意識が浮上する感覚と同時に、鼻腔を突いたのは湿った土と、嗅いだことのない濃厚な草木の匂いだった。
サトルは重い瞼を押し上げた。視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど巨大な樹々が天を覆う、鬱蒼とした森の風景だ。
「ここは……どこだ?」
声が出た。自分の声は、どこか現実味を欠いて響く。前世の記憶が混濁した頭の片隅で、自分が不慮の事故に遭い、この異世界へと転生したという事実が、嫌というほど鮮明に浮かんできた。
転生。ラノベの典型的な導入だ。ならば、手には伝説の聖剣があるか、あるいは世界を書き換えるほどの魔力があるはずだ。サトルは、自分に備わった「チート能力」を期待して、まずは自分の手元を確認した。
しかし、そこにあったのは、あまりにも場違いな「物体」だった。
「……は?」
サトルの手の中にあったのは、白く繊細なレースが施された、明らかに女性用のパンティだった。
それも、ただの布ではない。指先に触れる感触は、信じられないほど滑らかで、どこか神秘的な輝きを帯びている。
サトルは混乱した。自分の状態を確認しようと、念じるように「ステータス」と呟いてみる。しかし、目の前に半透明のウィンドウが現れることはない。ただ、手に握ったその布切れだけが、この異常な状況の全てを物語っているようだった。
「最強の能力でも魔法でもなく……パンティだと……?」
絶望が、泥のように足元から這い上がってくる。これからの過酷な異世界生活において、この一枚で何ができるというのか。剣もない、魔法も使えない。手元にあるのは、文字通り「身につけるための布」だけだ。
サトルは頭を抱え、森の地面に座り込んだ。あまりの情けなさに、笑いすら出てくる。
その時だった。
茂みの向こうから、弱々しい、けれど何かを訴えるような吐息が聞こえてきた。
「誰か……いるのか?」
サトルは半信半疑で、音のする方へ駆け寄った。そこには、一本の大きな樹の根元に倒れ込んでいる少女がいた。
透き通るような水色の長い髪が、地面に散らばっている。大きな瞳は固く閉じられ、小柄で華奢な体つきは、まるで折れそうなほど儚げだ。
サトルは思わず、彼女を助けようと手を伸ばした。しかし、その時、彼の目はある異変を捉えていた。
彼女の着ている軽装のスカートが、乱れていたのだ。
(まさか……)
サトルが恐る恐る確認すると、彼女は下着を身につけていなかった。おそらく、何らかの戦闘や逃走の最中に、あるいは魔力的な干渉によって、失われたのだろう。
サトルは困惑した。目の前の少女はあまりにも美しく、守るべき存在に見える。だが、同時に自分は、ただのパンティ一枚しか持たない無力な男だ。
しかし、合理主義的な思考が、彼の迷いを断ち切った。
(このままでは、夜になれば彼女の命に関わる。寒さや、魔物の襲撃……。俺にあるのは、この一枚だけだ)
羞恥心と、状況を打破しなければならないという使命感が、サトルの脳内でせめぎ合う。
(このパンティを履かせるしかないよな)
彼は決断した。震える手で、その白いパンティを手に取る。そして、うつろな意識の中にいる少女の体に、それを慎重に、かつ迅速に履かせた。
その瞬間だった。
――グォォォォォォォォォッ!!
森の静寂を切り裂くような、獣の咆哮が響き渡った。
茂みをかき分け、血走った眼をした魔物たちが、次々と姿を現す。それは、牙を剥き出しにした巨大な狼のような魔物たちだった。
「なっ……!?」
サトルは絶句した。目の前には、数十体もの魔物が、獲物を前にした飢えた瞳で迫っている。武器も魔法もない自分に、太刀打ちできるはずがない。
しかし、異変は起こった。
パンティを履かされた少女、マネエが、その瞳をカッと見開いたのだ。
「……んっ」
彼女の周囲から、目も眩むような白い光が奔流となって溢れ出した。
それは、まるで星が爆発したかのような、圧倒的な魔力の奔流だった。
「え……?」
サトルが呆然と立ち尽くす中、マネエの体がふわりと浮き上がる。彼女がただ一歩、地面を蹴った。それだけで、周囲の空気が爆ぜ、凄まじい衝撃波が発生した。
ドォォォォォォン!!
衝撃波が通り過ぎた後、そこにはもはや魔物の姿はなかった。
先ほどまで牙を剥いていた狼たちは、文字通り「粒子」となって霧散していた。一撃。いや、一瞬の閃光。それだけで、押し寄せていた軍勢が消滅したのだ。
静寂が戻った森の中で、マネエは不思議そうに自分の手を見つめ、それからサトルをじっと見つめた。
彼女の瞳には、まだ魔法の残滓がキラキラと輝いている。
サトルは、自分の手の中にあった「はず」のパンティが、彼女の体の一部であるかのように馴染んでいるのを見て、戦慄した。
最強の能力。それは魔法でも剣でもなく、この少女に履かせた、たった一枚の布だったのだ。
活気にあふれた宿場町の喧騒が、耳に心地よく、それでいてどこか現実味を欠いて響いていた。
石畳の道を歩く人々、焼き立てのパンの匂い、露店から聞こえる威勢のいい声。数日前まで、血生臭い魔物の咆哮が響き渡っていた未知の森の中にいたことが、まるで遠い前世の出来事のように感じられる。
サトルは、自らの少し癖のある黒髪をかき上げ、溜息をついた。
隣を歩く少女、マネエは、森で見つけた時とは打って変わって、町で手に入れた簡素な旅装を身に纏っている。透き通るような水色のロングヘアが、歩くたびにふわふわと揺れ、その愛らしい顔立ちは、周囲の男たちの視線を自然と集めていた。だが、そのあまりにも無垢な瞳で見つめられると、周囲の視線さえもどこか浮ついたものに感じられてしまう。
「サトル」
不意に、マネエが足を止めた。
彼女はどこか申し訳なさそうな、それでいて非常に晴れやかな表情で、サトルの前に立った。
「……なんだ?」
「これ、返します」
マネエが両手で差し出してきたのは、布切れだった。
いや、ただの布ではない。あの森で、サトルが唯一手にしていた、そして彼女に履かせたことで天変地異のような力を引き出した、あの『最強のパンティ』だ。
「あ……ああ、そうか。サンキュー」
サトルは、ひどく複雑な心境でそれを受け取った。
指先に触れる布の感触は、紛れもなくあの時と同じものだ。これこそが、この異世界で彼が授かった、唯一にして最強の「チートアイテム」なのだ。
マネエは、パンティを返すと、満足げにふう、と息をついた。
彼女にとってそれは、戦いのための装備を預けていたに過ぎず、返し終えたことで一つ大きな任務を完了したかのような、清々しい表情を浮かべている。
サトルは、受け取ったパンティを懐にしまい込みながら、猛烈に頭を抱えた。
――問題は、ここからだ。
(……この能力を再現するには、どうすればいい?)
サトルは、持ち前の合理的思考で、今後の「運用」についてシミュレーションを開始した。
もし、また別の魔物に遭遇し、このパンティの力が必要になったとしたら。
まず、適切な(あるいは適切なように見える)女性を見つけなければならない。次に、その女性の服を脱がせ、このパンティを履かせるという、極めてリスクの高い、そして社会的な尊厳を削りかねない行為を強行する必要がある。
さらに、戦闘が終わった後には、再びその女性からパンティを脱がせて回収し、自分の手元に戻さねばならない。
見つけて、脱がせて、履かせて、戦わせ、脱がせて、回収する。
――効率が悪すぎる。あまりにも非効率だ。
一回あたりのコスト(精神的苦痛、および社会的リスク)が、得られるリターンに対して見合っていないのではないかという疑念すら湧いてくる。
(……いや、待て。根本的な解決策があるはずだ)
サトルは、隣で「お腹すいた」と無邪気に呟いているマネエを見つめた。
彼女は、あのパンティを履かせた瞬間に、常識外れの破壊力を叩き出した。この力の発動条件は、あくまで「そのパンティを着用していること」にある。ならば、装備者を固定してしまえば、いちいち新しい女性を探す必要はないはずだ。
彼女を、単なる同行者ではなく、一的な「歩行する戦略兵器」として定義するのだ。
自分は、その兵器を適切に管理し、適切なタイミングで投入する「司令塔」になればいい。
サトルは、目を鋭くした。
感情を排し、現実的な損得勘定のみで物事を考える。それが、この理不尽な世界で生き残るための彼のスタイルだ。
「マネエ」
「なに? サトル」
「これからは、俺のそばにいてくれ。……一緒に、来てほしいんだ」
それは、戦力としての契約を提示する言葉だった。
管理しやすいキャラクター、高い戦闘力、そして何より、このパンティの力を最大限に引き出せる唯一の個体。彼女を「戦力」として囲い込むことは、サトルにとって最も合理的な選択だった。
しかし、マネエの反応は、サトルの予想とは全く異なる方向へ跳ね上がった。
「……えっ」
マネエの大きな瞳が、一瞬で潤んだ。
彼女の脳内では、今行われた「提案」が、高度な論理的プロセスを経て、極めて単純な結論へと変換されていた。
「……はい! 喜んで!」
マネエは、顔を真っ赤にしながら、力強く頷いた。
その表情は、まるで待ち望んでいた答えを得た乙女のようであった。
「え、あ……いや、そういう意味じゃなくて」
「わかっています! サトルが、マネエはずっと一緒にいたいって……プロポーズしてくれたんですよね!?」
マネエは、そう言うと、弾けるような笑顔を見せた。
彼女の理解力は、驚くほどに低い。あるいは、あまりにも純粋すぎる。
サトルが提示した「戦力としての運用」というドライな提案は、彼女の直感によって、甘美な「愛の誓い」へと書き換えられてしまったのだ。
「……あー、まあ、そうだな」
サトルは、観念して項垂れた。
今ここで否定しても、「そんなつもりじゃなかった」という言い訳が、かえって余計な混乱を招くだけだ。それに、彼女のこの圧倒的な信頼感と、戦闘時における忠実さを考えれば、この誤解はむしろ「メリット」と捉えるべきだろう。
(……いいだろう。パートナー。まずは生活基盤を固めるのが先決だ)
サトルは、小さく息を吐き出し、前を向いた。
最悪の始まりだったが、最強の武器を手に入れた。
この奇妙なコンビが、この世界でどのような軌跡を描くことになるのか。
合理主義者の男と、パンティ次第で超常的な力を放つ天然少女の、騒がしい冒険が、今まさに幕を開けようとしていた。
どんよりとした曇り空の下、活気に溢れる冒険者ギルドの喧騒は、今日も変わらず耳をつんざくような音を立てていた。
酒の匂い、汗の臭い、そしてそれらに混じる冒険者たちの野心的な怒号。その中心地とも言えるギルドの片隅で、サトルは手元のギルドカードを指先で弄びながら、冷めた麦茶を喉に流し込んだ。
「サトル、お腹すいた」
隣から、あまりにも場違いなほどに清涼感のある声が響く。
水色の長い髪を揺らし、大きな瞳をきらきらさせて自分を見つめているのは、マネエだ。彼女の周囲だけ、まるで空気の粒子が異なる種類であるかのような錯覚を覚える。この薄汚れたギルドにおいて、彼女の愛らしさはあまりにも浮いていた。
「……さっき昼飯を食ったばかりだろう。少しは自制しろ」
「むー……」
マネエはぷくっと頬を膨らませるが、サトルが「次の依頼の準備だ」と真剣な面持ちで告げると、すぐにその表情を「無」に戻した。彼女の理解力は、日常生活においては著しく欠落しているが、サトルが「戦闘」のスイッチを入れた際に見せる集中力は、それによって補って余りあるものだった。
二人が冒険者として登録してから、数週間が経過した。
サトルは、この不可解な異世界において、極めて合理的かつ現実的な生存戦略を選択していた。マネエという「規格外の兵器」を、いかにして効率よく、かつ安全に運用するか。それが彼の、冒険者としての、そして管理者としてのすべてだった。
「おい、見たか? 今日の依頼もアイツらかよ」
「さっきの地下迷宮の件、一晩で片付けたらしいぜ。魔物の一体も残らなかったって話だ」
「あの『水色の髪の娘』だろ? 凄まじい力だって噂だ」
周囲の冒険者たちの視線が、サトルとマネエに集まる。憧憬、畏怖、そして少しばかりの困惑。
理由のない賞賛は、時に毒にもなる。人々は「あの少女の圧倒的な力」に注目するが、その力を引き出し、戦場をコントロールしているのが、隣にいるこの平凡な男――サトルであることには、まだ多くの者が気づいていない。
「サトル、次は何するの?」
マネエが、純粋な問いを投げかける。
「次は、北の洞窟に棲みついた『影狼』の討伐だ。依頼報酬も高いし、何より、あそこなら装備の消耗も最小限で済む」
サトルは手元の依頼書を読み上げ、淡々と指示を出す。
彼にとって、マネエはパートナーであると同時に、極めて特殊な「魔導具」に近い扱いだった。彼女がその力を発揮するために必要な、「装備」の管理こそが、彼の最も重要な任務だからだ。
――洞窟の入り口。
湿った空気と、獣の臭いが漂う暗い入り口を前にして、サトルは腰のポーチから「それ」を取り出した。
白く、清潔な、しかしこの世界においてはあまりにも卑俗に見える一枚の布。
「マネエ、準備だ」
「うん!」
サトルの声に、マネエは期待に満ちた表情を浮かべる。
周囲に人がいないことを確認し、サトルは手際よく、かつ事務的な手つきで、マネエにその「装備」を履かせる。まるで聖騎士が聖剣を授ける儀式のような、あるいは熟練の職人が魔道具を調整するような、極めて真剣な空気がそこにはあった。
「……よし、適合を確認。出力、最大値まで引き上げ可能」
サトルは手元の手帳にメモを走らせ、冷静に判断を下す。
「いいか、マネエ。今回の目標は影狼の群れだ。俺の指示に従え。左から来るものは一掃しろ。右は俺が誘導する。無駄な動きはするな。いいな?」
「了解、サトル! マネエ、がんばる!」
指示が出た瞬間、マネエの瞳から「幼さ」が消えた。
彼女の体から、目に見えぬほどの高密度の魔力が爆発的に溢れ出す。それは、履かされた「パンティ」が媒介となって、彼女の肉体を絶対的な戦闘形態へと変質させていた。
洞窟の奥から、咆哮と共に影の獣たちがなだれ込んでくる。
だが、マネエは退かない。それどころか、獲物を狩る獣そのもののような鋭さで、超高速の踏み込みを見せた。
「――左、掃討!」
「はーい!」
サトルの短い号令。
直後、風を切る音さえ置き去りにするほどの衝撃波が洞窟を駆け抜けた。マネエの拳、あるいは足が空を切るたびに、巨大な影狼たちが塵となって霧散していく。
サトルは、彼女の動きを冷静に観察していた。魔力の揺らぎ、筋肉の収縮、周囲の地形。彼は極めて的確な「指揮」によって、マネエの暴力的とも言える破壊力を、最も効率的な「攻撃」へと変換していく。
戦いは、常に一方的だった。
マネエが敵を殲滅し、サトルがその戦果を管理し、最短ルートで目的地へと進む。この奇妙なコンビネーションこそが、彼らが短期間で「新人にして伝説」と呼ばれるようになった所以だった。
戦いが終わり、静寂が戻った洞窟の底。
マネエは、へなへなと地面に座り込んだ。
「サトル……おなかすいた……」
「……。全く、戦い終わった瞬間にこれか」
サトルは溜息をつき、呆れながらも、彼女の前に膝をついた。
そして、彼は「管理者」としての本領を発揮する。
「マネエ、装備の回収だ」
「はーい……」
サトルは、戦闘で使用された「装備」を、手際よく、かつ細心の注意を払って回収していく。
汚れをチェックし、魔力の残滓を取り除き、次回の戦闘に備えて洗浄・保管する。それは、彼にとって単なる着替えの補助ではなく、最強の武力を維持するための、不可欠なメンテナンス工程だった。
汚れた布を丁寧に畳み、ポーチへ収めるサトルの横顔は、どこまでも真剣で、どこまでも合理的だった。
「ふぅ……。今日の収穫はこれくらいか」
依頼完了の報告のために、街へ戻る帰り道。
夕闇に包まれる街道を、二人の影が伸びている。
ギルドの噂は日に日に大きくなり、二人の名は、冒険者たちの間で「謎の少女と、彼女を操る奇妙な指揮官」として、確実に、しかし奇妙な形での名声を確立しつつあった。
サトルは、次に戦うべき敵と、次回の「装備」の管理計画を頭の中で組み立てながら、隣で楽しそうに鼻歌を歌うマネエの歩調に合わせて、静かに歩を進めた。
空は濁った赤に染まり、逃げ惑う人々の悲鳴と、大地を揺らす魔物の咆哮が混ざり合って、地獄のような騒音を奏でていた。
「――っ、クソッ! どこへ行ったマネエ!」
サトルは喉を枯らさんばかりに叫んだ。しかし、返ってくるのは返事ではなく、背後から迫る魔物の不快な足音と、焦げ臭い煙の匂いだけだ。
王国を揺るがす魔王軍の侵攻。かつてない規模の戦乱を前に、街は壊滅の危機に瀕していた。本来ならば、規格外の戦闘力を持つマネエがいれば、この局面を打開できるはずだった。しかし、混戦の中で彼女とはぐれてしまったのだ。
サトルは、戦うための力を持たない。彼にあるのは、優れた状況判断能力と、戦況をコントロールするための「リソース」を管理する役割だけだ。だが、今この場において、その能力はあまりにも無力だった。
「はぁ、はぁ……ッ、これじゃあ、ただの死に場所じゃないか」
荒い呼吸と共に、サトルの額から汗が滴る。目の前には、数体の下級魔物が、獲物を定めるような濁った瞳でこちらを睨んでいた。
絶望的な状況。回避不能。
だが、サトルの脳内では、極限状態にあってもなお、冷徹なまでの計算が働いていた。
(……戦力が足りない。とにかく、この場を制圧できる『ユニット』が必要だ)
戦力を確保する手段は、彼の中に一つしかない。
それは、あの「最強のパンティ」を適切な対象に付与すること。
手持ちのパンティを、即座に戦闘可能な個体へと装備させる。それが、この理不尽な世界における唯一の、そして最も効率的な勝利への定石だった。
その時、混乱の渦中で一人の少女が、倒れた荷車に身を寄せているのが目に入った。
燃え盛る炎を背に、透き通るような金髪が揺れている。戦場にはおよそ似つかわしくない、高貴で端正な顔立ちをした少女だ。彼女の周囲には、彼女を守ろうとする騎士らしき者たちの姿は見当たらず、ただ一人、魔物の群れに囲まれようとしていた。
(……あの娘なら、いけるか?)
サトルの思考は速かった。
彼女の持つ魔力的な素質、あるいはその身に宿すであろう潜在能力。もし彼女を「戦力」へと転換できれば、この局面は一気に打開できる。
迷っている時間は一秒たりともない。
「こいつに賭けるしかない!」
サトルは駆け出した。
少女――ロクスフランが、驚愕に目を見開く。彼女が何かを制止する間もなかった。
サトルは合理的かつ迅速に、彼女の防備の隙を突き、その身に纏っていた下着に手をかけた。
「な、ななな……っ!? 何を――っ!?」
ロクスフランの困惑と悲鳴が上がる。しかし、サトルはそれを無視した。
一気に脱がせ、手元にある「特殊な魔力を持つパンティ」を彼女の肌へと履かせる。いわば、物理的な「装備の付け替え」だ。
直後。
ロクスフランの体から、目も眩むような黄金の光が噴き出した。
「――ッ!!?」
彼女の瞳に、困惑を超えた凄まじい力が宿る。
パンティに宿る未知の力が、彼女の肉体を通じて爆発的な魔力へと変換されたのだ。
黄金の波動が円状に広がり、迫り寄っていた魔物たちを、文字通り「塵」へと変えていく。一撃。たった一回の波動で、周囲の脅威は完全に消滅した。
静寂が訪れる。
立ち尽くすロクスフランは、頬を真っ赤に染め、自身の体から溢れるあまりにも強大な力に、ただ呆然としていた。
サトルは、その隙を逃さなかった。
「よし、戦果を確認。装備回収!」
彼は戦闘が終わった直後の、彼女が呆然としている隙を見逃さず、再びその「装備」に手を伸ばした。
驚きと羞恥で硬直している彼女から、パンティを素早く引き抜いて回収する。本来、戦力として運用し続けるべきものだが、次なる戦場へ向かうための「弾薬」として、手元に置いておく必要がある。
「あ……あ……」
ロクスフランは、半ば脱衣させられた状態のまま、震える声で言葉を失っていた。
そこへ、混乱の隙間を縫うようにして、一人の女性が駆け寄ってきた。
「ロクスフラン王女様ーーーっ! 無事でしたか!?」
それは、ロクスフランに付き添っていたらしい侍女のような女性だった。
彼女は、目の前の光景――半ば乱れた姿の王女と、その傍らに立つ、どこにでもいそうな平凡な冒険者の男――を見て、絶句した。
「ロ、ロクスフラン様……? まさか、あのような……あのような破廉恥な……」
侍女の目には、驚愕と、そして信じられないものを見たという困惑が浮かんでいた。
サトルは、彼女の言葉の真意を察し、心の中で小さく舌打ちをする。
(……王女だったのか。厄介なことになったな)
しかし、サトルの表情には動揺は見られない。
彼はただ、次にすべきことを考え始めていた。
この戦場において、王女であろうと、一人の「戦力候補」に変わりはないのだ。
「さて……マネエを探さないと」
サトルは、呆然とするロクスフランと、憤慨する侍女を背に、再び煙の中へと足を踏み出した。
王宮の謁見の間には、重苦しい沈黙と、それとは裏腹に沸騰しそうなほどの怒号が渦巻いていた。
「不敬千万です! 王女殿下の御衣を、あのような……あのような破廉恥な手段で弄ぶなど、冒険者の分際で許されることではありません!」
「左様! たとえ戦果を挙げたとはいえ、あの男の行いは国辱と言っても過言ではない!」
豪華な彫刻が施された柱の陰で、高位の貴族たちが顔を真っ赤にして叫んでいる。彼らの怒りの矛先は、たった一人の男、サトルに向けられていた。
魔王軍の侵攻を食い止めた英雄。その実態は、戦力を確保するために王女のパンティを強引に奪い、別の少女へと履き替えさせた、極めて合理的かつ破廉恥な男。
サトルは、謁見の間の中心に置かれた石床の上に、所在なげに立っていた。いや、正確には「立たされていた」のだ。傍らには、事の顛末を全く理解していない様子で、小首を傾げているマネエが控えている。
「サトル、あの人たち、なんであんなに怒ってるの? パンティはちゃんと回収したのに」
マネエの無垢な問いかけが、さらに貴族たちの神経を逆撫でする。サトルはため息をつき、癖のある黒髪をかき上げた。
(……合理的判断の結果だと言いたいが、この状況で説明しても理解される確率は五パーセント以下だろうな)
サトルは冷静に状況を分析していた。
戦況は絶望的だった。魔王軍の猛攻を前に、主力であるはずのマネエが不在。「最強のパンティ」をただ手に持っているだけでは国が滅びる。それならば、別の適格者に即座に転用することが、生存確率を最大化させる唯一の手段だったのだ。
羞恥心や礼儀といった情緒的な要素を排除し、生存という目的のみに特化した選択。それがサトルの「正解」だった。しかし、それは高潔さを重んじる貴族たちの美学とは、致命的に食い違っていたのである。
「静粛に!」
その時、玉座から凛とした、しかしどこか震えるような声が響いた。
金髪を揺らし、威厳に満ちた姿で立ち上がったのは、第一王女ロクスフランだった。その端正な美貌は、怒りに満ちているようにも、あるいは何かを必死に堪えているようにも見えた。
「……これ以上の議論は無意味です。これより、当該の案件についての裁定を下します」
ロクスフランの言葉に、場が凍りついた。貴族たちは息を呑み、彼女の口から出る「処罰」の内容を待ちわびた。サトル自身も、おそらくは重い罰金、あるいは国外追放、あるいは奴隷へといった、現実的な重罪が下るものと考えていた。
ロクスフランは、力強く、そして断固とした口調で告げた。
「当該の冒険者、サトルに対しては……『罰も、報酬も与えない』。すなわち、この一件については不問に付します」
「な、何だと……!?」
「不問……ですって!?」
ざわめきが、怒号へと変わる。報酬を与えないのであれば、英雄としての名誉も、金銭的な恩賞も、彼には一切与えられないことになる。それは、彼を軽んじるための措置なのか、あるいはあまりの不敬に言葉を失っているのか。
「これ以上の詮索は、王家に対する挑戦と見なします。異論がある者は、私の判断に背くということです。……以上です!」
ロクスフランは、逃げるように視線を逸らした。
最後まで、彼女はサトルの目を見ようとはしなかった。
謁見の間を後にしたサトルは、王宮の回廊を歩いていた。隣には、相変わらずどこかぼんやりとした表情のマネエがいる。
「サトル、結局どうなったの? ご褒美はもらえないの?」
「ああ、もらえないよ。……というか、何もなかったことにされたわけだ」
サトルは、どこにでもいそうな平凡な顔に、どこか投げやりな笑みを浮かべた。
「合理的だ、と言えば聞こえはいいが、実際は泥沼の政治的な妥協だろうな。王女としても、戦功を認めれば議論が止まらないが、処罰すれば英雄を失う。その中間の『無視』を選んだわけだ」
「サトル、難しいことはよくわかんないけど……。でも、お腹すいた!」
「……そうだな。まずは飯にしよう」
マネエのあまりに屈託のない言葉に、サトルは思わず吹き出した。この異世界での生活は、常に予測不能で、常に理不尽だ。だが、こうして彼女と歩いていると、不思議と落ち着きを取り戻すことができた。
一方、その頃。
王宮の奥深く、重厚な扉に閉ざされた王家の私室では、一人の少女がベッドに倒れ込んでいた。
「……っ、うう……っ!」
金髪の髪を乱し、ロクスフランは枕に顔を埋めて悶絶していた。
数分前までの、あの凛とした威厳はどこへ行ったのか。今の彼女は、頬を真っ赤に染めた、ただの少女だった。
(なんなのよ……あの人……っ!)
脳裏に焼き付いて離れないのは、戦場でのサトルの姿だ。
混乱と血の匂いが漂う中、彼は一瞬の迷いもなく、あろうことか自分のパンティを奪っていった。その瞳には、迷いも、下卑た欲望もなかった。ただ、目の前の危機を打破しようとする、狂気的なまでの冷静さと、揺るぎない意志だけがあった。
(あんな、あんな破廉恥なことを……! それなのに、どうしてあんなに……あんなに頼もしかったのかしら……!)
辱めを受けたという羞恥心。それ以上に、彼が自分を「守るべき対象」としてではなく、「戦力の一つ」として、極めて冷徹かつ的確に扱ったことへの、言いようのない高揚感。
(あんなに、あんなに真っ直ぐに……。私のことなんて、ただの道具みたいに扱って……!)
独占欲が、胸の奥で疼く。
報酬を与えなかったのは、彼を「英雄」という公的な枠組みに閉じ込めたくなかったからだ。彼を、誰の目にも触れない、自分だけの特別な存在として、その「合理的すぎる性質」ごと、手元に置いておきたいという、自分でも驚くほど身勝手で強烈な願いからだった。
「……あ、あんなこと、誰にも言えない……っ」
ロクスフランは、熱を持った顔を両手で覆った。
窓の外では、夕闇が王都を包み込もうとしている。
王女としての誇りと、一人の女性としての、制御不能な恋心が、彼女の中で静かに、しかし激しく衝突していた。