佐藤蓮の頭に突然響いた。「お願いです。選ばれし勇者様!」それは異世界からの通信。しかし、蓮は行きたくなかったので、代わりの者を推薦することにした。

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第1話

 窓から差し込む昼休み特有の、どこか弛緩した陽光が教室を照らしていた。しかし、そこには決して平穏とは呼べない、歪な空気感が漂っていた。

 

 この私立校の主導権は、完全に女子生徒たちが握っている。彼女たちは優雅に、あるいは傲慢に談笑し、その中心には常に生徒会の影がちらついている。対して男子生徒たちは、まるで格付けされた家畜か、あるいは付き添いの端役のように、教室の隅へと追いやられていた。

 掃除をさせられる者、買い出しをさせられる者、金を上納させられる者、これらはみな生徒会による男子ランク制度のためだ。

 男子に許されているのは、彼女たちのために役に立つ、あるいは機嫌を損ねない程度に存在を消し、目立たぬよう過ごすことだけだ。

 

 佐藤 蓮は、そんな教室の片隅で、机に突っ伏して微睡んでいた。着崩した制服に、手入れの行き届かない無造作な黒髪。周囲の喧騒を遮断するように目を閉じ、彼はただ、この面倒な日常が早く過ぎ去ることを願っていた。運動も、勉強も、人間関係も、すべてにおいて「省エネ」をモットーとする彼にとって、この学校の不平等な構造は、関わらなければ済む程度のロード(負荷)に過ぎなかった。

 

 ――お願いです、選ばれし勇者様……っ!

 

 突如、脳内に直接響くような、透き通った、それでいて今にも泣き出しそうな声が響いた。

 

 「……あ?」

 

 蓮は薄目を開け、周囲を見渡す。だが、教室にはいつものように、退屈そうに喋る女子生徒たちと、黙々と過ごす男子生徒たちがいるだけだ。

 

 『どうか、助けてください。魔王軍の侵攻により、私たちの世界は滅びの淵にあります。あなたのような清らかな魂を持つ方に、勇者として立ち上がっていただきたいのです……!』

 

 声の主は、脳内の奥深くに直接語りかけてくる。

 それは、どこか浮世離れした、神々しさと同時に頼りなさを感じさせる声だった。

 エリュシア。

 直感的に、目の前にいる誰かではない、圧倒的な「向こう側」の存在だと理解した。異世界の女神。それが、自分の頭の中に響いている声の正体だった。

 

 「……勇者、ね」

 

 蓮は小さく呟いた。

 勇者になれば、おそらく剣を振るい、命のやり取りをし、強大な敵と戦わなければならない。それはつまり、最大限の運動量と、精神的なストレス、そして何より「面倒なこと」のオンパレードだ。

 今の自分に、そんな劇的な人生を求めてほしくはない。平穏に、無害に、ただの高校生として朽ちていくのが理想なのだ。

 

 『お願いです……! あなたしかいないのです……!』

 

 エリュシアの声は、執拗だった。まるで意志の弱い少女が、無理な願いを押し通そうとするかのように、弱々しく、けれど必死に蓮の思考を掻き乱す。

 

 (……いや、俺じゃ無理だって)

 

 蓮は脳内で冷淡に返した。

 だが、女神のテレパシーは止まらない。彼女の切実な願いは、怠惰を愛する蓮の平穏を確実に削り取っていく。このままでは、昼寝すらままならない。

 

 その時、蓮の視界の端に、一人の少女が映った。

 

 氷室 雫。

 生徒会監視役を務める、この学校でも指折りの「規律の権化」だ。艶のある長い青髪を揺らし、乱れのない制服に身を包んだ彼女は、周囲の生徒たちを冷徹な瞳で見張っている。潔癖で、真面目で、そして何よりも「運命」や「使命」といった言葉を、まるで聖書のように崇める傾向があった。

 

 蓮の脳内に、悪魔的な閃きが走る。

 

 (……あいつなら、喜んで引き受けるはずだ)

 

 そうだ。彼女のようなタイプは、自分に降りかかる「過酷な運命」を、むしろ待ち望んでいるのではないか?

 

 『……え? あの、今、誰かのお名前を……?』

 

 エリュシアの声が、揺れる。

 蓮は、机から身を起こすと、目の前の空間に向けて、指を一本、突き立てた。

 

 「――氷室 雫。お前に任せるよ。」

 

 冗談半分、半分は責任転嫁。

 

 「……なっ、佐藤 蓮……? 何を、何を言っているの……っ!?」

 

 氷室が、驚愕に目を見開く。彼女の端正な顔が、屈辱と困惑で赤らんだ。

 だが、異変はそれだけでは終わらなかった。

 

 ドォォォォォン!

 

 轟音と共に、氷室の足元から眩いばかりの光が溢れ出した。

 学級の床に、複雑かつ巨大な幾何学模様――魔法陣が刻まれていく。

 

 「な、何……これ……!?」

 

 混乱する生徒たち。騒然とする教室。

 しかし、魔法陣の中心に立つ氷室の反応は、周囲のそれとは決定的に異なっていた。

 彼女の瞳に宿ったのは、恐怖ではなかった。それは、狂気にも似た、歓喜の色。

 

 「……ああ……そう、だったのね……!」

 

 彼女の声は、凛として、それでいて震えていた。

 氷室は、自らの足元に広がる光の奔流を見つめ、陶酔したように微笑んだ。

 

 「私は、選ばれる運命だったのだわ! この輝き……この使命……! ついに、私の真の役割が……!」

 

 彼女は自らの運命を、これ以上ないほどに盲信していた。

 光が強まり、彼女の身体を包み込む。

 

 「待って、氷室さん!?」

 「おい、何が起きてるんだ!?」

 

 野次馬たちの声が遠のいていく。

 氷室 雫の身体は、眩い光の粒子へと分解され、魔法陣の渦へと吸い込まれていった。

 彼女は最後まで、高らかに、そして誇らしげに叫んでいた。

 

 「神よ、私に、導きを――ッ!!」

 

 次の瞬間。

 まばゆい閃光が収まったとき、そこには、ただ静まり返った教室と、床にうっすらと残った、消えかかった魔法陣の跡があるだけだった。

 

 氷室 雫は、消えた。

 まるで最初からそこにいなかったかのように。

 

 蓮は、突き出した指をそのままに、呆然と立ち尽くした。

 頭の中に、エリュシアの、ホッとしたような、嬉しそうな声が響いた。

 

 『ご推薦ありがとうございますぅ!!』

 

 蓮は、額を押さえて深く、深いため息をついた。

 どうやら、自分の「面倒を避けるための決断」は、とんでもない方向へと転がり始めたらしい。

 

 

 

 教室の空気が、凍りついた。

 

 先ほどまで、そこには神々しい光が満ちていたはずだった。氷室 雫が「私は選ばれる運命だった!」と誇らしげに叫び、眩い魔法陣の中に消えていった、あの数分間。クラスの誰もが、目撃した光景の非日常性に圧倒され、言葉を失っていた。

 

 しかし、その静寂を切り裂いたのは、空気を引き裂くような異質な音だった。

 

 再び、魔法陣が展開されたのだ。

 

 だが、先ほどのような祝福に満ちた輝きではない。それは、まるで泥を投げつけられたかのような、濁った、禍々しいまでの光だった。

 

 「――っ、あ……ぁ……!」

 

 光の渦の中から、何かが放り出された。

 床に叩きつけられたのは、一人の少女だった。

 

 艶やかだったはずの青い髪は泥に汚れ、乱れ、引きちぎられたような跡がある。いつもは一点の曇りもなく整えられている制服は、あちこちが裂け、肌が露出していた。

 氷室 雫。

 生徒会の監視役として、常に高圧的で、隙のない美しさを誇っていたはずの少女が、今や地面を這い、激しく肩で息をしながら、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしていた。

 

 「……ひ、……たすけ……て……」

 

 その声には、かつての凛とした響きなど微塵も残っていない。ただ、死の淵を見た者だけが漏らす、震える悲鳴だけがあった。

 

 「おい、氷室……? なんだよ、あれ……」

 「嘘だろ……あの氷室さんが、あんなボロボロになるなんて……」

 

 クラスメイトたちがざわめき、後退りする。

 その時、佐藤 蓮の脳内に、直接響く声が届いた。

 

 『――ごめんなさい、ごめんなさい!』

 

 それは、先ほどまで感じていた神秘的な高揚感とは正反対の、弱々しく、震える声だった。エリュシア。異世界の女神の声だ。

 

 『さっきの勇者様、初戦で……あまりに強い魔物に遭遇してしまって……。死にかけてしまいました。あんなに強いなんて思わなくて……。あぅ、どうしましょう、代わりの方はいないのですか……?』

 

 脳内に直接、女神の泣き言が流れ込んでくる。

 佐藤 蓮は、呆然と床に転がる氷室を見下ろした。

 まるで、壊れた人形だ。さっきまでの彼女の「運命論」は、どこへ行ったのか。現実は、選ばれた勇者だろうが何だろうが、圧倒的な暴力の前には無力な子供に過ぎないのだ。

 

 佐藤の心の中に、ある種の「開き直り」が芽生えた。

 面倒なことは嫌いだ。しかし、こうも目の前でボロボロになった人間を突きつけられれば、逆に思考が冷徹に、そして図太く回転し始める。

 

 (女神、あんた、勝手に人を呼んで勝手に放り出すなよ……)

 

 佐藤は心の中で毒づきながら、周囲を見渡した。

 この学校は、女子生徒が、それも生徒会を中心とした特定の権力者が、男子を格付けして支配する歪な構造だ。彼女たちは自分たちが特別だと信じて疑わず、男子生徒を見下している。

 

 (この「選ばれた」っていう自意識の塊たちに、対処してもらおう。)

 

 「――次だ」

 

 佐藤が、低く、淡々とした声で呟いた。

 その声は、混乱する教室の中で、不自然なほど響いた。

 

 「え……?」

 エリュシアの声が、明るく響く。

 『えっ、見つかりましたか?新たな勇者様が!』

 

 「次は、お前だ」

 

 佐藤は、指を差した。

 向かう先は、教室の入り口付近で、この異常事態を指示しようと動いていた、生徒会の副委員長――派手な装飾を施した制服を着こなす、いかにも権力者然とした女子生徒だった。

 

 「はあ!? 佐藤、あんた何言って……」

 

 彼女が言い返す暇もなかった。

 佐藤の指が指し示した瞬間、彼女の足元に、濁った魔法陣が出現した。

 

 「いや、待っ――!」

 

 悲鳴は、光の中に飲み込まれた。

 

 数分後。

 またしても魔法陣が開き、中から「何か」が転がり出てきた。

 それは、先ほどの氷室 雫と同様に、服がボロボロになり、顔を腫らした、先ほどの副委員長だった。

 

 学校の権力構造が、音を立てて崩れ始めた瞬間だった。

 

 「次は、お前だ。生徒会会計の、田中」

 「次は、風紀委員の、山科」

 

 佐藤 蓮の「推薦」は、続いた。

 まるで、壊れたゲーム機のように、彼は、クラスで、あるいは廊下を通りかかった生徒会のメンバーを指名していく。

 

 魔法陣が展開され、女子生徒が消失し、そして数分後にボロボロになって戻ってくる。

 繰り返されるこの異常なルーチンに、周囲の生徒はもはや恐怖すら通り越し、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 

 学校の支配者たちが、次々と「戦場」へと送られ、敗北して帰ってくる。

 それは、彼女たちが築き上げてきた、絶対的なヒエラルキーが物理的に破壊されていく過程でもあった。

 

 『あ、あわわ……また負けちゃいました……! でも、勇者様が必要なんです……!』

 

 エリュシアの声は、もはや謝罪を通り越して、パニックに近いものへと変わっていた。

 佐藤は、そんな女神の困惑など、どこ吹く風で冷ややかに眺めていた。

 

 教室の隅で、ボロボロになった氷室 雫が、震えながら床を見ている。

 生徒会メンバーたちが、次々と魔法陣に吸い込まれていく光景を見ながら、彼女たちは、自分たちの築いた「絶対的な力」が、ただの「使い捨ての駒」に成り下がったことを、痛いほど理解していた。

 

 権力の頂点に君臨していたはずの少女たちが、ただの「魔王軍の壁」として、異世界へ消費されていく。

 混乱の極みに達した教室の中で、佐藤 蓮の瞳だけは、ひどく無関心で、そしてどこか爽やかなほどに冴え渡っていた。

 

 

 

 校内放送のスピーカーから流れるのは、いつもなら生徒の規律を正すための厳格なアナウンスだ。しかし、今日のそれは、まるで世界の終焉を告げる弔鐘のような、異様な緊張感を孕んでいた。

 

 「――全校生徒に告ぐ。これは生徒会長、神宮寺 麗華による緊急放送である」

 

 教室中の空気が凍りついた。

 校内では、数分前までクラスの権力者として君臨していたはずの女子生徒たちが、次々と「消えて」いく光景が日常の延長として繰り広げられている。空席が目立つ教室で、生徒たちは恐怖に震え、あるいは事態の異常さに呆然としていた。

 

 「現在、校内で発生している『異世界への召喚』という異常事態。これは我々生徒会が、決して看過できない問題であると判断した。……よって、私、神宮寺 麗華が、自らその異変の根源へと赴く。勇者としての役割を、私が引き受けよう」

 

 その声には、迷いも、恐怖もなかった。ただ、絶対的な支配者としての、傲慢なまでの自信だけが響いていた。

 教室の隅で、佐藤 蓮は椅子の背もたれに深く身を沈め、呆れたように溜息をついた。

 

 「……あーあ、とんでもないのが来たな」

 

 彼がこれまで「推薦」してきた女子生徒たちは、皆、目に見える形で敗北し、ボロボロになって戻ってきた。学校を支配する女子生徒たちのプライドが、次々と異世界へと吸い取られていく。そのカオスな状況に、佐藤 蓮はどこか冷めた、それでいてどこか投げやりな感覚を抱いていた。

 

 「神宮寺さん、あんた正気かよ……」

 

 誰かが呟いた。しかし、佐藤 蓮の手は、無意識に動いていた。

 もし、この理不尽な連鎖を止めたいのなら。あるいは、このめちゃくちゃな状況を、一気に終わらせてしまいたいと思うのなら。

 

 「――推薦する。次は、神宮寺 麗華だ」

 

 佐藤 蓮の声は、低く、淡々としていた。

 しかし、その言葉は教室の静寂を切り裂き、教壇の奥にある通信機器へと、魔法的な意志として吸い込まれていった。

 

 刹那、教室の床に凄まじい光が溢れた。

 神宮寺 麗華の姿は、まさに「選ばれた者」としての威厳を放ちながら、光の渦の中へと消えていった。

 

 ***

 

 異世界の聖域。

 透き通るような金髪を持つ女神、エリュシアは、膝をついて震えていた。

 

 「ひ、ひどいです……! こんなに強引な方が来られるなんて……!」

 

 目の前には、つい数分前まで、人間界の高校生であったはずの少女、神宮寺 麗華が立っていた。

 彼女は、召喚された直後の混乱など全く感じさせない気品に満ちた立ち振る舞いで、エリュシアを見下ろしていた。

 

 「……ふん。随分と頼りない神様だこと。異世界の管理という重責を負いながら、これほどまでに秩序を乱すとは」

 

 神宮寺 麗華の声は、冷徹で、美しかった。

 エリュシアは、その圧倒的なカリスマ性と、「支配者」としてのオーラに気圧され、涙目で抗議しようとした。

 

 「でも、でも、魔王軍が、勇者様たちが……!」

 

 「黙りなさい。言い訳は聞き飽きたわ」

 

 神宮寺 麗華は、一歩、また一歩と女神に歩み寄る。その瞳には、救世主としての慈悲など微塵もなく、ただすべてを掌握せんとする統治者の光が宿っていた。

 

 「貴女は意志が弱すぎる。その程度の精神力で、どのように世界を導くつもり? いいえ、これは貴女の失態よ。まずは、この混乱の原因を全て吐き出しなさい。……さもなくば、貴女の神としての権威、私がすべて奪い取ってもいいのよ?」

 

 「は、はいっ……! 申し訳ありません!」

 

 エリュシアは、あまりに強引な神宮寺の迫力に、まるで部下に詰め寄られているかのような錯覚を覚えた。弱々しい女神は、気づけば神宮寺 麗華の管理下に置かれ、彼女の言葉に抗うことすらできなくなっていた。

 

 「……では、教えて。この招かれざる『推薦』を繰り返しているのは、どこの誰かしら?」

 

 エリュシアは、震える指先で、元の世界を指し示した。

 「それは……あの、あの男の子です……。」

 

 神宮寺 麗華の口元に、冷ややかな微笑が浮かぶ。

 「――なるほど。佐藤 蓮、ね」

 

 「……逃がしませんわ」

 

 神宮寺 麗華が手をかざすと、エリュシアが震えながら維持していた魔力の回路が、彼女の意志に従って書き換えられていく。

 「神よ、その男を、私の目の前に強制召喚しなさい。……今すぐに!」

 

 「は、はい……っ!」

 

 ***

 

 「――えっ?」

 

 佐藤 蓮が、教室で困惑の声を上げた瞬間だった。

 足元に、それまでとは比較にならないほど巨大で、禍々しいほどに輝く魔法陣が展開された。

 椅子から転げ落ちる暇さえなかった。強烈な重力に引かれるように、彼の体は空間の裂け目へと飲み込まれていく。

 

 「おい、ちょっと待て! まだ何も……っ!」

 

 叫びは、真空の中に消えた。

 

 気がつくと、佐藤 蓮は荒涼とした大地の上に立っていた。

 吹き荒れる砂塵、赤茶けた空。風が頬を打つ、見知らぬ異世界の荒野。

 そして、目の前には――。

 

 「……やっと捕まえたわよ、佐藤 蓮」

 

 そこには、血の気の引いた顔をしながらも、不敵な笑みを浮かべた神宮寺 麗華が立っていた。

 彼女の背後には、魔法の力によって形作られた、権威を示すような光の輪が揺らめいている。

 

 「……はぁ。マジかよ」

 

 佐藤 蓮は、乱れた制服の襟を直し、脱力感とともに溜息をついた。

 状況は最悪だ。女神はどこかへやり逃げし、目の前には自分を「犯人」として捕らえた、学校最強の支配者が立っている。

 

 かつての学校での序列など、ここでは何の意味もなさない。

 荒野の静寂の中で、二人の視線が火花を散らす。

 世界を賭けた、あまりに理不尽で、あまりに個人的な決戦の幕が、今、切って落とされた。

 

 

 

 赤茶けた大地が果てしなく続く、荒涼とした異世界の荒野。

 吹き荒れる砂塵のなかで、神宮寺麗華は、まるで戦場に咲いた一輪の毒々しくも美しい薔薇のように立っていた。

 

 「ようやく見つけたわ、佐藤蓮。貴様がこの混乱の元凶ね?」

 

 彼女の紫色のロングヘアが、荒野の風にたなびく。その美貌には、元の世界での絶対的な支配者としての威厳と、異世界にまで及ぶ規格外の傲慢さが宿っていた。彼女の背後では、エリュシアがどこか力なく、しかし神宮寺に手綱を握られた操り人形のような様子で佇んでいる。

 

 「……あー、相変わらずうるさいな。とりあえず、その圧、ちょっと抑えてくれない? 頭に響くんだよ」

 

 佐藤蓮は、着崩した制服のまま、気だるげに首を回した。無造作な黒髪が風に乱れ、その表情には緊張感のかけらもない。彼はただ、この面倒な事態から一刻も早く解放されたいと願っていた。

 

 「ふん、命知らずな男。この世界においても、私の言葉は絶対。私のカリスマは、理(ことわり)すら屈服させるわ!」

 

 神宮寺麗華が、美しくも鋭い声を響かせた。

 彼女の周囲に、目に見えるほどの濃密な紫色の魔力が渦巻く。それは彼女の圧倒的な支配欲とカリスマ性が具現化したものだった。彼女が放つ「威圧」は、並の人間であれば膝をつき、平伏せずにはいられないほどの重圧となって周囲を圧殺していく。

 

 「跪きなさい! 貴様も、この世界も、すべて私の支配下に置く!」

 

 神宮寺の言葉とともに、重力そのものが変化したかのような衝撃が蓮を襲った。大地が悲鳴を上げ、周囲の岩石が粉々に砕け散った。彼女のカリスマを用いた精神的・魔術的な制圧。それは、かつて学校の男子生徒たちを文字通り「下」へと叩き落とした、絶対的な権力の発動だった。

 

 しかし。

 

 「……で? それで、何?」

 

 蓮は、片手をポケットに突っ込んだまま、淡々と呟いた。

 衝撃の渦の中心にいるはずの彼の足元には、塵一つ落ちていない。それどころか、神宮寺が放った凄まじい魔力の奔流が、彼の身体に触れた瞬間に、まるで最初から存在しなかったかのように霧散していく。

 

 「な……に……!?」

 

 神宮寺の瞳に、初めて動揺の色が走った。

 彼女の攻撃は完膚なきまでに無効化されていた。いや、無効化というよりは、彼女の「力」という概念そのものが、彼に対しては一切通用していないのだ。

 

 「エリュシア、説明しなさい。こいつ何なんだ?」

 

 蓮が背後の女神に問いかけると、エリュシアは困ったように、しかしどこか諦めたような声で答えた。

 

 「あ、あの……佐藤様は……。彼は、私が見つけた最強の力の持ち主なのです……」

 

 「最強……?」

 

 神宮寺が、歯噛みしながらその名を口にした。

 蓮が持つ力。それは、この世界の法則を無視し、あらゆる権威や法則を自身の都合に合わせて書き換える、文字通りの「理不尽」だった。

 

 「ふん、ふざけないで! 私のカリスマが通じないなど、あってはならないことよ!」

 

 神宮寺は、プライドをこれ以上ないほど傷つけられ、怒りに身を震わせた。彼女は、自らの全魔力を一点に集中させ、神宮寺麗華という存在そのものを武器に変えて突進した。彼女の姿が、紫色の閃光となって荒野を駆け抜けた。

 

 「消えなさい、佐藤蓮!!」

 

 凄まじい衝撃波とともに、彼女の全てが蓮へと叩きつけられた。

 だが、蓮は溜息をつき、ようやく片手をポケットから出した。

 

 「……めんどくせえって言ってるだろ」

 

 パチン、と指を一回鳴らす。

 それだけで、世界の色が変わった。

 

 「――『拒絶』」

 

 直後、目にも止まらぬ速さで、絶対的な「白」が世界を塗りつぶした。

 神宮寺の放った全魔力が、まるで透明な壁に阻まれたかのように、あるいは最初から空気を叩いたかのように、虚しく霧散していく。それどころか、彼女の放った力の反動が、そのまま彼女自身へと跳ね返った。

 

 「あ……っ……!?」

 

 神宮寺麗華の体が、目に見えない巨大な拳に打たれたかのように、後方へと吹き飛ばされた。

 彼女の誇り高い長い髪が泥にまみれ、高級感のある制服が荒野の塵に汚れ、地面に叩きつけられた。

 

 「はぁ……はぁ……、ありえない……。私が、負けるなんて……」

 

 地面に這いつくばりながら、神宮寺は信じられないものを見る目で蓮を見上げた。

 圧倒的なカリスマ。支配者としての絶対的な自信。それらが、ただ「面倒くさそうに」立っているだけの男子生徒によって、完膚なきまでに粉砕されたのだ。

 

 蓮は、ゆっくりと彼女の元へ歩み寄った。その歩みには、征服者の傲慢さも、勝者の高揚感もない。ただ、事務的な冷淡さだけがあった。

 

 「勝負あり、だな。……さて、神宮寺。お前、元の世界に戻りたいんだろ?」

 

 「……っ、当たり前よ! こんな野蛮な場所、私の居場所じゃないわ!」

 

 「なら、条件を出してやる。お前、生徒会長だろ? 学校のルール変えろよ」

 

 蓮の言葉に、神宮寺は顔を上げた。

 

 「……何を、言っているの?」

 

 「男子生徒に対する、あの不平等な扱いだ。格付けだの、下に見るとか、こき使うとか、そういうの全部。……お前が、元の世界でも『支配者』であり続けたいなら、まずはそのルールを、俺たちに有利なように作り直せ。俺たちの待遇を、劇的に改善しろ。それができたら、帰してやる」

 

 それは、勝利した勇者が提示する報酬としては、あまりにも切実な要求だった。

 神宮寺麗華は、唇を噛み締めた。自分のプライドが、一介の男子生徒に屈服させられている。その屈辱に顔を赤らめながらも、彼女は抗えない事実を認めざるを得なかった。

 

 目の前の男は、自分よりも遥かに、圧倒的に「強い」のだから。

 

 「……いいわ。……認めましょう。その条件、承諾してあげるわ。……ただし、ちゃんと私を元の世界に帰しなさい。」

 

 「……ふーん。まあ、いいだろう」

 

 蓮は、ようやく少しだけ口角を上げた。

 

 二人の周囲に、再び光が満ちていく。

 魔王を置き去りにし、女神を翻弄した荒野の決戦は、一人の少年の「怠惰な望み」によって、終止符を打たれたのである。

 

 元の世界へと繋がる、光の渦が二人を包み込んでいった。

 

 

 

 窓から差し込む午後の陽光は、あまりにも日常的で、あまりにも平和だった。

 

 佐藤蓮は、深くため息をつきながら、使い古された自分の机に突っ伏した。頬に触れる木材の硬い感触と、教室に漂うチョークの粉っぽさ、そして遠くから聞こえる運動部の掛け声。それらすべてが、あの一件——異世界へと投げ出された狂乱の日々が、単なる長い夢であったかのような錯覚を抱かせる。

 

 しかし、身体の節々に残る、戦いで酷使したことによる独特の倦怠感が、それが現実であったことを残酷に突きつけていた。

 

 (……結局、元の世界に戻っても、面倒なことばかりだな)

 

 蓮は、着崩した制服の襟を弄りながら、ぼんやりと思いを巡らせた。

 異世界での決戦。圧倒的なチート能力で、かつての支配者である神宮寺麗華をねじ伏せたこと。そして、元の世界の男子生徒の待遇を改善するという条件を提示し、彼女を屈服させたこと。それらすべては、彼にとって「平穏な日常」を取り戻すための、最低限の、そして最も効率的な手段だったはずだった。

 

 だが、教室の扉が開いた瞬間、蓮の想定はあまりにも無残に打ち砕かれた。

 

 「あら、蓮様。こちらでしたの?」

 

 鈴の鳴るような、それでいてどこか熱を帯びた艶やかな声。

 教室の入り口に立っていたのは、かつてこの学校の絶対的な支配者として君臨していたはずの、神宮寺麗華だった。

 

 彼女の姿は、以前の威圧的なものとは一変していた。仕立ての良い制服は相変わらず美しいが、その立ち振る舞いには、かつての傲慢な自信家としての面影はなく、代わりにどこか、獲物を待ちわびる雌のような、妖艶な響きが混じっている。

 

 「……神宮寺、か」

 

 蓮が淡々と、関心なさそうに名前を呼ぶと、麗華の頬が朱に染まった。

 

 「ふふ、そんな冷たい呼び方は禁止ですわ。今は、あなたの忠実な……いえ、愛しきパートナーとして、ここにいるのですから」

 

 彼女は優雅な足取りで蓮のデスクへと歩み寄ると、躊躇いもなく彼の隣に腰を下ろした。そして、周囲の生徒たちの視線などどこ吹く風といった様子で、豊満な胸元を蓮の腕に、押し付けるようにして寄せたのだ。

 

 「なっ……!?」

 

 「あら、顔が赤いですわよ? 異世界ではあんなに激しく私を……ね?」

 

 耳元で囁かれた言葉に、蓮の思考が真っ白に染まる。

 周囲を見渡せば、事態はさらに混沌としていた。かつては冷徹な監視役として、男子生徒を蔑んでいたはずの氷室 雫が、頬を上気させながら蓮を見つめている。

 

 「蓮様……。運命に従い、私は、あなたに捧げることを誓いました。あなたの御心のままに、私は……っ」

 

 雫は、もはや潔癖な優等生の面影すらなかった。彼女の瞳にあるのは、盲目的な信者、あるいは狂信的な愛の形だ。彼女は、まるで聖遺物に触れるかのような手つきで、蓮の制服の袖をぎゅっと握りしめる。

 

 「おい、待て……。お前ら、落ち着けって」

 

 蓮が困惑し、距離を置こうとしても、まるで磁石のように彼女たちは離れない。

 廊下からも、教室の入り口からも、かつての生徒会のメンバーや、彼女たちに追従していた女子生徒たちが、熱い視線を蓮に向けて集まってくる。

 

 かつての「女子による絶対的な権力構造」は崩壊したのではない。

 「蓮を頂点とした、異常なまでのハーレム構造」へと、その姿を変え、再構築されてしまったのだ。

 

 男子生徒たちは、かつての支配からの解放感に浸っているというよりは、あまりの変化に畏怖し、遠巻きに見守っているようだった。女子生徒たちは、まるで戦利品を奪い合う乙女のように、蓮の周囲の陣地を、物理的・精神的な距離感で奪い合っている。

 

 (……やりすぎた。条件として提示したのは、待遇の改善であって、こういうことじゃない)

 

 蓮は、頭を抱えた。

 せっかく手に入れたはずの、面倒の少ない日常。しかし、今や彼は、学校という名の戦場における、最も「面倒なターゲット」へと成り下がっていた。

 

 「蓮様、次は放課後のティータイムですわ。二人きりで、じっくりとお話ししましょうね?」

 「いえ、次は私が、蓮様の学習をサポートする番です。運命がそう告げていますもの」

 

 押し寄せる美女たちの熱気と、視線という名の重圧。

 蓮が溜息をつき、窓の外を見上げて、ようやくこの悪夢のような平和に慣れることができるのではないかと思った、その時だった。

 

 『——あ、あの! 蓮様ぁ! 起きてますかぁ!?』

 

 頭の中に、直接響いてくる、聞き慣れた、けれど今一番聞きたくない、弱々しくも執拗な声。

 

 (……エリュシア……)

 

 蓮は、奥歯を噛み締めた。

 エリュシア。あの意志の弱い、けれど図らずも厄介な使命を押し付けてくる女神の声だ。

 

 『あの、申し訳ありません! 本当に、本当に申し訳ないのですがっ! まだ魔王軍を討伐していただいていなくて、……! お忙しくなければ、次の、次の勇者様を選んでいただかないと、世界が……世界が大変なことに……うぅっ』

 

 脳内へ直接送り込まれる、泣き言まじりのテレパシー。

 それは、さっきまでの甘いハーレム状態を、一瞬にして霧散させるほどに、あまりにも「面倒な日常」の予感に満ちていた。

 

 「……まだ、続くのかよ」

 

 蓮の独り言は、隣で微笑む麗華の甘い吐息と、雫の熱烈な祈りに掻き消された。

 英雄としての休息は、どうやら、まだ遠いようだった。

 


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