妖怪恋愛都市 〜怪異めいた美女たちに愛されすぎて帰れないハーレム生活〜 作:ガイコツ番付
九章 ポマード
男たちは、裏通りを抜けた。
さっきまで明るかった繁華街の音が、少しずつ遠くなる。
看板の光はある。
人の声も、車の音もある。
なのに、その路地だけ、妙に静かだった。
男「……なんだよ」
男「おい、さっきのチビ、どこ行った?」
仲間「知らねえよ。てか、帰ろうぜ。赤いコートの女の目撃情報もあるしよぉ」
男「ビビってんのか?」
仲間「ビビるだろ、普通。さっきから変なんだよ、この道」
男「うるせえな」
その時。
背後で、赤いヒールの音がした。
コツ。
一度だけ。
男が振り返ると、赤いコートの女が立っていた。
さっきまで、そこには誰もいなかったはずだった。
黒いマスク。
赤いコート。
鋭い目。
紅子「ねえ」
黒いマスクの奥で、目だけが笑っている。
紅子「私、綺麗?」
男「……何なんだよ!」
男「綺麗! 綺麗!」
男「これでいいか?」
仲間「おい、もういい。俺、帰る」
男「あ? おい!」
仲間「無理だって、これ。なんかヤバい」
仲間は振り返らずに走っていった。
男「チッ……なんだよ、どいつもこいつも」
男は紅子を見た。
よく見れば、本当にそそる女だった。
細い腰。
長い脚。
黒いマスクの奥からこちらを見る、鋭い目。
逃げる理由よりも、近づきたい理由の方が先に浮かんだ。
男「もしかして」
男「誘ってんのか?」
男は下卑た笑みを浮かべた。
紅子「ええ」
紅子は、くすくす笑った。
紅子「そうよ」
紅子は、わざとらしいほどゆっくりと姿勢を変えた。
赤いコートの裾が揺れ、夜の光が身体の線をなぞる。
本当に誘っているように見えた。
紅子「もう一度、聞くわね」
紅子「私、綺麗?」
紅子の問いは、ただの質問ではなかった。
答えを選ばせる声ではない。
隠しているものを、口の中から引きずり出す声だった。
男の顔が歪む。
言いたくない。
言うつもりもない。
そんなものが、喉の奥から勝手に上がってくる。
その瞬間。
男の口が、勝手に動いた。
男「……マスク外さねえと分かんねえ」
男「顔見ねえと意味ねえ」
男「怯えた顔の方が、好きだ」
男「断れなくなった顔が、好きだ」
男「逃げ道探してる顔が、好きだ」
男「やめてくださいって言わせるのが――」
男「ち、違う!」
男は自分の口を押さえた。
男「違う! 今の俺じゃねえ!」
紅子「違わないわ」
紅子「あなた、今、少し嬉しそうだったもの」
男「違う……!」
紅子「怯えた顔が好きなんでしょう?」
紅子「断れない顔が」
紅子「逃げ道を探す顔が」
紅子「声を殺して、目だけで助けを探す顔が」
男の頭の中に、顔が浮かんだ。
帰ります、と言った顔。
笑ってごまかした顔。
声を殺して、目だけで助けを探していた顔。
男は、それを忘れていたわけではなかった。
覚えていた。
覚えていたから、楽しめた。
紅子「じゃあ」
紅子「今度は、あなたの番」
男「なんだよ……これ……」
男「わけわかんねえよ……」
紅子「分からなくていいわ」
紅子「口に出せたんだから」
紅子「それで十分」
紅子は楽しそうに笑った。
その笑い方は、甘かった。
けれど、助けてくれる人間の笑い方ではなかった。
男「やめろ……」
紅子「ねえ」
紅子「綺麗なものは好き?」
男「は……?」
紅子「醜いものは嫌いなの」
紅子「嘘をつかれるのは、もっと嫌い」
男「何言って……」
男は黙った。
手の中のスマホが、音もなく割れていた。
真っ二つだった。
切り口は綺麗ではない。
歪で、乱暴で、何かに噛み裂かれたような断面だった。
もし。
もし、この女が本当に、あの話の女なら。
この女に気に入られなかったら。
こんな時に限って、昔聞いた怖い話を思い出してしまう。
紅子「だから、ちゃんと答えて」
紅子「あたしのことじゃないわ」
紅子「あなたは、綺麗?」
男「……」
紅子「答えて」
男「やめろ」
紅子「答えて」
男「やめろ!」
紅子の目が、黒いマスクの奥で細くなる。
紅子「答えないなら、醜いのね」
男「違う!」
紅子「嘘なら、もっと醜い」
男「違う違う違う!」
紅子「醜いものは」
紅子「裂けて綺麗にならなくちゃね」
マスクの下で、見えないはずの口元が歪んだ気がした。
男の喉が鳴った。
その言葉が冗談ではないと、なぜか分かった。
男「俺は……」
紅子「綺麗?」
男「俺は悪くない……」
紅子「綺麗?」
男「俺は、俺は、俺は――」
男の声が裏返った。
男「俺は綺麗です!」
男「俺は綺麗です!」
男「殺さないでください!」
紅子「あら」
紅子「そういう顔もできるのね」
紅子「とても面白いわ」
紅子の笑い声は、本当に純粋に楽しそうだった。
男「やめろ……」
紅子「怯えた顔、好きなんでしょう?」
男「やめろ!」
男は走り出した。
路地の出口へ向かって。
けれど、足を踏み出した瞬間。
ぱきん。
横の店のガラスに、細い線が走った。
男「……は?」
線は一瞬で広がり、ガラスが内側から裂けるように割れた。
破片が雨のように降り、男の行く手を塞ぐ。
男「うわあっ!」
男は反対側へ走った。
だが、今度は古い看板の支柱に、白い傷のようなものが走った。
ぎ、と金属が鳴る。
看板が、男の目の前に倒れ込んだ。
男「なんだよ!」
男「なんなんだよ!」
後ろへ下がる。
電柱の根元に、いつの間にか細い線が入っていた。
まるで、巨大な刃物で撫でられたみたいに。
ぎぎ、と電柱がわずかに傾く。
男「やめろ……!」
男「来るな!」
どこにも逃げ道はなかった。
道が塞がれる。
ガラスが裂ける。
看板が倒れる。
見えない何かが、男の逃げ道だけを選んで裂いていく。
その中心に、赤いコートの女がいた。
紅子「逃げ道を探す顔」
紅子「好きなんでしょう?」
男「違う!」
紅子「今のあなた」
紅子「とても、いい顔をしているわ」
男「やめろ……!」
男「ポ、ポマード……」
十章 マスクの下
紅子「……」
男「ポマード! ポマード! ポマード!」
紅子「懐かしいわね」
紅子は、心底楽しそうに笑った。
男「ポマード! ポマード! ポマード!」
ひとしきり笑ったあと、紅子はぴたりと笑うのをやめた。
紅子「残念」
紅子「それを言えば助かると思った?」
紅子「そういうところも」
紅子「とても醜いわ」
男「やめろ……」
紅子「あたし、綺麗?」
男「やめろ!」
紅子の白い指が、黒いマスクにかかった。
男「やめろ! 見せるな!」
男「綺麗だ!」
男「綺麗だから!」
紅子「本当に?」
紅子「顔を見ないと」
紅子「意味がないんでしょう?」
男「違う! 違う違う違う!」
紅子「最期まで、見なさい」
男「最期って……」
紅子「さあ」
紅子「どこまでかしらね」
だめだ。
もう、マスクが外れてしまう。
見たら終わる。
そう分かっているのに、男は目を逸らせなかった。
紅子「これでも?」
マスクが、ゆっくり下がった。
その下に何があったのか。
路地の外からは見えなかった。
けれど、男には見えた。
男「あ」
その声は、悲鳴ではなかった。
理解してしまった声だった。
数秒後、自分は無惨に殺される。
そう確信した人間の声だった。
それは、言葉になる前の命乞いだった。
男「あ、あ……」
男「あああああああああああああああ!」
男は尻もちをつき、濡れた地面を這うように後ずさった。
割れたガラスも。
倒れた看板も。
傾いた電柱も。
全部が、自分の体を次に裂くための予告に見えた。
男「見てない!」
男「見てない見てない見てない!」
男「見てません!」
紅子は、マスクを戻さないまま、ゆっくりと男に近づいた。
赤いヒールが、水たまりを踏む。
こつ。
こつ。
こつ。
男「殺さないで……」
紅子「どうして?」
男「許してください……」
紅子「どうして?」
男「もうしません……」
紅子「どうして?」
男は答えられなかった。
紅子は、男のすぐ前でしゃがみ込んだ。
男の目は、もう紅子の顔から逃げられなかった。
紅子「見たのよ」
紅子「あなたが、ずっと見たがっていたものを」
男は泣いていた。
のたうち回っていた。
はたから見れば、気が触れたようにしか見えなかった。
紅子「怖かった?」
紅子「それが、あなたが見たがっていた顔よ」
男は、割れたスマホの片側に残った黒い画面に向かって、何度も頭を下げ続けた。
男「許してください……」
男「殺さないでください……」
男「もう見ません……」
男「もうしません……」
遠くから、ざわめきが近づいてきた。
足音。
誰かの小さな悲鳴。
スマホを構える気配。
紅子は、男からゆっくり視線を外した。
そして、何事もなかったみたいに黒いマスクを持ち上げる。
白い指が、耳元の紐を整えた。
さっきまでそこにあったものは、もう見えない。
赤いコート。
黒いマスク。
鋭い目。
それだけが、路地の薄い光の中に残っている。
紅子はコートの襟を軽く直すと、すんとした顔で立っていた。
まるで、倒れている男とは何の関係もない。
ただ通りすがりに騒ぎを見つけただけの、綺麗な女のように。