第4話 知らない戦場
公安との交渉から数日が過ぎた。
あれ以来、追加の呼び出しはない。
こちらが提示した条件を受け入れるという正式な回答も届いていなかったが、孤児院やアルトリアたちへ接触した形跡もなかった。
公安が完全に手を引いたとは思っていない。
表立った監視を止めただけで、今もどこかから自分の行動を確認しているのだろう。あるいは、刃人が口にした情報の入手経路を必死に探しているのかもしれない。
どちらでもよかった。
大切な者たちへ手を出さない限り、公安が何をしていようと興味はない。
午後の共有スペースには、テレビの小さな音と、ページをめくる音だけが流れていた。
インターンへ参加していない刃人は、ソファに座って本を読んでいた。
静かだった。
ヴィランは現れない。
脳無も襲ってこない。
公安からの命令も届かない。
望んでいたはずの時間だった。
それなのに、心のどこかが落ち着かない。
平穏に慣れていないわけではない。
刃人は戦いを好んでいるわけでも、刺激を求めているわけでもなかった。何も起きない日常こそ、彼が本当に望んでいるものだ。
ただ、これまでの経験が教えている。
面倒事は、こちらが警戒している間には姿を見せない。
ようやく終わった。
これで少しは休める。
そう思った瞬間に限って、すべてを壊すような出来事が起きる。
だから、静かな時間ほど疑ってしまう。
この平穏は本物なのか。
それとも、次の事件が始まるまでの僅かな空白にすぎないのか。
『続いて、指定敵団体に関するニュースです』
本から目を離すつもりはなかった。
しかし、テレビから聞こえてきた組織の名前に、ページをめくる指が止まった。
『警察は指定敵団体、死穢八斎會の関係先に対し、捜査を進めていると発表しました』
刃人は本を閉じ、テレビへ顔を向けた。
画面には、死穢八斎會の事務所と思われる建物が映っている。周辺には報道陣が集まっていたが、詳しい容疑や捜査状況までは分かっていないらしい。
死穢八斎會。
そして、その若頭であるオーバーホール。
記憶の中にある情報が、瞬時につながった。
「ようやく、ここか」
原作で起きた事件。
エリという名の少女。
人間の個性を消す弾丸。
地下で繰り広げられる戦い。
失われる力。
救われる命と、救えない命。
刃人は事件の始まりから結末まで知っていた。
少なくとも、原作で描かれた内容については。
「本来なら、か」
誰もいない共有スペースに、刃人の声だけが小さく響いた。
最近、その言葉をよく考える。
本来なら、神野で拉致されるのは刃人ではなかった。
本来なら、自分がオール・フォー・ワンと戦うこともなかった。
本来なら、あの男が自分の個性へ執着することもなかった。
原作を知っている。
その事実は、転生したばかりの刃人にとって大きな利点だった。
どこで何が起きるか。
誰が敵で、誰が味方なのか。
どの事件へ近づくべきではないのか。
何も知らない者より、遥かに安全に生きられるはずだった。
だが、原作知識には決定的な欠点がある。
物語の中に、自分は存在しなかった。
本来存在しない人間が行動する度に、知っている未来から現在が少しずつ遠ざかっていく。
最初は小さな違いにすぎなかった。
誰かと交わす会話。
授業での出来事。
体育祭の結果。
だが、その小さな違いが積み重なり、やがて神野で決定的な変化を生んだ。
原作知識は未来を示す予言ではない。
既に別の場所へ流れ始めた川の、古い地図にすぎない。
地形を知る役には立つ。
どこに危険があるかを予測することもできる。
しかし、地図に描かれている道が今も残っている保証はない。
「知っているからこそ、判断を誤ることもあるか」
何も知らなければ、目の前の情報だけで判断できる。
だが、結末を知っているつもりでいると、自分に都合のよい部分だけを信じてしまう。
原作では助かった。
原作では勝った。
原作では、この人間は死ななかった。
その思い込みが命取りになる可能性は、既に十分理解していた。
刃人は再び本を開いた。
だが、文字を追っても内容が頭に入ってこない。
今すぐ行動すれば、事件へ介入できる。
死穢八斎會について調べ、捜査より先に本拠地へ到達することさえ不可能ではない。
エリがどこにいるのかも、おおよその見当はつく。
助けようと思えば、助けられるかもしれない。
その考えが浮かんだ時、刃人は自分の胸に僅かな重さを感じた。
見知らぬ少女が苦しんでいる。
それを知りながら、何もしない。
本当にそれでいいのか。
答えは、すぐには出なかった。
助けに行かない理由なら、いくらでも並べられる。
自分はインターンへ参加していない。
正式な捜査情報も持っていない。
仮免許しか持たない学生が勝手に動けば、捜査を妨害する可能性がある。
七武装輪転は使う武装を選べず、狭い場所での戦闘には予測できない危険が伴う。
何より、事件へ対応するヒーローは既にいる。
どれも間違ってはいない。
だが、それらを並べたところで、胸に残る重さが消えるわけではなかった。
結局のところ、行こうと思えば行けるのだ。
力もある。
知識もある。
その選択肢を持ちながら、自分の意思で行かないと決めようとしている。
知らなかったから救えないのとは違う。
知っていて、動かない。
もし事件が原作とは違う結末を迎えたら。
もしエリが救出されなかったら。
自分は何を思うのだろう。
未来が変わったから仕方がないと、自分へ言い聞かせるのか。
自分の責任ではないと、目を逸らすのか。
「面倒だな」
敵ではなく、自分自身に向けた言葉だった。
世界を救わない。
そう決めたはずだった。
自分の両手で抱えられるものだけを守る。それ以上を望めば、いつかすべてを取りこぼす。
理屈では理解している。
だが、何かを見捨てる決断が、簡単になるわけではない。
何も感じないから行かないのではない。
助かってほしいと思いながら、それでも自分の役割ではないと線を引く。
その線を引かなければ、どこまでも戦い続けることになる。
一人を救えば、次の一人がいる。
一つの事件を解決すれば、別の場所で誰かが苦しんでいる。
世界中で起きる悲劇を知る度に飛び出していては、平穏など永遠に手に入らない。
何より、自分一人ですべてを背負うという考えは、傲慢だ。
世界にはヒーローがいる。
損得を考えるより先に、誰かを救うため手を伸ばせる人間がいる。
自分とは違う人間たちが、それぞれの場所で戦っている。
彼らを信じず、何もかも自分で解決しようとすることが、本当に正しいのか。
「任せるしかない、か」
他人を信じることは得意ではなかった。
自分で動いた方が早い。
自分で確認した方が確実だ。
そう考えてしまう。
だが、自分がいなければ何一つ解決できないと思うほど、刃人も自惚れてはいない。
数日後、テレビは早朝から死穢八斎會への一斉捜索を報じていた。
複数のヒーローと警察官が参加した大規模な作戦。
現場周辺には規制線が張られ、報道陣は詳しい状況を把握できていない。
刃人はソファに座り、黙って画面を見つめていた。
手元には開かれた本がある。
しかし、一文字も読んでいなかった。
原作通りなら、救出は成功する。
原作通りなら。
その言葉が、今は何の安心にもならない。
時計の針が進む。
報道される情報はほとんど変わらない。
それでも、刃人はテレビを消せなかった。
行かないと決めた。
任せると決めた。
それなのに、結果を気にしている。
「随分と勝手だな、俺も」
自分は安全な場所にいる。
現場では誰かが傷ついているかもしれない。
その事実に罪悪感を覚えながらも、席を立とうとはしなかった。
ここで動けば、結局また同じことを繰り返す。
知っている事件へ介入し、未来を変え、その変化によって生まれた次の事件へも責任を感じる。
どこかで止まらなければならない。
その境界を、今ここで決める必要があった。
やがて日が傾き始めた頃、テレビに速報が流れた。
死穢八斎會の若頭を逮捕。
組織は事実上壊滅。
そして、監禁されていた少女を保護。
その文字を見た瞬間、刃人は自分でも気づかないほど深く息を吐いていた。
肩から力が抜ける。
いつから緊張していたのか、自分でも分からなかった。
「……そうか」
原作と同じだったから安心したのではない。
少女が助かったことに、安堵した。
それだけだった。
「よかったな」
少女へ向けた言葉なのか。
戦った者たちへ向けた言葉なのか。
あるいは、何もしなかった自分を納得させるための言葉なのか。
刃人にも分からなかった。
ただ、一つだけ分かったことがある。
自分が行かなくても、事件は解決した。
世界は止まらなかった。
自分が知らない場所で、誰かが戦い、誰かを救った。
それは当たり前のことのはずだった。
それでも刃人にとっては、他人へ任せてもよいのだと知るための、小さな証明になった。
すべてを背負う必要はない。
助けたいと思うことと、自分が助けに行くことは同じではない。
行動しない選択に迷いがなくなる日は、恐らく来ない。
それでいいのかもしれない。
何も感じなくなれば、それは合理的なのではなく、ただ無関心になっただけだ。
迷いながらも境界を決める。
その境界の内側にいる者だけは、必ず守る。
それが七瀬刃人の選んだ生き方だった。
刃人はテレビを消した。
途端に共有スペースが静かになる。
しばらく黒い画面を見つめた後、手元の本へ視線を落とす。
「世界を救う人間は、俺だけじゃない」
そもそも、自分は世界を救う人間ではない。
救おうとも思っていない。
だが、それを本気で望む者たちがいる。
ならば、彼らに任せればいい。
そして自分は、自分が守ると決めた場所に立ち続ける。
刃人は再び本を開いた。
先ほどまで意味を持たなかった文字が、今度は自然に頭へ入ってくる。
世界は、自分がいなくても回っている。
その事実を寂しいとは思わなかった。
むしろ、僅かに救われた気がした。