DARK SOULS 〜AFTER STORY〜 作:OSPND
1.いつもの朝
朝の光が、まだ薄暗い酒場の窓から差し込んでいた。
夜の客が引いてから数時間。長椅子は卓の上へ上げられ、床には昨夜こぼれた酒と泥の跡がまだいくつか残っている。
宿無しは裏手の井戸から汲んできた水を桶へ移すと、濡らした布を固く絞った。
酒場の二階には客室がいくつかあり、その一番奥に宿無しが使っている小さな部屋がある。寝台と粗末な棚が一つずつ置かれただけの部屋だったが、三年前から変わっていない。
もっとも、宿無し自身はそこを自分の部屋だと思ったことはほとんどなかった。リゴルドが使えと言ったから使っている。それだけだった。
床に残っていた最後の汚れを拭き取ったところで、厨房の奥から扉の開く音がした。
「もう起きてたのか」
眠そうな声とともに、リゴルドが顔を出す。四十を少し過ぎた男で、まだ寝癖の残った髪を掻きながら酒場を見回し、すでに片づけの終わっている床を見て小さく息を吐いた。
「毎度のことだが、早いな」
宿無しは布を桶へ落とし、リゴルドを見た。
「今日は薪割りか?」
「ん?」
リゴルドはしばらく考えてから首を振った。
「いや。薪はまだあるな。今日は朝飯が済んだら、東の道具屋まで行ってくれ。頼んでおいた包丁と鍋が届いてるはずだ」
「分かった」
「ついでに市場へ寄って、塩も一袋頼む。金は後で渡す」
宿無しが頷くと、リゴルドは厨房へ戻っていった。
三年前から、だいたい毎朝こうだった。
宿無しは起きればその日やることを尋ね、リゴルドは酒場の仕事を一つか二つ頼む。薪を割る日もあれば、樽を運ぶ日もあり、買い出しへ行くこともある。屋根の一部を直したこともあれば、冬になる前には煙突の煤を落とした。
できない仕事はほとんどなく、やり方を知らなければ聞き、一度教えられれば次からは自分でこなした。宿無し自身はそれを特別なことだとは思っておらず、頼まれた仕事を終えれば、また次に何をすればいいのかを尋ねる。それが三年前から変わらない日常だった。
「宿無しさん、そこ置いといていいですよ。あとで私が洗いますから」
階段を下りてきたマリーが桶を指した。
栗色の髪を後ろで簡単に束ねただけで、まだ眠気の残る顔をしている。大きな欠伸を一つ噛み殺しながら厨房へ向かいかけたところで、宿無しが桶へ手を伸ばすのを見て足を止めた。
「洗っておく」
「いいんです。宿無しさん、朝ご飯のあと買い物にも行くんでしょ?」
「ああ」
マリーは厨房の方へ目をやり、呆れたように息をついた。
「もう、お父さんも人使いが荒いんだから。朝から働いてる人に、次から次へと頼んで」
「まだ時間がある」
「宿無しさんも、そうやって何でも引き受けるからですよ」
マリーは宿無しの手から桶を取り上げた。宿無しも抵抗することなく手を離す。
「これは私がやります。座ってて下さい。朝ご飯できたら呼びますから」
「何かすることは?」
「ありません」
「そうか」
宿無しは近くの椅子を一脚下ろし、そこへ座った。マリーは一瞬だけ何か言いたげな顔をしたものの、そのまま桶を持って厨房へ入っていく。
やがて火を起こす音や鍋の蓋が触れ合う音が聞こえ始め、やることのなくなった宿無しは何をするでもなく座って待った。
店の外からは、街がゆっくりと目を覚ましていく音が聞こえてくる。荷車の車輪が石畳を鳴らし、どこかで犬が吠える。通りを行く商人が店先の板戸を開け、向かいの家では洗濯物を抱えた女が井戸へ向かっていた。
モトの朝はいつも似たようなものだった。カルディア共和国から自治を認められた貴族が治めるこの土地は、共和国の西部にあり、大きな城壁を持つ都市でも、名の知れた交易地でもない。街道沿いに宿と商店が並び、少し離れれば畑と牧草地が広がる、ごくありふれた地方の街だった。
宿無しはここで三年を過ごしていたが、その時間を長いとも短いとも考えたことはなかった。三年前にこの酒場で仕事を与えられ、それが途切れることなく続いているから今もここにいる。宿無しにとっては、それだけのことだった。
「できたぞ」
厨房からリゴルドの声が飛んできた。
ほどなくしてマリーが三人分の皿を運んできて、黒パンと卵、塩気の強い腸詰め、それに昨夜の残り物を煮直した野菜のスープを卓へ並べていく。リゴルドも厨房から出てくると宿無しの向かいへ腰を下ろし、マリーが最後の皿を置いて席についたところで、三人は朝食を始めた。
「そういや塩だけじゃなくて、胡椒も残り少なかったな」
「買ってくるか?」
「いや、高いからいい。今度商隊が来たときで」
宿無しが頷いてスープへ匙を入れる傍らで、マリーも自分の腸詰めを切りながら尋ねた。
「宿無しさん、今日はギルドにも行くんですか?」
「買い物が終わってから行く」
「少しは休んでくださいね」
宿無しが顔を上げる。
「今日は仕事がないのか?」
「酒場のじゃなくて。ギルドの仕事です」
「何かあるなら受ける」
「そうじゃなくて……」
マリーが少し眉を寄せると、横で聞いていたリゴルドが笑った。
「こいつに休めって言っても、何していいか分からんぞ」
「三年もここにいるんだから、少しくらい覚えてくれても」
「何をだ?」
宿無しが尋ねると、マリーは匙を止めた。
「何をって……休むことです」
「寝ればいいのか?」
「そういう意味じゃありません」
「じゃあ何をする?」
「だから、自分の好きなことするとか」
宿無しは少し考えてみたものの、何も浮かばなかった。
「ない」
「即答しないで下さい」
「ないからな」
マリーが呆れたように息を吐き、リゴルドは肩を揺らして笑った。
「まあ、こいつは昔からこんなもんだ」
「昔って、私たちが知ってるの三年だけでしょ」
「そうだったな」
リゴルドは腸詰めを口へ運びながら宿無しを見る。
「それにしても、お前、本当に昔何やってたんだろうな」
宿無しは黙ってリゴルドを見返した。
「剣は使える。獣も捌ける。馬にも乗れる。薪割りも大工仕事も、やらせりゃ大抵できる。料理だけは大したことないがな」
「お父さんは料理だけだね」
「余計なこと言うな」
マリーが笑い、リゴルドも苦笑してから、もう一度宿無しへ目を向けた。
「兵士か何かだったんじゃないのか?」
「分からない」
「宿無しさん、本当に何も覚えてないんですか?」
「覚えてない」
宿無しはそれだけ答えて、またスープを口へ運んだ。
何度か聞かれたことのある話だった。昔どこにいたのか、何をしていたのか、どこで剣を覚えたのか。聞かれても、宿無しには答えられない。
けれど、それを不思議だと思ったこともなかった。覚えていないものは覚えていないし、今はここにいて、やることがある。それで困ったことは一度もなかった。
「まあいいか」
リゴルドもいつものように話を切り上げた。
「飯食ったら道具屋頼むぞ」
「ああ」
「それが終わったら好きにしろ」
「ギルドに行く」
「やっぱりな」
リゴルドが笑うと、マリーは諦めたように肩を落とした。
朝食を終えた宿無しは、リゴルドから代金の入った小さな革袋を受け取った。
「包丁と鍋、それと塩だ。忘れるなよ」
「分かった」
「昼までには戻れるだろ」
宿無しは腰に剣を差し、外套を羽織った。
扉を開けると、朝の光が酒場の床へ細長く伸びる。
「行ってくる」
「ああ」
リゴルドは厨房から顔だけを出した。
「頼んだぞ」
宿無しは頷き、外へ出た。
いつもの朝だった。昨日とも、その前の日とも大して変わらない、この街で過ごしてきた三年間の中に何度もあった朝の一つ。
宿無しは、そう思っていた。