DARK SOULS 〜AFTER STORY〜 作:OSPND
巨人は、引き千切った腕を手放さなかった。
右手で左腕を掴んだまま、傷ついた脚へ力を込めてゆっくりと立ち上がっていく。裂けた肩口から溢れる黒い血は胸から腹を伝って足元へ滴っていたが、自ら肉を裂き、骨まで砕いた痛みに怯む様子はなかった。
リリィは大剣を構えたまま、その姿を見上げていた。
「……まだ立つの?」
巨人が右手を持ち上げると、石床を引きずっていた左腕も一緒に持ち上がった。宿無しが剣を握り直すのを見て、リリィも遅れて構え直す。
「まさか、振り回す気?」
右手の先には、さらに巨人自身の腕一本分が伸びている。間合いが広がることは見れば分かった。そのまま上半身が大きく捻れたのを見て、宿無しはすぐに次の動きを察した。
「走れ!」
宿無しが先に動き、一拍遅れてリリィも広間の奥へ走った。
十分に離れたところでリリィが振り返る。
「ここまで来れば――」
「まだだ!」
右手から伸びた左腕は、なおこちらへ迫っていた。それも、想像していたよりはるかに速い。
宿無しは走ってきた勢いのままリリィへ飛びつき、その身体を抱えるように押し倒した。二人で石床を転がった直後、巨大な指先が背後を薙ぎ、巻き起こった風だけで外套と髪が激しく煽られる。そのまま振り抜かれた腕は離れた石壁へ激突し、腹に響く轟音とともに石片を飛び散らせた。
宿無しの下で一瞬動けずにいたリリィは、自分が立っていた場所を見たまま息を詰めた。
「……何なの、こいつ……こんなの、聞いてない……」
「次が来る」
宿無しが身体を離れると、リリィもすぐに大剣を拾った。巨人はすでに千切った腕を頭上へ持ち上げており、二人が左右へ散った直後には石床へ叩きつけられた腕が大量の石片と土埃を巻き上げ、数歩先にいるはずの互いの姿さえ見えなくなった。
「宿無し!」
「左だ!」
声を頼りにリリィが走り出したが、その向こうから重い足音が迫ってくる。
「下がれ!」
リリィが反応するよりわずかに早く宿無しの声が飛び、彼女が身を投げるように横へ逃れた直後、二人の間を千切られた腕が地面すれすれに薙ぎ払った。
巻き起こった風に土埃が押し流され、その向こうから傷ついた右脚を引きずる巨人が姿を現した。リリィは大剣を構えたまま荒い息を繰り返し、視線こそ巨人から外していないものの、次の一撃がどこから来るのか判断しきれず、動きにはわずかな遅れが残っている。
「……全然分からない」
「今は避けろ。俺が見る」
宿無しが巨人を見たまま答えると、リリィが何か言おうとしたところでその肩が持ち上がった。
「来るぞ!」
「っ!」
二人が走った直後、振り下ろされた腕が背後で石床を砕いた。
宿無しはそのまま巨人の動きを追った。傷ついた右脚を引きずってはいるが、今の一撃では大きく体勢を崩していない。
「顔じゃなく腕を見ろ。肩が先に動く」
「肩って――」
言い終わる前に巨人の右肩が再び動いた。
「今だ!」
リリィは反射的に走り出し、次の瞬間には長い腕が背後を通り過ぎた。ぎりぎりでかわした彼女は、走りながら肩越しに振り返って息を詰める。
「……分かった。腕だね」
巨人が向きを変える間にも、宿無しは距離を取りながら右脚へ目を向けていた。横へ腕を振った直後だけ、傷ついた膝がわずかに沈んでいる。次の一撃でも同じだった。
「リリィ、次は右脚も見ろ」
「今度は何?」
「横に振ったあと、膝が沈む」
「……ほんと?」
「たぶん」
「たぶんって――」
巨人の上半身が横へ捻れ、会話を遮るように腕が動き始めた。
「来る!」
二人が左右へ走ると、長い腕が広間を薙ぎ、その勢いに上半身を引かれた巨人の右膝が今度ははっきりと沈んだ。
「……ほんとだ」
「止まるな!」
「分かってる!」
慌てて走り直したリリィとともに距離を取りながら、宿無しは巨人の動きを見続けた。横薙ぎのたびに右脚が長い腕の重さを支えきれず揺れている。
攻撃の起こりと弱った脚の動きが見えてきたことで、リリィの呼吸にもわずかに余裕が戻った。
「そこなら、近づける?」
「試す」
「待って、あんた一人で行く気?」
「ああ」
「……無茶しないでよ」
宿無しは正面へ出た。
巨人は千切った腕を頭上へ持ち上げ、そのまま振り下ろす。宿無しは横へ退いて一撃をやり過ごし、腕が引き戻されるのを待った。
やがて上半身が横へ捻れる。
「来るよ!」
宿無しはぎりぎりまで引きつけてから走り、長い腕が背後を薙いだ瞬間に沈んだ右膝へ向かって一気に踏み込んだ。
「今!」
リリィの声とほとんど同時に、傷の重なった足首へ剣を深く入れる。刃を抜いてすぐに離れると、引き戻された腕が背後を通り過ぎた。
「入った……」
「ああ」
「次、私も行く」
「大丈夫か?」
「何で?」
宿無しは巨人から目を離さなかった。
「足が止まってる」
リリィは何も言わず、大剣の柄を強く握り直した。
「……分かってるよ」
次の横薙ぎを宿無しが正面で引きつけると、狙い通り右膝が沈んだ。
「行けそうなら来い!」
リリィが一歩踏み出したものの、戻ってくる腕を見た瞬間、その足が止まった。
「退け!」
宿無しの声に従って無理に踏み込まず、後ろへ下がる。巨大な腕が目の前を通り過ぎるのを見送り、リリィは悔しそうに歯を食いしばった。
「……ごめん」
「いい。次がある」
宿無しはそれだけ答えて、すぐに巨人へ向き直る。
次の横薙ぎでも右膝は同じように沈んだ。
今度はリリィが走り出した。戻ってくる腕が視界に入った瞬間だけ速度が落ちたが、それでも足を止めず、そのまま傷ついた右脚へ踏み込む。
「今なら!」
振り下ろした大剣が傷へ深く食い込んだ。
「やった! 入った!」
「早く離れろ!」
巨人は予想より早く身体を戻し、リリィが柄を引いても刃が抜けない。
「っ……!」
「剣を捨てろ!」
一瞬だけ迷ったものの、リリィはすぐに柄から手を離して後ろへ飛んだ。千切った腕が目の前を通り過ぎ、大剣も巨人の動きに弾かれて遠くの石床へ転がっていく。
「剣が!」
取りに戻ろうとしたリリィの前へ巨足が落ちた。
「俺が取る。引きつけろ!」
武器を失ったリリィは巨人を見上げ、ほんの一瞬ためらったあと、床から拳ほどの石を拾って巨大な顔へ投げつけた。
「こっち!」
一つ目には反応しない。
すぐにもう一つ拾う。
「こっち見なさいよ!」
今度は巨大な顔がリリィへ向いた。その瞬間、身体は反射的に一歩退いたものの、彼女はそれ以上逃げずに踏みとどまった。
「宿無し、お願い!」
その間に宿無しは大剣まで走り、柄を掴んだ。
自分の剣とは比較にならない重さが両腕へ掛かる。持ち上げるよりも滑らせた方が早いと判断し、刃を石床へ寝かせたままリリィへ向けて押し出した。
大剣は石床を擦って大きな音を立てながら進み、彼女の足元まで届く。
「来た!」
リリィがすぐに拾い上げた。
「やっぱり、これないと無理」
「次が来る」
「分かってる!」
巨人は今度は宿無しへ向き直り、千切った腕を振り上げた。
宿無しは広間の端へ追われながらも、横薙ぎへ移る瞬間を待った。右からリリィの声が飛ぶ。
「宿無し、こっち!」
「そっちへ行ったら巻き込む!」
巨人の正面を横切るように進路を変えると、長い腕も宿無しを追って大きく振られ、その勢いで巨体まで深く捻れた。
傷ついた右膝が、これまで以上に沈む。
「姿勢が崩れた!」
今度はリリィが先に気づき、大剣を構えたまま走り出した。宿無しも反対側から足首へ向かう。
「今なら行ける!」
リリィの大剣が右膝へ叩き込まれ、宿無しも同時に傷の奥へ直剣を突き込んで横へ抉った。
重なっていた傷が大きく裂ける。
「離れて!」
二人が同時に退いた直後、巨人は右膝から大きく崩れ、そのまま横倒しになって石床へ叩きつけられた。
広間全体が揺れ、巻き上がった土埃の向こうで砕けた石がしばらく転がり続ける。
リリィは大剣を構えたまま、倒れた巨人を見ていた。
「……倒れた?」
「まだ動いてる」
「……もう嫌」
巨人は千切った腕を握ったまま右腕を石床へ突き立て、傷ついた脚ではもう身体を支えられないはずなのに、何度も上半身を持ち上げようとしていた。
「なんでまだ動けるの……」
リリィが一歩下がった。
倒れたことで、それまで遥か頭上にあった顔と首は、二人の剣が届く高さまで下りている。宿無しがそこへ目を向けると、リリィも少し遅れて気づいた。
「……首。今なら届くね」
「俺が先に行く」
宿無しが踏み出そうとすると、リリィが呼び止めた。
「待って。私も行く」
「大丈夫か?」
「大丈夫なわけないでしょ」
そう答えながらも大剣を握り直し、倒れた巨人から目を逸らさない。
「でも、ここまで来て見てるだけは嫌」
「分かった」
二人は巨人を挟むように左右へ分かれ、先に宿無しが近づいた。
巨人は倒れたまま千切った腕を振ってくる。立っていたときほどの勢いはないとはいえ、まともに受ければ危険なのは変わらない。
宿無しは腕が目の前を通り過ぎるまで待った。
「リリィ!」
「これでどうだ!」
反対側から駆け込んだリリィの大剣が、巨人の首元へ深く食い込んだ。
低い声とともに巨体が激しく身を捩り、刃ごと身体を引かれたリリィの顔に一瞬恐怖が浮かぶ。それでもすぐに大剣を抜き、後ろへ下がった。
「まだこんな力残ってるの……?」
巨人が千切った腕を彼女へ振った隙に、宿無しが踏み込み、今できたばかりの傷へ直剣を突き込む。
刃は深く入ったが、それでも巨人は止まらず、首を激しく振って宿無しの身体まで引きずろうとした。
「宿無し、気をつけて!」
千切った腕が横から迫る。
宿無しは剣を抜くことを諦め、柄から手を離して逃れた。
「剣、刺さったままだよ!」
「使える」
「何する気?」
首へ残った直剣は、巨人が身体を起こそうともがくたびに傷口の中で動き、黒い血を流れ出させている。
「広げる」
宿無しの意図に気付いたリリィは荒い息を吐きながら巨人を見つめ、大剣を握り直した。
「はぁ……何なの、こいつ……」
「やるしかない」
「そうだよね……。今度は私が気を引く」
リリィは巨人の正面へ回り、その右腕が届く距離まで近づいた。身体にはまだ強張りが残っていたが、それでも足は止めない。
「こっちを見ろ!」
巨人が千切った腕を持ち上げる。
「宿無し! お願い!」
「ああ」
リリィはぎりぎりまで待ち、腕が動いた瞬間に大きく後ろへ退いた。
その隙に宿無しが反対側から首元へ駆け寄り、刺さった剣の柄を両手で掴む。抜くのではなく、体重を掛けて横へ押し込むと、刃が肉の中を動いて傷口が大きく開いた。
「リリィ!」
「任せて!」
宿無しが剣を引き抜いて身を離すのと入れ替わるように、リリィが踏み込んだ。
目の前にある巨大な顔を見た瞬間だけ一歩鈍ったものの、そのまま大剣を振り上げる。
「これで……!」
開いた傷へ刃を叩き込んだ瞬間、巨体が跳ねるように痙攣し、千切った腕を握っていた右手の指が強く縮んだ。その拍子に腕の先が石床を擦り、鈍い音を立てる。
リリィはすぐに大剣を抜いて離れ、宿無しも巨人から距離を取ったまま様子を窺う。
千切った腕を握る右手がわずかに持ち上がったことで、リリィの肩が跳ねた。
「まだ……?」
だが、その腕が二人へ向かうことはなかった。
一度だけ石床を擦った左腕が止まり、やがて右手の指からも力が抜ける。握られていた腕が床へ落ち、持ち上がりかけていた頭もそのまま沈んだ。それまで広間に響いていた重い呼吸も、そこで途絶える。
二人はしばらく動かなかった。
「……倒した?」
宿無しは巨人の胸元を確かめる。
「ああ。止まった」
その言葉を聞いた途端、リリィの肩から力が抜け、大剣の切っ先が石床へ落ちた。
「……もう二度と戦いたくない」
冗談めいた響きはなかった。
宿無しも剣を握っていた手を一度開いた。最初に弾き飛ばされた肩も、何度も石床へ転がった背中も痛み、指先にはまだ痺れが残っている。
リリィが横目で見る。
「宿無し、本当に大丈夫?」
「ああ」
「あれだけ飛ばされて?」
「……痛い」
「やっぱりね」
疲れ切った顔で、ようやく少しだけ笑った。
宿無しも倒れた巨人へ目を戻す。
戦いが終わった今になっても、胸の奥に残っていた引っ掛かりは消えていなかった。巨大な足元へ踏み込んだときも、腕を振り下ろされて地面が揺れたときも、その低い声を聞いたときも、初めて経験しているはずの光景へ遠い何かが何度も重なっていた。
戦い方を覚えていたわけではない。次に何をしてくるのかも分からず、何度も判断を誤った。最初の一撃では間合いを読み違え、リリィと二人で試しながら、ようやく倒した相手だった。
それでも、この巨人だけは知っている。
「宿無し?」
隣からリリィが顔を覗き込む。
「また考え込んでる」
宿無しは倒れた巨体を見たまま答えた。
「……こいつと戦ったことがある」
リリィの表情が変わった。
「……またそれ? 何か知ってるの?」
「分からない」
リリィはしばらく黙り、倒れた巨人と宿無しを交互に見た。
「でも、戦ったことだけは分かるんだ」
「ああ」
思い出せるものは、それ以上なかった。
昨日から何度も感じてきた、どこかで見たような曖昧な感覚とは違っている。目の前に倒れているこの巨人と、自分は以前にも剣を交えた。そのことだけは、失われた記憶の底から確かな感触を伴って浮かび上がっていた。
やがて宿無しは昇降台のある方へ顔を向ける。
「戻ろう」
「うん。隊長さんも心配だし」
リリィも倒れた巨体へ最後に一度だけ目を向け、大剣を担ぎ直した。
「……ほんと、もう起きないでよ」
二人は疲れの残る身体を引きずるように、来た道を戻り始めた。
《冒険者の外套》
旅や採取を業とする者が好んで纏う、厚手の布で仕立てられた外套。
雨風や夜露を防ぎ、野営の折には毛布の代わりにもなる。
道無き道を往く者たちにとって
この一枚の布こそが、時に命を繋ぐ唯一の手段となる。