魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
佐倉杏子は、ひとりで結界に入った。
誰かに黙って来た、というほどではない。
ただ、誰かに断って来る理由もなかった。
見滝原の外れにある古い商店街。夜になれば人通りはなく、半分ほどの店はシャッターを下ろしたままだった。路地の奥に、妙な匂いが残っていた。
甘い匂いではない。腐った水と、古い紙と、錆びた釘を混ぜたような匂い。
「……趣味悪いな」
杏子は槍を肩に担いだまま、結界の入口を踏み抜いた。
景色が反転する。
そこは、無数の手が吊られた劇場だった。
天井から糸が垂れている。糸の先には、手。手。手。
人形の手、子どもの手、大人の手、手袋だけの手、骨だけの手。
それらが拍手をするように、ばらばらの調子で動いている。
ぱち、ぱち、ぱち。
杏子は眉をひそめた。
「うるせえ」
槍を振る。
赤い軌跡が、吊られた手をまとめて薙ぎ払った。糸が切れ、手が床へ落ちる。落ちた手はすぐに黒い紙片になって消えた。
使い魔だ。数は多いが、弱い。
杏子は油断しなかった。
マミの件を見たあとで、初見の魔女を甘く見るほど馬鹿ではない。
床が鳴る。
奥の舞台に、魔女がいた。
細い身体。胴は人形のように小さい。顔はなく、代わりに真っ白な仮面が貼りついている。だが、その背中から、扇のように腕が広がっていた。
六本ではない。
十本でもない。
数える気が失せるほどの手が、肩から、背中から、腰から、影から生えている。一本一本は細い。だが、それぞれが違う方向を向き、違う速さで動いていた。
「手癖が悪そうなやつだな」
杏子は槍を構えた。
魔女が拍手した。
無数の手が、同時に床を叩く。
ぱん。
その音で、周囲の糸が跳ねた。
使い魔の手が、四方から飛んでくる。杏子は槍を回し、突き、払った。手の群れは軽い。槍の穂先が触れるだけで千切れる。
だが、手は減らなかった。
落ちたそばから、舞台の袖から、天井の奥から、また新しい手が垂れてくる。
「数だけかよ」
杏子は槍を床に突き立てた。
赤い鎖が床すれすれを走り、魔女の胴へ回り込む。
巻き付く寸前、背中から伸びた何本もの手が一斉に動いた。
一つが鎖を掴み、別の手が横から叩く。さらに二本が左右から引き、残った手が逆方向へ押し返す。
鎖は魔女を囲む輪を作れないまま、途中で大きく捻じ曲げられた。
杏子の目が細くなる。
「へえ」
一つ一つの力は弱い。
だが、手が多すぎる。
力の向きが違う。タイミングがずれる。杏子の槍筋を読んでいるわけではない。ただ、あまりにも多い手が、結果として杏子の攻撃をばらしている。
油断していたわけではないが、やりにくい。
杏子は床を蹴った。
近づく。距離を潰せばいい。手が多かろうが、本体を貫けば終わる。
魔女の手が伸びる。
杏子は槍の柄で叩き落とす。次の手が来る。斬る。さらに次。避ける。手首だけになったものが、まだ指を伸ばして足を掴もうとする。
「しつこい!」
槍を短く持ち替え、杏子は舞台へ飛び込んだ。
魔女の仮面が、こちらを向く。
腕の群れが左右へ開いた。
道ができた。
罠だ。
杏子はそう思った。
だから踏み込みをずらした。正面からではなく、半歩横。槍先を低く構え、胴ではなく影を狙う。
だが、床下から手が出た。
一本ではない。
足首、膝、腰、槍の柄。
同時に掴まれる。
「っ!」
杏子は槍を爆ぜさせた。魔力が赤く弾け、手の何本かが吹き飛ぶ。だが、その瞬間には別の手が首元へ届いていた。
狙いは喉ではなかった。
胸元――ソウルジェム。
気づいた瞬間、杏子の顔から余裕が消えた。
「まず――」
槍を引き戻す。だが、遅い。
白い仮面の向こうで、魔女が笑ったように見えた。
細い指先が、赤い宝石へ届く。
かちん、と甲高い音が鳴った。
砕けたのではない。
ソウルジェムを包むように、薄い赤の外装が浮かび上がっていた。魔女の指を受け止めた殻の表面に、細い亀裂が走る。
杏子の背筋が冷えた。
今のは、死んでいた。
狙いに気づくのがもう少し遅ければ。外装の展開がほんの少し間に合わなければ、砕かれていたのは殻ではなく、その内側の赤い宝石だった。
魔女の手が止まる。
ほんの一瞬だった。
指先が亀裂の入った外装へ触れたまま、確かめるように動かない。
壊したと思ったのか。
あるいは、壊れなかったことを訝しんだのか。
次の瞬間、背中から伸びる無数の手の動きが、わずかに緩んだ。
杏子はそれを見逃さなかった。
「……へえ」
杏子は笑った。
「そういう顔すんのかよ」
掴まれていた槍の柄が、赤く光る。
柄が分かれ、節が伸びる。
槍が多節棍のようにほどけ、絡みついていた手の間を逆に縫った。
「こっちはまだ終わってねえぞ」
杏子は膝を引き抜き、身体をひねる。
裂帛の声とともに、赤い槍が円を描いた。手がまとめて飛ぶ。床下から出た腕が切れ、天井から吊られた手が千切れ、魔女の背中の腕が数本まとめて折れた。
魔女が仮面を震わせる。
今度は杏子が踏み込んだ。
迷わない。
ただし、まっすぐではない。
手が来る方向を読まず、読めないものとして走る。足場を蹴り、壁を蹴り、吊られた糸を足場にして、角度を変える。
手は多い。だが、全部が速いわけではない。
遅い手を踏み、速い手を槍で払う。掴みに来る手を逆に引き寄せ、魔女の身体をわずかに傾ける。
白い仮面が、真正面を向いた。
杏子は槍を短く構えた。
「これで終わりだ」
魔女の残った手が、最後に一斉に伸びる。
杏子は止まらない。
胸元の外装が、二度目の衝撃を受けてきしむ。亀裂が広がる。薄い殻が割れそうになる。
だが、今度は届かない。
赤い槍が、白い仮面を貫いた。
仮面の奥で、何かが破れる音がした。
魔女の身体が硬直する。
無数の手が、同時に力を失った。天井から垂れていた糸が切れ、床に落ちた手が紙片になって崩れていく。
結界が震えた。
杏子は槍を引き抜き、後ろへ飛んだ。
魔女の身体が、音もなくほどける。
舞台が裂ける。拍手の音が遠ざかる。
最後に、グリーフシードが床へ落ちた。
杏子はそれを拾った。
指先が少し震えていた。
「……ちっ」
胸元のソウルジェムを見る。
赤い外装には、蜘蛛の巣のような亀裂が入っていた。
だが、ソウルジェム本体は割れていない。
生きている。
杏子は、深く息を吐いた。
「本当に、死んでたな。今の」
「その通りだよ」
背後から声がした。
杏子は振り向きもせず、槍を向けた。
「見てたのかよ」
キュゥべえが、崩れかけた結界の端に座っていた。
「当然だよ。保護外装の実戦データは貴重だからね」
「助けたって言えねえのか」
「君は自力で勝利した。外装は即時破壊を一度防いだだけだ」
杏子は舌打ちした。
「一度防いだだけ、ね」
「ただし、その一度がなければ君は停止していた」
「死んでた、でいいんだよ」
「君たちの表現では、そうなる」
結界が薄れていく。
元の路地の冷たい空気が戻ってきた。夜の商店街に、杏子とキュゥべえだけが残る。
杏子はグリーフシードを握ったまま、壁にもたれた。
「お前さ」
「何だい」
「これ、ほんとに標準装備じゃなかったのか」
「なかったよ」
「馬鹿じゃねえの」
「本体の判断は、短期収支では合理的だった」
「馬鹿じゃねえの」
キュゥべえは少し首を傾げた。
「同じ言葉を繰り返すほど、不合理に感じているのかい」
「感じてるよ」
杏子は胸元の外装を指で弾いた。亀裂の入った殻が、薄く光る。
「これがなかったら、あたしは今ここにいねえ。なのに今までなかった。馬鹿だろ」
「僕も、現在はそう判断しつつある」
杏子は少し笑った。
「へえ。あいつ、本当に変わったかもな」
「僕のことかい」
「他に誰がいるんだよ」
杏子は空を見た。
笑ってはいる。
だが、顔色はまだ少し悪かった。
死ぬはずだった。
それを、本人が一番よく分かっていた。
キュゥべえは、その顔をじっと見ていた。
「佐倉杏子。君の現在の感情変動は、非常に大きい」
「人が死にかけた感想を数字にすんな」
「数字にしなければ、本体へ報告できない」
「知るか」
「君は死を確信した。その直後に生還した。恐怖、怒り、安堵、生存実感、僕への不信。複数の感情が同時に発生している。魔女化による一括回収とは異なるが、アンチエントロピー性は予測以上に高い可能性がある」
杏子の目が細くなる。
「おい」
「何だい」
「まさか、それを狙ってやろうとか考えてねえだろうな」
キュゥべえは、ほんの少し黙った。
「考慮はした」
槍の穂先が、キュゥべえの額に向いた。
「殺すぞ」
「けれど、推奨しない」
「理由は」
「意図的に死線状況を作る運用は、長期的信頼を破壊する。信頼が失われれば、魔法少女同士の協力、契約候補者の維持、感情変動の継続性が損なわれる。結果として収支が悪化する」
杏子はしばらく睨んでいた。
やがて、槍を下ろす。
「……そこまで分かってんなら、まあいい」
「倫理的に否定したわけではないよ」
「そこは黙っとけ」
「分かった」
キュゥべえは本当に黙った。
杏子はグリーフシードをポケットへ入れ、歩き出した。
数歩進んでから、ふと振り返る。
「それはそれとして、やっぱお前、ちょっとやべえな」
「ちょっと、なのかい」
「かなりだよ」
「表現が変わったね」
「うるせえ」
杏子は背を向けた。
胸元の赤い宝石は、割れていない。
その事実だけが、今は妙に重かった。
「話だけは、もう少し聞いてやる」
そう言って、杏子は夜の商店街を歩いていった。