ぐちゃぐちゃになる感情を抑え、動かない選択を取れたのは番場さんの命令が
有ったからだろう。
そうでなければ今すぐ飛び出して、呑気に食事をしている相手へ飛びかかっていた。
「報告します。例の人狼を発見。場所は……」
無線を使い番場さんへ報告する。対象は変わらずヴァンパイアを食べる事に集中しており動く気配を見せない。
『吉田。近隣のハンターを連れてポイントへ向かえ。それと武』
無線越しに番場さんのトーンが一段重くなる。
『戦闘は行うな。応援が来るまで待機だ』
実に合理的で、正しい判断に則った命令。再び言葉を貰えたことで疼いていた本能は鳴りを潜めてくれる。
無線からの指示に了承し、大きく息を吐く。
しかし、状況は俺が望む方向とは大きく変わる。逸れ人狼は突然、食事を止めて立ち上がると鼻を動かし周囲を探る。
ドクドクと心臓が大きく脈打つが自身を安心させる言葉を唱え続ける。
「風下に居る。匂いは消した。バレてない、バレてない……」
ぐるりと回り終えた人狼はこちらへ振り向き、ギロリと視線を向けてくる。双眼鏡越しに目が合った錯覚を覚える。
「マズイ!」
本能的に危険を察知できたのは運が良かった。周りの状況など気にもせず一目散にこの場を離脱しようとした。
ドンッ!
空気が震え、割れるような音がしたかと思えば逸れ人狼は一瞬で目の前に現れた。
「なっ!?」
目の前に現れたソレは圧倒的な強者の気配を纏い、立っていた。ハンターやヴァンパイアから追われている身だと言うのに、何人にも縛られない自由さと傲慢さを内包した視線を俺に向けている。
「生き残りが、いるなんてな」
低く、重い声だ。
「おまけに若いと来た。その格好、ハンター側か?」
俺へ質問をしているようでいて、答えを待っていない。自分の思考を整理するかのように独り言を発しているのだ。
「経験が足りてねぇな。お前のいるこの位置な。成体の嗅覚範囲内だぜ?」
……知らなかった。他の個体を見たのは幼い頃で、自分は既に成体だと思っていた。
「若いとは言っても人狼だな。ホラ、構えろよ」
相手はそう言うと爪を伸ばし戦闘態勢に入る。膨れ、溢れ出す気迫に逃げ出したい気持ちに駆られるが足は動かない。
「どうした?ニヤけてるだけならこっちから行くぞ?」
言われてハッとし口元に手を当てると、口元は吊り上がり、鋭い牙に手が触れた。
やるしかない。
覚悟を決め、四つ足で地を駆け距離を詰める。
ジグザグに動きつつ首元へ爪を突き立てんと飛びかかった。
「グルァア!!」
「遅い!」
ドゴンッ!
俺の突進に合わせて放たれた前蹴りが、深々と鳩尾へ突き刺さる。
鋭い足先の爪が毛皮と筋肉を食い破り、俺は大きく吹き飛ばされる。蹲りながら胃の中身をぶちまけ、腹からは血が流れ落ちる。
そんな中、相手は追撃をせずに怪訝な表情を浮かべる。
「……弱いな。お前、じゃれ合いの経験は?」
「ゲホッ、ゴホッ。……何を」
「あとお前、名前は?」
「名乗るときは、自分からだろ?」
会話をしてくれるなら、回復の時間を稼ごうと試みる。
「ハッハッハ。そうだな、そりゃそうだ。俺の名は
「俺の名は、武。大上武だ」
ボトボトと溢れる血を抑えつつ、自分の名を伝えた。
一瞬の沈黙を経て志臥はニヤリと獰猛な笑みを浮かべる。
「タケル……か。良い名だ」
突如、志臥の耳や鼻が小刻みに動く。
「チッ。犬共が群がって来たか。まぁいいさ、今日は食事だけのつもりだったしな」
志臥がこちらへズンズンと近づいてくる。
「俺達はな、弱ぇ奴から死んでいく」
そう言った直後に心臓目掛けて拳を叩き込まれた。
呼吸と鼓動が一瞬止まり、体に力が入らなくなる。
「これは仕来りだ。覚えておけ」
そう言って志臥は俺の右人差し指と中指から爪を折り懐にしまった。
「精進しろよ。次会うまで死なないようにな」
そう言うや否や志臥は跳躍し姿を消した。
吉田さんが俺の下へ到着した時には、俺の作った血溜まりのみが志臥の存在を証明していた。
「こっち!早くおいで!」
誰かに手を引かれ、森の中を走る。後方からは煤と血の匂い、みんなの悲鳴が聞こえてくる。
「少し苦しいけど、ここに居るんだよ。いいね?」
「でも――。怖いよ」
よく分からないところへ押し込まれ、扉を閉められそうになる直前で、俺は言葉を零す。
「お願いだから。我儘を言わないで。お願いだから」
記憶に靄がかかり、よく思い出せないけれど、俺の手を引いていた人は泣いていたように思う。
「待って……待ってよ……」
閉じている目に突き刺さる光の影響を受けて、ゆっくりと覚醒する。
微睡んだ意識と掠れる視界に映るのは見慣れた殺風景な天井だ。
「治癒室か」
幼い頃と新人の時に何度か運ばれたことのある場所だ。薬品の匂いに顔を顰めつつも体を起こすが動きは酷く緩慢だ。
腹部の痛みも感じない事から麻酔の影響かとあたりをつける。
「おはよう、武」
そこに居るのは把握していたが、眠っているのかと思っていた相手から声をかけられる。
「有栖。今は何時だ?」
番場さんの妹で同じ髪と瞳。引き込まれそうな美しさと可憐さを併せ持つ彼女の名は番場有栖。
組織に保護された俺にとっては家族のような存在だ。
「丸二日は経ってるわよ。人狼用の麻酔はないから何倍も投薬した影響だって」
「そうか。皆勤賞、狙ってたんだけどな」
高校に行かせて貰ってる間の目標としていた皆勤賞。普通の生活を送るなら最低限必要だと思っていたのだが、早々に破綻してしまった。
「それよりも爪。痛くないの?」
有栖の視線は志臥に折られた右手の爪へ向けられる。
人間体であるときは爪が全部捲れており、今は包帯が巻かれているが微かに血が滲んでいるのが見える。
「この程度なら問題ないよ」
「でも、どうして爪だけ取ったのかしらね」
「仕来りだって言ってたんだ」
「それって、人狼の?」
「あまり知らないけど、どうもそうらしい。だから何となくだけど意味は分かる」
「そうなんだ」
負けたことは何とも思っていない。実力差は嫌と言うほど理解していたのだから。
ただ、もう一度会いたいと、そう思っているのは確かだ。
爪を折られたことは勿論悔しいが、それよりも嫌なことはある。
「でも、素材を取られたのは悔しいな」
「え?」
人狼は全身が対ヴァンパイアの素材だ。それを奪われることは組織にとって損失だ。
「俺の素材は番場さんか、有栖に使ってほしいって思ってたから」
俺の言葉に、室内の空気が凍る。
有栖はわなわなと肩を震わせたかと思うと一度、大きく息を吐いた。
「馬鹿な事言ってんじゃないわよ」
「人狼は素材だよ。それは有栖がどう思おうと変わらない」
パシンと乾いた音が鳴り響く。
目尻付近に衝撃が来たので反射的に涙が滲むがその程度だ。対する有栖は慣れていない事をしたので手の平を痛めているかもしれない。
鋭くこちらを睨みつけ、感情を荒立てないように努めつつ彼女は言葉を発した。
「いい?アンタは武器でも素材でもないの。大上武って名前があるんだから、いつまでも卑下してんじゃないわよ」
「死んだ後の話だよ。どうせならってやつ」
「……そう」
納得いっていませんと態度で示しつつ、有栖は椅子に腰かける。
「手、痛いだろ?」
「別に」
「慣れない事するからだぞ」
「うっさいわね」
先の雰囲気は早々に消え、これまで培ってきた関係故の空気感が生まれる。
麻酔が抜けるまで、もう少し眠る事に決め有栖へ伝言を頼む。
「番場さんには、一度目覚めたって伝えてくれ」
「ええ。また寝るの?」
「麻酔が抜けるまでな」
「おやすみ」
有栖の言葉へ視線で答え、横になり目を閉じる。
先程見ていた夢の事など既に忘れ、志臥という存在をどうすべきかに支配されている。
もう俺は、今まで通りではいられない。