魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ   作:折無堂

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9. それでも治したい

 病院の廊下は、夜の匂いがした。

 昼間より人が少ない。照明は明るいのに、どこか音が遠い。ナースステーションの声も、足音も、閉じたドアの向こうのテレビの音も、全部が薄い膜の向こうにあるようだった。

 

 さやかは、上条恭介の病室の前で足を止めた。

 いつもなら、ノックをする前に少しだけ笑顔を作る。

 何でもない顔で入るために。

 いつも通りの自分でいるために。

 

 今日は、その笑顔が作れなかった。

 

 杏子の胸元に入っていた亀裂が、頭から離れない。

 マミの震えた声も。

 ほむらの銃も。

 キュゥべえの「契約判断には適さない」という言葉も。

 

 さやかは首を振った。

「……顔見るだけ」

 

 小さく言って、ドアをノックする。

 返事はなかった。

 少しだけ迷ってから、さやかは扉を開けた。

 

「恭介?」

 

 病室の中は暗かった。

 窓際のカーテンが半分だけ閉まっている。机の上には、差し入れの果物と、音楽雑誌が積まれていた。

 恭介はベッドの上に座っていた。

 起きてはいるが、こちらを見ない。

 

「起きてたんだ」

 さやかは、いつものように明るく言おうとした。

 声が少し上ずった。

「今日はね、ちょっと遅くなっちゃって。ごめん。あ、でも、すぐ帰るから。顔だけ見に――」

 

 言いかけた時、恭介の手が動いた。

 ベッド脇の小さなプレイヤー。

 そこに入っていたディスクが、床へ落ちた。

 さやかが持ってきたものだった。

 

「恭介?」

 恭介は、右手を見ていた。

 包帯の巻かれ、動かない手。かつて、弦の上を走っていたはずの手。

 

「もう、いいよ」

 低い声だった。

 さやかは立ち尽くす。

 

「え?」

「もう、持ってこなくていい」

「何を……?」

「音楽」

 

 恭介は顔を上げた。

 目が赤かった。怒っているようにも、泣き疲れているようにも見えた。

 

「聴けっていうの? 弾けもしないのに」

 さやかの息が止まった。

 

「恭介、私はそんなつもりじゃ――」

「分かってるよ」

 

 恭介は笑った。

 笑ったように見えただけだった。

 

「さやかは悪くない。みんなそう言う。先生も、看護師さんも、父さんも母さんも。リハビリすれば、いつかはって。可能性はゼロじゃないって」

 左手がシーツを握りしめる。

「でも、僕の手は動かない」

 さやかは何も言えなかった。

「毎日、同じことばかり言われる。焦るな、諦めるな、希望を持てって」

 

 恭介の声が少しずつ荒くなる。

「希望って何だよ。もう一度弾けるかもしれないって、誰も保証できないのに。聴くだけならできるって? それで満足しろって?」

「違うよ、恭介。私は――」

「じゃあ何なんだよ!」

 

 恭介の声が病室に響いた。

 さやかは肩を震わせた。

 恭介自身も、叫んだ後で息を呑んだようだった。

 でも、止まらなかった。

 

「僕に何をしてほしいんだよ。笑って聴けばいいの? さやかが持ってきてくれたから、ありがとうって言えばいいの? 弾けない曲を、弾けない手で、ずっと聴いていればいいの?」

 

 さやかは、落ちたディスクを見た。

 拾おうと膝を曲げかけて、止まる。

 

 今、拾ったら。

 それは「また聴いて」と言っているみたいになる気がした。

 

 恭介は、荒い息をしながら顔を伏せた。

「……ごめん」

 声が小さくなる。

 

「さやかに言うことじゃない」

「ううん」

 さやかは首を振った。

「いいよ」

 何がいいのか、自分でも分からなかった。

 

「ごめんね。私、分かってなかった」

「違う。さやかは――」

「ううん。分かってなかった」

 

 杏子の言葉が頭をよぎる。

 死ぬとこだったわ。

 

 マミの震えた手。

 ほむらの冷たい目。

 キュゥべえの赤い瞳。

 

 魔法少女になるということ。

 死ぬかもしれないということ。

 戻れないかもしれないということ。

 

 そして、願いが叶っても、自分が幸せになるとは限らないということ。

 

 さやかは、恭介を見た。

 恭介は悪くない。

 きっと、悪くない。

 音楽しか見えていないのだ。

 

 それは冷たいことなのかもしれない。

 でも、恭介にとっては、それが世界だった。

 自分が入り込みたいと思っていた場所は、もしかしたら最初から、自分のために空いていたわけではなかったのかもしれない。

 

 それでも。

 

「……恭介」

 さやかは言った。

「また来るね」

 

 恭介は顔を上げた。

「さやか」

「今日は帰る」

 

 笑った。

 今度は、少しだけ笑えたと思う。

 

「ちゃんと休んで」

 さやかは、床に落ちたディスクを拾わなかった。

 

 そのまま病室を出た。

 扉が閉まる。

 廊下の白い光が、やけに眩しかった。

 さやかは数歩歩いて、壁にもたれた。

 

 胸が痛い。

 でも、涙は出なかった。

 泣いたら、何かが決まってしまう気がした。

 

「治したい」

 小さく、そう言った。

 

 恭介に自分を見てほしいからではない。

 そう言い切れるほど、さやかは強くなかった。

 

 感謝してほしくないわけじゃない。

 見てほしくないわけじゃない。

 選んでほしくないわけじゃない。

 

 ただ恭介の腕が治れば、それでいい。

 そんな綺麗な気持ちだけじゃない。

 

 でも、それでも。

 

 あの手がもう一度動くなら。

 あいつがもう一度、音楽の方を向けるなら。

 自分がそこにいなくても。

 

「治したいよ」

 いろんな気持ちが混ざっていた。

 それでも、その言葉だけは飾らなかった。

 

 

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