魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
「で」
杏子が、瓦礫の上に腰を下ろしたまま言った。
「話は聞いてやる。けど、その前に一つだ」
赤い槍の柄で、床を軽く叩く。
「それで、あたしに何の得がある」
まどかは、思わず杏子を見た。
マミが生きていること。ソウルジェムのこと。キュゥべえがこれまでと違うこと。
それだけで、もう十分すぎるほど大きな話に思えた。
杏子はそこから入らなかった。
得か、損か。
それが彼女にとって、まず確かめるべきことなのだと、まどかにも少しだけ分かった。
キュゥべえは答えた。
「まず、ソウルジェム保護外装を提供できる」
杏子の眉が少し動く。
「さっきのやつか」
「そうだよ。完全な防御ではない。割られれば終わりだ。それでも、奇襲や接近戦での即時破壊率は下げられる」
「ふうん」
杏子は槍を指で回した。
「他には」
「グリーフシード配分の調整。魔女の発生予測情報の共有。魔法少女同士の戦闘による消耗の抑制」
「要するに、あたしに縄張り争いをやめろってか」
「無意味な争いはね」
「意味があれば?」
「その時は再評価する」
杏子は鼻で笑った。
「ほんとムカつくな、お前」
「それは先ほども聞いた」
「何回でも言ってやるよ」
杏子は菓子の包みを取り出し、口で乱暴に開けた。廃ビルの中に、乾いた包装音が響く。
「で、何で今さらそんなことを始めた。今までのやり方で困ってたのは、あたしらの方だろ。お前らは困ってなかったはずだ」
「困っていなかった、という評価は正確ではない」
「じゃあ何だよ」
「困っていることを、困っていると分類していなかった」
杏子は一瞬だけ手を止めた。
「……お前、やっぱり面白えな」
「面白さを目的にしているわけではないよ」
「知ってるよ。だから面白えんだ」
キュゥべえは、杏子を見上げた。
「理由は、鹿目まどかとの契約が必ずしもアンチエントロピー的に最善ではないと判断したからだ」
まどかは、自分の名前が出たことに気づくのが少し遅れた。
「……私?」
さやかが一歩前に出る。
「なんでそこでまどかの話になるのよ」
マミも顔を上げた。
「鹿目さんとの契約が、最善ではない……?」
ほむらだけは動かなかった。
ただ、空気が変わった。
杏子が菓子を噛み砕きながら言う。
「話がでかくなってきたな。分かるように言えよ」
「努力する」
キュゥべえは、まどかを見た。
「鹿目まどかは、通常の契約候補者ではない。魔法少女としての潜在出力が異常に高い。従来方式なら、最優先で契約を成立させる対象だ」
ほむらの指が、わずかに動いた。
盾ではなく、銃へ。
だが、まだ抜かない。
キュゥべえは続ける。
「けれど、出力が高すぎる。願望実行後の影響範囲、魔女化した場合の災害規模、周辺の因果構造への干渉。どれも通常の収支計算に収まらない」
「つまり?」
杏子が言う。
「契約すれば大きなエネルギーを回収できる。だが、その後に生じる損失と再試行リスクを含めると、宇宙全体の長期収支にとって有利とは限らない」
「何言ってんのか半分くらい分かんねえけど」
杏子はまどかを見た。
「要するに、こいつを契約させたら、でかすぎて後始末が面倒ってことか」
「かなり乱暴だが、概ね正しい」
「概ね正しいんだ……」
さやかが青い顔でつぶやいた。
まどかは、何を言えばいいのか分からなかった。
自分は普通の中学生のはずだった。
魔法少女に憧れて、マミに憧れて、何か自分にもできることがあるのかもしれないと思っていた。
それが急に、宇宙とか、収支とか、災害規模とか、そんな言葉で語られている。
怖かった。
でも、一番怖い顔をしていたのは、ほむらだった。
「キュゥべえ」
ほむらの声は冷たかった。
「あなた、何をどこまで知っているの」
「最初から完全に知っていたわけではないよ」
「答えなさい」
「答えている。先に観測されたのは、鹿目まどかとの契約が異常な収支を示すという事実だ」
キュゥべえは、ほむらを見た。
「普通の中学生である彼女が、なぜそれほどの因果を持っているのか。その説明として、最も整合的だったのが君の時間遡行だ」
まどかは息を止めた。
さやかが目を見開く。
「時間……?」
マミは、ほむらを見た。
杏子は、低く口笛を吹く。
「へえ。そういう話かよ」
ほむらは動かない。
ただ、目だけがキュゥべえを射抜いていた。
「言わないで」
「情報を秘匿しても、状況は改善しない」
「言わないで!」
ほむらの銃が抜かれた。
まどかが叫ぶより早く、さやかが反応しかける。
けれど、杏子の槍がそれを制した。
「待て、あんた」
「あんたって言うな!」
「今は黙ってろ。こいつ、肝心な話してる」
さやかは歯を食いしばった。
キュゥべえは、ほむらの銃口を見ても声を変えなかった。
「暁美ほむら。君の願いは、鹿目まどかを中心に時間を巻き戻している。君は記憶と経験を保持したまま、同じ期間を繰り返している」
ほむらは撃たなかった。
撃てなかった。
マミが小さく言う。
「暁美さん……それは、本当なの?」
ほむらは答えない。
沈黙が答えだった。
まどかの声が震えた。
「ほむらちゃん……?」
ほむらは、まどかを見なかった。
見られなかった。
キュゥべえは続ける。
「君の目的は鹿目まどかの救出だ。だから、因果の中心は彼女に集まる。繰り返すたび、彼女の契約出力は増大している」
杏子が舌打ちした。
「おい。それって、こいつがまどかを守ろうとするほど、まどかがやばくなってるってことか」
「その可能性が高い」
ほむらの指が震えた。
銃口がわずかに下がり、また上がる。
「黙りなさい」
「さらに」
「黙りなさいと言っているの!」
キュゥべえは黙らなかった。
「ループの終点には、常にワルプルギスの夜がある」
ほむらの表情が凍った。
「……何を」
「鹿目まどかほどではないにせよ、反復される因果の終点側にも影響が蓄積している可能性がある。つまり、ワルプルギスの夜も、最初の時間軸より強くなっているかもしれない」
音が消えたようだった。
廃ビルの外で、風が何かを鳴らしている。遠くで車の音がした。
この場の誰も動かなかった。
杏子が、低く言った。
「おい」
いつもの軽さが消えていた。
「それ、やばくねえか」
「かなり深刻な可能性だね」
「可能性で済む話かよ」
「確証はない。けれど、考慮しない理由もない」
ほむらの胸元で、紫のソウルジェムが鈍く光った。その内側に、薄い靄が差す。
まどかはそれに気づいた。
「ほむらちゃん!」
マミも顔色を変える。
「暁美さん、落ち着いて」
ほむらは聞いていなかった。
自分の手が震えている。
自分がまどかを強くしてしまった。
それだけではない。
まどかを殺す夜まで、強くしていたかもしれない。
救おうとしていた。
ただ、救いたかった。
そのたびに、条件を悪くしていたのだとしたら。
「私が……」
ほむらの声は、ほとんど息だった。
「私が、全部……」
「暁美ほむら」
キュゥべえが言った。
「君たち女子中学生は、すぐ早合点する」
全員がキュゥべえを見た。
杏子が一瞬、変な顔をした。
「お前、今それ言うか?」
「今言う必要がある」
ほむらは、ゆっくり顔を上げた。
「何ですって」
「早合点だよ。僕は、君の願いがすべてを悪化させたと言ったわけではない」
「同じことでしょう」
「違う」
キュゥべえは、ほむらを見上げる。
「君がその願いを持たなければ、この僕は現れなかったかもしれない」
ほむらの目が揺れた。
「あなたが……?」
「そうだよ。僕が標準運用から逸脱している理由は、純粋な現場観測の結果かもしれない。あるいは、君の時間遡行によって形成された因果の近傍に、僕が居続けた影響かもしれない」
杏子が口の端を上げた。
「つまり、こいつが何度もやり直したせいで、お前まで変なやつになったかもしれないってことか」
「変なやつ、という表現は曖昧だね」
「だいたい合ってんだろ」
「概ね正しい」
「ほらな」
さやかが、泣きそうな顔で怒った。
「概ね正しいじゃないでしょ! それ、ほむらが悪いって言ってるみたいじゃん!」
「悪い、という価値判断ではない。結果の話だ」
「その言い方が悪いの!」
キュゥべえは少しだけまばたきした。
「修正する。暁美ほむらの願いは、危険な副作用を生んだ可能性がある。しかし同時に、現行システムの欠陥を疑う僕を生んだ可能性もある。結末はまだ見えていない」
ほむらのソウルジェムの靄は、それ以上濃くならなかった。
キュゥべえは続けた。
「本体と同じように、君も今回がどうなるか見届ける責任がある」
「責任……」
「そうだよ。ここで再び時間を巻き戻せば、鹿目まどかの因果量はさらに増える可能性が高い。ワルプルギスの夜も同様だ。ならば、少なくとも今回の時間で何が起きるかを見届けるべきだ」
ほむらは、しばらく黙っていた。
やがて、銃を下ろす。
「最初から、そのつもりだったわ」
声はいつものように冷たかった。
けれど、まどかには分かった。
少しだけ、無理をしている。
「ほんとかな、ほむらちゃん」
ほむらが顔を上げる。
「まどか」
「だって、今のほむらちゃん、ちょっと苦しそう」
「そんなことはないわ」
「あるよ」
まどかは一歩近づいた。
ほむらは退かなかったが、近づかれることに慣れていないように、ほんの少しだけ肩を固くした。
「ごめんね、ほむらちゃん」
「どうして、あなたが謝るの」
「分からないけど……でも、ほむらちゃん、ずっと一人で頑張ってたんだよね」
ほむらは何も言えなかった。
まどかは、困ったように笑った。
「ごめんね。何も知らなくて」
紫のソウルジェムの靄が、ほんの少し薄くなった。
キュゥべえがそれを見た。
「興味深い。鹿目まどかの謝罪によって、暁美ほむらのソウルジェム濁度が低下――」
「キュゥべえ」
マミが静かに言った。
「今は、黙っていて」
「分かった」
キュゥべえは黙った。
本当に。
杏子が小さく笑う。
「お前、言われりゃ黙れるんだな」
キュゥべえは黙ったままだった。
さやかが目を丸くする。
「ほんとに黙ってる……」
ほむらは、まどかを見ていた。
何度も見た顔だった。
何度も失った顔だった。
守ると決めて、守れなかった顔だった。
この時間のまどかは、まだ契約していない。
そして、何も知らないままではない。
それが救いなのか、もっと大きな罠なのか。
まだ分からない。
それでも、ほむらは銃をしまった。
「……話を続けましょう」
その声は、さっきより少しだけ静かだった。
「ただし、キュゥべえ」
白い獣は黙っている。
「もう話していいわ」
「分かった」
キュゥべえは、即座に答えた。
「では、現時点での結論を述べる。鹿目まどかとの契約は、少なくとも今は推奨しない。暁美ほむらの再ループも推奨しない。ワルプルギスの夜は撃破よりも、通過、逸脱、損耗回避を優先すべき対象だ」
杏子が眉をひそめる。
「倒さねえのか」
「倒せる保証がない」
「ずいぶん正直だな」
「正直でなければ、契約品質が下がる」
「契約しねえって話してんだろ」
「そうだね」
さやかが深くため息をついた。
「こいつ、ほんと何も分かってないようで、変なところだけ分かってる……」
まどかは、ほむらの横顔を見た。
ほむらはまだ硬い顔をしている。
それでも、さっきより少しだけ、ここにいるように見えた。
この時間を見届ける。
たぶん、それが最初の約束だった。
誰とも交わしていない。
でも、今ここで生まれた約束だった。