魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
廃ビルの中は、昼間でも薄暗かった。
窓ガラスはところどころ割れ、床には埃と小さな瓦礫が積もっている。工事が止まって久しいのか、鉄骨はむき出しのまま、壁になるはずだった場所には灰色の柱だけが残っていた。
マミはその中央に立っていた。
いつもの制服姿ではない。魔法少女の姿でもない。手首に巻きついた細いリボンだけが、いつでもほどけて武器になるように揺れていた。
「本当に、ここで会うんですか?」
さやかが不安そうに言った。
「ええ。人目は少ないわ。もし何かあっても、外には出にくい」
マミの声は落ち着いていた。
ただ、まどかには分かった。
落ち着いているのではなく、落ち着こうとしている。
ほむらは少し離れた場所に立っていた。廃ビルの出入口、階段、吹き抜け、窓。すべてを視線だけで確認している。
キュゥべえは床に座っていた。
「佐倉杏子はもう近くにいる」
その言葉が終わる前に、頭上で風が鳴った。
マミのリボンが跳ねる。
次の瞬間、赤い槍が天井の梁を蹴って落ちてきた。
「へえ」
金属音が響く。
マミのリボンが槍先を受け止めていた。
だが、受け止めただけだった。
以前のマミなら、リボンを絡め、相手の姿勢を崩し、そのまま銃口を向けていただろう。
今のマミは、そこまで行かなかった。
槍の重さを受けた瞬間、肩がわずかに震える。リボン越しに迫る赤い穂先を見て、マミの瞳が一瞬だけ大きく開いた。
噛まれる。
その記憶が、身体の奥で跳ねた。
「マミさん!」
まどかが叫ぶ。
マミは息を吸い、リボンを強く引いた。
赤い槍が弾かれる。
空中で身をひねった少女が、軽く床に降り立った。
赤い髪。八重歯の見える笑み。手には槍。
佐倉杏子は、肩に槍を担いでマミを見た。
「まだ戦えるみたいだな、マミ」
マミはリボンを解かなかった。
「久しぶりね、佐倉さん」
「久しぶりって顔じゃねえな」
杏子は目を細める。
「本当にやられたのかよ。あのマミが」
さやかが一歩前に出た。
「いきなり何すんのよ!」
「誰だよ、お前」
杏子はちらりとさやかを見た。
「魔法少女でもねえのに、ずいぶん前に出てくるじゃん」
「魔法少女じゃなくても、いきなり人を襲うのはおかしいでしょ!」
「襲ってねえよ。試しただけだ」
「それを襲ったって言うの!」
キュゥべえが口を開いた。
「佐倉杏子。君の試験行動は理解できる。けれど、巴マミの現在の状態で追加負荷をかけるのは推奨しない」
杏子の目が、今度はキュゥべえに向いた。
「うるせえよ。お前に呼ばれて来たんだぞ」
「だから話をする必要がある」
「話の前に、使えるかどうか見てんだよ」
杏子は笑った。
「キュゥべえがわざわざ呼ぶから何かと思えば、マミが弱ってるって話か? なら、見滝原はしばらくあたしがもらってもよさそうだな」
マミの指が動いた。
リボンがほどけ、空中に銃が一本だけ形を取る。
その動きを、ほむらは見た。
胸の奥が冷たくなる。
別の時間で見た光景が、記憶の底から浮かび上がった。
真実を知ったマミ、震える手。
笑っているようで笑っていない顔。
そして、杏子の胸を撃ち抜いた銃口。
あの時、マミは壊れた。
いま目の前にいる巴マミは、同じではない。
死にかけたのではない。死んでいたはずだった。
戻ってきた。いや、戻ってきてしまった。
それが彼女をどう変えたのか、ほむらにはまだ分からない。
「巴さん」
ほむらは低く言った。
マミの指が止まる。
「撃たないで」
マミは、ほむらを見た。
一瞬だけ、傷ついたような顔をした。
だが、すぐに銃を消した。
「分かっているわ」
その声は静かだった。
杏子が眉を上げる。
「へえ。何だよ。今日はずいぶん物分かりがいいじゃねえか」
「佐倉さん」
マミはリボンを手元に戻す。
「今日は、あなたと戦うために来たんじゃないの」
「じゃあ何だよ。お茶会か?」
「話を聞いてほしいの」
「マミが? あたしに?」
杏子は心底おかしそうに笑った。
「ずいぶん弱ったんだな」
その瞬間、赤い槍が伸びた。
狙いはマミの身体ではなかった。
帽子の飾り。黄色いソウルジェム。
マミが反応するより早い。
ほむらの盾がわずかに動く。だが、それより先に、槍先が見えない何かにぶつかった。
高い音がした。
薄い黄色の殻が、ソウルジェムの前に浮かんでいた。
槍が弾かれる。
杏子の顔から笑みが消えた。
「……何だ、それ」
キュゥべえが言った。
「ソウルジェム保護外装だよ」
杏子は槍を引き戻す。
「ソウルジェムを守る?」
「そうだ。君の意図は通じない。少し僕の話を聞いてほしい」
「お前」
杏子は、今度こそキュゥべえをまっすぐ見た。
「何やってんだ?」
「運用改善だよ」
「は?」
「魔法少女の本体を露出したまま戦闘させるのは不合理だ。ソウルジェムへの攻撃で戦闘個体が即時停止する構造は、損耗率を高める。だから保護する」
さやかが、苦々しく言った。
「またその言い方……」
杏子はさやかを見ない。
「本体、だと?」
空気が変わった。
マミは目を伏せる。
まどかは唇を噛む。
ほむらは杏子の反応を見ている。
キュゥべえは、いつものように言った。
「魔法少女の魂はソウルジェムに格納されている。肉体は魔力で維持される活動体だ」
杏子はしばらく黙っていた。
それから、短く笑った。
「やっぱり、まだ全部話してなかったんだな」
「現在、話している途中だよ」
「途中で襲われると思わなかったってか?」
「思っていた。だから保護外装を展開していた」
「……ますますムカつくな、お前」
「それはよく言われる」
杏子は槍を肩に担ぎ直した。
「で? 今さら何のつもりだ。ソウルジェムを守って、魔法少女を長生きさせて、いいことした気分にでもなったか?」
「違うよ」
キュゥべえは即答した。
「魔法少女を短期で損耗させる現行方式は、長期収支で不合理な可能性がある。巴マミほどの戦闘個体を奇襲一回で失うことも、佐倉杏子ほどの個体が魔法少女同士の争奪で消耗することも、効率が悪い」
「効率ねえ」
杏子は鼻で笑う。
「お前らしい言い方だな」
「事実だよ」
「でも、今までのお前はそんなこと言わなかった」
キュゥべえは少しだけ黙った。
ほんの一拍。
それは感情の沈黙ではなかった。計算の間に見えた。
「標準運用では、その損耗は許容範囲だった。僕は現在、その判断を疑っている」
杏子の目つきが変わった。
「……疑ってる?」
杏子は眉を寄せた。
すぐに続きを促さず、白い獣をじっと見る。
「そうだよ」
「お前が?」
「僕が」
杏子の目がわずかに細くなった。
「親玉のやり方を?」
「本体の目的は理解している。宇宙の熱的死を遅らせる。その方針自体は合理的だ」
「……ああ」
杏子は短く声を漏らした。
視線を一度落とし、何かを組み直すように黙る。
それから、もう一度キュゥべえを見た。
「じゃあ、目的じゃねえんだな」
「そうだね」
「……やり方か?」
「実装方法だよ」
廃ビルの中に、風が通った。
杏子は、キュゥべえを見下ろしていた。
笑っていない。
マミも、さやかも、まどかも、何を言っているのか完全には分からなかった。
ほむらだけは、その危うさを感じ取っていた。
だが一番早く理解したのは、杏子だった。
理屈ではない、匂いだった。
上の言うことをそのまま聞いているやつの匂いではない。
「……へえ」
杏子は槍を下ろした。
「なんだ。お前、そういうことかよ」
キュゥべえは首を傾げる。
「どういう意味だい?」
「今まで、てっきり上の言うことそのままやってるだけの白い使いっ走りかと思ってた」
「僕はインキュべーターの端末だよ。その認識は大きく間違っていない」
「違うな」
杏子は薄く笑った。
「お前、アウトローだろ」
まどかが目を丸くする。
さやかは「え?」という顔をした。
マミは何も言わなかった。
ほむらは、杏子の言葉を否定しなかった。
キュゥべえは、少し考えるようにまばたきをした。
「君の思考原理に基づいて、今の僕を評価するのは分かる。佐倉杏子。けれど、誤解はしないでほしい。僕は君に対して優しいわけではないよ」
「うるせえ」
杏子は即座に言った。
「優しいとか、そういう話じゃねえよ」
「では、どういう話だい?」
「今までよりかは話ができると思っただけだ」
キュゥべえは黙った。
杏子は槍を肩に担ぎ、口の端を上げる。
「ただし、あたしを損させたら、まずお前から潰す。身体が何個あろうが関係ねえ。見つけた分から全部潰す」
「それは非効率だね」
「知るか」
「ただ、交渉条件としては理解した」
「交渉じゃねえ。脅しだ」
「脅しも交渉手段の一種だよ」
杏子は顔をしかめた。
「やっぱムカつくな、お前」
「それでも、今までよりは話ができる」
「調子に乗んな」
そこまで言って、杏子はようやくマミを見た。
「で、マミ」
「何かしら」
「お前、本当に戻ってきたのか」
その問いに、マミの表情が少しだけ揺れた。
「分からないわ」
正直な答えだった。
「でも、ここにいる」
杏子はしばらく彼女を見ていた。
からかう言葉も、挑発も、すぐには出なかった。
「……そうかよ」
それだけ言って、杏子は瓦礫の上に腰を下ろした。
「話、聞いてやる」
キュゥべえは赤い目を向ける。
「助かるよ」
「勘違いすんな。聞くだけだ」
「分かっている」
「あと、そこのあんた」
さやかが眉を吊り上げる。
「あんたって私?」
「魔法少女でもねえのに前に出んな。死ぬぞ」
「なっ……!」
「佐倉さん」
マミがたしなめる。
杏子は肩をすくめた。
「事実だろ」
キュゥべえが言った。
「その点については、佐倉杏子の指摘は正しい。美樹さやかは現時点では契約候補者であり、戦闘能力を持たない」
「キュゥべえまで!」
「君の安全確保は重要だ。契約していない個体を戦闘区域に置くのは、観測上も損失が大きい」
「もうちょっと普通に心配しなさいよ!」
「努力する」
杏子が笑った。
「何だよ。面白えじゃねえか」
さやかは納得していない顔でそっぽを向いた。
まどかは少しだけ息をついた。
場はまだ危なかった。
マミは傷ついたまま。
ほむらは警戒を解いていない。
杏子は話を聞くだけ。
キュゥべえは何も分かっていないようで、何かを変えようとしている。
それでも、槍は下ろされた。
銃は撃たれなかった。
誰のソウルジェムも、砕けなかった。
ほむらは、その事実だけを静かに見ていた。
ありえなかったはずの場面だった。
巴マミが生きている。
佐倉杏子が殺されていない。
鹿目まどかは契約していない。
そしてキュゥべえが、契約を急がせていない。
この時間は、自分の知るどの時間とも違う。
その違いが救いなのか、もっと大きな罠なのか。
ほむらには、まだ分からなかった。