魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
「インキュベーター」
まどかの声は、朝の空へ吸い込まれていった。最後の言葉だけはすぐには消えなかった。
「インキュベーター」
崩れた建物の壁に当たり、少し遅れて返ってくる。
――インキュベーター。
さらに遠く、瓦礫の向こうから、もう一度。
――インキュベーター。
声は反射するたびに細くなり、方向も曖昧になっていく。右から聞こえたと思えば、次には街の奥から返り、その次にはもう、空から落ちてきたのか、地上から昇ったのかさえ分からなかった。
――インキュベーター。
最後の一つが、朝の見滝原へ溶けていく。
まるで、まどかの呼びかけを街そのものが遠くへ送り渡しているようだった。
誰も動かなかった。
まどかは空を見上げたまま、息を止めていた。さやかも、杏子も、マミも、ほむらも、動けなかった。
何も起きない。
朝の光は差している。風は吹いている。
遠くで、崩れかけた建物の何かが落ちる音がした。
杏子が、少しだけ眉をひそめた。
「何も――」
言いかけた瞬間。
まどかの胸の奥で、光が灯った。
まどか自身も、一瞬だけ不安になっていた。
届かなかったのかもしれない。
キュゥべえがいなければ、契約なんてできないのかもしれない。
自分はただ、死んだ白い獣に向かって、できもしないことを叫んだだけなのかもしれない。
でも、違った。
胸の奥の光は、小さな鼓動のように脈打った。
その光は、外から与えられたものではなかった。胸から何かを引き抜かれる感覚でもなかった。誰かに魂を取り出される感覚でもない。
自分の中に最初からあった何かが、ようやく形を思い出すように、静かに目を覚ました。
「まどか……?」
さやかが名前を呼ぶ。
その声に応えるように、桃色の光がまどかの足元へ広がった。
最初は淡い円を描いていた光が、外へ広がるにつれて幾重もの輪へほどけ、その縁が揺らいだかと思うと、花びらのような形を作りながらふわりと浮かび上がる。
舞い上がった光は、そのまま細い糸へ変わった。
一本、また一本とまどかの身体へ絡みつき、胸元から肩へ、腕へ、指先へと流れていく。別の糸は背中を回り、髪の間を抜けながら上へ伸び、桃色の光を全身へ行き渡らせていった。
「契約が……始まっている」
マミが呟いた。その声には確信と困惑が混じっていた。
「でも、キュゥべえがいないのに……」
「いるよ」
まどかは静かに言った。
「ここにいる」
視線の先には、動かないキュゥべえがいた。ぼろぼろになった白い身体。マミのリボンに包まれた、小さな死体。
まどかの光は、そこへ届いていた。
白い輪が、まどかの周囲に浮かぶ。
一つではない。二重、三重に重なった輪が、ゆっくりと回る。キュゥべえの耳の輪にも似ていた。ソウルジェムを守る保護外装にも似ていた。天使の輪にも、契約の魔法陣にも見えた。
ほむらは、息を止めていた。こんなまどかは見たことがない。
まどかが契約する姿は、何度も見た。
何度も、嫌というほど見た。
そのたびに世界は終わりへ近づいた。
けれど、これは違う。
胸を貫くような絶望ではない。世界を塗り替えるような暴力でもない。
因果を無理やり引き寄せる、巨大な願いでもない。
これは、つなぎ直す光だった。
まどかの髪が、ふわりと伸びる。短いツインテールがほどけるように長くなり、腰近くまで流れた。完全にほどけてはいない。桃色のリボンに結ばれたまま、長く、柔らかく、朝の光を受けて揺れる。
「髪……」
さやかが涙の残る目で呟いた。
「まどか、髪伸びてる……」
「プリキュアみたいだな」
杏子がぽつりと言った。こんな場面で何を言っているのかと、自分でも思ったのだろう。その言葉にさやかが少しだけ笑った。
「そこ、言う?」
「だってよ」
杏子は目元を拭いながら言った。
「ほんとに、そう見えたんだよ」
まどかの衣装が形を取る。白と淡い桃色。
胸元には小さな桃色の結晶が生まれた。それは孤立していなかった。細い光の線が鎖骨へ、腕へ、背中へ、足元へと走り、さらに右手の先へ集まっていく。
スカートはふわりと広がる。前は動きやすく、軽やかに。後ろには、半透明の長い布が羽衣のように流れ、翼になりかけたリボンのようでもあった。
足元には白いブーツ。地面に立つための靴だった。
そして、まどかの右手に光が集まる。
弓ではなかった。
細い柄が伸びる。先端に桃色の結晶が生まれる。
その周囲を、割れた白い輪が回る。
割れた輪を、桃色の光がつなぎ直していた。
杖だった。武器ではない。射抜くものでもない。遠くの誰かを撃つためのものではない。
壊れたものを、もう一度結ぶための杖。
まどかは、その杖を両手で握った。
胸元の結晶と、杖の先端の結晶が、同じ調子で光る。
さやかの契約の時と同じように、だがもっと静かに、もっと広く、光はまどか自身の鼓動と重なっていた。
「これが……鹿目さんの魔法少女……」
マミは、思わずそう呟いた。
美しいと思った。その美しさは、どこか遠いものを見るような感覚ではなかった。
まどかは神様のように手の届かない場所へ行ったわけではない。桃色の光をまといながらも、まだ瓦礫の上に立っている。自分たちの前にいて、その足元には、さっきまで言葉を交わしていたキュゥべえの身体がある。
変わってしまったのに、消えてはいない。
鹿目まどかは、まだここにいた。
「まどか」
ほむらの声は、まだ少し震えていた。
「本当に……同じじゃないのね」
問いかけというより、最後の確認だった。
何度も見た結末ではないのか。
また、自分の手の届かないところへ行ってしまうのではないか。
そんな不安が、声の奥に残っていた。
まどかは振り返る。ほむらの顔を見た瞬間、その意味が分かったように、表情を少しだけ和らげた。
「うん」
今度の笑顔は、自分のためではなかった。
ほむらを安心させるための、いつものまどかの笑い方だった。
「同じじゃないよ」
その言葉を聞いて、ほむらの肩からほんの少しだけ力が抜けた。
紫の瞳に残っていた張りつめたものも、わずかにほどける。
まどかは、まだここにいる。そのことを、ほむらはようやく信じ始めた。
杖の先端にある輪が、音もなく回り始めた。
最初に灯ったのは、まどか自身の桃色だった。そこへ白い光が重なる。さらに、黄、赤、青、紫。
マミ、杏子、さやか、ほむら。四人の色が一つずつ加わり、桃色の中へ溶けていく。完全に混ざって一色になることはなく、それぞれの光を残したまま、最後に白い細い筋がその中心を通った。
まどかは息を呑んだ。
それは、キュゥべえの色に見えた。
六つの光は杖の先でゆっくり絡まり、やがて一本の細い流れとなって地上へ降りていく。
マミのリボンの隙間を抜け、動かなくなった白い身体へ触れた。
「キュゥべえ……」
さやかの声が小さく漏れる。
すぐには何も起こらない。裂けた身体は裂けたまま、赤い目も光を失ったままだった。
桃色の光はそこで止まらなかった。傷を塞ぐより先に、身体の奥へ沈んでいく。
白い皮膚の下へ。壊れた器官のさらに奥へ。
そこに何かが残っているか確かめるように。
マミのときとは違う。あのときは、無事だったソウルジェムを基準に、失われた身体を組み直した。
今回は、その基準になるものが目の前にない。
身体はある。けれど、この身体だけを元に戻しても、それでは足りない。
まどかが願ったのは、白い獣の形ではなかった。
次に現れるキュゥべえでもない。
この場所でマミを助け、杏子を守り、さやかの契約を作り直し、ほむらを諦めず、何度も本体へ報告を送り続けた――この個体だった。
光は、その続きを探していた。
壊れた身体から細い糸が伸びる。一本ではない。何十、何百という桃色の糸が空へ向かい、途中で消えていく。
消えたのではなかった。そこから先が、まどかたちには見えないだけだった。
空の向こうへ。この世界のどこにあるのかも分からない、本体と呼ばれたものへ。
さらに、それより近く。
このキュゥべえが見たもの。記録したもの。選んだもの。
誰にも説明できないまま残していたもの。
そうした一つ一つへ、光が触れていく。
まどかには、その仕組みは分からない。
ただ、自分の願いが届いていることだけは分かった。
普通なら、こんなところまで手を伸ばす必要はなかったのかもしれない。
死んだ身体を治すだけなら。失われた命を呼び戻すだけなら。
まどかの願いはそこで止まらなかった。
このキュゥべえでなければ意味がない。
そう願った瞬間、現実の方が、それに合わせて足りないものを探し始めた。
ほむらの胸元で、紫の光が強く脈打った。
マミの黄色が応える。杏子の赤。さやかの青。
四人の光が、まどかの桃色へ細くつながっていく。
それは力を貸しているというより、証明しているように見えた。
このキュゥべえは、ここにいた。
この四人と関わった。
この時間を一緒に越えた。
だから、戻る場所がある。
まどかは両手で杖を握った。
「帰ってきて」
声は静かだった。
「あなたがいたところに、もう一度」
桃色の光が大きく脈打つ。
空へ伸びていた無数の糸が、一斉に引き戻された。遠くへ散っていた何かが、一本ずつ白い身体へ帰ってくる。
裂けた部分が閉じ、歪んだ輪郭が戻る。失われた白が満ちていく。
それは傷口を縫っているのではなかった。
身体の形が戻るたび、その奥へ何かが重なっていく。
記録と判断、それに、ここまで過ごした時間。
誰かに「言い方」と怒られたこと。アニメを観測したこと。報告書へ、自分でも理解できない一文を残したこと。ほむらを諦めないと書いたこと。
それらが形を持って見えたわけではない。
それでも、そこへ戻っているのだと、まどかにはなぜか分かった。
最後に、白い光が赤い目の奥へ沈んだ。
一度、ごく弱く。キュゥべえの耳から伸びた輪が光った。
誰も声を出さなかった。
もう一度。今度はさっきよりはっきりと、輪が光る。
杏子が目を見開く。
「動いた……?」
ほむらは盾を握りしめた。
時間を止めない。止めてはいけないと思った。
この時間が、今まさに進もうとしている。進んでいる。
マミのリボンの中で、キュゥべえの身体が小さく震えた。
白い毛並みが戻る。裂けた部分がふさがる。歪んだ輪郭が、少しずつ整っていく。
完全に新品になるのではない。傷の跡が、うっすらと残っている。
そこに横たわっていたのは、間違いなくキュゥべえだった。
白い身体も、長い耳も、そこから伸びる丸い輪も元に戻っている。さっきまで光を失っていた赤い目の奥にも、ゆっくりと色が戻っていった。
まどかは息を止めた。
キュゥべえの口が、わずかに動く。
「……僕は」
全員の視線が集まった。
キュゥべえは一度、ひどくゆっくりまばたきをした。それから、自分が何を言うべきなのか確かめるような間を置いて、
「僕は生き物じゃないって言ったじゃないか」
と言った。
一瞬、誰も声を出せなかった。
次の瞬間、さやかが涙をこぼしたまま叫ぶ。
「そうじゃないでしょう!」
「第一声がそれかよ!」
杏子まで怒鳴り、マミは口元を押さえたまま涙を落とした。
「キュゥべえ……そういうことを言う場面ではないわ」
ほむらも、泣いているのか怒っているのか、自分でも分からないような顔で白い獣を見下ろしていた。
「本当に、どこまで行ってもあなたね」
まどかだけは、杖を胸元へ抱いたまま笑った。涙はまだ頬に残っている。
「おかえり、キュゥべえ」
キュゥべえは身体を起こそうとした。前脚に力を入れたところで少しふらつき、すぐにマミのリボンが身体の下へ滑り込んで支える。
「巴マミ。補助は助かる」
「ええ」
マミは涙を拭わないまま頷いた。
「どういたしまして」
キュゥべえはリボンに身体を預けたまま、まどかへ赤い目を向けた。光は戻っていたが、まだいつもほど強くはない。
「鹿目まどか」
「うん」
「君は、僕を生き返らせたのかい」
「うん」
「厳密には、僕は生命体ではなく――」
「キュゥべえ」
まどかが少しだけ強く名前を呼ぶ。
キュゥべえは言葉を止めた。
まどかは困ったように、それでも嬉しそうに笑った。
「そういうの、今はいいの」
しばらく、キュゥべえはまどかを見ていた。
それから視線を動かす。泣きながら睨んでいるさやか。顔を背けきれずにいる杏子。まだリボンで自分を支えているマミ。涙を拭おうともせず、こちらを見ているほむら。
最後に、もう一度まどかへ戻る。
「そうだね」
声は、いつものように平坦だった。
それでも、今度の言葉だけは、誰にも聞き間違えようがなかった。
「ありがとう」
誰も突っ込まなかった。
キュゥべえは少しだけ間を置き、四人を見回す。
「みんな」
そして、まどかを見る。
「それから、まどか」
朝日が、崩れた見滝原へ差し込んでいた。
ワルプルギスの夜はもういない。
時間も戻っていない。
それでもここには、マミも、杏子も、さやかも、ほむらも、まどかもいる。
そして、キュゥべえも戻ってきた。
誰も、失われたままではなかった。