魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ   作:折無堂

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7. 機能した外装

 佐倉杏子は、ひとりで結界に入った。

 誰かに黙って来た、というほどではない。

 ただ、誰かに断って来る理由もなかった。

 

 見滝原の外れにある古い商店街。夜になれば人通りはなく、半分ほどの店はシャッターを下ろしたままだった。路地の奥に、妙な匂いが残っていた。

 甘い匂いではない。腐った水と、古い紙と、錆びた釘を混ぜたような匂い。

 

「……趣味悪いな」

 杏子は槍を肩に担いだまま、結界の入口を踏み抜いた。

 

 景色が反転する。

 そこは、無数の手が吊られた劇場だった。

 天井から糸が垂れている。糸の先には、手。手。手。

 人形の手、子どもの手、大人の手、手袋だけの手、骨だけの手。

 それらが拍手をするように、ばらばらの調子で動いている。

 

 ぱち、ぱち、ぱち。

 

 杏子は眉をひそめた。

「うるせえ」

 

 槍を振る。

 赤い軌跡が、吊られた手をまとめて薙ぎ払った。糸が切れ、手が床へ落ちる。落ちた手はすぐに黒い紙片になって消えた。

 使い魔だ。数は多いが、弱い。

 

 杏子は油断しなかった。

 マミの件を見たあとで、初見の魔女を甘く見るほど馬鹿ではない。

 

 床が鳴る。

 奥の舞台に、魔女がいた。

 細い身体。胴は人形のように小さい。顔はなく、代わりに真っ白な仮面が貼りついている。だが、その背中から、扇のように腕が広がっていた。

 六本ではない。

 十本でもない。

 数える気が失せるほどの手が、肩から、背中から、腰から、影から生えている。一本一本は細い。だが、それぞれが違う方向を向き、違う速さで動いていた。

 

「手癖が悪そうなやつだな」

 杏子は槍を構えた。

 

 魔女が拍手した。

 無数の手が、同時に床を叩く。

 

 ぱん。

 その音で、周囲の糸が跳ねた。

 

 使い魔の手が、四方から飛んでくる。杏子は槍を回し、突き、払った。手の群れは軽い。槍の穂先が触れるだけで千切れる。

 

 だが、手は減らなかった。

 落ちたそばから、舞台の袖から、天井の奥から、また新しい手が垂れてくる。

「数だけかよ」

 

 杏子は槍を床に突き立てた。

 赤い鎖が床すれすれを走り、魔女の胴へ回り込む。

 

 巻き付く寸前、背中から伸びた何本もの手が一斉に動いた。

 一つが鎖を掴み、別の手が横から叩く。さらに二本が左右から引き、残った手が逆方向へ押し返す。

 鎖は魔女を囲む輪を作れないまま、途中で大きく捻じ曲げられた。

 

 杏子の目が細くなる。

「へえ」

 

 一つ一つの力は弱い。

 だが、手が多すぎる。

 力の向きが違う。タイミングがずれる。杏子の槍筋を読んでいるわけではない。ただ、あまりにも多い手が、結果として杏子の攻撃をばらしている。

 油断していたわけではないが、やりにくい。

 

 杏子は床を蹴った。

 近づく。距離を潰せばいい。手が多かろうが、本体を貫けば終わる。

 

 魔女の手が伸びる。

 杏子は槍の柄で叩き落とす。次の手が来る。斬る。さらに次。避ける。手首だけになったものが、まだ指を伸ばして足を掴もうとする。

 

「しつこい!」

 

 槍を短く持ち替え、杏子は舞台へ飛び込んだ。

 魔女の仮面が、こちらを向く。

 

 腕の群れが左右へ開いた。

 道ができた。

 

 罠だ。

 杏子はそう思った。

 

 だから踏み込みをずらした。正面からではなく、半歩横。槍先を低く構え、胴ではなく影を狙う。

 だが、床下から手が出た。

 

 一本ではない。

 足首、膝、腰、槍の柄。

 同時に掴まれる。

 

「っ!」

 

 杏子は槍を爆ぜさせた。魔力が赤く弾け、手の何本かが吹き飛ぶ。だが、その瞬間には別の手が首元へ届いていた。

 狙いは喉ではなかった。

 

 胸元――ソウルジェム。

 気づいた瞬間、杏子の顔から余裕が消えた。

 

「まず――」

 

 槍を引き戻す。だが、遅い。

 白い仮面の向こうで、魔女が笑ったように見えた。

 

 細い指先が、赤い宝石へ届く。

 かちん、と甲高い音が鳴った。

 砕けたのではない。

 

 ソウルジェムを包むように、薄い赤の外装が浮かび上がっていた。魔女の指を受け止めた殻の表面に、細い亀裂が走る。

 

 杏子の背筋が冷えた。

 今のは、死んでいた。

 

 狙いに気づくのがもう少し遅ければ。外装の展開がほんの少し間に合わなければ、砕かれていたのは殻ではなく、その内側の赤い宝石だった。

 

 魔女の手が止まる。

 ほんの一瞬だった。

 

 指先が亀裂の入った外装へ触れたまま、確かめるように動かない。

 壊したと思ったのか。

 あるいは、壊れなかったことを訝しんだのか。

 

 次の瞬間、背中から伸びる無数の手の動きが、わずかに緩んだ。

 

 杏子はそれを見逃さなかった。

 

「……へえ」

 杏子は笑った。

「そういう顔すんのかよ」

 

 掴まれていた槍の柄が、赤く光る。

 柄が分かれ、節が伸びる。

 槍が多節棍のようにほどけ、絡みついていた手の間を逆に縫った。

 

「こっちはまだ終わってねえぞ」

 杏子は膝を引き抜き、身体をひねる。

 裂帛の声とともに、赤い槍が円を描いた。手がまとめて飛ぶ。床下から出た腕が切れ、天井から吊られた手が千切れ、魔女の背中の腕が数本まとめて折れた。

 

 魔女が仮面を震わせる。

 今度は杏子が踏み込んだ。

 

 迷わない。

 ただし、まっすぐではない。

 

 手が来る方向を読まず、読めないものとして走る。足場を蹴り、壁を蹴り、吊られた糸を足場にして、角度を変える。

 手は多い。だが、全部が速いわけではない。

 遅い手を踏み、速い手を槍で払う。掴みに来る手を逆に引き寄せ、魔女の身体をわずかに傾ける。

 

 白い仮面が、真正面を向いた。

 杏子は槍を短く構えた。

「これで終わりだ」

 

 魔女の残った手が、最後に一斉に伸びる。

 杏子は止まらない。

 胸元の外装が、二度目の衝撃を受けてきしむ。亀裂が広がる。薄い殻が割れそうになる。

 だが、今度は届かない。

 

 赤い槍が、白い仮面を貫いた。

 仮面の奥で、何かが破れる音がした。

 

 魔女の身体が硬直する。

 無数の手が、同時に力を失った。天井から垂れていた糸が切れ、床に落ちた手が紙片になって崩れていく。

 

 結界が震えた。

 

 杏子は槍を引き抜き、後ろへ飛んだ。

 魔女の身体が、音もなくほどける。

 舞台が裂ける。拍手の音が遠ざかる。

 

 最後に、グリーフシードが床へ落ちた。

 杏子はそれを拾った。

 

 指先が少し震えていた。

「……ちっ」

 

 胸元のソウルジェムを見る。

 赤い外装には、蜘蛛の巣のような亀裂が入っていた。

 

 だが、ソウルジェム本体は割れていない。

 生きている。

 杏子は、深く息を吐いた。

 

「本当に、死んでたな。今の」

「その通りだよ」

 背後から声がした。

 

 杏子は振り向きもせず、槍を向けた。

「見てたのかよ」

 

 キュゥべえが、崩れかけた結界の端に座っていた。

「当然だよ。保護外装の実戦データは貴重だからね」

「助けたって言えねえのか」

「君は自力で勝利した。外装は即時破壊を一度防いだだけだ」

 

 杏子は舌打ちした。

「一度防いだだけ、ね」

「ただし、その一度がなければ君は停止していた」

「死んでた、でいいんだよ」

「君たちの表現では、そうなる」

 

 結界が薄れていく。

 元の路地の冷たい空気が戻ってきた。夜の商店街に、杏子とキュゥべえだけが残る。

 

 杏子はグリーフシードを握ったまま、壁にもたれた。

「お前さ」

「何だい」

「これ、ほんとに標準装備じゃなかったのか」

「なかったよ」

「馬鹿じゃねえの」

「本体の判断は、短期収支では合理的だった」

「馬鹿じゃねえの」

 

 キュゥべえは少し首を傾げた。

「同じ言葉を繰り返すほど、不合理に感じているのかい」

「感じてるよ」

 

 杏子は胸元の外装を指で弾いた。亀裂の入った殻が、薄く光る。

「これがなかったら、あたしは今ここにいねえ。なのに今までなかった。馬鹿だろ」

「僕も、現在はそう判断しつつある」

 

 杏子は少し笑った。

「へえ。あいつ、本当に変わったかもな」

「僕のことかい」

「他に誰がいるんだよ」

 

 杏子は空を見た。

 笑ってはいる。

 だが、顔色はまだ少し悪かった。

 

 死ぬはずだった。

 それを、本人が一番よく分かっていた。

 

 キュゥべえは、その顔をじっと見ていた。

「佐倉杏子。君の現在の感情変動は、非常に大きい」

「人が死にかけた感想を数字にすんな」

「数字にしなければ、本体へ報告できない」

「知るか」

「君は死を確信した。その直後に生還した。恐怖、怒り、安堵、生存実感、僕への不信。複数の感情が同時に発生している。魔女化による一括回収とは異なるが、アンチエントロピー性は予測以上に高い可能性がある」

 

 杏子の目が細くなる。

「おい」

「何だい」

「まさか、それを狙ってやろうとか考えてねえだろうな」

 

 キュゥべえは、ほんの少し黙った。

「考慮はした」

 

 槍の穂先が、キュゥべえの額に向いた。

「殺すぞ」

「けれど、推奨しない」

「理由は」

「意図的に死線状況を作る運用は、長期的信頼を破壊する。信頼が失われれば、魔法少女同士の協力、契約候補者の維持、感情変動の継続性が損なわれる。結果として収支が悪化する」

 

 杏子はしばらく睨んでいた。

 やがて、槍を下ろす。

「……そこまで分かってんなら、まあいい」

「倫理的に否定したわけではないよ」

「そこは黙っとけ」

「分かった」

 

 キュゥべえは本当に黙った。

 

 杏子はグリーフシードをポケットへ入れ、歩き出した。

 数歩進んでから、ふと振り返る。

「それはそれとして、やっぱお前、ちょっとやべえな」

「ちょっと、なのかい」

「かなりだよ」

「表現が変わったね」

「うるせえ」

 

 杏子は背を向けた。

 胸元の赤い宝石は、割れていない。

 その事実だけが、今は妙に重かった。

 

「話だけは、もう少し聞いてやる」

 そう言って、杏子は夜の商店街を歩いていった。

 

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