魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
杏子が戻ってきたのは、日が落ちてからだった。
場所は、マミの部屋ではない。
マミが一度、ここを誰かとの打ち合わせ場所にすることを拒んだからだった。
代わりに選ばれたのは、人気の少ない公園の外れ。街灯の届きにくいベンチがあり、近くには古い自販機が一台だけ立っている。
マミは立って待っていた。
ほむらは少し離れた木の影にいる。
まどかとさやかは、二人並んでベンチの近くにいた。
キュゥべえは、当然のようにベンチの背に座っていた。
「佐倉杏子が近づいている」
その声に、マミが顔を上げる。
数秒後、赤い影がフェンスを越えて落ちてきた。
「いやー」
杏子は槍を肩に担いだまま、軽い調子で言った。
「死ぬとこだったわ」
さやかは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
杏子は笑っていた。
いつものように、からかうような顔で。
近づいてきた彼女の頬には薄い擦り傷があり、制服の上着には何かに裂かれた跡があった。歩き方も、ほんの少しだけ重い。
そして胸元。
赤いソウルジェムの前に浮かぶ薄い外装には、細かい亀裂が入っていた。
蜘蛛の巣のような白い線が、魔力の殻の上を走っている。
「……それ」
さやかの声がかすれた。
杏子は胸元を指で弾いた。
「これか? さっきの魔女にやられた」
「やられたって……」
「本体を狙われた。こいつがなかったら、たぶん一発だったな」
さやかは言葉を失った。
マミが静かに言う。
「大丈夫なの、佐倉さん」
「大丈夫だから戻ってきたんだろ」
杏子は笑った。
「ま、ちょっと危なかったけどな」
「ちょっとじゃない」
キュゥべえが言った。
「佐倉杏子は本来なら停止していた。保護外装が即時破壊を一度だけ防いだ。その後の反撃がなければ、戦闘継続は不可能だった」
「停止って言うな」
杏子が睨む。
「死んでた、でいいんだよ」
まどかが小さく息を呑んだ。
さやかは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
死んでいた。
杏子が、自分でそう言った。
あの軽い調子のまま。
死にかけたのではない。
死んでいたはずだった。
マミも、昨日、食べられた。
キュゥべえが何かをしていなければ、もう戻ってこなかった。
杏子も、今日、ソウルジェムを壊されかけた。
キュゥべえの外装がなければ、もうここにはいなかった。
魔法少女は、強い。
マミは綺麗で、杏子は強くて、ほむらは何でも知っているように見える。
でも、死ぬ。
本当に、あっさり死ぬ。
「……魔法少女って」
さやかは、思わずつぶやいた。
「こんなに、危ないの」
杏子が視線だけを向ける。
「今さらかよ」
その言い方に、さやかは反射的に怒りかけたが、言い返せなかった。
今さらだった。
マミが一度死に、杏子も死にかけた。
それを見て、ようやく自分は少しだけ分かった気になっている。
キュゥべえが言う。
「魔法少女の戦闘能力は高い。けれど、ソウルジェムが破壊されれば停止する。肉体損傷への耐性も、従来方式では十分ではない。保護外装は、その欠陥を補うためのものだ」
「欠陥、欠陥って」
さやかは唇を噛んだ。
「人が死にかけてるのに、欠陥って言うんだ」
「実際、欠陥だよ」
「そういう話じゃない!」
「そういう話でもある」
杏子が言った。
さやかは振り返る。
「あんたまで何言ってんのよ」
「こいつの言い方は最悪だ。でも、言ってることは分かる」
杏子は亀裂の入った外装を見下ろした。
「これがなかったら、あたしはいなかった。なら、今までなかったのはおかしい。そういう話だろ」
「……それは」
「マミもそうだ。あいつが何かしてなきゃ、昨日で終わってた」
マミの肩がわずかに揺れた。
杏子はそれに気づいて、少しだけ声を落とした。
「悪い。言い方が悪かった」
「いいえ」
マミは首を横に振る。
「事実だもの」
その声が静かだったから、さやかは余計に苦しくなった。
キュゥべえは杏子を見ていた。
「佐倉杏子。君が死を確信した直後に生還したことで、非常に大きな感情変動が発生していた」
「その話、今すんのか」
杏子が低く言う。
「重要な観測結果だよ」
「人が死にかけた感想を数字にすんな」
「数字にしなければ本体へ報告できない」
「知らねえよ」
杏子は顔をしかめた。
「まあ、いい。助かったのは事実だ」
それから、少しだけ口の端を上げる。
「あいつ、本当に変わったかもな」
「僕のことかい」
「他に誰がいるんだよ」
「僕が変化したかどうかは、まだ評価中だ」
「……お前、本当に腹立つな」
杏子はため息をつき、ベンチの前にしゃがみ込んだ。
そのやり取りを、さやかは黙って聞いていた。
軽い。杏子は軽く言っている。
でも、軽く言わなければ、きっとやっていられないのだ。
死ぬところだった。
本当なら死んでいた。
それを、菓子でも落としたみたいな調子で言う。
さやかは、自分の手を見た。
まだ何もしていない手だった。
魔法少女ではない。
戦えない。
誰かを守れない。
ただ、病室で何もできず、音楽を失った少年の隣に立っているだけの手。
「……あたし、行く」
まどかが顔を上げる。
「さやかちゃん?」
「病院。恭介のところ」
マミが心配そうに見る。
「今日は、もう遅いわ」
「少しだけ。顔見るだけです」
さやかは笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「大丈夫です。契約するとか、そういう話じゃないから」
キュゥべえが、さやかを見た。
「美樹さやか」
「何」
「今の君は、強い感情変動状態にある。契約判断には適さない」
さやかは苦笑した。
「分かってるよ」
「本当に?」
その問いに、さやかは少しだけ苛立った。
「本当に。今日は見るだけ」
キュゥべえはしばらく黙った。
「なら、僕は同行しない」
「え?」
「僕がいると、君は契約という選択肢を意識しやすくなる。現在は望ましくない」
杏子が目を丸くした。
「お前、ほんとにキュゥべえか?」
「僕はキュゥべえだよ」
「本物のキュゥべえは、そういう時に横から契約しろって来るもんだろ」
「従来方式ならね」
ほむらは、黙ったままキュゥべえを見ていた。
さやかも少しだけ戸惑った。
キュゥべえがついてこない。
契約を迫らない。
それは、安心していいことのはずだった。
なのに、妙に落ち着かなかった。
「……じゃあ、行ってくる」
まどかが立ち上がる。
「私も」
「いいよ、まどかは」
「でも」
「大丈夫。ほんとに顔見るだけだから」
そう言って、さやかは公園を出た。
誰も、すぐには追わなかった。