数日振りに登校した学校は、相も変わらず平穏そのものだった。
周囲の生徒からは小テストの勉強をしていないだとか、昨日見つけたショート動画についての感想を言い合っていたりしている。
誰もこちらへ話かけることはしないが、視線が向けられているのを感じる。
理由は単純。右手に巻かれている包帯だ。結局、爪は薄皮が張る程度で完治とは言い難い。
「おはよう、大上」
下駄箱でクラスメイトに声をかけられた。
彼は先日、帰り際に話しかけてくれた男子生徒で、あの時は気まずい別れになったことを若干後悔している。
「おはよう」
「二日も休むなんて珍しいな。柏木さんも心配してたぞ」
呼吸の浅さ、体温の上昇から少し緊張しているのがわかる。まだ俺への接し方を測りかねているのだろう。
「体調が悪くてね。一人暮らしだから大変だったよ」
「……そうか。病み上がりなんだから無理するなよ」
一瞬、しまったというような表情を浮かべた彼は愛想笑いと共に足早に去っていく。
一人暮らしだというのは、伝えないほうが良かったのだろうか。
「おはよう!大上君」
教室へ入った途端、席に座っていた柏木さんから大きな声で挨拶が飛んでくる。みんなの視線を集めてしまう行いだが、彼女は気にしていないようだ。
俺は軽く手を上げて返事をすると席に座る。
「二日も休むなんて心配したよ?」
「悪い」
素直に謝ったらなぜか、彼女はきょとんとし、暫く無言になった。
居心地が悪くなったので会話を切り上げようと前を向く。
「あ、ごめんごめん!そのさ、ビックリしちゃって」
「なにが?」
「前だったら、『別に』って言ってたと思うんだ。それなのに謝ってくれたからさ」
言われて気付いた。確かに、彼女へ対しては言動が柔らかくなったように思う。
「これはさ、距離が縮まったと思っていい感じ?」
思わず零れたような笑みを浮かべる彼女を直視できず、言葉を濁して改めて前を向く。
「そういえばさ、その手。どうしたの?」
彼女の視線は包帯の巻かれた指先へ向けられる。
視線による熱なのか、傷があることを意識したからかジクジクと鈍い痛みを発し始めた。
「ちょっと怪我をしたんだよ」
「もしかして、料理中に?」
まぁ、普通はそう思う。彼女は俺が弁当を自作しているのを知っているし怪我の範囲から火傷でもしたのだろうと考えたのだろう。
「ああ。お粥を作ってさ、零したんだ」
そう伝えると彼女は光景を想像したのだろう。顔を顰めて呻いた。
「それはそれは。災難だったね」
「本当にね」
そんな他愛もない会話を続けていると朝のHRが始まり、会話が終わる。
組織や夜の殺伐とした空気とは違う穏やかな空気は居心地がよく、授業中に響く無数の雑音も今日は優しさを帯びている。
昼休みにはいつもの場所で柏木さんと食事を一緒に摂る。
向こうの校舎では柏木さんの友人が気を遣っているのか、カーテンが閉められていた。
「今日の放課後、空いてる?」
もう何度目かになる見慣れた光景。壁に寄りかかりながら向けられる視線には少し、熱を帯びている。
朝に話しかけてきた男子のような恐怖や嫌悪から来る変調ではない。緊張からくる発汗と呼吸の浅さだ。
「ああ」
短く答えるとはにかみながら彼女はスマホの画面を見せて来た。
「じゃあさ、カラオケ行かない?クーポンで安いんだ!」
場所は俺もよく行く繁華街にある店舗で学割と併用できるモノらしい。
先日の事があるので乗り気ではないが、彼女だけで向かわせるのも心配だ。
「いいよ。行こうか」
「本当?やったね」
キャッキャと喜ぶ彼女はいつもより数段幼く見えた。
守りたい。独占したい。誰にも見せたくない。
その白い首筋から目が離せない。
名前の分からない感情が胸の奥で渦巻く。
その感情たちは余りにも濁っていて、汚いものに思えた。
そんな感情を抑えるために犬歯で口内を噛みきる。
鉄の味が広がるのと同時に感情が落ち着きを取り戻す。
「次は移動教室だから、先に行くよ」
「もうこんな時間か。じゃ、放課後!忘れないでね」
弁当をしまい立ち上がる俺に追随して彼女も歩き始め、昼休みは終わりを告げた。
「大上君!時間は有限。ダッシュで行くよ!」
放課後になった途端、彼女は俺の腕を掴むとズンズンと風を切って歩いて行く。
俺の気持ちが変わらない間に店へ向かいたいようだが、そんなに慌てなくてもいいのにと思う。
「そんなに急がなくても、予約してるんでしょ?」
「高校生は22時で終了なの!少しでも長く歌わないと勿体ないじゃん」
どうやら、年齢により施設の利用に制限があるらしい。
夜に遊ぶなんてしたことが無いので知らなかったが、この制約は学生にとって死活問題らしい。
「友達と夜に話してたら警察が来るし。部活で遅くなる時だってあるでしょ?融通利いてほしいよ本当に」
そうぼやくのは、吹奏楽部は本番前に遅くまで練習していることがあるからなのだろう。
俺は夜間の移動は車がメインなので警察のお世話になったことは皆無だった。
彼女と接するほどに、自分が普通ではないと突き付けられる。そのことに嫌悪感などはなくて、ただ純粋に憧れと諦観だけを抱く。
「ここが目的地です!大上君、準備はいい?」
こうして俺の人生初カラオケが始まった。
歌ったのは数曲だけだった。
流行歌などを知らない俺は、番場さんや吉田さんが口ずさんでいた曲ばかりを選ぶ。
彼女に選曲が古いねと言われ、声を張る際には遠吠えの要領で発声してマイクを壊しかけてしまい、腹を抱えて笑われた。
それと、音が煩すぎて後半は辛かったのは言うまでもない。
ただ、照明に照らされてマイクを握る彼女は酷く楽しそうで学生の青春を謳歌している気持ちになれてよかった。
「楽しかった?」
少し掠れた声で彼女は尋ねてくる。
それに俺は間髪入れずに答えると、「そっか、そっか」と言って微笑んだ。
「部活で忙しいけどさ、今後も定期的に遊びに行こうよ」
「俺でいいなら、喜んで」
「……いい変化だね、大上君」
小さな声で呟いたその言葉を、俺は聞き逃せない。
だが、知らないふりをするのが正しいのだと、俺は学んだのだ。
「大人になったらさ、この後お酒を飲んで朝までどんちゃん騒ぎしてるんだろうね」
「朝まで飲み明かすってのが、大人の特権らしいよ」
現にハンター達は狩りの後に生存を祝って飲みに行く姿をよく目にしている。
異形とはいえ、人型の生物を殺める現実から逃げるのに、アルコールは丁度いいのだと吉田さんは言っていた。
「大上君はさ、大学とか考えてる?」
「まだ全然」
俺に与えられたこの生活は、一時の夢みたいなものだ。成人を迎える頃にはこの生活は終わっている。
「そうだよね。私もまだ何も見えてない」
無邪気に将来を悩める彼女は、辛くて苦しそうではあるが、それが幸福なのだと俺は知っている。
そんな彼女を見ていて気が緩んだのか、カラオケの騒音で感覚が鈍っていたのか、理由はきっと両方なのだろう。
俺は大きな過ちを犯した。
「柏木、振り返らずに聞いてほしい」
「……どうしたの?」
楽しかった余韻は、一瞬で消えた。
風に乗って漂うのは血と酷く興奮した匂い。
後方からゾロゾロと連れ立って近づいてくる集団。
「よくない連中が来てる。このまま大通りへ行くんだ」
そう告げると彼女の肩がビクリと揺れた。
「大上君は?」
「少し時間を稼ぐ。大丈夫だ、俺も大通りへ逃げるから駅で合流しよう」
彼女は振り返りたいだろうに、律儀に前を向いたまま歩き続ける。
暫くの沈黙を経て、彼女は地面を蹴って走り出した。
「直ぐに逃げてよ!」
「心配するな」
その会話を最後に彼女の背中を見送り俺は振り返る。
「何か用ですか?」
「うるせえよ。ガキは大人しく帰ってろ」
暗がりから出てくるのはヴァンパイア達。ここは彼らの餌場であることを失念していた俺が招いたトラブル。
「悪いけど、加減はしない」
包帯を突き破りメキメキと爪が伸びる。
普段の半分にも満たない長さではあるが、月明かりの反射は普段よりも太く、鈍く輝いている。
今日は何事もなく一日を終える。普通の高校生としての平和な放課後を。
それを守るために、俺は今日も武器となる。