魔法少女まどか☆マギカ [異編] 反逆のキュゥべえ 作:折無堂
病院の廊下は、夜の匂いがした。
昼間より人が少ない。照明は明るいのに、どこか音が遠い。ナースステーションの声も、足音も、閉じたドアの向こうのテレビの音も、全部が薄い膜の向こうにあるようだった。
さやかは、上条恭介の病室の前で足を止めた。
いつもなら、ノックをする前に少しだけ笑顔を作る。
何でもない顔で入るために。
いつも通りの自分でいるために。
今日は、その笑顔が作れなかった。
杏子の胸元に入っていた亀裂が、頭から離れない。
マミの震えた声も。
ほむらの銃も。
キュゥべえの「契約判断には適さない」という言葉も。
さやかは首を振った。
「……顔見るだけ」
小さく言って、ドアをノックする。
返事はなかった。
少しだけ迷ってから、さやかは扉を開けた。
「恭介?」
病室の中は暗かった。
窓際のカーテンが半分だけ閉まっている。机の上には、差し入れの果物と、音楽雑誌が積まれていた。
恭介はベッドの上に座っていた。
起きてはいるが、こちらを見ない。
「起きてたんだ」
さやかは、いつものように明るく言おうとした。
声が少し上ずった。
「今日はね、ちょっと遅くなっちゃって。ごめん。あ、でも、すぐ帰るから。顔だけ見に――」
言いかけた時、恭介の手が動いた。
ベッド脇の小さなプレイヤー。
そこに入っていたディスクが、床へ落ちた。
さやかが持ってきたものだった。
「恭介?」
恭介は、右手を見ていた。
包帯の巻かれ、動かない手。かつて、弦の上を走っていたはずの手。
「もう、いいよ」
低い声だった。
さやかは立ち尽くす。
「え?」
「もう、持ってこなくていい」
「何を……?」
「音楽」
恭介は顔を上げた。
目が赤かった。怒っているようにも、泣き疲れているようにも見えた。
「聴けっていうの? 弾けもしないのに」
さやかの息が止まった。
「恭介、私はそんなつもりじゃ――」
「分かってるよ」
恭介は笑った。
笑ったように見えただけだった。
「さやかは悪くない。みんなそう言う。先生も、看護師さんも、父さんも母さんも。リハビリすれば、いつかはって。可能性はゼロじゃないって」
左手がシーツを握りしめる。
「でも、僕の手は動かない」
さやかは何も言えなかった。
「毎日、同じことばかり言われる。焦るな、諦めるな、希望を持てって」
恭介の声が少しずつ荒くなる。
「希望って何だよ。もう一度弾けるかもしれないって、誰も保証できないのに。聴くだけならできるって? それで満足しろって?」
「違うよ、恭介。私は――」
「じゃあ何なんだよ!」
恭介の声が病室に響いた。
さやかは肩を震わせた。
恭介自身も、叫んだ後で息を呑んだようだった。
でも、止まらなかった。
「僕に何をしてほしいんだよ。笑って聴けばいいの? さやかが持ってきてくれたから、ありがとうって言えばいいの? 弾けない曲を、弾けない手で、ずっと聴いていればいいの?」
さやかは、落ちたディスクを見た。
拾おうと膝を曲げかけて、止まる。
今、拾ったら。
それは「また聴いて」と言っているみたいになる気がした。
恭介は、荒い息をしながら顔を伏せた。
「……ごめん」
声が小さくなる。
「さやかに言うことじゃない」
「ううん」
さやかは首を振った。
「いいよ」
何がいいのか、自分でも分からなかった。
「ごめんね。私、分かってなかった」
「違う。さやかは――」
「ううん。分かってなかった」
杏子の言葉が頭をよぎる。
死ぬとこだったわ。
マミの震えた手。
ほむらの冷たい目。
キュゥべえの赤い瞳。
魔法少女になるということ。
死ぬかもしれないということ。
戻れないかもしれないということ。
そして、願いが叶っても、自分が幸せになるとは限らないということ。
さやかは、恭介を見た。
恭介は悪くない。
きっと、悪くない。
音楽しか見えていないのだ。
それは冷たいことなのかもしれない。
でも、恭介にとっては、それが世界だった。
自分が入り込みたいと思っていた場所は、もしかしたら最初から、自分のために空いていたわけではなかったのかもしれない。
それでも。
「……恭介」
さやかは言った。
「また来るね」
恭介は顔を上げた。
「さやか」
「今日は帰る」
笑った。
今度は、少しだけ笑えたと思う。
「ちゃんと休んで」
さやかは、床に落ちたディスクを拾わなかった。
そのまま病室を出た。
扉が閉まる。
廊下の白い光が、やけに眩しかった。
さやかは数歩歩いて、壁にもたれた。
胸が痛い。
でも、涙は出なかった。
泣いたら、何かが決まってしまう気がした。
「治したい」
小さく、そう言った。
恭介に自分を見てほしいからではない。
そう言い切れるほど、さやかは強くなかった。
感謝してほしくないわけじゃない。
見てほしくないわけじゃない。
選んでほしくないわけじゃない。
ただ恭介の腕が治れば、それでいい。
そんな綺麗な気持ちだけじゃない。
でも、それでも。
あの手がもう一度動くなら。
あいつがもう一度、音楽の方を向けるなら。
自分がそこにいなくても。
「治したいよ」
いろんな気持ちが混ざっていた。
それでも、その言葉だけは飾らなかった。