DARK SOULS 〜AFTER STORY〜 作:OSPND
1.ないはずの場所
宿無しとリリィが来た道を戻り始めても、背後から聞こえていた水音はしばらく消えなかった。
ほんの数十歩前までは、村人が誰も知らない水の流れが木々の間を通っていた。そこから離れるにつれて太い古木が減り、見慣れない下草や岩を覆っていた厚い苔も、いつの間にかそれまで歩いてきた林のものへ戻っていく。
境目らしい境目は見つからなかった。
一本の線を越えた途端に景色が変わるわけではない。振り返れば異なる木々と今までの林が同じ場所に混じって見えるのに、少し進むだけで、先ほどまでいた場所がこの林の中にあったことさえ不自然に思えてくる。
リリィは何度目か分からないほど後ろを振り返った。
「……やっぱり変だよ」
「ああ」
「川だけなら、村の人が知らなかったってこともあるかもしれないけどさ」
足元の根を跨ぎながら、リリィは周囲の木々を見た。
「あそこだけ木まで違うのは何なんだろ。少しずつ種類が変わってるなら分かるけど、あんな狭いところで急に変わる?」
「分からない」
「だよね」
答えを期待していたわけではないらしく、リリィはそのまま前を向いた。
やがて牙猪を倒した場所へ戻ると、巨大な死骸は変わらず横たわっていた。周囲にも新しい獣の痕跡はなく、宿無しが位置を確かめてから二人は沢へ向かった。
薬草の採取場所まで戻ってくると、景色は完全に村人から聞いていた林へ戻っている。
細い沢が流れ、その周囲に薬草が生え、踏み固められた道が村へ続いている。
リリィは沢を渡ったところでもう一度立ち止まり、西の林を振り返った。
「ここからじゃ、何も分からないね」
「ああ」
「昨日ここまで来た人がいるんだよね。その人にも聞いてみよう。何か知ってるかもしれないし」
二人はそれ以上奥へ戻らず、村へ向かった。
ルーヴへ戻った頃には、陽はすでに頭上を越えていた。
集会所の前では、朝に話を聞いた老人と数人の村人が待っていた。二人の姿を見つけると、老人がすぐに立ち上がる。
「どうだった?」
「獣は牙猪でした。聞いてた通り、かなり大きかったです」
リリィが答えると、周囲の村人たちが顔を見合わせた。
「倒したのか?」
「うん。一頭だけだと思う。周りも調べたけど、同じくらい大きな足跡はなかったから」
「そうか。なら助かった」
老人の表情が緩む。
「場所を教えてくれ。何人か連れて取りに行く。あれだけでかいなら、肉もかなり取れるだろう」
「場所は案内します。でも、その前に聞きたいことがあるんです」
リリィの声色が変わったことに気づいたのか、老人の笑みが少し薄れた。
「何だ?」
「西の林に、別の川ってありますか?」
老人は一瞬、何を聞かれたのか分からないような顔をした。
「川?」
「沢じゃなくて、そのもっと先。沢を越えて西へ進んだところです」
「いや」
老人はすぐに首を振った。
「そんなもんはないぞ」
リリィは宿無しを見ると、再び老人へ向き直った。
「でも、ありました。ここの沢よりずっと幅があって、岩の間をずっと奥まで流れてました」
「そんな馬鹿な」
老人の返事は早かった。
「沢の先は林だ。そのまま行けば土地が上がって丘になる。川なんぞ流れてねぇ」
「昔はあったとかは?」
「ない。俺が子供の頃には、あの辺りまで入って遊んでたんだぞ」
話を聞いていたほかの村人も集まってくる。
「何の話だ?」
「西の林に川があるってよ」
「川? どこにだ?」
「沢の向こうだって」
「そんなのねぇだろ」
誰一人として心当たりがないらしい。
「昨日、足跡を見つけた人は?」
リリィが尋ねると、少し離れていた男が手を上げた。
「俺だ」
朝にも話を聞いた男だった。
「どこまで行ったの?」
「沢の手前までだ。跡が向こうへ続いてたのは見たが、獣が近くにいたら嫌だから渡らず戻った」
「向こうに、今までと違う木が生えてるのは見えなかった?」
「違う木?」
「幹の太い古い木がまとまって生えてて、下草も違うの。少し進むと、その中に川があった」
男は眉を寄せて西の林を見た。
「いや……そんなの見なかったぞ」
「沢からは少し離れてるから、見えなかっただけかもしれない。でも、あの辺って本当に丘になるんだよね?」
「ああ。昔、薪を探してもっと先まで入ったこともある。ずっと林で、その先は上りだ」
老人も頷いた。
「川があるなら、水がどこへ流れてるかくらいは昔から分かってる。村の近くの水場なんぞ、知らん方がおかしい」
その言葉に、集まっていた村人たちの表情から次第に戸惑いが広がっていった。
リリィは卓を借り、朝に見せられた地図をもう一度広げてもらった。
「私たちは、この沢を渡って獣を追いました」
指で位置を示しながら説明する。
「牙猪がいたのはこの辺。倒したあと、こっちから別の水音が聞こえてきたから、少しだけ見に行ったんです」
その先を指しても、地図に描かれているのは木々と丘を示す記号だけだった。
「この辺りから木の種類が変わって、その奥に水が流れてました。道っていうほどじゃないけど、水沿いに歩ける場所もあって、もっと奥まで続いてます」
「そこまで行ったのか?」
「水辺まで。先には入ってない」
「何かあったのか?」
別の村人が尋ねる。
「建物とか、人とか」
「見える範囲には何もなかったよ」
リリィは首を振った。
「ただ、森が違う。川もある。ここからそんなに遠くないのに、地図にもないし、誰も知らないっていうのが……」
そこで言葉を止めた。
宿無しは地図の上から視線を上げ、西の林を見る。
「昨日まではなかったのか?」
周囲の視線が宿無しへ集まった。
老人はしばらく考えてから口を開いた。
「昨日と言われても、そこまで入った者はいねぇから断言はできん。だが、昔からあそこにある川を村中の誰も知らなかった、なんて方がよっぽどおかしい」
「昨日沢まで行った俺も、妙なことには気づかなかった」
男も続ける。
「今日急に現れたって言われた方がまだ……いや、それだっておかしいけどよ」
村人たちの間に小さなざわめきが起こった。
リリィは地図を畳みながら、老人へ言った。
「とりあえず、あの場所には近づかないでください」
「獣の死骸はどうする?」
「そこまでは大丈夫だと思います。私たちが案内します。沢を越えて少し行ったところだから。でも、それより奥には行かないで」
「何か危ないのか?」
「分からない」
リリィは正直に答えた。
「分からないから、行かない方がいいです。モトに戻ってギルドへ報告します」
得体の知れないものに自分から近づこうという者はいなかった。
村で簡単に昼食を取ったあと、宿無しとリリィは数人の村人を連れて林へ戻った。牙猪の死骸まで案内し、解体と運搬は彼らに任せる。
村人の一人が西の奥へ顔を向けたものの、リリィが止める前に老人が声を掛けた。
「行くな。余計なことはすんな」
「見てみたいだけだ」
「見て何になる。こいつらが戻って調べてもらうまで待て」
男は不満そうにしながらも、それ以上進もうとはしなかった。
宿無しはそのやり取りを聞きながら、林の奥を眺めていた。
ここから見える景色には何の変化もない。
木々の間には昼の光が差し込み、風が吹けば枝葉が揺れる。その向こうに、地図にない水辺があるとは思えないほど普通の林だった。
それでも宿無しには、その先に何があるのかが分かっている。
川があり、その脇を細い道が続いている。
そこに立ったとき、自分はあの場所へ行ったことがあると思った。
何度記憶を探っても、その理由だけは見つからない。
「宿無し」
リリィに呼ばれ、林から視線を外した。
「帰ろう。今日中には報告したい」
「ああ」
二人は村人たちを残してルーヴへ戻り、そのまま荷物を整えてモトへ向かった。
朝に来た道を引き返しているだけなのに、帰りは行きよりも長く感じられた。
しばらくはリリィも何も話さず、街道を歩く靴音と草を揺らす風だけが続いた。宿無しも話すことがなく、時折、背後に遠ざかっていく林へ意識が向く。
やがて低い丘を越え、モトへ続く街道が長く見渡せる場所まで来たところで、リリィが口を開いた。
「ねえ、宿無し。さっき『行ったことがある』って言ってたけど、本当に何も思い出してないの?」
「何も」
「川を見たことがあるとか、あの木を知ってるとかも?」
「分からない。ただ、見たときにそう思った」
「そっか」
リリィはそれ以上聞かなかった。
宿無し自身にも、それ以上答えられることはなかった。
三年前より以前の記憶を探ろうとしたときと同じだった。思い出せない出来事がぼんやりと隠れているのではなく、初めからそこに何もないように感じる。それなのに、今日見た水辺だけが、その何もない場所へ引っ掛かっていた。
夕闇が迫る頃、二人はモトへ戻った。
北門を抜け、そのまま冒険者ギルドへ向かう。
夕方にはまだ少し早かったものの、ギルドの中には依頼から戻った者や、これから出る仕事を探す者が何人もいた。受付ではネネアが書類を整理しており、宿無しとリリィを見つけると手元の紙を置いた。
「お帰りなさい。どうでした?」
「獣の方は終わったよ」
リリィが受付台の前まで進む。
「大型の牙猪が一頭。かなり大きかったけど、宿無しが仕留めた。周りも調べたけど、同じくらいの個体がいる痕跡はなかったから、依頼の方は大丈夫だと思う」
「分かりました。村の方には報告を?」
「してきた。死骸も場所を教えて、回収してもらってる」
ネネアは頷き、報告書へ書き込み始めた。
「お二人とも怪我はありませんね?」
「ないよ」
「ああ」
「では、依頼完了として――」
「その前に、別の報告がある」
宿無しが言うと、ネネアの手が止まった。
リリィも宿無しを見てから頷く。
「うん。むしろそっちの方が問題かもしれない」
「何かあったんですか?」
「林の奥で、変な場所を見つけたの」
「変な場所?」
「村の西に沢があるでしょ。その向こうで牙猪を倒したんだけど、もっと奥から別の水音が聞こえてきたから、少しだけ確かめに行ったの」
ネネアは手元の報告書から別の紙を取り出した。
「続けてください」
「途中から木が変わった。種類が違うっていうか……そこだけ古い森みたいになってて、下草も苔も周りと違った。それで、その先に川があった」
「川ですか?」
「うん。でも村の地図にはない」
ネネアの眉がわずかに寄る。
「記載がないだけでは?」
「私も最初はそう思った。でも村の人に聞いたら、そんな川はないって。六十年以上あそこで暮らしてる人も、昔は沢のもっと奥まで入ってた人も知らなかった」
「どの程度の大きさでした?」
「大きな川じゃないよ。でも、沢と間違えるようなものでもない。ちゃんと水が流れてて、奥まで続いてた。あれがずっとあったなら、近くの村の人が誰も知らないっていうのは変だと思う」
ネネアは書き込みながら尋ねた。
「その場所に建物や、人の痕跡は?」
「見える範囲にはなかった。水と森だけ」
「危険な生物は?」
「見てない。奥には入らず戻ったから」
「それで正解です」
ネネアは即座に答えた。
そこで一度ペンを止め、今度は宿無しを見る。
「宿無しさんは、何か気づいたことがありますか?」
宿無しは少し考えた。
「あの場所を知っている気がした」
ネネアの表情が変わった。
「……知っている?」
「行ったことがあると思った」
近くで別の依頼について話していた冒険者たちの声が少し小さくなる。ネネアは一度だけ周囲へ目を向け、それから宿無しへ向き直った。
「ルーヴ村にも西の林にも来た覚えはない。それなのに、あの場所を見た瞬間にそう感じた、ということですか?」
「ああ。何かを思い出したわけじゃない」
ネネアはすぐには書き込まず、宿無しを見ていた。
リリィが横から話を継ぐ。
「村に入る前からちょっと変だったんだよ。林の方を気にしてたし、村で地図を見たときも沢の先をずっと見てた」
「その時点でも、何か気になっていたんですね?」
「ああ」
「何か、というのは?」
「分からない」
ネネアはそこまで聞くと、ようやく内容を紙へ書き留めた。
いつの間にか、周囲の会話はかなり減っていた。
地図にない川があったという話だけなら、測量の不備や村人が知らなかった土地として片づけられたかもしれない。しかし、その場所を長く知る住民が存在そのものを否定し、さらに三年前より前の素性が分からない宿無しが「行ったことがある」と言った。
受付から少し離れたところで話を聞いていた男が、隣にいる仲間へ顔を向けた。
「なあ……それ、まさか」
別の誰かがその言葉に反応する。
「何だよ」
「いや、だってよ。今までなかった場所が急に出てきたんだろ?」
「誰も今までなかったとは――」
「でも村の連中は知らねぇんだろ」
何人かの視線が宿無したちへ向いた。
ネネアは眉を寄せたが、口を挟むより先に、奥の卓にいた冒険者が低い声で呟いた。
「それ……幻跡じゃないのか?」