魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
「このキュゥべえを、生き返らせる」
まどかの声は、朝の瓦礫の中で静かに響いた。
誰も、すぐには動けなかった。
風が吹いている。
ワルプルギスの夜はもう見えない。
空の端には、薄い朝日が差している。
足元にはキュゥべえがいた。白かったはずの身体は、マミのリボンに包まれていた。動かない。声もない。赤い目も、もうまどかを見ていない。
杏子が、かすれた声で言った。
「どうやって」
それは怒りではなかった。疑いでもなかった。
ただ、分からなかった。
キュゥべえがいない。契約を取り結ぶはずの白い獣が、そこに死んでいる。
だったら、どうやって願うのか。
誰に願うのか。
どうすれば、叶うのか。
まどかは杏子を見た。
涙はまだ頬に残っていたが、目は揺れていなかった。
「見ていて」
杏子は言葉を失った。
「まどか……」
さやかが小さく呼ぶ。
まどかは、今度はマミを見た。
マミは、もう何をしようとしているのかは分かっていた。
分かってしまった。
契約、願い。魔法少女になるということ。
なぜそれができるのかは分からなかった。
キュゥべえはもういない。
契約を導く声もない。
願いの形を測る赤い目もない。
それでも、まどかは迷っていない。
「鹿目さん」
マミが呼んだ。契約を止めるような声ではなかった。ただ、確認しなければならないことだけは残っていた。
「あなた、分かっているのね。契約したら、もう元には戻れない。あなたの因果が大きすぎることも、キュゥべえ自身が何度も危険だと言っていたでしょう」
「はい」
まどかは迷わず頷いた。
「知っています」
少しだけ間を置く。
「だから、何も知らないまま願うんじゃありません」
マミはまどかを見つめた。
それ以上は言わなかった。
「私、ずっとみんなを見ていました」
まどかは言った。
「マミさんが、怖くても立っていたこと。杏子ちゃんが、損とか得とか言いながら、ちゃんとみんなを見ていたこと。さやかちゃんが、自分で願って、自分で立っていたこと。ほむらちゃんが、何度も戻ってきていたのに、今は戻らないで、ここまで一緒に来てくれたこと」
声が震える。だが、止まらなかった。
「キュゥべえが、何を変えようとしていたのかも。全部じゃないけど、見ていました。だから、分かるんです」
マミは何も言えなかった。
この子は、後ろにいただけではなかった。戦っていないように見えた。守られているだけの少女に見えた。魔法少女ではない、契約候補に見えた。
だが、全員をずっと見ていたのだ。
さやかが、涙を拭った。まだ目は赤かった。
それでも、少しだけ笑った。
「そっかー」
声は、ほんの少し軽かった。その軽さが、今は救いだった。
「もう何も知らないまま決めてるわけじゃないんだね」
まどかは、さやかを見て笑った。
「そうだよ、さやかちゃん」
「でも、ほんとにいいの?」
「うん」
「怖くない?」
「怖いよ」
まどかは正直に答えた。
「でも、後ろで見ているだけっていうのは、やっぱりつらかったよ」
さやかは唇を噛んだ。何か言いたそうだった。けれど、言わなかった。
まどかは、最後にほむらを見た。
「ほむらちゃん」
ほむらは動けなかった。身体は動く。
時間を巻き戻すことも、たぶんできる。
今なら、この時間を捨てることはできる。
また始まりへ戻れば、次の時間ではキュゥべえが残機を担保に差し出す前に止められるかもしれない。ワルプルギスの一撃にも、別の備えができるかもしれない。
戻せる。
そう思った。
キュゥべえは、嘘つきだ。
誰も失われていない。そう言った。
ほむらは、ゆっくりと周囲を見た。
マミがいる。裂けたリボンをまだ手に残したまま、こちらを見ている。傷ついてはいる。それでも、自分の足で立っている。
その隣には杏子がいる。槍を地面へつき、息はだいぶ落ち着いたものの、難しい顔をしている。
さやかもいる。剣を握ったまま、涙をこらえきれずに、それでもここにいる。
少し離れたところには、まどかがいる。
契約していない。魔法少女にもなっていない。
ただの鹿目まどかのまま、そこに立っている。
そして、自分もいる。
時間を戻していない。
この朝まで、ちゃんと辿り着いている。
何度繰り返しても揃わなかったものが、今は全部ここにあった。
――一つを除いて。
ほむらの視線が、最後に白い身体へ戻る。
動かない。もう次の個体も現れない。
確かに、それ以外は誰も失われていない。
それでも。
どうしても、あの白い獣だけを数の外へ置くことができなかった。
以前なら、迷わずそうしていたはずなのに。
キュゥべえが何体壊れようと、自分には関係ないと思っていたはずなのに。
今だけは。
そう、今だけは。
誰も失われていないなんて、思えなかった。
「駄目――」
ほむらは言いかけるが、そこで止まった。
何が駄目なのか、分からなかった。
まどかが契約することか。
キュゥべえを助けることか。
自分が戻らないことか。
この時間が続いてしまうことか。
分からなかった。
「ほむらちゃん」
まどかは、静かに言った。
「ありがとう」
ほむらの目が揺れた。
「あなたがいてくれたおかげで、きっと私、全部分かったんだ」
「まどか……」
「ほむらちゃんが何度も頑張ってくれたこと。ひとりで抱えようとしていたこと。それが間違いだったことも、間違いだけじゃなかったことも」
ほむらは、息を止めた。
「だから、大丈夫」
「大丈夫じゃないわ」
やっと、ほむらは言った。
声は震えていた。
「あなたが契約するのよ。大丈夫なわけがない」
「うん」
まどかは頷いた。
「でも、同じことにはならない」
「どうしてそう言えるの」
「見ていたから」
まどかは、キュゥべえの身体へ視線を落とした。
「みんなを。キュゥべえを。ほむらちゃんを。ずっと見ていたから」
その言葉に、ほむらは何も言えなかった。
まどかは、瓦礫の中で立ち上がった。
朝日が、まどかの背中を薄く照らしている。
魔法少女ではない少女。まだ契約していない少女。その姿はもう、何かを待っているだけの少女ではなかった。
まどかは、動かなくなったキュゥべえからゆっくり顔を上げた。
ワルプルギスの夜はもういない。雲の裂け目から朝の光が差し始め、その向こうには、何もない空が広がっている。
まどかはそこから目を逸らさなかった。
キュゥべえは何度も本体へ報告を送っていた。自分の部屋でも見た。見滝原で起きたことを、さやかちゃんのことを、ほむらちゃんのことを、この子はずっとどこかへ伝えていた。
なら、今だって。
きっと、見ている。
「見ているんでしょ」
静かな声だった。
それでも、さやかが息を呑み、杏子が顔を上げた。マミの指が巻き終えたリボンを強く握り、ほむらの左手が反射的に盾へ触れる。
回せば、まだ止められるかもしれない。
この瞬間を止めて、まどかの前へ立って、何度だって言える。
駄目。契約してはいけない。
それをするために、自分はここまで来た。
だが、ほむらは盾を回さなかった。
まどかは迷っていない。泣いているのに、声は震えていなかった。
ほむらは、そのことを誰よりも分かってしまった。
まどかはもう一度、足元の白い身体を見た。それから、その向こうにいるはずの何かへ届かせるように、空を見上げる。
「私は、この子を生き返らせる」
風が高台を抜けていった。
誰も口を挟まなかった。
「次のキュゥべえじゃない。この子を」
まどかの手が、傷だらけの白い身体をそっと包む。
「マミさんを助けて、杏子ちゃんを守って、さやかちゃんを壊さないようにして、ほむらちゃんを諦めなかった、このキュゥべえを」
一つずつ言葉にするたびに、それが願いの形になっていく。
何を取り戻したいのか。誰を戻したいのか。
もう曖昧なところはなかった。
まどかは朝の空をまっすぐ見上げた。
「それが、私の願い」
足元で、キュゥべえの身体は動かない。
それでも、まどかはもう迷わなかった。
「さあ」
まどかの胸の奥で、何かが灯る。それは悲しみだけではなかった。
絶望でもなかった。希望だけでもなかった。
失われたものを、失われたままにしないという意思。
壊れたものを、もう一度つなぎ直すという願い。
死から、生へ。散っていくはずだったものを、もう一度形にする力。
まどかは、空を見上げたまま言った。
「叶えてよ」
そして、最後の言葉を告げた。
「インキュベーター」