妖怪恋愛都市 〜怪異めいた美女たちに愛されすぎて帰れないハーレム生活〜 作:ガイコツ番付
四章 雨域
男は角を曲がった。
はずだった。
だが、目の前には、さっきと同じ高架下があった。
同じコンビニ。
同じ信号。
同じ白い傘。
男「……は?」
逆方向へ走っても、路地へ逃げても、戻る場所は同じだった。
高架下。
コンビニ。
信号。
そして、白い傘。
男「なんだよ、これ……!」
黒い傘を開こうとして、男は手元を見た。
傘がない。
雨が、肩に落ちた。
ぽた。
ぽた。
それはすぐに服へ染み込み、靴の中まで入り込んだ。
コンビニの明かりも、駅へ続く階段も見えている。
なのに、近づけない。
雨が強くなる。
視界が白くにじむ。
ざあ。
ざあ。
ざあ。
雨音が、笑い声みたいに聞こえてくる。
帰れない。
戻れない。
傘もない。
男「黙れ……」
雨は黙らなかった。
耳の中で。
頭の奥で。
濡れた服の内側で。
ずっと笑っていた。
白傘ましろ「傘に、入りたかったんですよね」
男は振り返った。
白い傘の女が、雨の中に立っていた。
白傘ましろ「雨の日に」
白傘ましろ「逃げにくい人の隣へ」
白傘ましろ「入れてもらうふりをして」
白傘ましろ「入っていきたかったんですよね」
男「違う……俺は……」
白傘ましろ「違いません」
雨音が、その言葉をなぞった。
違いません。
違いません。
違いません。
男の声から、怒鳴る力が消えていく。
白傘ましろ「帰れない人の気持ち」
白傘ましろ「少し、分かりましたか?」
男「……帰らせろ」
男「帰らせてくれ……!」
雨なのか涙なのか、顔はぐしゃぐしゃだった。
男「もうしねえ……」
男「もう、誰にも声かけねえ……!」
男「傘にも入らねえ……!」
白傘ましろ「本当に?」
男「本当だ!」
男「許してくれ……!」
白傘ましろ「私に言っても、だめです」
白い傘の縁が、わずかに下がった。
その下の顔は、よく見えない。
白傘ましろ「次に戻れた道が、どこへ続いているか」
白傘ましろ「分かりますよね」
男は、雨の向こうを見た。
ぼんやりと赤い灯りが見える。
男「……嫌だ」
白傘ましろ「では、雨に戻りますか?」
男「行く!」
男「行くから……!」
男「もう、やめてくれ……!」
白傘ましろ「嘘をついたら」
白い傘が、少し傾いた。
白傘ましろ「また、雨の日に迷いますよ」
男は、何度も頷いた。
雨が、ふっと弱くなる。
世界の輪郭が戻ってくる。
コンビニの光。
信号の音。
車の水しぶき。
そして、目の前には交番の明かりがあった。
背後から、白い傘の女の声がした。
白傘ましろ「帰り道」
白傘ましろ「もう、忘れないでくださいね」
男は振り返らなかった。
泣きながら、交番へ走っていった。
五章 雨域の外
私には、何が起きたのか分からなかった。
男は角を曲がって逃げた。
そう思った。
けれど次に見た時、男は別の路地から飛び出してきた。
全身ずぶ濡れだった。
つい数十秒しか経っていないはずなのに、
まるで何時間も雨の中を歩かされていたみたいに。
顔は真っ青で、目は泳いでいる。
男「もうしません! もうしません!」
誰に謝っているのか分からない声で叫びながら、男は交番の方へ走っていった。
##「なんだアイツ……」
私はましろさんを見た。
ましろさんは、白い傘の下で静かに立っている。
服は濡れていない。
髪も、さっきと同じようにしっとりしているだけだった。
##「まあ、頭おかしいのか。こんなことするくらいだからな」
私は袖をまくり、ましろさんの前でマッチョポーズを取った。
##「ぶん殴られなくてよかったな!」
白傘ましろ「……助けてくれたつもり、なんですね」
##「当たり前ですよ!」
白傘ましろ「弱そうなのに」
##「二回目!」
白傘ましろ「でも……少しかっこよかったです」
雨音が、少しだけ優しくなった。
##「それより、何もされてませんか?」
##「許せねえよな……雨の日に女の子追い回して」
##「あ、俺もでした……」
##「てか最近この辺、治安悪すぎます」
白傘ましろ「私は、大丈夫です」
ましろさんは、少しだけ傘を下げた。
白傘ましろ「あなたが、大声で来てくれましたから」
##「こんなのすぐ警察に連絡でいいんですよ」
##「それか俺!」
再び男らしさをアピールした。
白傘ましろ「……あなた、本当に自分が強いと思ってます?」
##「気持ちは強いです!」
白傘ましろ「気持ちだけです」
##「ひどい!」
ましろさんは、くすっと笑った。
白傘ましろ「でも、そういうところ、嫌いじゃないです」
彼女は白い傘を、少し私の方へ傾ける。
白傘ましろ「雨の日に、迷っている人を見ると、放っておけないんです」
その声は、少し寂しそうだった。
白傘ましろ「あなたも、似ていますね」
白傘ましろ「弱いのに、放っておけない人」
##「どきいっ」
白傘ましろ「……今、どきっ、て言いました?」
##「い、言ってませんが」
白傘ましろ「言いました」
傘の下で、ましろさんが少し近づく。
濡れた黒髪。
白い肌。
雨の匂い。
さっきまで怖いくらい静かだった人が、今は少し寂しそうに笑っている。
白傘ましろ「私の声で、どきっとしたんですか?」
##「……ちょっと」
白傘ましろ「では、もう少しだけ、私の声、聞いていきますか?」
##「は、はいい」
スマホが震えた。
けまり
『今、どこですか?』
『仕事中ですよね?』
続けて、会社のチャットも震える。
佐伯『##くん、無事か。戻るなら連絡しなさい』
三原『先輩、本当に大丈夫ですか?』
春日井『駅前の動画っぽいの流れてますけど、これ先輩じゃないですよね?』
##「……」
良心がさらに痛い。
白傘ましろ「……返しますか?」
ましろさんは、少し寂しそうに笑った。
白傘ましろ「それとも、もう少し、私を見ますか?」
私はスマホを握りしめた。
画面には、けまりちゃんの名前が出ている。
返事をしなければいけない。
分かっているのに、指が動かなかった。
##「……あとで、返します」
白傘ましろ「あとで、なんですね」
ましろさんは、少し寂しそうに笑った。
けれど、その目の奥には別の感情があった。
帰る場所があると知っている男を、少しだけ引き止めることを楽しんでいるような。
白傘ましろ「よくない人ですね」
##「反省してます……」
白傘ましろ「まだ、何もしていないのに?」
白い傘が、私の方へ傾いた。
白傘ましろ「では、入りますか?」
その声に、息が止まった。
##「……ごめん、けまりちゃん」
##「俺、美人に弱いかもしれません……」
白傘ましろ「聞こえています」
##「えっ」
白傘ましろ「それ、心の声じゃありません」
ましろさんは、くすっと笑った。
白傘ましろ「けまりさんのこと、好きなんですね」
白傘ましろ「でも、今は私にも少しだけ弱い」
白い傘の下へ入ると、雨音が遠くなった。
これは雨宿りだ。
そう自分に言い聞かせた時点で、たぶんもう負けだった。
駅裏の明かりをいくつか通り過ぎた先で、私たちは雨を避けられる部屋へ入った。
窓の外は、雨で真っ白だった。
ましろさんが傘を閉じる。
それだけで、部屋の空気がしっとりと重くなる。
私はベッドに腰を下ろした。
いや。
正確には、腰を下ろすことしかできなかった。
白傘ましろ「あらあら」
白傘ましろ「さっきまでは、あんなに元気いっぱいだったのに」
##「ち、近いです……」
白傘ましろ「近づいたのは、あなたですよ」
ましろさんは私の前に立ったまま、ゆっくりと長い髪を耳へかけた。
濡れたような唇に、白い指が触れる。
白傘ましろ「雨の日って、便利なんですよ」
##「何がですか……?」
白傘ましろ「どんな音も、雨音が隠してくれますから」
ましろさんは、私の前で静かに膝をついた。
見下ろしていたはずの彼女が、白い傘の下にいた時と同じ目で、こちらを見上げている。
寂しそうで。
それ以上に、少し楽しそうな目だった。
##「ま、待ってください」
白傘ましろ「嫌ですか?」
##「嫌では……ないです」
白傘ましろ「では」
長い髪を、邪魔にならないよう肩の後ろへ払う。
白傘ましろ「大きな声、出さないでくださいね」
##「な、何をするつもりで――」
白傘ましろ「私」
濡れたような唇に、白い指が触れた。
白傘ましろ「雨の日は、口がよく動かんです」
##「く、口!?」
ましろさんの微笑みが、私の視界からゆっくり消えた。
その瞬間。
窓を叩く雨音が、急に近くなった。
ざあ。
ざあ。
ざあ。
##「あ、えっ、ましろさ――!」
白傘ましろ「静かに」
短い囁きさえ、雨に溶けた。
何が起きているのか、考える余裕はなかった。
息をするたび、頭の中まで白くなる。
指先から力が抜ける。
帰る場所も。
けまりちゃんのことも。
今だけは、全部が雨の向こうへ流されていった。
##「ちょ、ちょっと待って……!」
返事の代わりに、雨脚がさらに強くなった。
窓の外が真っ白になる。
私の情けない声も。
ましろさんの低い笑い声も。
すべてが雨音に吸い込まれていく。
そして夜は、ゆっくりと過ぎていく。
どれくらい時間が経ったのか。
気づいた時には、私はベッドの背へ深く沈み込んでいた。
息がうまく整わない。
手にも、足にも、ほとんど力が入らなかった。
##「ま、ましろさん……」
白傘ましろ「はい」
##「もう……立てないです……」
白傘ましろ「あらあら」
ましろさんは、何事もなかったような顔で私を見上げていた。
ただ、その唇だけが、さっきより少し艶めいて見えた。
白い指が、口元をゆっくりとなぞる。
白傘ましろ「雨の日ですから」
##「それ、説明になってます……?」
白傘ましろ「私は、吸い込んで、流してしまうのが得意なんです」
##「何を吸い込んだんですか……」
白傘ましろ「雨ですよ」
##「絶対、雨だけじゃない……」
ましろさんは、少しだけ悪戯っぽく笑った。
白傘ましろ「でも、大丈夫です」
白傘ましろ「帰れなくなるほどには、していませんから」
##「体の中の水分、全部持っていかれた気がするんですけど……」
白傘ましろ「雨の日ですから」
##「えげつない……」
白傘ましろ「褒め言葉として、受け取っておきますね」
ましろさんは立ち上がり、私の耳元へ顔を寄せた。
白傘ましろ「けまりさんのところへは、ちゃんと帰してあげます」
その名前に、胸が痛んだ。
##「……けまりちゃん」
白傘ましろ「怒るでしょうか」
##「たぶん……」
白傘ましろ「妬くでしょうか」
##「間違いなく……」
白傘ましろ「それなら」
ましろさんは、嬉しそうでも、寂しそうでもある曖昧な笑みを浮かべた。
白傘ましろ「このまま帰ってください」
##「このまま?」
白傘ましろ「私の雨を、少しだけ残したまま」
##「それ、わざとですか……?」
白傘ましろ「どうでしょう」
白い傘が、もう一度開く。
白傘ましろ「帰る場所のある人を、少しだけ迷わせるの」
白傘ましろ「嫌いじゃないんです」
雨音が、また強くなった。
白傘ましろ「けまりさんが、あなたをどうやって取り戻すのか」
白傘ましろ「少し、見てみたいですし」
##「ましろさん、思ったより性格悪い……?」
白傘ましろ「雨の日だけです」
ましろさんは、白い傘の下で静かに笑った。
白傘ましろ「さあ」
白傘ましろ「ちゃんと帰れますか?」
立ち上がろうとした。
けれど、膝に力が入らなかった。
##「……帰れないかもしれません」
白傘ましろ「では、もう少し休んでいきますか?」
##「それ以上されたら、本当に干からびますーーー!!」
白傘ましろ「雨の中にいるのに?」
##「そういう問題じゃないですーーー!!」
白傘ましろ「ふふ」
ポケットの中では、スマホが何度も震えていた。
白い傘よりも、ずっと大きな白い影が。
帰る場所で、静かに待っていることを。
私は、まだ知らないふりをしていた。