食事が終わる頃には、首の後ろの痛みがまた少し強くなっていた。
さすがにティナにも気づかれたらしい。
「ジェイコブ、やっぱり少し休んだ方がいいわ」
「でも――」
「寝室を使って」
有無を言わせぬ口調だった。
「……はい」
今日だけで何度この返事をしただろう。
ティナに案内され、ジェイコブは寝室へ入った。ニュートも例の革鞄を持ってついてくる。
「少し休ませるから」
ティナはそう言うと、妹へ顔を向けた。
「クイニー、片付け手伝って」
「はあい」
クイニーが扉を閉める直前、もう一度こちらを見た。
「お大事に、ジェイコブ」
「ああ。ありがとう」
扉が閉まり、廊下の向こうへ二人の足音が遠ざかっていった。
静かになった。
ジェイコブはベッドへ腰を下ろし、そのまま天井を見つめた。
数秒。
「……綺麗な人だな」
ぽつりと漏れた。
ニュートが鞄を床へ置きながら振り返る。
「誰?」
ジェイコブはニュートを見た。
「あんた、そういうところあるよな」
「何が?」
「なんでもない」
どうやら本当に分かっていないらしい。
ジェイコブは枕へ身体を預けた。
クイニー。
名前までいい。
いや、名前に良いも悪いもあるのか。
ある。たぶんある。
もう一度会ったら何を話そう。パンの話では駄目だろうか。初対面の女性にいきなりパンの話をする男はどうなんだ。
……もう散々していた、しかも向こうには全部聞こえている。
「…………」
考えれば考えるほど恥ずかしくなってきた。
そんなことをしていると、かちり、と金属の音がした。
ニュートが鞄の留め金を外している。
「何するんだ?」
「薬を取りに行く。それと、何が逃げたのか確認しておきたい」
「その中に薬があるのか?」
「うん。研究室もあるから」
「研究室?」
ニュートは当然のように蓋を開け、その中へ片足を入れた。
「……おい」
もう片方も入る。
「ニュート」
腰まで沈んだ。
「ちょっと待て」
胸まで消える。
「おいおいおい」
最後に頭まで消えた。
床には革鞄だけが残った。
ジェイコブは瞬きをした。目を擦り、もう一度見る。
やはり鞄しかない。
今日何度目になるか分からない。
ベッドから降り、恐る恐る近づく。
「ニュート?」
「ここ」
「うわっ!」
鞄の中から返事がした。
「驚かすなよ!」
「入っておいで。梯子があるから、ゆっくり降りれば大丈夫」
ジェイコブは鞄を見下ろした。
「どこに?」
「中に」
「それは本当に鞄の話をしてるのか?」
「うん」
声は真面目だった。だから余計に困る。
ジェイコブは鞄の縁へ手をつき、恐る恐る中を覗いた。
「……は?」
梯子がある。
下へ続いている。その先には暖かな灯りまで見えた。
鞄の横を見る。普通だ。外側はどう見ても、ただの旅行鞄である。
もう一度中を見る。
やはり梯子がある。
「どうなってるんだ、これ……」
「魔法だよ」
下から声がした。
「便利な言葉だな!」
ジェイコブはしばらく迷った。
普通なら入らない。今日、この鞄から何が出てきたかを考えれば、なおさらである。
絶対に入らない。
絶対に。
それなのに、もう一度覗いてしまう。
梯子。その向こうの灯り。知らない場所へ続く穴。
少しだけ胸が躍った。
子供の頃、毛布や椅子を使って自分だけの場所を作ったときのような、妙な高揚感が湧いてくる。怖くないわけではない。むしろ怖い、けれどそれ以上に中を見てみたい。
「……見るだけだからな」
「何が?」
「こっちの話だ」
ジェイコブは片足を入れ、梯子を踏んだ。大丈夫そうなのを確かめて、もう片方も入れる。
「本当に入れるのか……」
ゆっくり身体を沈めていく。
頭まで鞄の中へ入ったところで、外の寝室が遠ざかった。
代わりに目の前へ広がったものを見て、思わず声が漏れた。
「……おお」
広い。
とても鞄の中とは思えない。梯子の下には作業場のような空間があり、そのさらに向こうへいくつもの区画が続いている。棚には見たこともない瓶や器具が並び、植物まで育っていた。遠くから聞いたこともない鳴き声がし、別の方向からは何かが走っていく音もする。
ジェイコブは梯子を降りながら、忙しく周囲を見回した。
「すごいな……」
「足元、気をつけて」
「ああ」
さらに降りながら、ぽつりと言う。
「秘密基地みたいだ」
ニュートが下から見上げた。
「秘密基地?」
「子供の頃に作らなかった? 椅子とか毛布とか使ってさ。自分だけの場所」
「もちろんあったよ」
「だよなぁ!」
お互いに照れ臭くなったのか肩をすくめて笑い合う。
最後の段を降り、改めて周囲を見渡す。
「これ、全部あんたの?」
「そうだよ。正確には、ここにいる彼らのための場所だけど。種類によって必要な環境がまるで違うから、一緒にしておけばいいってわけじゃないんだ。気温も湿度も違うし、餌も違う。あっちは寒冷地に近い環境にしてあって、こっちはもっと湿度が必要なんだ。それに――」
「へえ……」
ジェイコブは横目でニュートを見る。
さっきまで必要なことしか喋らなかった男が、急に止まらなくなった。
「……あんた、こういう話だとよく喋るな」
ニュートがきょとんとする。
「そう?」
「そうさ」
「でも大事なことだから」
「うん。好きなのは分かった」
「好きというより――」
「好きなんだろ?」
ニュートは少し考えた。
「……うん」
そこは認めるらしい。
◇
ニュートはすぐに中の確認を始めた。区画を一つずつ回り、扉を確かめ、中にいる生き物へ声をかけていく。
ジェイコブも後をついていった。
何を見ても知らないものばかりだった。それでも、不思議と怖くはない。
ニュートが生き物へ近づくときの態度を見ているせいかもしれない。まるで古い友人に会うように声をかけ、ときには撫で、ときには餌を与える。
やがてニュートが足を止めた。
「……いない」
「何が?」
「デミガイズ。銀色の長い毛をした、とても大人しい生き物だよ。争いを嫌うし、人間を積極的に襲うこともまずない。ただ未来を予測する能力があるから、捕まえようとすると少し厄介なんだ。こっちが次に何をするか先に分かってしまうから。それに姿を消すこともできて――」
「ちょっと待て」
ジェイコブは片手を上げた。
「何?」
「俺は『何が』って聞いただけだ」
「だからデミガイズ」
「名前だけでよかったんだよ」
「ああ」
ニュートは納得したらしい。
そのまま次の区画へ向かい、中を見る。
表情が変わった。
「こっちもいない」
「今度は?」
「エルンペント。かなり大きいけど、見た目ほど攻撃的な生き物じゃない。むしろ普段は比較的穏やかで、こちらから刺激しなければ問題はないんだ。ただ発情期には少し行動が大胆になることがあって、角には非常に強力な爆発性の液体が――」
「待て」
ジェイコブの顔から表情が消えた。
「今、爆発って言ったか?」
「うん。でも誤解しないでほしいんだけど、エルンペント自身が攻撃的という意味じゃなくて――」
「大きいんだよな?」
「かなり」
「俺の部屋の壁をぶち抜いたの、そいつか?」
ニュートが少し考える。
「君の部屋から出たなら、たぶんこの子だと思う」
「あいつか」
ようやく話が繋がった。
「絶対捕まえてくれ」
「もちろん。でもあれだけ狭い場所へ突然出たら驚くのも当然なんだ。エルンペントは本来、無闇に人を襲うような――」
「ニュート」
「何?」
「そいつが悪くないのは分かった。説明は捕まえてからにしよう」
ニュートは少し残念そうだった。
ジェイコブはその顔を見て、一つ学んだ。
この男に生き物の話を振ると長い。
覚えておこう。
さらにいくつかの区画を確認していくうち、他にも外へ出たものがいることが分かった。聞いたこともない名前がいくつか挙がったが、途中からジェイコブは覚えるのを諦めた。
「全部捕まえられるのか?」
「捕まえるよ」
ニュートは迷わなかった。
「彼らをこのままにしておくわけにはいかないし、街の人にも危険がある。それに、人間に見つかれば彼らの方が危ない。知らないものを怖がるのは仕方ないけど、怖がった人間が何をするかは分からないから」
最後の言葉だけ、少し声が低くなった。
ジェイコブはニュートを見る。
なるほど。
この男が何を一番心配しているのか、少し分かった気がした。
◇
「とりあえず、君を先に診よう」
案内されたのは、棚に無数の瓶が並ぶ研究室だった。
「ようやくか」
「忘れてたわけじゃないよ」
「本当だろうな?」
ニュートは答えず、椅子を指した。
「座って」
ジェイコブは素直に腰を下ろした。
ニュートが後ろへ回り、首の傷を確認する。噛み痕の周囲へ触れられると、鈍い痛みが走った。
「痛っ」
「ごめん」
「どう?」
ニュートは腫れの広がりを確かめ、少し首を傾げた。
「思ってたより症状は軽いね。さっきはかなりふらついてたから、もっと毒が回ってると思ってた」
「じゃあ大丈夫なのか?」
「これなら、今ある薬でどうにかなりそうだ」
「その『どうにか』って言い方、ちょっと怖いんだけど」
「大丈夫だよ」
ニュートは棚へ向かい、並んでいる瓶の中から一本を選んだ。中身を確かめるように軽く振ってから、ジェイコブへ差し出す。
「これを飲んで」
ジェイコブは受け取った。瓶の中で、何とも言えない色の液体が揺れている。
「……それだけ?」
「うん」
「苦い?」
ニュートはスイッと目をそらした。
「なんで黙るんだよ」
「効くよ」
「味を聞いてるんだ!」
答えはなかった。
嫌な予感しかしない。
それでも首の後ろはまだ熱を持っている。先ほどより楽になったとはいえ、身体の重さも残っていた。飲まないという選択肢はなさそうだ。
「……神様」
今日何度目か分からない祈りを捧げ、ジェイコブは一気に飲み干した。
「――っ!」
ひどい味だった。
苦いのか、酸っぱいのか、それとも別の何かなのかすら分からない。ただ一つ確かなのは、二度と好んで飲みたいものではないということだった。
「これのどこが――」
文句を言いかけて、ジェイコブは気づいた。
ニュートが、じっとこちらを見ている。
「……何だよ」
「いや」
それだけ答えて、ニュートは視線を外さなかった。
薬が効くかどうか見ているのだろう。
そう思い、ジェイコブもそれ以上は気にしなかった。
実際、身体の方にはすぐに変化が現れ始めていた。舌にはこれでもかというほど拒絶されているのに、身体の方は意外なほど素直に薬を受け入れている。首筋にこびりついていた熱がじわじわと薄れ、強張っていた身体にも少しずつ力が戻ってきた。
もっと気分が悪くなるものと身構えていただけに、拍子抜けするほど馴染んでいる。
首を少し動かしてみる。まだ痛い。けれど、先ほどまでとは明らかに違った。
「……効いてる気がする」
「それならよかった」
「味以外はな」
ニュートは聞かなかったことにした。
ジェイコブは空になった瓶を睨み、口の中にいつまでも残るひどい味に顔をしかめた。
「水ない?」
ニュートが杖を軽く振った。
少し離れた作業台に置かれていたコップがふわりと宙へ浮かぶ。同時に水差しも持ち上がり、傾いた口から流れ出した水が空中で綺麗な弧を描いた。
水で満たされたコップが、そのまま何事もなかったようにジェイコブの目の前まで飛んできて、ぴたりと止まる。
ジェイコブは宙に浮かぶコップを見た。
ニュートを見る、もう一度コップを見る。
「……便利だな、それ」
「だろう?」
コップを受け取り、一気に飲み干す。ようやく口の中が少しましになった。
ジェイコブは空になったコップを眺める。
「……パン屋に欲しいな」
「何が?」
「いや、なんでもない」
とはいえ、頭の中ではすでに考え始めていた。
水を量る。材料を運ぶ。重い天板を窯へ入れる。
そんなことが杖一本でできるのなら、パン作りはどれほど楽になるだろう。
いや、楽になるだけではない。
もっと正確に――。
「ジェイコブ?」
「何?」
「ぼーっとしてるけど、大丈夫?」
「ああ。パンのこと考えてただけだ」
「なるほど」
ニュートはそれで納得した。
そこはもう少し何か言ってもいいんじゃないかと思ったが、ジェイコブも口には出さなかった。
身体はもう、だいぶ楽になっていた。
研究室を見回すと、そこかしこに奇妙な道具。見たこともない植物。遠くから聞こえてくる生き物たちの声。そして頭上には、鞄の口から僅かに見える禁断の女子寮の寝室。
今朝まで、世界とは自分の目に見えるものだけだと思っていた。銀行があり、工場があり、パン屋があり、人々が働き、腹を空かせ、眠る。
しかと胸に刻まねばなるまい、世界とは広いものである。
「……秘密基地か」
「何?」
「なんでもない」
今度はジェイコブが聞かなかったことにした。少しして、ふとクイニーの顔が頭に浮かんだ。
金色の髪。あの笑顔。自分の名前を呼んだ声。心の中まで筒抜けにして、こちらが困るたび楽しそうに笑う顔。そして、自分の考えていることなど最初から全部分かっているくせに、ほんの少し頬を赤くした顔。ジェイコブは無意識に口元を緩めた。
「ジェイコブ?」
「何でもない」
「まだ何も聞いてないけど」
「何でもないんだよ」
ニュートは不思議そうにしていた。
ジェイコブは誤魔化すように、空になったコップへ口をつけかけてやめた。
早く上へ戻りたい。
さっきまであれほど面白かった秘密基地だというのに、今は少しだけ別のことが気になっている。
理由については――考えるまでもなかった。