セラリス・オブ・カラーリー ―赤箱世界冒険譚― 作:ぶーく・ぶくぶく
バーグルが逃げ込んだ先は、それまで四人が歩いてきた地下遺構とは、まるで別の場所のように趣を異にしていた。
規則正しく切り出した石を積み上げた壁はいつの間にか途切れ、代わって現れたのは、固い岩盤を力任せに穿って作ったとしか思えない粗い通路だった。人の手が入っていることだけはわかるのだが、城の地下にあった整然とした廊下のような計画性も、見栄えを整えようとした形跡もない。とにかく必要な方向へ穴を掘り進めた、そんな印象を受ける。
幅もずいぶん狭くなっていた。
二人が肩を並べれば、それだけで互いの武器や盾が邪魔になりかねない。壁面には鑿で削ったものとも、何か巨大な爪で引っ掻いたものともつかない凹凸が残り、天井も一定の高さには揃っていなかった。背の高いミハイルなどは、ところによっては無意識に頭を低くしなければならないほどである。
「急に狭くなりましたね」
ヴァレリアが声を潜めた。
ミハイルは盾を身体へ寄せるように持ち直し、片手で近くの壁へ触れた。
「これ、もともとの地下道じゃないですよね。後から掘ったのかな」
セラリスはすぐには答えなかった。
代わりに、鼻腔へ入り込んでくる空気を確かめるように、ほんの少し息を吸う。
地下へ降りてからというもの、土と埃、古い石、腐朽した木材、それから死体やアンデッドの残す臭気には、もうかなり慣れてきていた。
だが、今この細い通路の奥から漂ってくる臭いは、それらとは明らかに違っている。
生暖かい。
湿り気を含んでいる。
獣脂のように重く、どこか鼻の奥へまとわりつく。
しかも、その中にはわずかに刺激の強い臭いまで混じっていた。
「……獣臭いですね」
ダリヤも気づいたらしい。
「そうだね」
セラリスはようやく答えた。
ただの犬や馬ではない。
猪とも違う。
もっと大きく、もっと人間とは違う生き物。
そして、どこか古い記憶を刺激する臭いだった。
胸の底へ、嫌な予感が静かに沈んでいく。
先頭にいるダリヤは、十フィート棒で一歩先の床を確かめながら、慎重に進んでいた。
こん、と乾いた音が細い通路の中へ響く。
一歩。
さらに一歩。
急がない。
バーグルの姿はもう見えないが、逃げた方向はほとんど一つしかない。それでも、だからといって走って追いつこうとする者はいなかった。
やがて通路がもう一度曲がり、その角の向こうから、かすかな光が漏れているのが見えた。
「明るい」
ミハイルが囁いた。
松明のように揺れてはいない。
淡く、一定している。
白っぽく、どこか冷たい光だった。
あの向こうには、少なくとも通路より広い空間がある。
セラリスは片手を上げた。
それだけで三人の足が止まった。
「ここで待って」
ダリヤがすぐに言う。
「私が見てきます?」
だがセラリスは首を振った。
「今回は私が見る。姿は出さない」
ソーンウォッチの切っ先を静かに下げ、短い詠唱を始める。
魔力が形を取る。
けれども、それは炎でも光でもなかった。
「【魔術師の眼】」
何かが目の前へ現れたわけではない。
それでもセラリスにはわかった。
自分自身の両眼とは別のところに、もう一つの視界が開く。
身体から切り離された、不可視の瞳。
それをゆっくり前へ送り出した。
岩壁へ沿わせ、曲がり角まで進ませる。
そこで一度止めた。
高さを少し下げる。
そして、慎重に角の向こうへ滑り込ませた。
視界が開けた。
そこは、部屋というより洞窟だった。
天井は高い。
壁も床も、これまでの地下施設のような石組みではない。
岩盤そのものを削り、広げて作った空間。
ところどころには魔法の灯りらしいものが置かれ、白っぽい光が洞窟全体をぼんやり照らしていた。
その中央近くに、一人の男が立っている。
黒いローブ。
痩せた長身。
黒髪。
整えられた口ひげ。
先ほど【火球】で焼き払った替え玉と、まったく同じ顔。
セラリスの転生前の記憶が、即座にその名を告げた。
バーグル。
今度こそ本物かもしれない。
だが、妙だった。
逃げてきたはずなのに、息を切らしていない。
焦っている様子もない。
むしろ、こちらを待っているようにさえ見える。
その違和感を感じた瞬間、セラリスは不可視の眼をゆっくり横へ動かした。
最初に見えたのは、緑色だった。
そこから、硬質な鱗。
大きな爪。
折りたたまれた翼。
長い首。
そして、その先にある頭部。
グリーンドラゴン。
まだ若い。
成竜のような圧倒的な巨体ではない。
だが、竜であることに変わりはない。
若いから安全などということは、もちろんない。
その竜は、長い首をわずかに反らせていた。
胸郭が膨らんでいる。
口元も少し開いている。
しかも、顔はまっすぐこちらの通路へ向けられている。
その姿を見た瞬間。
セラリスは理解した。
待っている。
こちらが曲がり角から姿を現す、その瞬間を。
ブレスを吐くために。
しかも、この細い通路では逃げ場がほとんどない。
左右へ散開できない。
前にいる者が止まれば、後ろが詰まる。
後ろへ退こうとしても、前の仲間が邪魔になる。
四人まとめてブレスの射線へ入れるには、これ以上ない場所だった。
そして、そのさらに後ろにはバーグルがいる。
竜の吐息を耐えた者がいたとしても、そこへ魔法を重ねればいい。
【火球】。
【稲妻】。
あるいは、それ以外の攻撃魔法。
セラリスの背筋を、ごく薄い寒気が走った。
なるほど。
よくできている。
バーグルは、ただ逃げていたのではない。
少なくとも途中からは、こちらをこの場所まで誘い込むつもりで走っていたのだ。
狭い通路。
視界を切る曲がり角。
その向こうでブレスを溜めて待つグリーンドラゴン。
さらに後ろに控える魔法使い。
何も知らず、勢いのまま追いかけてきた冒険者なら、かなりの確率でここでまとめて殺される。
殺し間としては、ほとんど完成していた。
セラリスは【魔術師の眼】をさらに動かした。
竜の背後。
洞窟の天井。
左右の岩壁。
別の出入口。
バーグルの立ち位置。
彼の手。
さらに何かが隠れていないか。
見える範囲を、できるだけ丁寧に確認する。
それから、不可視の瞳をゆっくり戻した。
意識が自分の身体へ重なる。
目の前には細い通路。
その先に曲がり角。
そして背後には三人。
ミハイルが声を潜めて尋ねた。
「……何かいました?」
セラリスは一拍置いて答えた。
「いた」
三人の表情が引き締まる。
「バーグル?」
ダリヤが尋ねる。
「たぶん本物」
その答えに、ミハイルの手が剣の柄を握り直した。
セラリスは続けた。
「それと、グリーンドラゴン」
誰も、すぐには反応できなかった。
やがてダリヤが確認するように、
「……ドラゴン?」
と聞いた。
「うん」
ヴァレリアが続ける。
「大きいんですか?」
「まだ若い。成竜ほどじゃないよ」
三人の顔に、一瞬だけ安堵が浮かぶ。
それを見たセラリスは、すぐに付け足した。
「でも、ブレスは吐く」
安堵は綺麗に消えた。
「しかも今、曲がり角の向こうで、こっちを向いて待ってる」
ミハイルが自分たちのいる通路を見回した。
狭い。
改めて見れば見るほど、最悪に近い。
「……ここへ?」
「そう」
「俺たちが出た瞬間に?」
「たぶん」
ダリヤの顔が強張る。
「四人まとめて?」
「そのつもりだと思う」
ヴァレリアが小さく息を吐いた。
「逃げ場がありませんね」
「うん」
それで充分だった。
誰も、「若いドラゴンなら大丈夫」とは言わなかった。
敵の強さだけではなく、地形。
待ち伏せ。
逃げ道。
その全部をまとめて危険だと考えられるようになっている。
セラリスは、それが少し嬉しかった。
ミハイルが曲がり角の向こうを睨みながら言う。
「じゃあ、あいつは逃げてたんじゃなくて……」
少し考える。
「ここまで俺たちを連れてきた?」
「途中からは、たぶんね」
ダリヤが悔しそうに唇を噛んだ。
「追わせられたんだ」
「でも」
ヴァレリアはセラリスを見る。
「飛び込む前に分かりました」
その通りだった。
もし、【魔術師の眼】を使わずに勢いのまま角を曲がっていたら。
考える必要もない。
前衛のミハイルとヴァレリアが最初にブレスを浴びる。
その後ろにいるダリヤも逃げ場がない。
セラリス自身も巻き込まれる。
そして、そこへバーグルの魔法。
最悪の場合、一撃で一行が壊滅する。
セラリスはソーンウォッチの柄を握り直した。
銀の刃が、通路へ漏れてくる魔法の光をわずかに拾う。
すると剣の中から、低く落ち着いた声が響いた。
「罠と知れた時点で、それはもう罠ではない」
ミハイルが反射的に剣を見る。
ダリヤが小さく、
「しー」
とたしなめた。
「……すまん」
セラリスはほんの少し笑った。
だが、すぐに視線を曲がり角へ戻す。
頭の中では、先ほど見た洞窟の様子をもう一度組み立て直していた。
バーグル。
グリーンドラゴン。
狭い通路。
ブレスの射線。
その後ろから飛んでくる魔法。
向こうは、この形で戦えば勝てると思っている。
むしろ、そのためにここまで誘い込んだ。
だから。
そこへ入らなければいい。
「さて」
三人がセラリスを見る。
「向こうは、私たちにあの通路を正面から抜けてきてほしいみたいだけど」
ソーンウォッチの切っ先を静かに持ち上げる。
「付き合ってあげる必要はないよ」
ミハイルが少し考え、頷いた。
「別の道を探します?」
「それも一つ」
ダリヤが尋ねる。
「引き返して、別の入口がないか探す?」
「それもあり」
ヴァレリアは曲がり角を見ながら言った。
「向こうが待ってるなら、逆に急がなくていいんですね」
「そういうこと」
セラリスは答えた。
敵が先に構えている。
だから、自分たちも急いでそこへ飛び込まなければならない。
そんな理屈はない。
むしろ待っているなら、待たせておけばいい。
竜がいつまでもブレスを溜め続けていられるのか。
バーグルがいつまで同じ位置に留まるのか。
向こうもまた、生き物なのだ。
「撤退してもいい」
セラリスは続けた。
三人が彼女を見る。
「ここまで来て?」
ミハイルが尋ねる。
「ここまで来たからこそだよ」
セラリスは即座に答えた。
「バーグルがいる場所も分かった。グリーンドラゴンがいることも分かった。待ち伏せの形も見えた。それだけで、今日の収穫としては十分大きい」
ダリヤが少し考える。
「一回帰って、対策してから来る?」
「必要ならね」
ヴァレリアが小さく頷く。
「見つけたから戦わなきゃいけない、じゃないんですね」
「もちろん」
セラリスは穏やかに答えた。
見つけた敵は倒す。
見つけた宝は取る。
見つけた階段は降りる。
そうしなければならない決まりなど、どこにもない。
むしろ、その考え方こそが一番危ない。
敵が用意した勝ち筋が見えているのなら、その外へ出ればいい。
それだけのことだった。
ダリヤが、少しだけ笑った。
「じゃあ、こっちが考える番ですね」
「うん」
セラリスも笑う。
バーグルは、自分たちが曲がり角を飛び出してくるのを待っている。
グリーンドラゴンも、その瞬間に備えている。
ならば。
待たせればいい。
そのあいだに。
こちらは、安全な場所で考える。
別の道。
遠距離魔法。
竜への対策。
バーグルを竜から引き離す方法。
あるいは。
今日はもう帰るという選択。
敵が待ち伏せを完成させたつもりでいるその瞬間に、主導権はすでに少しずつこちらへ移り始めていた。
なぜなら。
罠は、踏み込んで初めて罠になる。
そして今の四人は、罠だと分かっている場所へ、自分から足を踏み入れるほど焦ってはいなかった。