セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
地下二階の奥、瓦礫の集積場を大きく避けながら、四人はコボルドたちの視界へ入らぬよう慎重に通路を進んでいた。
足音を殺し、壁際を選び、曲がり角へ近づくたびにダリヤが十フィート棒と鏡で先を確かめる。松明の明かりも必要以上に前へ出さず、こちらの存在をできるだけ悟られないようにしていた。
やがて、ひとつ先の曲がり角へ差しかかったときだった。
先頭を進んでいたダリヤが、何も言わず片手を上げた。
それだけでミハイルもヴァレリアも足を止める。
セラリスも最後尾から動きを止め、ソーンウォッチの切っ先をわずかに下げた。
ダリヤは壁際からほんの少しだけ顔を出し、それからすぐ戻った。
「人がいます」
声は囁きより少し大きい程度だった。
「一人?」
セラリスが尋ねる。
「歩いてる人が一人。それから……もう一人、壁際に立ってます」
「動いてる?」
「そっちは動いてません」
四人は少しずつ位置を変え、曲がり角の向こうを確認した。
松明の光がどうにか届くぎりぎりのところを、ひとりの男が歩いている。
背は高かった。
百八十センチほどはあるだろうか。痩せぎすとまではいかないが、肉の薄い身体つきに黒い髪、きれいに整えられた口ひげ。顔立ちだけを見れば、かなりの美男子といってよかった。
しかも、身にまとっている黒いローブが妙に上等だった。
この地下で、ゾンビに瓦礫を掘らせ、コボルドに拾った物を仕分けさせている者の服装とは思えないほど、布も仕立ても良い。実用だけで選んだ衣服ではないことは、一目でわかった。
自分をどう見せるかに気を使う男。
それを見た瞬間、セラリスの頭の中にひとつの名が浮かんだ。
バーグル。
転生前の記憶に残る、ミスタメア城の魔法使い。
利己的で、虚栄心が強い。
自分の利益や快楽のためなら他人がどうなろうと構わず、それどころか、自分より弱い者が怯え、傷つき、屈辱に顔を歪めることを楽しむような男。
セラリスはこれまで、ミハイルたちに何度も言ってきた。
敵として出会った者にも、それなりの事情があるかもしれない。
殺さずに済むなら、その方がいい。
入口のコボルドたちを捕らえ、話を聞き、約束を守って解放したのもそのためだった。
だが、この男に限っては。
最初から話し合いを試そうという気にはならなかった。
もちろん、セラリスは自分の前世知識が絶対だとは思っていない。
この世界は、すでにゲーム盤の上ではない。
知っていた人物が、知っていた通りの性格である保証もない。
それでも。
この地下の状態。
死んだ冒険者をゾンビやスケルトンとして使っていること。
コボルドたちを従わせ、失敗を恐れさせていること。
集めた財宝を仕分けさせていること。
そうしたものをひとつずつ重ねていけば、少なくとも善良な隠者ではないだろう。
そして。
もうひとつ、気になるものがあった。
黒衣の男から少し離れた壁際に、もう一人、よく似た姿の男が立っていた。
同じような黒いローブ。
顔立ちまで、遠目には似て見える。
ただし。
まったく動かない。
あまりにも不自然だった。
セラリスは目を細めた。
あれは、おそらく。
クリスタルスタチュー。
結晶質の身体を持つ魔法生物。
自分の衣服でも着せ、遠目には本人のように見えるよう仕立てているのかもしれない。
ならば、歩いている方が本物なのか。
あるいは、それさえも。
そこまで考えたとき、右手の中のソーンウォッチが低く声を発した。
「セラリス」
「うん」
「どちらも妙だ」
短い言葉だった。
だが、それだけで充分だった。
ソーンウォッチが、魔法や罠の存在を感じ取ることがあるのを、セラリスは知っている。
そして相手は、おそらく魔法使い。
しかもこちらには三人いる。
自分ひとりなら、多少怪しい状況でも近づいて相手の出方を見るという選択肢はあったかもしれない。
だが今は違う。
自分が賭ける命は、自分のものだけではなかった。
セラリスは左手を上げた。
「少し下がって」
三人はすぐに従った。
ミハイルが声を潜めて尋ねる。
「何をするんです?」
「先手必勝」
「え?」
問い返す暇はなかった。
セラリスは短く呪文を唱えた。
空気の温度が一瞬で変わった。
彼女の掌の上へ、光が集まる。
小さい。
だが、その中心にある熱量は、松明の炎などとは比較にならない。
ダリヤの目が大きくなる。
ヴァレリアも、それが何の魔法なのか悟ったらしく息を呑んだ。
そして次の瞬間。
「【火球】」
光が走った。
灼熱の塊が狭い通路を一直線に飛び、黒衣の男たちのいる場所へ吸い込まれていく。
歩いていた男が振り返った。
何かに気づいたらしい。
だが、その顔に驚きが形を取るよりも早く、火球は炸裂した。
轟音。
爆炎。
狭い地下通路いっぱいに、炎が一気に膨れ上がる。
熱風が四人のいるところまで押し寄せた。
ミハイルは反射的に盾を上げ、ヴァレリアも腕で顔を庇う。
ダリヤは壁際へ身を寄せた。
一瞬、通路の向こうがすべて炎に飲み込まれた。
セラリスだけは、ほとんど姿勢を変えなかった。
転生前の感覚でいえば、十個の六面体をまとめて振るような威力。
まともに浴びれば、並の生物が耐えられるものではない。
やがて炎が弱まり、熱された石と焦げた布、それから何か肉の焼けた臭いが通路に残った。
その向こう。
ひとつの人影が倒れている。
黒いローブは焼け焦げ、身体も動かない。
そして壁際に立っていたもう一体は。
人の形すら残していなかった。
透明な破片が床一面へ飛び散り、松明の光を受けてきらきらと輝いている。
ダリヤが小さく呟いた。
「……ガラス?」
「クリスタルだね」
セラリスが答える。
やはり。
壁際に立っていた方は、結晶でできた人形だった。
だが問題は、もう一人だった。
ミハイルが近づこうとする。
「待って」
セラリスが手で止めた。
同時にソーンウォッチも低く告げる。
「生きてはいない」
「それでも近づかないで」
セラリスは一定の距離を保ったまま、倒れた黒衣の男を見た。
何かがおかしい。
焼けた皮膚。
顔。
骨格。
それらが少しずつ変わり始めている。
黒い髪。
整えられた口ひげ。
端正な顔立ち。
それが、まるで借り物の仮面を脱ぐように歪み、崩れ、別の姿へ戻っていく。
ダリヤが息を呑んだ。
「顔が……」
「違う人になってます」
ヴァレリアも目を見開く。
やがてそこに横たわっていたのは、先ほどまで見えていた美男子とは似ても似つかぬものだった。
セラリスは、その正体を知っていた。
「ドッペルゲンガー」
ミハイルが振り返る。
「それって?」
「他人の姿へ化ける怪物」
つまり。
歩いていた黒衣の男も本物のバーグルではなかった。
壁際に立っていたものはクリスタルスタチュー。
こちらはドッペルゲンガー。
二つとも替え玉。
二つとも偽物。
ミハイルが、思わず問いかけた。
「じゃあ、本物は?」
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そのころ。
四人の視界が届かない、さらに離れた地下の一角で。
バーグル本人が、魔法を通じてその様子を観察していた。
最初から、彼自身が侵入者の前へ出るつもりなどなかった。
この廃城へまた何者かが入り込んだことは、すでに把握している。
しかも今回は、入口へ出したコボルドまで戻ってこなかった。
ならば相手の力量を知る必要がある。
そう考えたバーグルは、自分そっくりの姿へ化けさせたドッペルゲンガーを歩かせ、少し離れたところへ自分の衣服を着せたクリスタルスタチューを立たせた。
侵入者がどちらを疑うか。
どこまで近づいてくるか。
何を使って倒そうとするか。
それを、自分だけは安全なところから眺める。
悪くない考えだった。
少なくともバーグル自身は、そう思っていた。
だが。
エルフの女は、ほとんど迷わなかった。
声をかけない。
近づかない。
どちらが本物か見極めようともしない。
遠距離から、いきなり【火球】を叩き込んだ。
ドッペルゲンガーは一撃で死んだ。
クリスタルスタチューも粉々になった。
バーグルの顔から、それまで浮かんでいた余裕が消えた。
あの威力。
それ以上に。
あの判断。
相手を魔法使いの可能性があると見た瞬間、先手を取ることに何のためらいもなかった。
しかも、ただの【火球】ではない。
かなり高位の術者によるものだ。
バーグルは一瞬だけ考えた。
戦うか。
いや。
もう少し観察するか。
それも違う。
観察するだけの駒を追加で用意するにしても、相手には知性ある魔法剣らしきものまである。
こちらの魔法的な仕掛けを感知している可能性もある。
それなら。
答えはひとつしかなかった。
逃げる。
バーグルは即座に踵を返した。
黒いローブを翻し、地下の奥へ向かって走り出す。
こういうときだけは、実に判断が早かった。
自分の命が危ない。
その一点に限れば、バーグルは決して勇敢ではない。
そして勇敢でないからこそ、生き延びることには熱心だった。
/*/
一方。
偽物二つの前に残された四人は、床へ倒れたドッペルゲンガーと、砕けたクリスタルスタチューを調べていた。
もちろん、必要以上には近づかない。
まず動かないことを確かめ、周囲に別の仕掛けがないことも見る。
それが終わってから、ようやくミハイルが少し呆れたような顔でセラリスを見た。
「最初から偽物だって分かってたんですか?」
「いや」
セラリスはあっさり答えた。
「え?」
「怪しいとは思ったけど、本物かどうかまでは分からなかったよ」
ミハイルがしばらく黙る。
「それで【火球】?」
「相手が強い魔法使いかもしれないなら、先に撃てるときに撃つよ」
「……」
あまりにも当然のことのように言うので、ミハイルは返す言葉を失った。
ダリヤが小さく笑う。
「結果的には大正解でしたね」
「そうですね」
ヴァレリアも頷いた。
「もし本物だったとしても、向こうに最初の魔法を使わせるよりはいいですし」
そのときだった。
ソーンウォッチが静かに言った。
「逃げたな」
セラリスが剣を見る。
「分かる?」
「遠ざかっている魔力がある」
「どっち?」
ソーンウォッチは少し黙った。
何かを探っている。
やがて切っ先が、地下のさらに奥を示した。
「あちらだ」
三人の表情が変わった。
ミハイルが剣を握り直す。
「追います?」
セラリスは、すぐには答えなかった。
逃げる魔法使いを追う。
言葉にすれば簡単だ。
だが相手は、自分の替え玉を二つも使うような男である。
罠を仕掛けているかもしれない。
曲がり角の向こうで待ち伏せしているかもしれない。
さらに別の魔法を用意している可能性もある。
そして何より。
逃げている相手は、こちらが追ってくることを当然考える。
そこへ全速力で飛び込むのは、一番やってはいけないことだった。
セラリスは、わずかに笑った。
実にバーグルらしい。
「追うよ」
三人が身構える。
だが、セラリスはすぐ続けた。
「でも走らない」
ダリヤは即座に理解した。
「罠を見ながら?」
「そう」
ミハイルが言う。
「それだと逃げられません?」
「逃げられたら、そのときはそのとき」
ヴァレリアが少し意外そうに見る。
「捕まえることより?」
「生きて帰る方が大事」
セラリスは、砕けた結晶とドッペルゲンガーの死体を一度見下ろした。
それは最初から変わらない。
敵がただのコボルドであっても。
廃城の主であっても。
強い魔法使いであっても。
目の前に倒すべき相手がいたとしても。
追いつくことより。
生きて帰ること。
それを忘れたときが、一番危ない。
「先頭はダリヤ」
「はい」
「罠を見ながら進む。ソーンウォッチも反応があったら教えて」
「承知した」
「ミハイルとヴァレリアは、前へ出すぎない」
「はい」
「はい」
セラリスは最後に、自分の足元を確かめた。
そしてソーンウォッチを構え直す。
「行こう」
四人と一振りは、偽物二つの残骸を後にして、バーグルが逃げた地下の奥へ歩き始めた。
急がない。
けれども、警戒は緩めない。
相手を逃がさないことより、相手の用意した死地へ自分たちから飛び込まないこと。
それを優先して。
四人は、慎重にバーグルの後を追っていった。