Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
翌朝、ネイトが研究区画へ入った時には、シンデレラはすでに整備台の上で準備を終えていた。
昨夜のお茶会では、翌日に念願のゴッデスとの合流を控えているとは思えないほど落ち着いて見えたが、今朝はさすがに少し様子が違う。身体を動かさないよう言われて大人しく横になっているものの、視線は何度も壁面の時計へ向かい、指先も時折落ち着かなさそうに動いていた。長い間待ち続けてきた日が、もう数時間先まで迫っているのだから無理もない。
ネイトの姿を見つけると、シンデレラの表情がすぐ明るくなった。
「おはよう、ネイト」
「おはよう。ちゃんと寝た?」
「もちろん。今日は一番美しい状態で出発するんだから、寝不足なんてあり得ないわ」
「昨日、リリスへの挨拶を考えて眠れなかったとか?」
「……少ししか考えてないわ」
目が僅かに逸れた。
ネイトが笑うと、シンデレラは不満そうに唇を尖らせる。
「何よ」
「いや。楽しみにしてるんだなと思って」
「当然でしょう?」
整備台の反対側では、エイブとレッドシューズがすでに最終メンテナンスの準備を進めていた。昨日までの検査記録と今朝確認する項目が複数の端末へ並び、シンデレラの各部から取得される情報が順番に表示されている。
本来なら、そこへネイトが立ち会う理由はない。
今回は事情が違った。
レッドフードがウルトラから侵食を受けた瞬間の記録と、正常なNIMPHが整備設備へ接続されている時の信号を比較するため、Pip-Boyも外部観測機器として接続することになっている。研究所側の解析機器ほど高度なものではないが、異なる装置で同時に記録すれば、設備固有のノイズと実際の信号を切り分ける材料にもなる。
「ネイト、そこへ繋げ」
エイブが接続端子を指した。
「朝一番から命令形だな」
「昨日説明した」
「知ってるよ」
昨夜のうちに用意した変換器を介し、Pip-Boyと研究設備を接続する。規格そのものはまるで違うが、出力形式の調整は済んでいたので、今朝は正常に情報が流れていることを確かめればいい。
隣でレッドシューズが小さく笑った。
「エイブは昔からこうなんです。悪気はないので許してあげてください」
「もう分かってるよ。俺の知り合いにも似たようなのが何人かいたから」
「研究者ですか?」
「研究者もいたし、ロボットもいた」
レッドシューズは一瞬だけ答えに迷い、それから楽しそうに笑った。
「ネイトさんのお話は、時々どこまで本当なのか分かりませんね」
「俺も昔はそう思ってた」
「二人とも」
整備台から声が飛んでくる。
「私の最終メンテナンス中に、私と関係ない話をしないで」
ネイトはそちらを見る。
「緊張してる?」
「してないわ」
「なら少しくらいいいだろ」
「今日は私が主役なの」
「はいはい」
「返事が美しくない」
昨夜と変わらない会話だった。
エイブだけは最初から最後までほとんど表情を変えず、検査項目を一つずつ消化していく。コアの出力、四肢の反応速度、感覚入力、ガラスの靴との制御同期、各部の負荷率。レッドシューズが補助端末から必要な信号を送り、それをエイブが確認する。
最初のうちは、どの数値にも異常はなかった。
シンデレラの身体は、長年待ち続けた初陣へ向かうにふさわしい状態だった。
◇
NIMPH関連の確認へ入ったのは、メンテナンスが半分ほど進んだ頃だった。
ネイトにとって、画面へ流れる情報の大半は依然として未知の技術である。それでも昨日、エイブと何時間もレッドフードの侵食記録を調べたことで、どの辺りがNIMPHとの情報交換に相当するのか、その程度なら見当をつけられるようになっていた。
Pip-Boyへ正常な信号が蓄積されていく。
「これが問題ない時の波形?」
「正確には、メンテナンス設備から読み出されている時の状態だ。通常活動時とは少し違う」
「でも、レッドフードとの比較には使える?」
「使える。だからお前を残した」
「毎回答え方に愛想がないんだよな」
エイブは無視した。
ネイトも苦笑するだけで、保存していたウルトラ戦の記録を別の画面へ呼び出した。
一方には、触手がレッドフードへ刺さった瞬間から始まる異常な波形。
もう一方には、正常なシンデレラのNIMPHから得られている現在の信号。
条件が違う以上、完全に一致する場所などない。
それでも、何度か画面を見比べているうちに、ネイトの目が一箇所で止まった。
正常な信号の流れとは別に、ごく短時間だけ外部からの書き込み要求が発生している。
メンテナンス中なのだから、それだけならおかしくない。感覚補正や同期調整のために設定を書き換えることくらいあるだろう。
引っ掛かったのは、その後だった。
要求された情報の内容そのものではない。
処理の入り方。
正常な流れへ横から割り込み、NIMPH側へ別の情報を通そうとする形。
昨日まで何度も見ていたものに似ている。
ウルトラの触手がレッドフードを貫いた、あの瞬間に。
ネイトは椅子から僅かに身を乗り出した。
「エイブ」
「何だ」
「今の書き込み、予定にある?」
エイブの手が止まる。
「どれだ」
時刻を指定すると、彼女は研究所側のログを数秒だけ巻き戻した。
補助端末を操作していたレッドシューズも顔を上げる。
「何かありましたか?」
「確認している」
エイブの声が、それまでより少し低かった。
研究所側の記録にも、確かにシンデレラのNIMPHへ向けられた書き込み要求が残っている。エイブはそれを今日予定されている処理と一つずつ照合し、やがて眉間へ皺を寄せた。
「これは入れていない」
「俺にも、ウルトラの時と似た入り方に見える」
「コードが同じなのか?」
「そこまでは分からない。俺が見てるのは入り方だけだ」
そこは曖昧にしない。
ネイトには、この世界のNIMPH用コードを読んで侵食かどうか断定する知識などない。
分かるのはただ一つ。
以前見た異常と、挙動が似ている。
それだけだった。
しかしエイブには、それで十分だった。
彼女はすぐ別の解析画面を開き、問題の処理を追い始める。
「エイブ?」
整備台からシンデレラが声を掛けた。
「何か問題?」
「今確認している。動くな」
「さっきからずっと動いてないわ」
「ならそのままにしろ」
シンデレラは不満そうだったが、エイブの表情を見て冗談を言うのはやめたらしい。
レッドシューズも自分の補助端末を確認する。
「感覚同期の補正ではありませんか? その処理なら、少し前に――」
「違う」
エイブは即座に否定した。
「補正処理は別の経路を使う。これはそこを通っていない」
「では、何が……」
「今調べる」
室内の空気が変わった。
先ほどまで笑っていたレッドシューズも、真剣な表情で自分の担当していたログを確認し始める。
ネイトもPip-Boy側へ視線を戻した。
問題の書き込み要求は、まだNIMPHへ完全には反映されていない。
整備設備の一時領域に情報が展開され、最終的な確定処理へ進もうとしている途中だった。
そこまで確認した瞬間、エイブの判断は早かった。
「全書き込みを停止する」
ネイトが画面を見る。
「途中まで流れたものは?」
「まだ確定していない。切り離して隔離する」
「できる?」
エイブは一瞬だけネイトを見た。
「私が作った」
その言葉が終わるより先に、指が動いた。
整備設備からNIMPHへ向かっていた経路が切り替えられ、一時領域にあるデータが隔離用の領域へ送られる。続けて外部からの書き込み権限そのものが停止され、装置は読み取り専用へ移行した。
ネイトがPip-Boyの波形を追う。
先ほどまで混じっていた不自然な処理が途絶えた。
正常な信号だけが残る。
それでも、まだ安心はできない。
エイブが整備台へ近づいた。
「シンデレラ。視界に異常は?」
「ないわ」
「身体が自分の意思と違う動きをする感覚は?」
「ない」
「聞こえるはずのない声や音は?」
シンデレラの表情が険しくなる。
「ないわ。何があったの?」
エイブは一瞬黙った。
ネイトを見る。
説明するかどうか迷ったのだと分かり、ネイトは小さく頷いた。
本人だけを蚊帳の外へ置く理由はない。
エイブが言った。
「NIMPHへ予定にない書き込みが入ろうとした」
シンデレラの表情から、朝から残っていた浮ついた明るさが消えた。
「何を書こうとしたの?」
「まだ解析中だ。ただし、正常なメンテナンス処理ではない」
「……侵食?」
その言葉だけは、シンデレラも当然知っている。
ネイトは必要以上に不安を煽らないよう、分かっている範囲だけを口にした。
「レッドフードの時と似てる部分があった。でも、同じものだとはまだ言えない。それに、エイブが書き込みが確定する前に止めた」
「じゃあ、私は侵食されたの?」
「今の時点では確認できない」
エイブがはっきり答えた。
「だから全部調べる」
シンデレラはしばらく何も言わず、天井を見上げていた。
やがて小さく息を吐く。
「……今日なのに」
誰も聞き返さなかった。
何の日なのかは、全員知っている。
◇
最終メンテナンスは、その時点で事実上中止された。
代わって始まったのは、シンデレラの全システムを対象とした再検査だった。
エイブは検査項目を最初から洗い直し、ネイトはPip-Boyに残る直前のログを一つも削除せず保存した。レッドシューズもエイブの指示へ従い、別系統から取得できる記録との照合を進める。昨日の茶会で笑っていた時とは違う真剣な表情だったが、異常が見つかった以上、それは当然の反応にしか見えなかった。
一時間、二時間と調査は続いた。
シンデレラに視覚異常や運動障害は現れない。NIMPH内部も複数の手段で確認されたが、問題のデータが定着した形跡は見つからなかった。
隔離された情報を調べた結果、外部から何らかの命令を書き込もうとしていたことだけは確かだった。
だが、それがシンデレラのNIMPHへ完成した形で入った証拠はない。
ようやく椅子へ座ったネイトが、エイブへ確認する。
「じゃあ、『治った』ではないな」
「違う」
返事は早かった。
「入る前に止めた」
「そこは大事だな」
レッドフードに同じことをして侵食を取り除けるわけではない。
今回は、異常な書き込みが完全に成立する前に偶然観測できたから止められたのだ。すでに侵食を受け、今も身体の中に異常な信号が残っているレッドフードとは状況がまるで違う。
治療法を発見したのではない。
侵食される可能性のある処理を、成立前に阻止した。
その違いを、ネイトは頭の中でもう一度確認した。
検査を終えて整備台から降りることを許可されたシンデレラは、椅子に座ったまま腕を組んでいる。
「つまり、今の私には残っていないのね?」
「現在確認できる範囲ではな」
「じゃあ出撃は?」
「延期する」
「エイブ」
声に明らかな不満が混じった。
「今日ゴッデスと合流するの。昨日、正式な許可だって出たでしょう?」
「だから何だ」
「だから――」
「原因不明の書き込みを受けた直後のお前を、そのまま出すと思うか?」
普段以上に強い口調だった。
シンデレラが黙る。
エイブは一歩も引かなかった。
「今日を逃したくないのは分かっている。だが、お前のNIMPHへ何者かが勝手に命令を書き込もうとした。何を目的とした処理なのか、どこから来たのか、それすら分かっていない。そんな状態で『今は正常だから問題ない』と言って送り出す気はない」
「でも、私は今ちゃんと動けるわ」
「今はな」
「それなら……」
シンデレラはそこで言葉を止めた。
自分の両手を見る。
昨日まで何度も思い描いていたのだろう。
リリーバイスと肩を並べる自分。
ゴッデスの一員たちと同じ戦場へ立ち、ガラスの靴を展開する自分。
待ち続けた場所は、もう目の前だった。
それでも。
もし出撃した後で、自分の身体が自分の命令を聞かなくなったら。
そのガラスの靴が向く先が、ラプチャーではなく――。
憧れていた者たちだったら。
シンデレラは目を閉じ、しばらくしてから大きく息を吐いた。
「……分かったわ」
エイブの表情がほんの少しだけ緩む。
「いいのか?」
「よくないわ」
即答だった。
「すごく嫌。今日をずっと待っていたもの」
「そうだな」
「でも……」
シンデレラは自分の胸へ手を置いた。
「誰かに勝手に身体を動かされて、憧れていた人たちを傷つけるなんて、美しくないわ」
ネイトは小さく笑った。
いかにも彼女らしい。
「だから全部調べて。絶対に大丈夫だって分かってから行く」
「そうする」
エイブも短く頷いた。
シンデレラは少し考えてから、もう一つ付け加えた。
「それと、ゴッデスには私から説明するわ」
「俺からでもいいぞ」
ネイトが言ったが、彼女は首を横へ振った。
「私の出撃が遅れる話でしょう? だったら私が伝える」
誰かに決められた物語を歩くのではなく、自分のことは自分で伝える。
本人はそんな大げさな言葉を口にしなかったが、その考えはすでに彼女の中にあった。
◇
問題の書き込みがどこから来たのか追跡を始めると、原因は少しずつ絞られていった。
研究所の外部ネットワークから整備設備へ侵入された記録はない。設備そのものにも、不正な外部接続の痕跡は見つからなかった。
となれば、疑うべきは内部だった。
「ここだ」
エイブが一つのログを開いた。
書き込み要求が通っていたのは、通常の最終メンテナンスで使用する主要経路ではない。細かな感覚調整や補助設定の更新に使用する、別のメンテナンス系統だった。
「今日だけ使った回線?」
「違う。以前からある」
「じゃあ、今朝その場でコードを入れたとは限らない?」
「そうだ」
エイブが履歴をさらに遡る。
問題のコードは、今朝初めて作られたものではなかった。
かなり以前から補助系統の内部へ紛れ込んでいる。
しかも常時実行されるようにはできていない。シンデレラが最終メンテナンスへ入り、いくつかの条件を満たした時だけ、NIMPHへの書き込み処理が開始されるよう設定されていた。
ネイトの声が低くなる。
「最初から仕込んであったのか」
「そう見える」
「いつ?」
「まだ分からない。古いログには欠損もある」
完全な時系列を復元するには時間が必要だった。
それでも、書き込み時に使われた権限情報は残っている。
エイブの手が止まった。
ネイトも横から画面を見る。
その補助系統へアクセスできる人物は一人ではない。
エイブ自身。
研究設備の管理者。
複数の整備担当者。
そして――レッドシューズ。
「実際にこの処理を通した認証は?」
ネイトが尋ねる。
エイブは答えず、さらに深い履歴へ入った。
通常のアクセスログだけを見れば、大勢がこの設備を使っている。誰かの名前が存在するというだけで、その人物が未承認コードを仕込んだ証拠にはならない。
しかし、コードが更新された時間と、その直前に補助系統へ接続された認証を一つずつ比較していく。
一度。
二度。
三度。
同じ認証が繰り返し現れる。
レッドシューズ。
ネイトは画面からエイブへ目を向けた。
「これ、本人じゃなくても使える?」
「生体認証が必要だ」
「認証を盗まれた可能性は?」
「ゼロとは言わない」
「端末だけ盗まれたとか」
「それだけでは通らない」
声音は普段と変わらないように聞こえる。
しかし、その硬さはネイトにも分かった。
「レッドシューズとは、どのくらい前から?」
「人間だった頃からだ」
「V.T.C.にいた頃?」
「ああ。同僚だった」
エイブは画面へ目を戻した。
「優秀だった。私より人と話すのも上手い。私が説明しても伝わらない時は、あいつが代わりに説明していた」
ネイトは昨夜を思い出す。
シンデレラの配備決定を聞いて、本当に嬉しそうに泣いていた。
ヘンゼルとグレーテルを宥めていた。
セイレーンを自然に気遣っていた。
これから会うドロシーの好みを調べ、茶葉まで用意していた。
昨日初めて会ったネイトにとっても、仲間を傷つけようとしている人物には到底見えなかった。
「信じられない?」
「信じたくない」
エイブは誤魔化さなかった。
「だが、嫌だから記録を無視するのは研究者がやることじゃない」
「同感だ」
「まだ決めつけるな」
「決めつけてないよ」
ネイトも画面へ視線を戻した。
「だから、もっと調べる」
二人はそこで、権限をどう扱うかについて考えた。
レッドシューズだけを急に締め出せば、本当に彼女が関与している場合はこちらが気づいたことを知らせてしまう。逆に無関係で、何らかの方法で認証を悪用されただけなら、説明もなく彼女だけの権限を止めるのは不当だった。
エイブが選んだのは、問題となった補助メンテナンス系統そのものを停止する方法だった。
理由は、未承認コード検出による設備監査。
対象は全利用者。
エイブ自身を含め、その系統への書き込みを一時的にすべて禁止する。
「これなら、誰か一人だけを疑ってるようには見えない」
ネイトが言うと、エイブが頷いた。
「そういうことだ」
「こういうところは慎重なんだな」
「どういう意味だ」
「双子を勝手に作った人なのに」
エイブが鋭く睨む。
「今その話をするな」
「ごもっとも」
ほんの一瞬だけ緊張が緩んだ。
しかし二人はすぐ、再びログへ向き直った。
◇
夕方になる頃には、偶然や単なる設備不良では説明しづらいだけの記録が集まっていた。
問題のコードは、シンデレラのNIMPHへ特定の命令を書き込むことを目的としている。偶発的なデータ破損ではなく、実行条件まで意図的に設定され、最終メンテナンスの時だけ作動するよう巧妙に隠されていた。
そして複数回にわたる編集履歴には、レッドシューズの生体認証が残っている。
それでもエイブは、本人の話を聞く前に結論を出そうとはしなかった。
シンデレラも午後から何度も追加検査を受け、ようやく普通の部屋へ戻る許可が出ている。出撃が延期されたことへの不満は依然として隠していなかったが、自分へ何かを仕込もうとした人物が研究所内にいる可能性を知らされると、表情はさすがに険しくなっていた。
「レッドシューズなの?」
エイブはすぐには頷かなかった。
「記録には、あいつの認証が残っている」
「それなら――」
「認証があることと、本人が何をしたかは同じではない」
ネイトも横から口を挟む。
「本人に聞くまでは決めない方がいい。使われた可能性だって完全には消えてない」
シンデレラは納得しきれない様子だった。
それでもすぐに誰かを糾弾しようとはしなかった。
昨日、あれほど喜んでくれた。
配備が決まったと知って涙を流した。
一緒に茶を飲んだ。
ゴッデスと戦える日を、誰より近くで祝ってくれた。
だからこそ簡単には信じられないのだろう。
しばらくして、シンデレラが口を開いた。
「話を聞きたい」
エイブも頷いた。
「そのために呼ぶ」
研究所の警備担当へも最低限の情報だけが共有された。
まだ拘束命令は出さない。
逃走の兆候なども確認されていない以上、まず本人へ直接事情を尋ねる。
エイブが通信を開いた。
『レッドシューズ。今どこにいる』
返事はすぐに来た。
『自室です。どうしました?』
昨日とまったく変わらない声だった。
穏やかで、聞き慣れたレッドシューズの声。
エイブはほんの数秒黙った。
『研究室へ来い。シンデレラの最終メンテナンスについて確認したいことがある』
『分かりました。すぐに行きます』
通信が切れる。
部屋にはエイブ、シンデレラ、ネイトの三人が残された。
昨日までなら、何の警戒もなく迎えていたはずの人物を待つ時間だった。
やがて廊下の向こうから足音が聞こえてくる。
近づき、扉の前で止まった。
軽いノック。
「エイブ? 入りますね」
昨日、紅茶を淹れながら笑っていたのと同じ声だった。
エイブは一度だけ目を閉じる。
それから扉を見た。
「入れ」
扉が開いた。
レッドシューズは、いつもと変わらない穏やかな顔で部屋へ入ってきた。
ネイトはまだ武器へ手を伸ばさない。
シンデレラも席を立たない。
ここまで集まった記録が何を意味するのか、その答えを自分たちだけで決めるつもりはなかった。
エイブは机上の端末を操作し、今朝の最終メンテナンスで検出された未承認コードと、その編集履歴を表示した。
「レッドシューズ」
長い付き合いの同僚へ向けるには、あまりにも硬い声だった。
「これについて聞きたいことがある」
レッドシューズの視線が、画面へ落ちた。