最初に戻ってきたのは、痛みだった。
胸の奥を無理に広げられるような息苦しさ。長く動かしていなかった全身は、指一本曲げるだけでも軋むように重い。
次に戻ったのは、自分が誰だったかという記憶だった。
幼い頃から繰り返した不運と幸運。
両親を失い、誘拐され、悪性リンパ腫と前頭側頭型認知症を告げられ、それでも希望ヶ峰学園へ入学したこと。
江ノ島盾子が世界を壊したこと。
自分も、その絶望へ加わったこと。
彼女の死後、その遺体から左腕を持ち去り、自分の腕を切り落として繋いだ。未来機関に捕らえられるまで、絶望と希望の区別さえ歪めたまま世界を彷徨っていた。
どれも、誰かから見せられた記録ではない。
その時、自分が何を考え、何を望んでいたのかまで分かる。
絶望だった狛枝凪斗は、別の人間ではなかった。
そして最後に、消えるはずだった記憶が戻った。
旧館の物置。
拘束された両腕。
ファイナルデッドルームで葦原へ向けた銃口。
空砲。
触れた頬。繋いだ手。同じ寝台で聞いた呼吸。
白い光の中で、消える直前まで握っていた指。
――覚えてたら、最初に抱きしめてね。
狛枝は目を開けた。
透明な覆いの向こうに、無機質な天井が見える。一定間隔で並んだ照明の一つが明滅し、赤い非常灯が施設の壁を染めていた。
視界の端に文字が流れている。
――NEW WORLD PROGRAM EMERGENCY SHUTDOWN COMPLETED.
――EXTERNAL SUBJECT RECONNECTION IN PROGRESS.
顔を覆っていた呼吸用のマスクから、一定の間隔で空気が送られてくる。
狛枝は右手を上げ、留め具を外した。警告音が鳴ったが、構わずマスクを押し退ける。
左手も動かそうとした。
反応はなかった。
肩から先に重いものがぶら下がっている感覚だけがある。指がどこにあるのかも分からない。
視線を向けると、肩の近くから皮膚の色が変わっていた。縫合部を境に、左腕は右腕よりも青白く、指先まで力なく横たわっている。
それを見た瞬間、二つの感情が同時に湧いた。
動かないなら切り離すべきだという判断。
彼女の一部を捨ててはいけないという執着。
後者も、確かに自分の中から出たものだった。
江ノ島盾子の腕を手に入れた時の喜びまで、狛枝は覚えている。
それでも今は、左腕のことなどどうでもよかった。
透明な覆いへ右手を当てる。装置が再接続処理中だと警告を繰り返した直後、内部の圧力が抜け、覆いが僅かに持ち上がった。
『狛枝クン、待って! まだ身体を起こさないで!』
施設のスピーカーから苗木の声が響く。
「待てないんだ」
自分でも驚くほど掠れた声だった。
身体へ付けられていた端子を外し、上体を起こす。目眩で視界が大きく傾き、装置の縁へ右手をついた。
脚を床へ下ろす。
膝はほとんど体重を支えなかった。
一歩目で倒れかけ、隣の装置へ肩をぶつける。
『狛枝クン!』
「大丈夫だよ。今のところ、右側はね」
広い部屋には、十六基の装置が並んでいた。
十神、花村、小泉、辺古山、澪田、西園寺、罪木、弐大、田中。
島で死んだ者たちの名前が表示された装置は、再接続処理へ移っていない。中に横たわる身体は呼吸を続けていたが、目を開ける気配はなかった。
それを確認するべきだと思った。
江ノ島盾子が消えたのか。
強制終了が成功したのか。
未来機関の裏切り者だった七海がどうなったのか。
どれも確かめなければならない。
狛枝は、すべて後回しにした。
装置の列を進み、一つずつ名前を追う。
焦点の定まらない視界の中で、ようやく探していた文字を見つけた。
――葦原アイ。
狛枝は表示へ右手を置いた。
透明な覆いの向こうに、葦原が眠っている。
島にいた頃より少し成長した身体。頬は痩せ、顔色も悪い。頭部と胸元へ幾つもの端子を付けられ、目を閉じたまま動かない。
「葦原さん」
返事はなかった。
表示には、再接続完了まで残り十秒と出ている。
「十秒も待たせるなんて、相変わらず趣味が悪いなあ」
開閉部へ指を掛ける。
外部からの強制解放は受け付けない。
壊す方法を探そうとしたところで、残り時間が九秒へ変わった。
今ここで無理に開ければ、彼女の身体を傷つけるかもしれない。
その程度のことは狛枝にも分かる。
分かっていても、長かった。
右手を透明な覆いへ押し当てたまま、数字が減るのを見ている。
幸運が自分だけに島の記憶を残した可能性がある。
葦原だけが、外の絶望だった人格へ戻っているかもしれない。
目を覚ましても、狛枝を知らないと言うかもしれない。
それでも約束は変わらない。
彼女が狛枝を覚えていなくても、見つけたら最初に抱きしめる。
そのあと嫌がられたなら、離せばいい。
短い電子音が鳴った。
葦原の呼吸用マスクが自動で緩み、透明な覆いが持ち上がる。
狛枝は開き切るのを待たず、右腕を中へ差し入れた。
葦原の身体が大きく跳ねた。何度か咳き込み、苦しそうに空気を吸う。
閉じていた瞼が震え、ゆっくりと開いた。
最初は、何も映していない目だった。
狛枝を見ても焦点が合わない。知らない人間に突然触れられたように、身体が僅かに強張る。
心臓の奥が冷えた。
覚えているのは、自分だけなのかもしれない。
幸運は狛枝一人へ記憶を残し、その代わりに葦原からすべてを奪った。
もしそうなら、あまりにも自分らしい幸運だった。
狛枝は右腕を葦原の背中へ回した。
まだ呼吸の整わない身体を強く締めつけないように、ただ自分の方へ引き寄せる。
「葦原さん」
名前を呼ぶ。
葦原の額が、狛枝の肩へ触れた。
しばらく動かなかった両腕が、ゆっくりと狛枝の背中へ回る。
「……狛枝くん」
その声を聞いた途端、身体を支えていた力が抜けた。
狛枝は装置の縁へ膝をつき、葦原を抱いたまま俯く。
笑っているのか、泣きそうなのか、自分でも分からない。
葦原の指が、狛枝の背中を一度だけ掴んだ。
「約束、守ったね」
「覚えてたんだ」
「うん」
「全部?」
「島へ来た日から、消えるところまで」
「そう」
それ以外の言葉が、すぐには出てこなかった。
葦原が少し身体を離し、狛枝の顔を見る。
「狛枝くんも?」
「もちろん。キミが最後に何を言ったかもね」
「幸運かな?」
「そうだと言いたいところだけど、まだ分からないな。ボクの幸運は、どこまでやったのか見えないからね」
「珍しく慎重だね」
「キミに移ったのかもしれないよ」
「幸運か、プログラムの仕様か、今はどっちでもいい」
葦原はもう一度、狛枝の背中へ腕を回した。
「狛枝くんが覚えてる。私も覚えてる。それでいい」
今まで、幸運によって望んだ結果を得たことは何度もある。
そのたびに狛枝は、次に来る不運を考えた。
何を失ったから、この結果が与えられたのか。
何を失えば釣り合うのか。
今も、その癖が消えたわけではない。
けれど葦原を抱いている間だけは、まだ起きていない不運のために手を放す必要を感じなかった。
「島より前は?」
葦原が尋ねた。
「……それも覚えてるよ」
狛枝の返事に、彼女の腕が僅かに強張る。
「キミは?」
「覚えてる」
短い答えだった。
狛枝の中にも、島とは別の葦原がいる。
希望ヶ峰学園の教室で図面を描いていた彼女。
江ノ島盾子に従ったあと、建物や生産施設を次々と設計していた彼女。
第五の島で見つけたものと同じモノクマ工場の制御室で、完成した製造線を見下ろしていた彼女。
狛枝も、あの場所へ行ったことがあった。
壊されても止まらず、内部の人間が反乱を起こしても生産を継続する工場を見て、希望の象徴である才能が絶望のためだけに研ぎ澄まされていることへ、笑いながら嫌悪を告げた。
葦原は、その隣で満足そうに製造数を確認していた。
「工場、やっぱりキミが作ったんだね」
「うん。江ノ島に言われたものを作っただけじゃなかった」
葦原は狛枝の肩越しに、何もない場所を見る。
「私から、もっと壊されにくくできるって言った。止められないようにした。作ってる間、楽しかった」
「ボクもそれを見ていた」
「覚えてる。狛枝くん、すごく笑ってた」
「素晴らしい才能の使い方だって褒めたんだよ」
「そのあと、最低だとも言った」
「両立するからね」
「今も?」
「今もだよ」
希望ヶ峰学園にいた頃から、二人は互いを知っていた。
名前を呼び合い、言葉を交わしたこともある。
昔の狛枝は、葦原本人よりも彼女の才能を見ていた。絶望へ堕ちたあとも、彼女が何を感じているかより、その才能がどれほど醜く使われたかにしか興味がなかった。
彼女の手の温度を知ったのは、あの島が初めてだった。
「随分と酷いことをしたみたいだね、ボクたちは」
「うん」
「未来機関へ、殺してくれて構わないと頼むべきかな」
「駄目」
葦原はすぐに答えた。
「キミは、自分がしたことを覚えても同じことが言えるの?」
「言えるよ。覚えてるから、逃げていいとは思わない。でも、起きてすぐ狛枝くん一人で結論を戻すのは違う」
「戻す?」
「強制終了の前に、今の私たちも外へ出たいって決めた。外へ出たら、罪も罰も一緒に考えるって言った」
「そこまで約束した覚えはないけどな」
「私はそのつもりだった」
「キミ一人の予定じゃない?」
「今から二人の予定にする」
葦原は平然と言った。
「何をしたか。誰に償うか。未来機関にどう扱われるか。これから何をするか。全部別に考える。死ぬかどうかだけ先に決めない」
「本当に、ボクの便利な逃げ道を外すのが好きだね」
「分けて考えてるだけ」
葦原は狛枝の背中から腕を解いた。
狛枝の左側へ視線が落ちる。
「腕、見てもいい?」
「どうぞ」
葦原は装置の縁へ手をつき、身体を起こした。
まだ脚に力が入らないらしく、狛枝の肩を借りて床へ下りる。二人ともまともに立てず、互いへ体重を預けたまま、近くの装置へ腰を下ろした。
葦原は左腕へ直接触れず、縫合部と皮膚の色を目で追う。
「動かない?」
「肩から先は全然。触られても分からないと思う」
「痛みは?」
「繋いだところが、ずっと鈍く痛むかな」
「江ノ島の腕だよね」
「そうだよ。ボクの左腕を切って、彼女の死体から取ったものを繋いだ。絶望だった時のボクは、それで江ノ島盾子の一部を受け継げると思ってた」
「すごいことしてたんだね」
「もう少し引いてもいいんじゃない?」
「引いてるよ。見た目より、狛枝くんがそれをした理由に」
「そう」
「触っていい?」
狛枝が頷くと、葦原は縫合部より少し先へ指を当てた。
腕そのものに触れられている感覚はない。
ただ、重さが僅かに動いたことだけが肩へ伝わる。
「冷たい。血流も弱いと思う。神経が繋がってないのか、眠ってる間に駄目になったのかは、医者に見てもらわないと分からない」
「残したい?」
質問をされ、狛枝は左腕を見た。
江ノ島盾子の一部。
絶望だった自分が、彼女を失わないために手に入れたもの。
今も、その記憶に伴う喜びは消えていない。切り離すと考えただけで、江ノ島をもう一度失うような抵抗が胸の底に浮かぶ。
それを、別人格のせいにはできなかった。
「一瞬、残したいと思ったよ」
「うん」
「気持ち悪いとは言わないんだ」
「嘘をついてないか見てる」
「厳しいね」
「それで?」
狛枝は動かない指先を見る。
「残さないと決めたい」
「分かった」
葦原はそれ以上、理由を求めなかった。
「医者に診てもらって、使えないなら切る。その時は新しい腕を作る」
「キミが?」
「私が設計する。実物は左右田に作ってもらえばいい」
「まだ本人へ何も聞いてないよ」
「見せたら考え始めると思う」
「それはそうかもしれないね」
狛枝が笑った時、部屋の反対側から大きな咳が聞こえた。
「痛ってぇ……なんだよこれ! 身体、全然動かねえぞ!」
左右田の装置が開いていた。
彼は顔のマスクを外し、何度も咳き込みながら上体を起こしている。
「左右田」
葦原が呼ぶ。
左右田は二人を見る。
「お前ら、覚えて……」
途中で黙った。
顔から血の気が引いていく。
「オレは、覚えてる」
両手で頭を押さえる。
「島のことも、その前も……全部だ。オレが外で何してたかも」
別の装置から電子音が鳴った。
九頭龍の覆いが開く。
彼はマスクを外すなり身体を起こし、床へ脚を下ろした。そのまま膝をついたが、立ち上がろうとする。
「ペコ……!」
『九頭龍クン、まだ動かないで!』
「うるせえ!」
九頭龍は装置の列へ身体を引きずっていく。
辺古山の名前を見つけ、透明な覆いへ両手をついた。
「ペコ! 聞こえてんだろ! 目ぇ開けろ!」
辺古山の胸は、規則的に上下している。
それでも目を開けない。
「なんで起きねえんだよ! 強制終了したんだろ! 江ノ島は消えたんじゃねえのか!」
『彼女の身体は生きている』
苗木の声が施設へ響く。
『でも、プログラム内で失われた人格データは戻っていない。目覚めさせる方法は、まだ――』
「まだ何だ」
『見つかっていない』
「だったら見つけろ。オレも探す。何でもやる」
九頭龍は透明な覆いへ額を押しつけた。
「勝手に、死んだことにするんじゃねえぞ」
『分かってる。僕たちも諦めない』
続いてソニアと終里の装置が開いた。
終里は何本もの端子を引き剥がそうとして警告音を鳴らし、ソニアに止められている。
自分の身体を確かめ終わるより先に、終里は弐大の装置へ向かった。
「おっさん! また機械になってもいいから起きろ! 今度は壊れねえように作らせるからよ!」
ソニアは田中の眠る姿を見つめたまま、両手を胸元で握っている。
「田中さん。わたくしは、すべて覚えております」
声は静かだった。
「あなたが生きるために戦ったことも、わたくしが最後まで見届けたことも。今度は、忘れておりません」
目覚めた者は皆、島での記憶を持っている。
狛枝は葦原を見た。
「どうやら、ボクの幸運がキミだけを選んだわけじゃなさそうだね」
「少なくとも、共通の仕組みがありそうだね」
「ボクの才能の手柄にしてくれてもいいんだよ?」
「調べてから」
「やっぱり厳しいなあ」
最後に再接続を終えた装置が開いた。
中から現れた人間は、島にいた日向とは大きく姿が違っていた。
腰近くまで伸びた黒い髪。感情の読み取りにくい赤い目。
身体の動かし方を初めから確かめるように、一本ずつ指を曲げている。
『カムクラ君』
苗木が呼び掛ける。
彼は天井のカメラを見上げた。
「日向だ」
声は、島にいた日向と変わらなかった。
「カムクライズルだった記憶も、才能もある。でも、俺は日向創を選ぶって言った。覚えてる」
『……うん。おかえり、日向クン』
狛枝は彼を見た。
すべての才能を持つ、希望ヶ峰学園の最高傑作。
以前なら、その存在を前にしているだけで歓喜したはずだった。
「すべての才能が戻っても、日向クンを名乗るんだね」
「ああ」
「予備学科だった名前を?」
「俺が決めた名前だ」
才能ではなく、自分で選んだ名前。
それを聞いても、狛枝は以前のような失望を感じなかった。
「そう。おかえり、日向クン」
日向は驚いたように狛枝を見たが、何も言わなかった。
代わりに周囲の装置を見回す。
「七海は?」
十六基の装置すべてに名前がある。
しかし、どこにも七海千秋の名前はなかった。
日向は施設中央の管理画面へ向かった。
そこには二つの表示が残っている。
――OBSERVER AI: NANAMI CHIAKI.
――DATA DELETED.
――TEACHER AI: USAMI.
――DATA DELETED.
日向は画面へ触れた。
返事はない。
「覚えてるぞ、七海」
それ以上は何も言わず、日向は画面の前に立っていた。
七海が残した身体はない。
消えたあとに呼び戻せる人格データもない。
それでも、彼女が望んだとおり、皆は外へ戻った。
島で過ごしたことを覚えたまま。
◇
検査結果を告げられたのは、目を覚ましてから五日後だった。
狛枝は医療棟の個室で、苗木から渡された記録を見ていた。
新世界プログラムへ接続される前。
未来機関に保護された直後。
そして、強制終了によって目を覚ましたあと。
三つの時点で行われた検査結果が並んでいる。
「おかしいね」
狛枝は笑った。
接続前の記録には、悪性リンパ腫の進行を示す数値と、前頭側頭部の異常が残されている。
余命は半年から一年。
希望ヶ峰学園へ入る前に医師から告げられたものと、ほとんど同じ診断だった。
だが、目覚めたあとの記録には、どちらも存在しない。
腫瘍は消え、血液の数値も正常範囲へ戻っている。脳画像からも、以前確認されていた異常は見つからなかった。
「検査の間違いではないんだよね?」
隣の椅子に座っていた葦原が尋ねる。
「何度も確認した」
苗木が答える。
「接続前の検査結果も、今の検査結果も正しい。治療を行った記録はないし、新世界プログラムには、現実の身体を治療する機能もない」
「眠ってる間に自然に治った可能性は?」
「悪性リンパ腫だけなら、極めて低いけれど自然消退の例はある。でも、二つの病気が同時に、ここまで痕跡なく消えたことは説明できない」
「ほかの人には?」
「接続前にあった傷や疾患は、そのまま残っている。狛枝クンだけだ」
葦原は検査記録を一枚ずつ確認する。
数値。
撮影日時。
検体番号。
狛枝本人よりも慎重に、誤記や取り違えの可能性を探している。
「原因不明?」
「今のところは」
「幸運かな」
「そうかもしれないね」
苗木は否定しなかった。
「君の才能を、医学的に説明できた人はいないから」
狛枝は記録をベッドの上へ置いた。
「島の記憶を残して、葦原さんにも同じ記憶を残して、ついでに病気まで治した」
「みんなに島の記憶は残ってるよ」
「それもボクの幸運だったかもしれないよ?」
「範囲広すぎない?」
「今回は随分欲張ったからね」
狛枝は自分の胸元へ手を当てた。
病気を告げられてから、ずっと身体のどこかにあった感覚。
終わりが決まっているという前提。
何をしても長くは続かない。
自分が生き残る未来を真剣に考えなくていいという、便利な猶予。
それが消えている。
「本当に、治ったんだ」
「うん」
葦原が答えた。
「余命、なくなったね」
「誰にでも余命はあるよ」
「病気で決まってた分」
「そうだね。困ったなあ」
「何が?」
「今までは、どうせすぐ死ぬと思えたからね。希望の踏み台になる機会がなくても、待っていれば終われたんだ」
「待ってても終わらないかもしれなくなったね」
「キミは嬉しそうだなあ」
「嬉しいよ」
葦原は検査記録を揃え、狛枝へ返した。
「狛枝くんがすぐ死なない」
「この幸運のために、何を失うんだろうね」
葦原の手が止まる。
「またそれ?」
「病気が二つとも消えたんだよ。島の記憶も残った。キミとも同じ場所へ戻れた。今度こそ、幸運を使い切ったのかもしれない」
「使い切るって、量が決まってるの?」
「例えだよ。これだけのものを得たなら、次は相応の不運が来てもおかしくない」
「病気が治ったことと、次に起きる悪いことは別でしょ」
「ボクの人生では、そうでもなかったんだ」
「そう思って並べてたからじゃない?」
葦原は記録の一番上を指で叩く。
「病気が治った。これは今ある結果」
「うん」
「明日事故に遭ったとしても、事故は明日起きた別の結果。病気が治った代償にはならない」
「そう言い切れる?」
「証明できる?」
「できないね」
「なら、先に払おうとしないで」
狛枝は葦原を見た。
「先に?」
「大きい不運が来るかもしれないからって、今のうちに何か捨てようとすること。私から離れるとか、自分だけ死ぬとか」
「まだ何も言ってないよ」
「考えた?」
「少しは」
「駄目」
苗木が二人を見比べ、困ったように笑った。
「その話は、僕がいないところで続けてもらってもいいかな」
「苗木クンにも関係あるよ。ボクが大きな不運を引き寄せれば、未来機関まで巻き込むかもしれないからね」
「その時は、その時に対応するよ」
苗木は即座に答えた。
「起きるか分からないことを理由に、君をもう一度眠らせるつもりはない」
「超高校級の希望がそう言うなら、信じるしかないのかな」
「自分でも決めてほしいんだけど……」
苗木は検査記録の複製を持ち、個室から出ていった。
扉が閉まる。
葦原は、狛枝の動かない左腕へ視線を向けた。
「腕を切るのが、病気が治った代わりだと思ってる?」
「少しね」
「その腕は、病気が治る前から駄目だったよ」
「時間の順番が逆だね」
「そもそも、自分で切って江ノ島の腕を繋いだ結果でしょ。不運じゃない」
「随分厳密だなあ」
「勝手に関係ないものを繋げるから」
葦原は狛枝の右手を取った。
「治ったなら、治ったでいいよ」
「この先、何も起きなくても?」
「うん」
「釣り合わないよ」
「何と?」
狛枝は答えなかった。
何と釣り合わせようとしているのか。
病気が治ったこと。
彼女と同じ記憶を持ったまま目覚めたこと。
生きる時間が残されたこと。
そのすべてを受け取るには、自分は価値が低すぎる。
だから、不運が必要だった。
「キミは本当に、ボクの人生から意味を外すのが好きだね」
「嫌?」
「嫌じゃないから困ってるんだよ」
「じゃあ、困ってて」
◇
一か月後。
狛枝は医療施設の外へ出た。
江ノ島盾子の左腕は、肩に近い位置から切除されている。
手術の直前まで、江ノ島の腕を失うことへの抵抗は消えなかった。
それでも、残さないと決めた。
左肩は包帯に覆われ、身体の左右で重さが違う。歩くたび均衡が僅かに崩れたが、動かない腕を引きずっていた時より軽かった。
悪性リンパ腫も、前頭側頭部の異常も、再検査では見つからなかった。
原因は、今も分からない。
ジャバウォック島は、未来機関によって封鎖されたままだった。
目覚めた七人も、施設とその周辺から自由に出ることは許されていない。建物には監視員が付き、通信も記録されている。
未来機関内部では、七人を裁判へ掛けるべきだという意見と、眠っている仲間を起こす作業へ協力させるべきだという意見が対立していた。
まだ、何も決まっていない。
狛枝が歩ける範囲は、医療棟から壊れた桟橋までだった。
新世界プログラムで見たものとは違う、現実の島。
建物の多くは壊れ、植物は伸び放題になり、砂浜には誰が捨てたのか分からない機械の残骸が転がっている。
空は同じように青い。
けれど照明を調整したような均一さはなく、遠くには灰色の雲が浮かんでいる。
海は境界で反対側へ繋がっていない。
水平線の向こうまで続き、波が島へ届くたび、違う形を砂へ残していた。
桟橋の先に、葦原が座っている。
膝の上には何枚もの紙があり、施設から借りた鉛筆で図面を描いていた。
狛枝の足音に気づくと、振り返って包帯に覆われた左肩を見る。
「外に出てよかったの?」
「許可された範囲だよ。監視カメラも三つもあるしね」
狛枝が見上げると、建物の壁と街灯の上に小さなカメラが設置されている。
「ボクたちの再会を最初から最後まで見ていた江ノ島盾子に比べれば、随分可愛いものだよ」
「壊さないでね」
「今のところは」
葦原は立ち上がり、図面を狛枝へ見せた。
紙には、肩へ固定する部品と、指の関節らしき構造が幾つも描かれている。
「左右田と話して、最初は軽い装飾義手にすることにした。傷が落ち着いて、神経信号の検査が終わったら、動く方も作る」
「ひと月でそこまで進めたの?」
「左右田、文句を言いながら手は止めないから」
「素晴らしい才能だね」
「そういう言い方、戻ったんだ」
「嫌い?」
「希望のために自分を殺そうとしなければ、別にいいよ」
「随分と限定的な許可だね」
葦原は図面を丸め、狛枝の隣へ並んだ。
「外の記憶が戻ったら、私を好きじゃなくなるかもしれないって言ってた」
「言ったね」
「どうだった?」
「キミは本当に、そこだけは毎回答えを求めるんだね」
「必要だから」
狛枝は葦原を見る。
モノクマ工場を設計していた彼女を知っている。
壊されても止まらない生産線を完成させ、数字が予定を上回るたび満足していた彼女を知っている。
島にいた頃は推測でしかなかったものが、今は自分の記憶として残っている。
「困ったことに、キミを嫌う理由は増えたよ」
「うん」
「キミが、どれほど自分から絶望へ才能を使ったかも分かった。工場だけじゃない。避難所を襲うための経路も、人を閉じ込める施設も設計した」
「覚えてる」
「それでも、島のキミを別人にすることはできない。昔のキミも、今のキミも一人だからね」
「好き?」
「好きだよ」
葦原は小さく頷く。
「キミがしたことを、希望だったと認めるつもりはないけどね」
「私も、狛枝くんがしたことを許してないよ」
「江ノ島の腕だけ?」
「人を殺したことも、壊したことも。希望のためなら誰を踏み台にしてもいいって思ってたことも嫌」
「今も、完全には変わってないかもしれないよ」
「知ってる」
葦原は丸めた図面で、狛枝の右腕を軽く叩いた。
「嫌いな行動があることと、狛枝くん全部を嫌いになることは別」
「キミは、本当に何でも分けるね」
「混ぜると、使えるものまで捨てることになるから」
第五の島で、脱出用の船が海の境界から戻された時と同じ答えだった。
脱出は失敗した。
エンジンは成功した。
過去の狛枝は嫌いなことをした。
今の狛枝を好きであることは消えない。
彼女は一つの物語へまとめず、それぞれを別のまま残している。
「苗木クンたちは、ボクたちを未来機関の本部へ移すつもりみたいだね」
「決まってないよ」
「キミはどうしたい?」
「眠ってるみんなを置いていかない。新世界プログラムの記録も、ここにある設備も調べる。七海さんたちのデータも、完全にないって確認できてない」
「未来機関が、それを許さなかったら?」
「交渉する。監視されてもいい。駄目なら、見せられる情報だけで別の方法を考える」
「ボクも残っていいのかな」
葦原の表情から、僅かに柔らかさが消えた。
「それは、私だけが決めることじゃない」
「冷たいね」
「狛枝くんがしたことを考えたら、残っていいって簡単には言えない。被害に遭った人や、未来機関が決める部分もある」
「なら――」
「でも、狛枝くんが先に、自分はいなくなるべきだって決めるのも違う」
葦原は一歩近づいた。
「裁かれるなら逃げない。償えることがあるならやる。生きてちゃいけないって決まったなら、その時一緒に考える。順番を飛ばして、希望のために死ぬところから始めないで」
「一緒に考えるんだ」
「うん」
「処刑される時も?」
「それを今決める必要ない」
「残念」
「残念じゃないよ」
葦原は狛枝の空になった左側へ視線を向ける。
「最初に抱きしめる約束、片腕しか使えてなかったね」
「やっぱり、ちゃんとできてなかった?」
「できてたよ」
「それならいいじゃない」
「義手ができたら、もう一回してね」
「両腕で?」
「うん。今度は、どっちも狛枝くんの腕で」
狛枝は残っている右腕を、葦原の背中へ回した。
自分の方へ引き寄せる。
左側には何もない。
彼女の身体を囲うには足りず、反対側の肩へ触れることもできない。
それでも葦原は隙間から離れようとせず、狛枝の胸元へ額を預けた。
「このあと、どんな不運が来ると思う?」
狛枝が尋ねる。
「来るって決まってない」
「これだけの幸運のあとだよ? キミと同じ記憶を持って戻って、病気まで治った」
「うん。幸運だったね」
「それだけ?」
「それ以外に何がいるの?」
「釣り合う不運とか」
「いらないよ」
「ボクの人生では、いつも来たんだ」
「あとから起きたことを、前の幸運と一組にしてただけかもしれない」
「随分簡単に、ボクの人生を分解するね」
「狛枝くんが何でも繋げるから」
葦原は狛枝の胸元から顔を上げた。
「病気が治ったことは幸運。明日悪いことが起きても、それは明日あった別のこと」
「不運ではあるでしょう?」
「不運かもしれない。でも、今日の幸運の代償じゃない」
葦原は少し考えた。
「狛枝くんの中での、希望と絶望。幸運と不運」
波が桟橋の下で砕ける。
「絶望があるから希望が輝く。大きな希望の前には大きな絶望が必要。幸運があれば、その分だけ不運が来る」
「同じ構造だって葦原さんは言った」
「意見は変わってない。絶望があったからって、必ず希望になるわけじゃない。希望があったあとに、釣り合う絶望が必要なわけでもない」
葦原の手が、狛枝の右手を取る。
「幸運と不運も同じ。どっちも起きる。でも、片方がもう片方の理由とは限らない」
「それなら、ボクの今までの不運には、何の意味もなかったことになるかもしれないよ」
「意味がなかったら嫌?」
「……どうだろうね」
両親を失ったこと。
病気を告げられたこと。
誰かが傷つき、自分だけが生き残ったこと。
その先に幸運があったから、必要な不運だったのだと思えた。
希望が生まれるなら、絶望にも意味がある。
そうでなければ、ただ失っただけになる。
「意味がなくても、起きたことは消えないよ」
葦原が言う。
「狛枝くんが嫌だったことも、苦しかったことも、そのまま残る。幸運の材料にしなくてもいい」
「慰めているつもり?」
「事実を分けてるだけ」
「本当に、キミらしいなあ」
狛枝は繋いだ手へ力を込めた。
海の向こうには、壊れた世界がある。
自分たちが残した絶望があり、償わなければならない罪がある。受け取るべき罰も、目を覚まさせなければならない仲間もいる。
この先に希望と呼べる未来がある保証はない。
大きな不運が待っていない保証もない。
それでも、まだ起きていない絶望のために、今ある幸運を捨てる必要はなかった。
希望と絶望は、幸運と不運に似ている。
けれど、似ているだけだった。
次の不運を待つ代わりに、狛枝は今ある手を握った。
葦原も狛枝の手を握り返した。