ほむらは、一瞬だけ固まった。セリフを取られた気がした。いや、気がしただけだった。

 それは、ほむらのための言葉ではなかった。まどかを止めるためだけの言葉でもなかった。

 

 キュゥべえ自身が、今この瞬間に出した結論だった。

 

 まどかは、キュゥべえを見る。

「必要、あるよ」

「ない」

 キュゥべえの声は、もうかなり弱かった。それでも、言葉だけははっきりしていた。

「鹿目まどか。君の契約は、高因果負荷を伴う。現時点で君を契約させることは、試験条件に反する」

「そんなこと言ってる場合じゃないよ」

「言っている場合だよ」

 

 キュゥべえは、赤い目をまどかへ向けた。その目も、どこか焦点が合っていないように見えた。

「今回の試験は、君を契約させずに、ワルプルギスの夜を越えることだった。魔法少女を魔女化させず、既存個体を損耗させず、高因果個体にすべてを背負わせないことだった」

「でも、キュゥべえが」

「僕は、試験条件に含まれていない」

「含まれてるよ!」

 

 さやかが叫んだ。

「勝手に自分だけ外れようとしないでよ!」

 

 杏子の顔からも、さっきまでの軽さが消えた。

「お前さ。あたしらを使い潰すのは駄目になったくせに、自分ならいいと思ってんのか」

 

 キュゥべえは答えようとした。

 その横で、マミは何も言わず、傷んだ白い身体へ巻いていたリボンをもう一度締め直した。言葉より先に、手を止めないことを選んでいた。

 ほむらだけが、キュゥべえをじっと見ていた。

 

「君たちは、勘違いしている」

「何を」

 ほむらの声は低かった。

 怒っているのか、震えているのか、自分でも分からなかった。

 

「僕がここで停止しても、試験は続く」

「続かないわ」

「続く」

「続かない」

 

 ほむらは、キュゥべえを睨みつけた。

「あなたがいなければ、誰が本体に報告するの。誰が新方式を調整するの。誰がまどかを契約させずに済む理由を説明するの」

「報告は送信した」

「それで終わりではないでしょう」

「本体は結果を見る」

「あなたが見届けると言ったのでしょう」

 

 キュゥべえはほんの少しだけ黙り、それから言った。

「そうだったね」

 その言い方が、ほむらの胸を突いた。

 やけに素直だった。

 

「けれど、結末は見た」

「まだよ」

 ほむらは言った。

 

「まだ終わっていない」

「ワルプルギスの夜は去った」

「あなたが死んでいない」

 

 キュゥべえは、少しだけまばたきをしたように見えた。

「それは、現在進行形で正しくなくなりつつある」

「黙りなさい」

 ほむらの声が鋭くなる。

 

 キュゥべえは黙った。

 本当に。

 

 マミのリボンが、細かく震えていた。

「お願い」

 マミが言った。

「もう少しだけ、黙っていて。今は、私に手当てをさせて」

「効果はない」

「聞いていないと言ったわ」

「そうだったね」

 キュゥべえは、また黙った。

 

 さやかは、ぼろぼろの地面に剣を突き立てたまま、顔を歪めていた。

「なんでよ」

 誰に向けた言葉なのか分からない。

 キュゥべえにか。ワルプルギスの夜にか。自分にか。

 

「あんた、ついさっきまであんな偉そうに観測とか言ってたじゃん。まだいっぱい言うことあるでしょ。あたしに、無茶するなとか、濁度がどうとか、そういうムカつくこと言うんでしょ」

 返事はなかった。

「言いなさいよ」

 さやかの声が、小さくなった。

「言いなさいよ、キュゥべえ」

 

 杏子は横を向いていた。

 目元を手の甲で乱暴に拭う。

「くそ」

 それだけ言った。

 

 マミは泣いていた。大声ではない。取り乱しているわけでもない。

 ただ、涙が落ちていた。

 リボンを巻く手は止めなかった。止めたら、本当に終わってしまう気がした。

 

 ほむらは、自分が泣いていることに少し遅れて気づいた。

 キュゥべえのことを、恨んでいたはずだった。

 全部こいつのせいだと思っていた。

 

 まどかが契約するのも。

 魔法少女が魔女になるのも。

 マミが死ぬのも。

 杏子が消えるのも。

 さやかが壊れるのも。

 自分が何度も戻ることになったのも。

 全部、この白い獣のせいだと。

 

 そのはずだった。

 

 しかし、少なくともこの時間のキュゥべえは違った。

 マミを戻した。

 杏子を助けた。

 さやかを壊さない契約にした。

 自分を、今に繋ぎ止めた。

 まどかを契約させないために、本体へ逆らった。

 残機まで担保に差し出した。

 

 そして今、死のうとしている。

 

 ほむらは、唇を噛んだ。

「あなたは」

 声がうまく出なかった。

「本当に、面倒なことをしてくれたわね」

 

 キュゥべえは、わずかに目を動かした。

「それは、批判かな」

「ええ」

 ほむらは涙を拭わなかった。

「批判よ」

「そうかい」

「だから、死なないで」

 

 キュゥべえは、答えなかった。

 まどかは、キュゥべえのすぐそばにいた。

 手を伸ばすが、触れるのが怖かった。触れたら壊れそうだった。

 

「キュゥべえ」

「なんだい、まどか」

 声は、もうほとんど息のようだった。

「私、契約するよ」

「その必要はない」

「あるよ」

「ない」

「ある」

 

 まどかは、涙をこぼしながら笑った。

「だって、私はキュゥべえの心配もするって言ったもん」

 キュゥべえは、黙った。

「約束、覚えてる?」

「覚えている」

「じゃあ、私が心配するの、止められないよ」

「それは……」

 

 キュゥべえの声が、一度途切れた。

 光の板はもう消えていた。赤い目の光も弱い。

「それは、困るね」

「うん」

 まどかは頷いた。

「困って」

 

 キュゥべえは、何か言おうとした。たぶん、まだ言葉はあった。

 契約は不要だ。

 試験条件に反する。

 鹿目まどかの契約は高因果負荷を伴う。

 君は友達の心配をしていればいい。

 僕は友達ではない。

 この身体はもう持たない。

 本体は報告を受け取った。

 だから、合理的には――何かを言おうとした。

 その前に、白い身体から力が抜けた。

 

 マミのリボンの中で、キュゥべえは動かなくなった。

 本当に。動かなくなった。

 

「……キュゥべえ?」

 さやかが呼んだ。

 白い身体は動かない。

 

 杏子が一歩近づく。

「おい。冗談じゃねえぞ」

 それでも、赤い目はもう動かなかった。

 

 マミは、リボンを巻く手を止めた。

 止めたくなかった。

 だが、もう手を加えられる場所がなかった。

 

 ほむらは息を呑んだ。

 世界が止まったように感じた。

 自分の力ではない。ただ、そう感じただけだった。

 

 まどかは、キュゥべえの身体を見ていた。ぼろ雑巾のようだった。白かったはずの身体は、裂け、歪み、光を失っている。

 

 でも、そこにいるのは確かにキュゥべえだった。

 いつものように、次の個体は現れない。

 瓦礫の陰からも、空の裂け目からも、まどかの後ろからも。

 

 誰も来ない。

 

 本当に、誰も回収に来なかった。

 

 さやかが泣いた。声を上げて泣いたわけではない。

 ただ、涙を落として、歯を食いしばっていた。

 

 杏子は背を向けた。

 肩が震えていた。

 

 マミは両手で口元を押さえ、静かに泣いていた。

 

 ほむらは、キュゥべえを見たまま泣いていた。

 大げさではない。世界が終わったような泣き方ではない。

 それでも、確かに喪失だった。

 

 まどかだけは、まだ泣ききれなかった。涙は出ている。

 でも、それだけではなかった。

 胸の奥で、何かが静かに決まっていた。

 

「大丈夫」

 まどかは、小さく言った。

 ほむらが顔を上げる。

「まどか」

 

 まどかは、キュゥべえの死体を見つめたまま言った。

「大丈夫、ほむらちゃん」

「何が」

 ほむらの声が震えた。

 

「同じことにはならない」

 その言葉に、ほむらの顔が強張る。

 

「まどか、駄目」

「違うよ」

 まどかは、ゆっくりと首を横に振った。

「私、分かるの」

 

 何が分かるのか、自分でも全部は分かっていなかった。

 でも、確かに分かっていた。

 

 これは、今までと同じ契約ではない。

 キュゥべえに迫られて願うのではない。

 宇宙を背負うためでもない。

 みんなを救う代わりに自分を消すためでもない。

 

 目の前で死んだ、この一匹を生き返らせる。

 

 それだけ。けれど、それだけではない。

 死んだものを、もう一度生へ戻す。

 失われたはずの情報を、もう一度形にする。

 散っていくはずだったものを、もう一度集める。

 

 まどかには、その言葉がまだなかった。

 でも、キュゥべえならきっとこう言う。

 

「アンチエントロピー」

 

「私は」

 まどかは、キュゥべえの身体へ手を伸ばした。

 今度は、怖くなかった。

「このキュゥべえを、生き返らせる」

 ほむらが、息を止めた。

 

 朝の光が、瓦礫の街に差し始めていた。

 

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