妖怪恋愛都市 〜怪異めいた美女たちに愛されすぎて帰れないハーレム生活〜 作:ガイコツ番付
零章 冷たい女
人里離れた山の中には、
昔から、冷たい女がいるという。
白い髪。
雪のような肌。
吹雪の中でも、静かに笑う美しい女。
彼女は人間を嫌ってはいない。
ただし、決して近づきすぎてはいけない。
その機嫌は、山の天気よりも移ろいやすい。
そして、もし彼女と秘密を守る約束をしたなら、
決して、その約束を破ってはいけない。
白い髪の女に会ったことを。
その声を聞いたことを。
誰かに話してはいけない。
約束を破れば、
女は静かに、すべてを凍らせる。
声も。
息も。
足音さえも。
昔は、山にいた。
けれど今は、
雪の降らない街にも、
静かな場所を選んで現れるのかもしれない。
一章 白い髪の女
朝、目を覚ますと、けまりちゃんが私の顔を覗き込んでいた。
長い黒髪が、布団の端にさらりと落ちている。
その顔は少し不満そうで、少し心配そうだった。
けまり「……起きましたか?」
##「起きました」
けまり「本当に?」
##「たぶん」
けまり「まだ少し、昨日の赤い人の匂いがします」
##「……すみません」
口元を隠した、女王様みたいな女。
紅子さんの笑い声が、まだ耳の奥に残っている。
けまり「謝るなら、最初から近づかなければいいんです」
##「正論です」
けまりちゃんは、少しだけ頬を膨らませた。
怒っているというより、拗ねている顔だった。
私は枕元のスマホに目をやる。
昨日、紅子さんから送られてきたメッセージが、まだ残っていた。
紅子
『赤い女の次は、冷たい女よ』
『市立図書館の奥』
『閉館後に、吐く息が白くなる場所』
『白い髪の女を見ても、あまり熱っぽい顔をしないことね』
そして私は、そこにいるらしい女を、一度だけ見たことがある。
怪しげな噂を聞き、電車の窓越しに白い髪の女を見た。
本を閉じるような、静かな仕草。
こちらを見ていたのか、違うところを眺めていただけなのかは分からない。
でも、目が合った気がした。
その瞬間だけ、とても冷たく感じた。
けまり「見ていますね」
##「何をでしょうか」
けまり「赤い人からのメッセージです」
##「見なくても分かるんですか」
けまり「分かります。困っています」
私はスマホの画面を伏せた。
けれど、伏せたところで、頭の中から消えるわけではない。
市立図書館。
閉館後に、吐く息が白くなる場所。
白い髪の女。
##「冷たい人のこと、知ってるんでしょ」
けまり「……少しだけです」
##「紅子さんやましろさんみたいに?」
けまり「友達ではありません」
##「じゃあ何?」
けまり「近づきすぎると、よくない人です」
けまりちゃんの手が、私の額にそっと触れた。
温かい。
けまり「冷たい人は、怒らないまま連れていくことがあります」
##「怒らないまま」
けまり「静かにします。冷たくします。気づいた時には、帰る足音まで消えてしまうんです」
それは忠告だった。
けれど私は、その忠告を聞きながら、最低のことを考えていた。
静かにする。
冷たくする。
帰る足音まで消す。
怖い。
危ない。
でも、もう一度見たい。
けまり「今、少し嬉しそうな顔をしました」
##「していません」
けまり「しました」
##「猛省しております」
けまり「反省している顔ではありません」
私は布団の中で正座した。
##「図書館に行くだけです」
けまり「まだ何も聞いてません」
##「郷土資料を見に」
けまり「聞いてません」
##「健全です」
けまりちゃんは、深くため息をついた。
けまり「……あなたの健全は、少し信用できません」
その通りだった。
しばらく黙ったあと、けまりちゃんはもう一度、私の額に手を当てた。
けまり「行くなら、帰ってきてください」
##「はい」
けまり「冷たくなっても、帰ってきてください」
##「はい」
けまり「帰ってきたら、私が温めます」
##「……」
けまり「どうしました?」
##「今のは、だいぶ危ない言い方でした」
けまり「危ない?」
##「私が冷たくなって帰ってきたら、けまりちゃんが温めてくれる」
けまり「はい」
##「かなり、帰ってきたいです」
けまりちゃんは、一瞬だけ固まった。
それから、じわじわと頬を赤くする。
けまり「……そういう意味で言ったんじゃありません」
##「分かっています」
けまり「分かっている顔じゃないです」
##「忠告は、ちゃんと受け止めています」
けまり「本当ですか?」
##「ただ、帰ってきた後の予定が魅力的すぎて、少し判断力が落ちています」
けまり「落とさないでください」
##「努力します」
けまり「努力ではなく、落とさないでください」
けまりちゃんは呆れたようにため息をついた。
でも、その顔は完全には怒っていなかった。
照れている。
呆れている。
心配している。
その全部が混ざった顔だった。
けまり「……あなたは、本当にどうしようもないですね」
##「よく言われます」
けまり「誰にですか」
##「主に、けまりちゃんにです」
けまり「もっと反省してください」
##「しています」
けまり「している人は、そんなに嬉しそうな顔をしません」
私は頷いた。
近づくなと言われている。
場所は分かっている。
名前も、たぶん聞けば分かる。
そして私は、あの白い髪の女をもう一度見たいと思っている。
いや、違う。
図書館に行くだけだ。
社会人として。
郷土資料を見に。
健全に。
非常に健全に。
二章 会社で思い出すな
出社して、席についた。
パソコンを立ち上げる。
メールを確認する。
いつも通りの大軽十商事、経理部。
いつも通りのはずなのに、私はなぜか、今朝のけまりちゃんの言葉を思い出していた。
帰ってきたら、私が温めます。
額に触れた、大きな手。
布団越しでも分かる、あの安心する体温。
思わず、口から漏れた。
##「けまりちゃん、あったかいんだよなぁ……」
隣の席で、三原くんが固まった。
三原「キモすぎるだろ!」
##「下ネタじゃないよ!」
三原「下ネタじゃなくてもキモいんですよ!」
向かいの席の春日井さんが、書類から顔を上げた。
春日井「セクハラですか?」
##「違います。職場で女性の体温について独り言を言っていただけです」
三原「それがもう最悪なんですよ」
春日井「温度の話ならなおさら気持ち悪いです」
間宮さんがコーヒー片手に通りかかった。
間宮「朝から何の話してんだ」
三原「この人が、けまりちゃんあったかいんだよなぁって」
間宮「キモすぎるだろ」
##「反応が同じ!」
白石さんが、少し離れた席からこちらを見た。
白石「……それは、職場では言わない方がいいわ」
##「はい」
白石「家でも、相手を見て言いなさい」
##「はい」
佐伯部長が奥の席から顔を上げた。
佐伯「朝礼前から何をしている」
##「温度管理の話を」
三原「人肌の話です」
##「違う!」
佐伯「……仕事をしろ」
##「はい」
私は深くうなずき、パソコン画面に向き直った。
だが、思考はまったく仕事に向かなかった。
市立図書館。
閉館後に、吐く息が白くなる場所。
白い髪の女。
そして、紅子さんのメッセージ。
##「……図書館か」
その独り言に、間宮さんだけが反応した。
間宮「お。行く気だな」
##「図書館に行くだけです」
間宮「健全なやつは、図書館に行くだけですって言わない」
春日井「先輩、顔がもう怪談を探す顔です」
その時、スマホが小さく震えた。
紅子
『あなた、絶対行くものね』
続けて、もう一件。
紅子
『くす。白い人に冷やされてきなさい』
私は画面を伏せた。
三原「先輩、スマホ見てニヤつくのやめてもらっていいですか」
##「ニヤついてない」
春日井「にやにやしてました」
間宮「女か?」
##「女王様です」
三原「最悪の返答」
白石「本当に朝からやめなさい」
間宮さんは、そこで思い出したように言った。
間宮「市立図書館の奥ってさ、閉館前になると妙に冷える場所があるらしいぞ」
三原「うわ、繋がった」
春日井「絶対行くやつですね」
##「行きません」
全員が私を見た。
##「……今すぐは」
三原「行くんじゃないですか」
間宮「しかも、あそこ古い郷土資料も結構あるらしい」
私は少しだけ反応した。
間宮「古い寺に伝わる祓い屋の話とか」
その言葉で、私の中の何かが、かちりと音を立てた。
##「祓い屋?」
三原「食いついた」
春日井「分かりやすい」
##「いや、祓い屋がいるってことはですよ」
白石「言う前から嫌な予感がするわ」
##「祓われる側の話も、あるわけで」
三原「まあ、怪談的には」
##「へぇ……」
私は椅子の背もたれに深くもたれた。
##「つまり、怪談実在女性案件がまだ眠っている可能性があると」
一瞬、経理部が静まり返った。
三原「なんでそこに着地するんですか!」
春日井「本当に気持ち悪いです」
間宮「お前、結論が最低で最高だな」
白石「仕事中よ」
佐伯「仕事をしろ」
##「はい」
私はうなずいた。
だが、もう遅かった。
冷たい女。
市立図書館。
祓い屋。
紅子さんからのメッセージ。
今日の行き先は、ほとんど決まっていた。
三章 定時です
定時になった。
私はパソコンを閉じ、書類を整え、これ以上ないほど自然な動きで鞄を持った。
##「部長、帰ります」
佐伯部長が、こちらを見た。
佐伯「おいおい、ちゃんと仕事したんだろうな」
##「しました」
三原「午前中、五回くらい“図書館”って呟いてましたよ」
春日井「あと、“祓い屋がいるなら祓われる側も”って二回言ってました」
##「独り言をカウントしないでほしい」
白石「仕事中に言う内容ではないわね」
佐伯「仕事はしたんだろうが、心が図書館に行ってたな」
##「部長」
佐伯「何だ」
##「あんま細かいこと気にしてると、」
佐伯「おい」
部長の声が低くなった。
佐伯「それ以上は危険だぞ」
経理部が一瞬、静かになった。
三原「部長、先輩への対応が神がかりですね」
春日井「今のは光ってました」
佐伯「お前らも指導対象だな」
間宮さんが、椅子にもたれながら笑った。
間宮「で、本当に行くのか? 市立図書館」
##「行きません」
白石「行くなと言っても、行くんでしょう」
##「信頼がある」
白石「実績があるのよ」
スマホが震えた。
紅子
『終わったようね』
『いい子。ちゃんと冷やされていらっしゃい』
##「……」
三原「また女王様ですか」
##「なぜ分かる」
三原「顔が最高に嬉しそうだからです」
さらにスマホが震えた。
今度は、けまりちゃんだった。
けまり
『寄り道しますか?』
『するなら、帰ってきてください』
私は少しだけ固まった。
三原くんが横から画面を覗こうとしたので、すぐにスマホを伏せる。
三原「今度は誰ですか」
##「あったかい人です」
春日井「セクハラですか?」
##「違います」
佐伯「もうお前帰れ。空気が変になる」
##「承知しました」
佐伯「それと」
私は立ち止まる。
佐伯「危険なことすんなよ」
部長は、こちらを見ずに書類へ目を落としたまま言った。
佐伯「怪談だか不審者だか知らんが、仕事に穴をあけるなよ」
##「はい」
少しだけ、胸が温かくなった。
口は悪い。
でも、こういう時にちゃんと逃げる理由を残してくれる。
##「部長」
佐伯「何だ」
##「まさに髪さまですよ」
一瞬、経理部の空気が止まった。
佐伯部長の手が、自分の頭頂部へ行きかけて、止まる。
佐伯「……おい」
##「お疲れさまでした!」
私は言い切る前に、鞄を掴んで出口へ向かった。
佐伯「待て」
##「定時なので!」
佐伯「そういう問題じゃない!」
私は廊下へ滑り込むように出た。
背後で、三原くんの声がした。
三原「先輩、本当に逃げ足だけは早いよなー」
春日井「普段の仕事もあれくらい速ければいいのに」
佐伯「……明日、覚えてろよ」
扉が閉まる直前、部長の低い声が聞こえた。
私は聞こえなかったことにした。
廊下を早足で進みながら、スマホを開く。
紅子さんからの位置情報。
市立図書館。
閉館まで、あと少し。
けまりちゃんからのメッセージには、まだ返信していない。
私は少し考えてから、短く打った。
##
『図書館に行くだけです』
すぐに既読がついた。
けまり
『それを信用できないと言っています』
##
『郷土資料です』
けまり
『郷土資料を見る人は、そんなに足が速くなりません』
私は返信できなかった。
会社の自動ドアを抜けると、夕方の空気が頬に当たった。
まだ寒い季節ではない。
けれど、なぜか風が少しだけ冷たく感じた。
駅へ向かう人の流れとは逆に、私は市立図書館の方へ歩き出す。
冷たい女。
図書館の奥。
吐く息が白くなる場所。
白い髪の女。
そして、祓い屋の郷土資料。
##「……郷土資料を見に行くだけだ、オカルトマニアとして」
誰に言うでもなく、私は呟いた。
もちろん、誰も信じてくれないだろう。
私自身も、あまり信じていなかった。
この街は最近普通じゃないのだから。