妖怪恋愛都市 〜怪異めいた美女たちに愛されすぎて帰れないハーレム生活〜 作:ガイコツ番付
九章 二度目の夜
非常階段の下。
私は、しばらく動けなかった。
階段を駆け上がっていたはずなのに、気づけば下にいた。
さっきまで上へ、上へと続いていた鉄の階段は、もう普通の非常階段に戻っている。
街の音も聞こえる。
雨上がりの匂いも戻っている。
コンビニの明かりも、遠くに見える。
でも、追ってきていた男の声だけが消えていた。
階段の下に、けまりちゃんが立っていた。
何事もなかったみたいに。
白い服。
濡れた長い髪。
少しだけ乱れた息。
それでも、傷はなかった。
けまり「……怪我、ありませんか?」
##「な、ない……けまりちゃんこそ!」
私は慌てて彼女の周りを見た。
さっきまでどこにいたのか。
どうやってここまで来たのか。
あの男に何をしたのか。
聞きたいことは、いくつもあった。
でも、まず無事かどうかが先だった。
けまり「私は、大丈夫です」
##「ほんとに!? 本当に危なかったんだからね!」
けまり「……はい」
けまりちゃんは、少し困ったように笑った。
いつもの顔だった。
いや。
いつもの顔に戻そうとしている顔だった。
けまり「あなたも、危なかったです」
けまり「私を守ろうとしてくれたのは……嬉しいですけど」
けまり「無茶は、だめです」
##「でも! けまりちゃん巻き込むわけにはいかないし!」
けまり「……」
けまりちゃんの目が、少しだけ揺れた。
##「さっきの男は?」
けまりちゃんは、すぐには答えなかった。
視線を、非常階段の奥へ向ける。
そこには、もう誰もいない。
ただ、踊り場にナイフが一つ落ちていた。
濡れた靴跡は、途中の段でぷつりと途切れている。
血はなかった。
倒れた体もなかった。
助けを呼ぶ声もなかった。
何もないことが、かえって一番怖かった。
##「……けまりちゃん?」
けまり「……もう、来ません」
##「……え?」
けまり「あなたのところにも」
けまり「他の誰かのところにも」
けまり「もう、来ません」
その言い方に、ほんの少しだけ違和感があった。
捕まった、とは言わなかった。
逃げた、とも言わなかった。
警察に行った、とも言わなかった。
もう、来ません。
ただ、それだけ。
聞いた方がいい。
そう思った。
でも、聞けなかった。
けまりちゃんの横顔が、あまりにも静かだったから。
その時。
手に持ったコンビニ袋の存在を思い出した。
##「……あ」
けまり「……」
けまりちゃんも見た。
袋。
沈黙。
雨上がりの非常階段。
消えた殺人犯。
落ちたナイフ。
そして、私の手の中のコンビニ袋。
状況が最低だった。
けまり「……命がけで」
けまり「買いに行ったんですね」
##「言い方!!」
けまりちゃんは、少し赤くなった。
それでも、私の頭を大きな手でそっと撫でる。
温かい。
さっきまでの非常階段の冷たさが、その手で少しずつ現実へ戻されていく気がした。
けまり「帰りましょう」
けまり「今日は……ちゃんと、そばにいます」
##「……うん」
私は頷いた。
そのまま、もう一度だけ非常階段を見た。
普通の階段だった。
けれど、踊り場の奥だけが、少し暗かった。
私は、それ以上見ないことにした。
部屋に戻ると、急に現実感が戻ってきた。
玄関には濡れた靴。
手には、命がけで買ったコンビニ袋。
そして部屋の中には、けまりちゃん。
さっきの階段。
男の消えた声。
けまりちゃんの「もう、来ません」。
全部が、頭の中でまだ鳴っていた。
けれど、目の前にはけまりちゃんがいる。
濡れた髪で、少し困ったように笑っている。
それだけで、非常階段の奥に残っていた暗がりが、少しずつ遠くなっていく気がした。
けまり「先に、シャワーを浴びてください」
##「え」
けまり「雨に濡れていますし……怖い思いもしましたから」
##「けまりちゃんも濡れてますよ」
けまり「私は、あとで大丈夫です」
けまり「……あなたが先です」
その声が、少しだけお姉さんみたいだった。
シャワーを終えると、空気が少し変わっていた。
けまりちゃんは、ベッドの端に腰かけていた。
ぎし、と。
私のベッドが、聞いたことのない音を立てる。
##「……ベッド、大丈夫かな」
けまり「……失礼です」
でも、少し笑っている。
けまりちゃんは手招きして、私が近づくと、耳元に顔を寄せた。
けまり「昨日のあなた……かわいかったです」
##「えっ」
けまり「すごく緊張してて」
けまり「私のこと、見上げて」
けまり「……泣きそうな顔をしていました」
##「や、やめて……!」
けまり「今日は、どうですか?」
けまり「また、かわいい顔……見せてくれますか?」
ベッドが、もう一度ぎしりと鳴る。
私は変な汗をかいた。
##「け、けまりちゃん……ちなみに体重って……」
けまり「……な、い、しょ」
けまりちゃんが、ゆっくり近づく。
白い腕が、逃げ道をふさぐみたいに両側へ降りてくる。
##「あ、あ、あーーー!」
けまり「大丈夫です……力、入れてないので……」
##「それが一番こわい!!」
けまり「ふふ」
けまり「今日は、ちゃんと……甘やかします」
ぎし。
部屋の明かりが、少しだけ揺れた。
##「あ、あ、あーーーつぶれるーーー!」
けまり「つぶしません……たぶん」
##「たぶん!?」
けまりちゃんは、私を包むように身をかがめた。
怖いくらい大きくて。
怖いくらい優しい。
けまり「今日はもう逃げなくていいです」
けまり「私が、そばにいます」
その声を聞いた瞬間。
非常階段の奥に残っていた暗がりが、ようやく少し薄くなった気がした。
私はぎりぎりまで逃げようとした。
けれど、逃げ道はなかった。
##「し、搾られるーーー!!」
けまり「搾りません」
##「でも、全部持っていかれる感じがします!」
けまり「大丈夫です」
##「その“大丈夫”、信用できないです!」
けまりちゃんは、少しだけ妖艶に笑った。
けまり「大丈夫です」
けまり「ちゃんと、私のところに残しますから」
その声を最後に、私は何も言えなくなった。
そして夜は、静かに暗転した。
十章 また雨の日に
翌日。
私は、どうにか会社に来ていた。
眠い。
腰が重い。
頭の中に、けまりちゃんの声が残っている。
##「おはようございます」
間宮「おはよう。今日もちょっと眠そうだな」
##「そ、そうですか? 普通です。完全に普通です」
春日井「先輩、顔赤くないですか?」
##「空調が強いからです」
三原「強くないですよね?」
白石「若いわねえ。何がとは言わないけど」
##「言ってるようなものでは」
昼前。
休憩室のテレビでニュースが流れていた。
アナウンサー『連続強盗殺人事件の容疑者は、昨夜以降、行方が分からなくなっています』
画面には、昨夜コンビニの向かいで見た男の写真が映っていた。
灰色のフード。
右頬の小さな傷。
見間違いではなかった。
##「……」
三原「怖……この辺じゃないですか」
春日井「昨日も近くで目撃情報あったってSNSで見ました」
白石「面白半分で検索しないの。こういうのは、本当に危ないんだから」
佐伯「全員、退勤時は明るい道を通るように。特に##君」
##「なぜ名指し」
佐伯「名指しする理由しかない」
何も言い返せなかった。
間宮さんは、テレビを見ながらコーヒーを飲んでいた。
間宮「聞いた話だと、変な非常階段を見たって書き込みもあるらしいぞ」
##「非常階段?」
間宮「雨上がりの路地で、上っても下っても終わらない階段。まあ、怖い話の盛り合わせだな」
白石「間宮くん」
間宮「はいはい。広げません」
私はテレビから目を逸らした。
昨夜のことは、よく分からない。
分からないままにしておいた方がいい気もした。
夕方。
どうにか仕事を終えた頃、窓の外がまた暗くなった。
ぽつ、ぽつ、と雨粒がガラスを叩く。
スマホが震えた。
けまり
『雨です』
けまり
『今日は、まっすぐ帰ってくださいね』
けまり
『白い傘の人を見ても……近づかないでください』
##「……」
私はスマホを伏せた。
今度こそ、まっすぐ帰るつもりだった。
退勤後、ビルを出る。
雨は細く、けれど街灯をにじませるには十分だった。
そして。
会社前の歩道に、白い傘があった。
白傘ましろ「……こんばんは」
##「し、白傘さん……」
白い傘の下で、ましろさんが静かに笑っていた。
昨日と同じように、雨の中に溶けそうな姿で。
白傘ましろ「昨日は、途中で帰っちゃいましたね」
##「帰りました」
白傘ましろ「今日は、少しだけ」
白い傘が、こちらへ傾く。
白傘ましろ「雨宿り、していきませんか?」
胸が跳ねた。
きれいだ。
怖い。
でも、昨日より先に、私はスマホを開いた。
##
『けまりちゃん、白傘さんがいます』
送信。
ましろさんは、それを見て少しだけ目を細めた。
白傘ましろ「……ちゃんと連絡するんですね」
##「うん。昨日、怒られましたから」
白傘ましろ「ふふ」
白傘ましろ「けまりさん、大事にされてますね」
少し寂しそうに笑って、彼女は傘を引いた。
白傘ましろ「今日は、やめておきます」
##「え」
白傘ましろ「でも……また雨の日に」
雨音が、少しだけ強くなる。
白傘ましろ「今度は、私のことも少し見てくださいね」
白い傘は、人混みの向こうに消えた。
いや。
消えたように見えた。
濡れた歩道には、ましろさんの足跡だけがなかった。
すぐに、けまりちゃんから返信が来る。
けまり
『そこから動かないでください』
『迎えに行きます』
数分後。
雨の向こうから、見慣れた大きな影が現れた。
けまり「……ちゃんと連絡できましたね」
##「うん」
けまり「えらいです」
けまりちゃんは、少し拗ねた顔で私を見下ろした。
けまり「でも……ましろさん、綺麗でしたか?」
##「……それ、今聞きますか?」
けまり「聞きます」
##「……綺麗でした」
けまり「……」
##「でも、けまりちゃんが一番です」
けまり「……なら、許します」
大きな手が、私の頭に乗る。
雨の中で、けまりちゃんは小さく笑った。
けまり「帰りましょう」
けまり「今日は、ちゃんと私の傘です」
##「はい」
私は、けまりちゃんの隣を歩いた。
雨音は、もう怖くなかった。
少し離れた路地。
白い傘の下で、ましろさんが一人つぶやいた。
白傘ましろ「けまりさんの恋人……」
白傘ましろ「思ったより、面白い人」
雨粒が、白い傘を叩く。
白傘ましろ「また、迷ってくれるかな」
少しだけ、寂しそうに。
少しだけ、楽しそうに。
白傘ましろ「……雨の日に」